大徳寺 (だいとくじ)

臨済宗大徳寺派大本山 龍宝山 大徳寺
京都市北区紫野大徳寺町53

 大徳寺は、船岡山の北にある臨済宗大徳寺派の大本山。本尊は釈迦如来。大徳寺本坊は、原則非公開。毎年10月上旬頃に行われる宝物虫干し「曝凉展」の1日に限り、方丈で一般公開される。
 旧大宮通に面した(東側)総門を入ると右手に勅使門で、その前方に鬼界島へ配流となった平康頼(やすより)の石仏供養塔がある。勅使門の背後に朱塗りの山門「金毛閣」。山門は建造当初は、一階のみで、一休禅師の参徒
連歌師)紫屋軒宗長らが寄進したもの。後に千利休が二階部分を増築している。このとき、増築部に雪駄を履いた利休の等身大の木像を置いたことが秀吉の怒りをかい、二年後、利休は切腹している。なお、利休の木像はその後、一条戻り橋で晒され ることになり、それを見た町衆は驚愕したという。
 さて大徳寺は、鎌倉時代末期の正和4年(1315)、宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう/大燈国師)が赤松則村(のりむら)の外護を受けて(宗峰の母は赤松の姉)雲林院の旧地に大徳庵(東山の雲居庵(うんごあん)から移し)を建立したのに始まる。正中2年(1325)花園上皇の祈願寺となり、嘉暦元年(1326)花園上皇や後醍醐天皇の帰依をうけ、法堂等の建物の完成時に大徳寺と命名された。
 鎌倉末期、建武の新政府が成立すると、元弘3年(1333)後醍醐天皇から天下無双禅苑の宸翰(しんかん;天子の直筆の文書)を授かり、五山に推された。しかし南北朝末期頃、後醍醐天皇と敵対する足利尊氏は、宗峰妙超門下と対立関係にあった夢窓疎石門派に帰依していたこともあって、大徳寺は急速な衰退を招いた。足利幕府が成立すると、足利家は大徳寺を粗略に扱い、至徳3年(1386)、寺格は五山の下に当たる十刹の九位に落と した。これを機に大徳寺は、永享3年(1431)その権利を自ら放棄し、林下と称された在野(五山十刹以外の寺)を宣言し、幕府から決別。独特の禅風を保持し延命している。

総門 勅使門(ちょくしもん) /前後唐破風、左右切妻、桧皮葺の四脚門、後水尾天皇から拝領したと伝えられる 治承1年(1177)鹿ヶ谷の事件を企て藤原成親・俊寛らと鬼界ヶ島に(硫黄島)に流された平康頼(やすより)の石仏供養塔 。後白河院の近臣。

 しかし、室町時代の享徳2年(1453)と応仁の乱(1467年)の二度の火災で堂宇は焼失してしまう。文明6年(1474)、とんちの一休さんで知られた一休宗純(いっきゅうそうじゅん/後小松天皇の皇子)が47代住持となり、再建に当たることになった。一休は、浄財集めに各地を放浪し 、やがて明や南蛮貿易で富を蓄えていた堺の豪商であり茶人の武野紹鴎(たけのじょうおう)らの援助をうけ、方丈、法堂を復興させた。これを契機に大徳寺へは茶人の参禅が相次いでいる。一休は再建された大徳寺へは住まず、山城国薪村(たきぎむら/現在の京田辺市薪里ノ内)の「酬恩庵(しゅうおんあん)」という草庵で晩年を過ごし、その庵で逝っている。 現在の酬恩庵は一休寺の名称で知られている。
 その後、桃山時代の天正10年(1582)に羽柴秀吉(豊臣秀吉)が本能寺で横死した織田信長の菩提を弔うため、大徳寺山内に総見院を建立、葬儀を営んだ。それを契機に大徳寺には戦国武将の大友、三好、畠山、朝倉らの大名が相次ぎ塔頭を建立し隆盛を極めた。江戸時代に入り、寛永4年(1627)に起きた紫衣事件を乗り越え、寛文年間(1661〜1673)には七堂伽藍が完成したことで往古の姿を取り戻したている。
 現在の大徳寺では諸塔頭は別院2ヶ寺、塔頭22ヶ寺を数える。それら塔頭の多くに戦国武将や大名の墓があるのが特徴。例えば、織田信長の
総見院、三好長慶(義継の父)の聚光院、六角政頼の大仙院、細川藤孝(幽齋)の高桐院、小早川隆景の黄梅院、石田三成/森忠政(森蘭丸の弟)の三玄院、黒田孝高(長政の父)の龍光院、畠山義元/大友義親/大内義興の龍源院、大友義鎮(宗麟)の瑞峯院前田家の興臨院など。その他、一休宗純の菩提を弔った真珠庵、 加賀百万石前田家菩提寺の芳春院、足利満詮の養徳院、梶井門跡尊胤親王の徳禅寺、後陽成天皇の侍医、曲直瀬正琳の玉林院、小堀遠州政一の孤蓬庵らがある。また、これら塔頭はそれぞれ優れた枯山水庭園をもっているが、中でも大仙院、聚光院、真珠庵、孤蓬庵の庭園は国の史跡・名勝となっている。さらに付け加えるなら、塔頭の数より茶室の数のほうが多く、29茶席もあること。これは秀吉と千利休と堺の檀那との結びつきから派生した茶道のたしなみが、諸大名が受け入れたことにあると考える。なお、多くの塔頭で常時公開しているのは大仙院、高桐院 、瑞峯院と龍源院の4院だけ。他の寺院は春秋に特別拝観を行うことがある。

