御香宮神社(ごこうぐうじんじゃ) 

祭神:神功皇后、仲哀天皇、応神天皇他六柱
京都市伏見区御香宮門前町174

伏見村の鎮守社・産土神「ごこうぐさん」
 御香宮神社の創建年は不明。当初は「御諸(みもろ)神社」と呼ばれていたが平安時代の貞観4年(862)、社殿を修造のおり境内から香りの良い清水が涌き出たので、清和天皇から『御香宮』の名を賜り、改名したという。この清水は桃山の伏流水で、伏水・伏見(ふしみ)の地名の起こりとされている。なお社名については別に、筑前国(福岡県)糟谷郡にあった神功廟(御香椎宮:かしいぐう)を勧請し、名を略して『御香宮』としたとする伝承もある。主祭神を神功皇后としていることから、この説の方が有力ではないかともいわれている。なお、祭神の神功皇后、仲哀天皇、応神天皇らは、ここから北へ距離にして1.7kmほどの所に鎮座する藤森神社でも祀られている。これほど近い距離の間に二箇所あるのは、歴史的な経緯の中で何らかの事情が隠されていることを想像する。
 中世、室町時代の御香宮神社は、伏見村の鎮守社・産土神として尊崇され、伏見宮貞成(さだふさ)親王をはじめ代々伏見宮家が庇護した。神職は伏見宮家に仕えた三木氏で、神主家として現在に至っている。御香宮神社も他の多くの社寺同様、応仁の乱(1467)で一時衰退している。神功皇后ら武神を祀っていることから、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉が天正18年(1590)、朝鮮侵略に先立ち成功祈願に参詣。この時、秀吉が奉じた願文と太刀は国の重要文化財に指定されている。なお、秀吉は伏見城の築城に際して鬼門にあたる艮(うしとら)方向の大亀谷(おおかめだに)八科峠に御香宮神社を移転し鬼門除けの神としてた。その後、関が原の戦いを経て徳川家康の天下となると、家康は京都所司代坂倉勝重に命じ現在地(旧地)へ戻し、本殿を造営し伏見城下の守護神とした。慶長10年(1605)のこと。なお、大亀谷の跡地(敦賀町)は古御香宮と呼び御旅所となっている。

神門に施されている彫刻 桃山天満宮横に置かれた伏見城跡石 割り拝殿

 御香宮神社へは、京阪「伏見桃山駅」・近鉄「桃山御陵駅」から大手筋通を東へ徒歩数分のところ。赤い大鳥居を潜るとすぐ左手側に神門がある。この神門は、元和8年(1622)、水戸徳川頼房(水戸黄門の父)が伏見城の大手門を移築して寄進したもの。正面を飾る中国二十四孝の物語を彫った蟇股(かえるまた)は、桃山時代の建築装飾として一見に値する構築物とし、国の指定する重要文化財である。神門を潜ると参道の右手側に学問・書道の神の菅原道真を祀る桃山天満宮。その前には伏見城に使われた城跡残石が置かれている。
 参道の奥に割り拝殿(京都府指定文化財)がある。寛永2年(1625)、徳川頼宣(紀州徳川家初代)の寄進によるもので、軒唐破風(のきからはふ)の極彩色な彫刻によって埋められた華麗な建物である。その奥に本殿(国指定重要文化財)。慶長10年(1605)、家康が大亀谷から現在地へ戻したときの建物である。極彩色がほどこされた蟇股などの彫刻には桃山時代の華やかな装飾が見える。その他、本殿を取り巻くように絵馬堂・豊国社・大神宮・東照宮・松尾社・弁天社・稲荷社・末社が鎮座している。また、社務所庭園は小堀遠州が作庭した石庭で、拝観することが出来る。

