行願寺(革堂) (ぎょうがんじ(こうどう))

天台宗延暦寺派 霊麀山(れいゆうざん)行願寺   本尊:千手観音菩薩
・西国三十三所観音霊場第19番札所・洛陽三十三所観音霊場第4番札所・都七福神巡り(寿老人)
京都市中京区寺町通竹屋町上ル行願寺門前町17

 革堂は、京都御所の東南、寺町通丸太町を少し南へ入った東側にある。皮聖(かわのひじり)行円(ぎょうえん)上人ゆかりの寺で、正しくは行願寺(ぎょうがんじ)という天台宗の寺院。観音霊場の札所で、いつも境内には巡礼の姿をみる。
 山門から正面に本堂が見える。参道を進み本堂の階段手前で「履物を脱ぐのか?」と、一瞬ためらっていると「そのままで結構ですよ」と優しい声が聞こえた。声の方を見ると拝観受け付けで年配の女性がこちらを見ていた。祀られた千手観音菩薩に手を合わせる。
 寺伝によると、開山の行円上人はもと猟師。山中で射止めた雌シカの腹から子ジカが生まれたのを見て、殺生を悔い仏門に入った上人は、諸国の霊山を修業して京都に来往し、平安中期の寛弘元年(1004) 、一条小川(上京区)あたりで一宇を設け千手観音菩薩を安置したのが行願寺の起源。一条小川にあったことから「一条北辺堂」と呼ばれていたという。行円は布教のとき寒さ暑さを問わず常にシカ革の衣を着ていたことから、人々が革聖(かわのひじり)とか皮上人と呼んだことから一条北辺堂(現在は中京区)を革堂と呼んだのが通称革堂の由来。夏冬となく皮を着ていたことについては、殺された鹿に無常を感じて肌身離さなかったという説がある。
 

本堂 山門脇に「一条こうどう」の旧称の石柱がある 鎮宅霊符神堂


  「聖(ひじり)」と言えば、六波羅蜜寺に祀られている空也上人もそうである。空也上人は、裾の短い衣を身にまとい、左手に鹿杖をつき、右手で首から下げた鉦を打ち、念仏を唱えながら市中を歩いたという。この時代(平安後期)の市中には、行円や円空のような風体の「聖人」がたくさん出没。皆このような姿で布教していたと歴史書に書かれている。
 以来、革堂は上京の町衆の信仰を集め、室町時代には町衆の連帯の町堂となった。下京の六角堂(頂法寺)に対して上京町衆の集結の場。これらの二つの町堂では、町の合議機関としての意思決定会議も開かれている。兵乱や一揆、天災などの有事の際には鐘を鳴らして町中へ有事を知らせたという。
 天正18年(1590)、秀吉の都市整理によって寺町荒神口(上京区)へ寺地を移し、次いで宝永5年(1815)に現在の地(中京区)に移った。現在の本堂は、文化12年(1815)に建てられたもので、本尊に行円上人が造ったといわれる千手観音菩薩を安置している。この境内に「都七福神」の一つになっている寿老人神堂をはじめ、愛染堂、鎮宅霊符神堂、加茂明神塔(五輪石塔)がある。また、宝物館には子供を背負った若い女性が浮かび出る幽霊絵馬がある。その幽霊絵馬の伝説がある。
 今から190年ほど昔(文化13年)の話。寺の近く、竹屋町通柳馬場で質屋を営んでいた熱心な法華信者の八左衛門の家には、江州(ごうしゅう=滋賀県)から来た「ふみ」という子守りをする奉公娘がいました。働き者で真面目なおふみは、よく子供の面倒をみる娘で、近くの革堂さんの境内で子守りをしていました。そのうち、おふみは堂から聞こえていた御詠歌「花を見て 今は望みの革堂の・・・」 を覚えてしまい、家へ帰っても子守りの時に歌いました。これを聞いた、八左衛門は怒って折檻して殺してしまい庭に埋めました。そして、おふみの両親へは「娘は男と家を出ていった」と知らせました。この知らせに両親はあわてて江州から上京、八左衛門に謝りました。しかし、おふみの両親は八左衛門の話に納得できず、娘の無事を革堂の観音様にお祈りをしました。すると娘おふみの亡霊が現れ「ご主人に殺され、庭に埋められています、鏡も一緒に埋めてください」と頼みました。鏡は奉公に出るとき母親からもらい大切にしていた 手鏡です。当然、これにより八左衛門の悪事がばれてしまいました。おふみを不憫に思った両親は、供養のためにおふみの子守姿を絵馬に描き、手鏡を添えて革堂に奉納しました。その絵馬が幽霊絵馬である。絵馬は現在ではすっかり色褪せて、子守姿がかすかに見える程度。 ちなみに手鏡は絵馬の左端に裏返して貼られている。これが返って幽霊絵馬の悲話伝説を深めているのかも。毎年、お盆の8月22日〜24日の3日間、本堂にて行われる幽霊絵馬供養のときに見ることが出来る。
 

