大報恩寺(千本釈迦堂)  (だいほうおんじ(せんぼんしゃかどう))
真言宗智山派 大報恩寺(通称千本釈迦堂) 山号・瑞応山 本尊:釈迦如来

京都市上京区五辻通六件町西入ル溝前町1305(七本松東入ル) 

 千本釈迦堂の名前で知られる大報恩寺は、市バス「上七軒」停留所から北へ200mほどの所にある。大報恩寺の本堂(釈迦堂)は、瑞応山と号する真言宗智山派の寺で、千本釈迦堂の名で知られている。承久3年(1221)、求法(ぐほう)上人義空(ぎくう)が、猫間中納言藤原光隆の臣、岸高から寄進をうけたこの地に小堂を建て一仏十弟子像を安置したのが当寺の起こりと言われている。当時は溝前町・老松町・柏清盛町の広大な敷地で、当初、倶舎・天台・真言三宗弘通(ぐずう)の道場。嘉禎元年(1235)堂塔伽藍を整え壮観を極めたが、応仁の乱はじめ度々の災火のため堂宇を焼失してしまった。その中で幾多の戦禍を奇跡的に逃れた本堂(釈迦堂)は、市街に現存する最古の本堂遺構で、国宝に指定されている。本堂内陣の柱に刀・槍の傷跡が見られる。応仁の乱のとき、この辺りは西軍の中心部であったが、東西両軍の手厚き庇護のもと、特に西軍の将、山名宗全の特別のはからいもあり、この本堂が残されたといわれる。傷跡はその当時の歴史の一こまを物語る。堂内には行快作の釈迦如来坐像及び快慶作の十大弟子立像をはじめ誕生釈迦仏立像・六観音菩薩像(聖観音、准胝観音、千手観音、馬頭観音、十一面観音、如意林観音)・千手観音立像などを安置している。その後、寺盛は衰えたが秀吉や家康らの援助を受け復興し、江戸時代の初期に天台宗から真言宗に変わっている。

市街に現存する最古の本堂 本堂内陣の柱に残る刀傷 本堂の奥に陳列された色々のお亀さん

この本堂造営工事には秘話がある。造営工事棟梁になった長井飛騨守高次は、信徒から寄進された貴重な柱1本を短く切り誤り、進退極まって途方にくれていたところ、その心痛の様子を見かねた妻「おかめ」が、柱全部を短く切り柱上に斗?(ときょう)を乗せて長さを補う方法を進言。高次はこの方法を採用して無事竣工させた。しかし、おかめは、女が夫の仕事に口をだしたこと、女の知恵で落成したことが分かっては夫の恥とばかり、一切を秘すため上棟式の前日に自刃。高次は、妻の心情にうたれ、上棟式の当日、御幣の先にお多福(おかめ)の面を飾り冥福を祈ったといわれる。こんにちでも、上棟式の御幣に、おかめの面をつけて建築成就、厄難消滅、家業繁栄を祈る風習があるのはこの故事によるという。
 また、本堂の西側にある観音堂は、明徳の乱において敗死した山名氏清(うじきよ)の菩提を弔うために足利義満が建てた北野経王堂願成就寺。北野経王堂願成就寺は、山名氏の強大化を懸念していた足利三代将軍義満が、明徳2年(1391)、氏清の弟・山名時義が領主を継いだ家中分裂に伴い山名時煕、山名氏幸の討伐令を下した。山名家一族の存続を危ぶんだ氏清は、山名義理、山名氏家らとともに令に叛いて兵をあげた。合戦は京都内野で行われ、有力守護大名によって編成された幕府軍の反攻に遭って、氏清は戦死した(明徳の乱)。

境内のおかめ像、写真右の多宝塔は高次が建てたもの 境内に残る「北野経王堂願成就寺」 ぼけ封じ観音

  将軍義満は、その翌年、令に叛いたとはいえ、山名家の功労武勲を思い、氏清とその一族、また戦いに倒れた敵、味方兵士の追福のため、1100名の僧侶を集めて供養した。引き続き応永8年(1401)に北野社の社頭に、三十三間堂の倍半という大堂を建立し「北野経王堂願成就寺」と名付け十日間にわたって万部経会並びに経典書写などの仏事を行い供養した。この行事は「北野経会」と呼ばれる京の最大行事となり、代々の幕府によって踏襲された。
 この堂も江戸期に入り荒廃甚だしく遂に寛文11年(1671)に解体縮小されて小堂となった。このときに解体された遺構の木材が当寺に運ばれ縮小・復元されたのが、このお堂。堂の右前に山名氏清の碑が建てられている。

大報恩寺では、2月には節分会、5月には花供養、7月には陶器供養、8月には精霊迎え、12月には大根炊きでなどの行事が営まれ多くの人々で賑わう。

◇大報恩寺(千本釈迦堂) の所在地など
・住所:〒602-8319京都市上京区五辻通六件町西入ル溝前町1305(七本松東入ル)  ・電話:075-461-5973  
・拝観:境内自由・9:00〜17:00(本堂、霊宝館 大人500円)
・アクセス:市バス「上七軒」下車、北へ徒歩約2分。又は「千本上立売」下車、西へ徒歩約3分。


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