豪華な装飾が施された割り拝殿 本殿礼所 極彩色の本殿の背面

 伏見は、大阪から淀川を遡って来た船が荷卸する伏見港があり南の経済拠点として、また参勤交代の宿場町としても栄えた。幕府も政治的・経済的要所として直轄の伏見奉行所を設けた。この伏見奉行の悪政に立ち向かい、町民の誇りを後世に語り継ごうとする石碑が御香宮境内にある。神門を入って直ぐ左手側にある「天明伏見義民顕彰碑」である。明治20年(1887)の100年祭に建立されたもので、碑文は勝海舟が作成し、題字は三条実美(さねとみ)が筆をとったといわれている。これは、安永8年(1779)伏見奉行となった小堀政方(まさみち)の悪政に堪りかね、町民7名がご法度の幕府への直訴を行い、伏見の町民を救ったものの、自らは悲惨な最期を遂げた。平安な生活に戻った伏見の町民は、この話を後世に伝えようと文殊九助没後100年の慰霊法要に際して、地元有志により顕彰碑が建立された。
 伏見義民とは鍛冶屋の文殊九助、麹屋の麹屋伝兵衛、薪炭屋の柴屋伊兵衛、塩屋の伏見屋清左衛門、深草焼の焼塩屋権兵衛、百姓の丸屋九兵衛、材木屋の板屋市右衛門の7人で、他に町民200名余が協力していた。当事の伏見奉行小堀政方(まさみち)は、幕府の重臣・老中田沼意次(おきつぐ)の権威を借りて度重なる不条理な御用金を町民に要求。その額は7年間で10万両。この悪政に耐えかね、法度の直訴を決意。文明5年(1785)7月、代表の文殊九助、丸屋九兵衛、麹屋伝兵衛の3名は江戸へ出立。途中、伝兵衛は、過労死。残った九助と九兵衛の二人は、追ってきた伏見奉行の役人から逃れるため深川の陽岳寺(現東京都江東区深川)に身を隠し、和尚の庇護を受け機会を待った。天明5年(1785)9月26日、下城途中の寺社奉行松平伯耆守の駕籠に向かって訴訟状を差し出した。直訴は切り捨て御免で、決死の覚悟であったことをは間違いない。思いは叶った。小堀政方は罷免せられ、領地没収となった。しかし、伏見では面子をつぶされた奉行役人が関係者を次々呼び出し、厳しい詮議を始めた。直訴に同行しなかった4人は厳罰に処され、獄中死した。文殊九助・丸屋九兵衛は松平伯耆守の温情で一旦伏見に戻っていたが、幕府は権威を保つため江戸送りとなり牢獄に。取り調べは長期に及び九助は獄死。残った九兵衛は、無罪を勝ち取るが力尽き亡くなった。この二人の遺体を引き取ったのは陽岳寺の和尚。先に亡くなっていた伝兵衛の遺体と一緒に丁重に陽岳寺境内に葬った。3人の墓は今も「伏見義民の墓」と刻して陽岳寺本堂の前にある。なお、幕府の最終判断は全員無罪であったが、直訴した7人全員はこの世にいない人となっていた。毎年5月18日、慰霊祭が伏見義民顕彰会などの方々により「伏見義民顕彰碑」前で執り行われる。

「伏見の戦跡」 「伏見義民顕彰碑」 名水「御香水」

 御香宮神社は江戸末期の慶応4年(1868)正月に勃発した「伏見・鳥羽の戦」では、吉井孝助率ら官軍(薩摩藩など)の屯所となった。片や幕府軍は大手筋通りを隔てた南側200mほど離れた伏見奉行所に陣(伝習隊、会津藩、桑名藩、新撰組などが)を構えた。大砲・鉄砲などの弾が激しく飛び交ったが、御香宮は幸いにして戦火には免れている。官軍の屯所となった境内には「明治維新伏見の戦跡」の石碑がある。
 
境内から清泉が湧出し、当社の名の由来となった「石井の御香水」は、伏見七名水の一つで、紀伊、尾張、水戸の徳川御三家の頼宣、頼房、義直の各公がこの水を産湯に使ったという。“石井”とは、当地の昔の地名。昭和60年(1985)に環境庁の「 全国名水百選」に認定された。

◎御香宮(ごこうぐう)神社
・住所:京都市伏見区御香宮門前町174  ・電話:075-611-0559
・拝観:境内自由、社務所石庭9:00〜16:00(200円)
・交通:近鉄電車「桃山御陵前駅」/京阪電車「伏見桃山駅」下車、東へ徒歩5分ほど
御香宮神社のホームページ

本殿脇の神徳”安産”を示す石標


・名所旧跡めぐり目次へ戻る     ・トップページへ戻る