市の聖 空也と行円
空也上人:空也上人は「脱俗の人」と聖人視され、一遍(いっぺん)上人に先行する民間宗教家の始祖とされる。醍醐天皇の皇子などといわれるが、自分の親や故郷のことを口にしたことが無く、なぞに包まれた人物。空也二十歳の時、尾張・国分寺にて髪を剃り得度し、はじめて空也と名乗った。次いで播磨国揖保郡・峰合寺で数年間の勉学をしている。その後も阿波と土佐の国境付近の湯島で修行して、奥羽地方を遊行して天慶元年(938)平安京に姿を現している。
 京での空也は、氏名を明かさず市中の何所かに隠れ住み、腰に鹿の皮をまとい、鹿の角の杖を持ち、市中に出向いて物乞いをしながら首から掛けた鉦(かね)をたたいて庶民に「南無阿弥陀仏」の念仏をすすめ、貧しい人や病人を助けていた。
 また、道の修繕や橋をかけ、井戸を掘るなど、公共の福祉にも貢献していたので「市の聖」(いちのひじり)と呼ばれている。その間、天慶2年(984)4月に比叡山の戒壇院で受戒し僧名を光勝と呼ぶようになったが、その後も空也を名乗っている。
 空也上人の伝説は多く、牢獄の囚人の教化、市中の死骸の供養など多くあり、庶民から慕われた聖人だった。空也は諸国遊行の時、野原に放置された遺体を見つけると遺体を一ヶ所に集め、油を注いで焼き、念仏を唱えて回向した。人の遺体を野山に放置する風習は、都から遠く離れた地方のみでなく、平安京でも行われていたという。京外へ出た鴨の河川敷や嵯峨野、船岡山、鳥辺野、西院、竹田などは平素から平安京の人々の葬送の地であったらしい。また、当時は人の遺体を放置するだけでなく、埋葬もしなかったようだ。空也上人が諸国遊行の折り、野原に放置された遺体を見つけると集めて焼いたというが、その当時の一般の人達には埋葬という観念がなく、死体を放置したのでなく、死体を身近に置いておくわけにはいかず、そこへ運んで置いたといえる。その場所が、前述の所。京外の鳥辺野、化野(あだしの)、蓮台野が、葬地として宗教的な意味を持ち始めたのが平安中期頃からという。平安末期には一般の人々のも認識されたのは、空也上人の活動が大きく影響している。
行円上人:空也上人に遅れること30年、皮聖(かわひじり)行円が貴族の間で注目と信頼を集めていることが、歴史書に見られる。
 行円のことを、「皮仙」「皮聖」「皮聖人」などと呼ぶようになったのは、寒暖を問わず鹿皮を着て市中を歩く、その異様な風態による。また、別に「横川(よかわ)皮仙」「横川の聖」と呼ばれたことからして、行円は比叡山の横川に関係の深い「山の聖」で、その「山の聖」が里に下りて「市の聖」となったとされる。

◇行願寺(革堂)の所在地など
・ 住所:〒604-0991 京都市中京区寺町通竹屋町上ル行願寺門前町17  ・電話:(075)211−2770
・拝観:境内自由
・ アクセス:地下鉄烏丸線丸太町駅下車徒歩10分。バスで河原町丸太町下車。


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