円山公園とその周辺

円山公園 ・長楽寺 ・安養寺 ・大雲院 ・知恩院 


長楽寺(ちょうらくじ)

 円山公園 の池の南を東へ延びる道があり、その道を行くと正面に長い石段が見える。その先が「長楽寺」で、辺りは街の雑踏を遮る、古木の枝が重なる。拝観受付には誰もいない。辺りを見ると「ご用の方は、鉦を3回たたいてください」の張り紙を見つけ、おおせのとおり叩くと僧侶が出てこられた。
 長楽寺は、平安時代の延暦
24(805)桓武天皇の勅命によって伝教大師を開基として観世音菩薩を本尊として創建された。古来、勅願所として歴代天皇の帰依深く 、本尊は勅封の秘仏として奉られ、歴代天皇の即位式および厄年など、勅使が来られた時のみ開帳されるという。
 宗派は、当初(平安時代)は天台宗であったが、鎌倉時代初期、天台宗名僧で隆寛(りゅうかん)律師が浄土宗開祖の法然上人を慕い、その教えを受けるために比叡山からこの寺に移り、専修念仏長楽寺派を開立した。後の室町初期、当時の一代名僧国阿上人に譲られ、時宗(宗祖一遍上人)となり現在に至っている(明治
39年に時宗の総本山であった七条道場金光寺 を合併)。
 当時は円山公園の殆どを含む広大な寺域であったが、東大谷廟の建設に伴い幕府から割かれるなど、次第に現在の広さとなった。

   
  東福寺を開山した聖一国師作と伝えられる布袋像 銀閣寺を造る時に、試作的に造ったとされる相阿弥作の庭園は、背後の山から涌き出る水をとり入れた苑池もある。  

 寺には、鎌倉初期における禅界の巨匠と言われ、聖一国師作と伝えられる布袋像がある。荒削りな作風であるが、”笑み”どの布袋像にも見られない、不思議なまでの妙味な笑顔。また、像は泥像で、土をこねたまま で焼かれていないままで、約八百年も保存されたことは貴重とされている。この布袋像を形どったものが、古い京都の商家では釜戸の棚に奉られている。
 その昔、内乱のため笑いを失っている家庭をみた国師が、人形師に命じてこの像を写し作らせ、頒布授与したのが始まり とされ、これが庶民の信仰と結びついたと言われている。
 また長楽寺は、平清盛の娘徳子・建礼門院が髪をおろされた寺。元暦2年(1185)3月、長門(山口県)の壇ノ浦において平家が敗れ、御歳8歳の安徳天皇(高倉天皇と建礼門院との間にお生まれ、3歳で即位)は祖母(清盛の夫人)に抱かれ入水。後を追うように入水の母、建礼門院は敵軍に捕らわれ、4月の末に京都へ戻されるが、5月1日この寺で髪をおろし、出家された。時に29歳であった。まもなく、建礼門院は大原の寂光院へ移り住まれ、69歳で亡くなられた(亡くなられた歳については、37歳、59歳、70歳など諸説あるという)。
 また長楽寺は、建礼門院関わる貴重な資料が見られる他、墓地には頼山陽とその家族の墓。さらには、幕末の第十五代将軍徳川慶喜に仕え、御所守衛に一身をささげ亡くなった、水戸烈士戦没者87名の名前を刻んだ「水戸藩留名之碑」をはじめ、「尊壌記念碑」がみられる。その他、盛んに尊皇攘夷運動をした水戸藩大場一真斉、原市之進、鵜飼吉左衛門父子の墓、さらには墓碑もある。
 

建礼門院像 本堂への石段脇におかれた、山岡鉄斎書の手水鉢。 本堂:秘仏の観世音菩薩や、阿弥陀三尊像、一遍上人像など祀られている。 寺の創建にあたり、伝教大師自ら刻まれた弁財天を祀る弁財天堂。
       
建礼門院御塔(御髪塔とも) 幕末の文人・頼山陽(らいさんよう)の墓。名著「日本外史」は、尊皇思想の広まり、維新思想の原動力となったと言われている。 幕末の最後の将軍徳川慶喜の弟・明訓(あきくに)の墓。御所守衛中の17歳で病死したが、水戸藩の将来を嘱望されていた人物。 水戸藩京都留守居役 鵜飼吉左衛門の墓(子・幸吉の墓も傍に)。安政5年、井伊大老により尊皇攘夷派の志士とともに処刑された(安政の大獄)。

◇長楽寺の所在地など
・住所:京都市東山区円山町626
・TEL:(075)561−0589
・市バス「祇園」下車、八坂神社南門を経て徒歩約5分
長楽寺ホームページ 


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