山門/応仁の乱後、連歌師宗長らが一階部分を寄進、のち千利休により二階部分が設けられ「金毛閣」の額が掲げられた 仏殿/常時開扉されているので仏様に会える 。大燈国師により建立されたが応仁の乱にて消失、一休和尚らにより再建された 法堂側面(写真左側に庫裡がある)/法堂内天井は狩野探幽が35歳のときに描いたとされる鳴龍が

■見所■
・唐門:桧皮葺四脚門。方丈の正面に聚楽第から移築した唐門(国宝)があるが、明治の中頃まで勅使門の西にあった。聚楽第(じゅらくだい)とは、秀吉が京都に造営した御殿で、後陽成天皇の行幸を仰ぎ天下にその威力を示した。のち関白の秀次(養子)に譲り、秀次の居宅になったが、秀次に謀反の罪をきせ断罪、聚楽第を破却し たが、この唐門は破却をまぬがれた。日光東照宮の模した型で、日が暮れるまで見飽きないことからことから「日暮門」とも言う。
・方丈:1636年(寛永13)造立。一重、入母屋造り、桟瓦葺き唐破風造り,桟瓦葺きの玄関が付く。方丈建築としてはきわめて大きい方に属する。方丈内の襖絵八十余面(重文)はすべて狩野探幽筆である。什宝 としては南宋代の禅僧・牧谿(もっけい)の掛軸「観音猿鶴図」(国宝)が知られている。もとは足利家の秘蔵品であったが、足利義満から義政へ伝えられたのち、今川義元の軍師・太原崇孚(たいげんすうふ)の手に渡ったもの。太原崇孚は大徳寺と妙心寺に、「観音猿鶴図」と銭50貫文(約500万円)の現金の、どちらかを選べといったところ、妙心寺は現金を選んだ ため、大徳寺が譲り受けた。なお、今川家の人質であった若い頃の徳川家康は、この太原から軍学と仏道の教えを受けている。
・方丈庭園:江戸初期の枯山水庭園で、史跡・特別名勝に指定されている。
・方丈東庭:七五三庭、または十六羅漢の石組。
・その他、浴室、経蔵、廊下、寝室、庫裏、侍真寮、鐘楼がある。

◇大徳寺本坊の所在地など
住所:〒603-8231 京都市北区紫野大徳寺町53    ・電話: 075-491-0019
・拝観:非公開 (秋の虫干しを兼ねた10月の特別拝観でしか見られない。特別拝観は時々おこなわれているようだ。)
・交通:バスで大徳寺前下車すぐ。市バス 12,101,204,205,206 で大徳寺前下車。

・大徳寺のホームページhttp://www.rinnou.net/cont_03/07daitoku/index.html


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