阿弥陀寺(あみだじ)

浄土宗鎮西派 蓮台山 惣見院
京都市上京区寺町通今出川上ル鶴山町14

恩に報い信長の菩提を弔う
 阿弥陀寺は、寺町通今出川を北へ500mほどのところの東側にあり、門前に「織田信長公本廟」の石柱が建つ。天文年間(1532〜1555)に清玉(せいぎょく)上人が近江(滋賀県)の坂本で開創したのが始まりで、本尊は丈六の阿弥陀如来。
 上人は、織田信長の帰依を得ていて、信長の入洛に際し西ノ京蓮台野芝薬師西町(現在の今出川通大宮)に移り、永祿年間(1558〜1569)に落成している。寺地は、八町四方あり塔頭11寺院をもつ大寺院であったという。また当時、正親町天皇は清玉上人に深く帰依し、東大寺大仏殿の勧進職を命じるとともに、勅願所とされている。本堂には、織田信長、信忠父子の木像等が安置され、墓地には織田信長、信忠や森蘭丸ら三兄弟の墓、本能寺の変討死衆の墓がある。毎年6月2日(「信長忌」)に堂内拝観と併せて寺宝公開される。
 なぜ阿弥陀寺に織田信長をはじめ本能寺で討ち死にした家臣の墓があるのか?清玉上人は幼少のころ織田家で育てられていたのである。信長の父(信秀)が尾張を行軍していたとき、路上で苦しんでいる一人の妊婦と出会い、信秀は医に命じて薬を与えるなどの介護をした。しかし、効果なく妊婦は間もなく亡くなるが、子供は助かり織田家で育てられる。この子供が清玉上人で、13歳で南都興福寺に入り修行、後に近江坂本で阿弥陀寺を開創した。

織田信長公本廟の石柱が建つ山門 本堂 開山清玉上人の墓
     
織田信長・信忠の墓 向かって右が信長、左が信忠 森蘭丸ら三兄弟の墓

 天正10年(1582)6月2日、“本能寺で信長襲われる”という知らせを受けた清玉上人は、塔頭寺院の僧侶たちを連れて駆けつけたが、すでに本能寺は焼け落ち信長は自害していた。信長の家来たちが「俺の身体は敵に渡すな」との遺言に従って遺骸を焼いており、上人は織田家との関係を家来に話し、信長の遺灰を貰いうけ阿弥陀寺へ戻り葬った。さらに翌日、二条城で討ち死にした信長の長男・信忠や家臣の遺骸百十余名を収容し、一人ひとりに法名を授与し埋葬した。〔参考:浄土宗新聞〕
 豊臣秀吉は“山崎の戦”で明智光秀を討ったあと、清玉上人にその手柄を褒め、改めて自身が喪主となり一周忌法要を行なうことを命じたが、清玉上人はこれを断った。そこで秀吉は法事料として300石の朱印や永代墓所供養のための寺領
を与えると強要したが、やはり上人は辞退した。怒った秀吉は大徳寺内に総見院を建て、一周忌法要を済ませるとともに阿弥陀寺での法事を禁じたという。また阿弥陀寺は、天正18年(1590)から始められた秀吉の都市改造に伴い蓮台野から現在の場所に移転され、しかも寺地は従来の八分の一にも縮小されたという。
 大正6年(1917)、信長を正一位に追贈する為の宮内庁調査により、阿弥陀寺の信長公墓が廟所であると確認されて勅使の来訪があった。境内墓地には、他に開山清玉上人、儒者皆川淇園(みながわきえん)、俳人蝶夢(ちょうむ)の墓などがある。
 なお、織田信長の廟所や供養塔は他にも多くあり、京都では本能寺(中京区)、妙心寺玉鳳院(右京区)、建仁寺(東山区)、大雲院(同)、亀岡市の聖隣寺などである。また、旧本能寺の北(病院敷地内)には清玉上人が信長の首を洗ったとされる「信長首洗いの井戸」がある。

◇阿弥陀寺の所在地など
住所:〒602-0802 京都市上京区寺町通今出川上ル鶴山町14
TEL:075-231-3538
拝観:境内自由
交通:


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