円山公園とその周辺

円山公園 ・長楽寺 ・安養寺 ・大雲院 ・知恩院 


安養寺(あんようじ)

 安養寺 (山号:慈圓山)は、桓武天皇が平安京に遷都された延暦年間(782〜806)、都を鎮守する寺として、伝教大師 (最澄)が創建。また、法然上人が比叡山を下り、吉水で開かれた草庵の一つでもある。天台宗が始まりで、現在は時宗。

円光大師・法然上人(法然房源空)

 比叡山の西塔別所・黒谷で念仏三昧に明け暮れておられた法然房源空(法然上人)は、唐(中国)の善導大師が著した『観無量寿経疏』を読み「諸行を捨て去って一心に弥陀の名号を念じること、それも観想の念仏より称名念仏こそが往生浄土の正道である」と悟られ、南無阿弥陀仏の念仏一筋に生きる浄土門を選択されたのである。法然房のこの選択は、従来(難しい経典を学び、苦しい修行に耐えてはじめて救済されるとされた)の天台念仏の枠からかけ離れたもので、師の慈眼房叡空、さらに天台念仏と別れることとなった。
 比叡山を下りた法然房は、最初、京都西郊・粟生の光明寺に住まわれたが、ほどなく東山大谷へ移られた。その地がこの吉水。この東山一帯の土地は、天台宗の堂舎が建立したところで、この頃は青蓮院門跡が所轄している。 
 この吉水において草庵をもった法然房は、一心に南無阿弥陀仏と声を出して称えれば、貴族や庶民という身分に関わらず、阿弥陀仏の救済を受け、浄土に生まれることができる、とした教えを説かれ広められた。いわゆる専修念仏である。当時は、貴族中心の仏教が全盛時代で、この教えは人々に深く帰依されたことは言うまでもなく、瞬く間に受け入れられることとなった。

   
  安養寺の表門 本堂 仏殿上に吉水草庵の額  

 庵へ訪れる者も次第に多くなり、宿坊も法然房の 住む中の房に加え、上の房、下の房が増築された。門弟には親鸞の他、天台宗の高僧もいたとされる。
 面白く思わないのが古くからの仏教集団である南都・興福寺と北嶺・延暦寺の衆徒。元久元年(1204)11月には延暦寺衆徒による専修念仏停止の運動、翌年9月には興福寺衆徒が後鳥羽上皇へ奏状を捧げて念仏禁断を願い出た。折りも折り、建永元年(1206)12月、鹿ケ谷(安楽寺)の草庵で法然の弟子、住蓮房と安楽房が開いた念仏会に参加した後鳥羽上皇の女官、松虫姫と鈴虫姫の姉妹が感激して尼僧になった。この出家に激高の天皇は承元元年(1207)法然を讃岐の国(四国)へ、親鸞を越後へ配流するなど、法然の有力な門弟もそれぞれ処罰されて専修念仏が全面的に禁止された。この騒ぎになるまでの三十年間(上人75歳)、ここ吉水を本拠として布教伝道をされていた。
 草庵は、法然上人が流罪のあと念仏停止となり、慈鎮和尚(慈円)が来られ、慈円山大乗院安養寺と号されることになった。徳川時代に入り、慈円山は「円山」と称される寺坊六ヶ寺と本坊を構える一大山寺となった。しかし、明治となって坊舎は政府に没収され円山公園となった。
 慈鎮和尚は、安養寺の寺持に当たり、弁財天を寺の鎮守として勧請された。その弁財天を吉水弁財天と呼び、安養寺のすぐ南の祠に鎮座している。吉水は、そもそもは土地の名ですが、境内から霊水が涌き“よい水”であったことから、“吉水”と称されるようになったとか。

吉水弁財天堂、写真左の石段の上が安養寺。 境内の奥に祀られる慈鎮和尚(慈鎮塔)。 背後の山から涌き出る”よい水”。 法然上人も使われた閼伽水の井戸(側面に吉水と刻まれている)。

◇安養寺の所在地など
・京都市東山区八坂鳥居前東入る円山町 
 (円山公園東北知恩院大鐘楼の南)
・TEL(075)561−5845


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