本当に久しぶりにここに書き込みます。 大変ご無沙汰してすみませんでした。 まず、この場を維持してくれた管理人の たわし君と、ちょくちょく見に来てくれた方々に お詫びとお礼を申し上げます。 日記書けなくてすみませんでした。またずっと 気にしてくれてありがとうございました。 さて、すこし私の事情をお話します。 この日記の過去の書き込みにもあるように 一時体調を崩して、療養をしておりました。 これはほどなく回復したのですが、こんどは 家族が倒れ、その看護等でバイトしながらの 生活になりました。まあ、これも復調して 今はまったく大丈夫になったのですが、 そういった事情もあり、なかなか昔のような 活動ができなかったというのがあります。 現在は、様々な問題が解決し、再就職に向けて 求人情報をチェックしているところです。 つまり今はプーです^^; バイトのような事はしていますし、ラジオ関西の 番組のコーナーもやらせて頂いてますが、やはり 就職せんことにはどうにもなりませんw 前のようなゲームの仕事に復帰できるかも 見通しがまったく無いので、職種に制限を持たないで 探していこうと思っています。 しかし、人生何があるか分からないものですね。 ここにきて再出発というか、一から出直しの気持ちで やっていこうと思ってます。 このHPは、かつてあったラジオが機会となり、 リスナーさんに作っていただいたものなので、 その方面の話題ができるようにはしていきたい ですが、今はラジオ関西で毎週日曜日にやっている 王様ラジオキッズのゲーム攻略法というコーナーのみしか語ることがありません。 勘のいい昔の流ゲーリスナーなら分かると思いますが、ゲーム攻略法というコーナーなのに、一切攻略はしていませんw ゲーム業界裏情報というタイトルなのに、裏情報などなかったアレだと思ってくださいw これからは、この番組に関する話題があれば、それを ここで書いていきます。 また、かつてのリュウゲーリスナーが見てくださってるという事から、当時のリュウゲーを振り返って、思い出したこととかをここで書いていこうかなと思います。 もう番組が終わってから10年くらいは経っていると思うので懐かしむ思いで、つれづれに書いてみようかと思いますw というような感じですが、しばらくはそういう話題と、日々の私の近況みたいな日記になると思いますが、できるだけ書く機会を持ちたいと思います。 というわけで、不定期な日記再開しますw 皆さんよろしくお願いします^^
ぶは、日付見てビックリしたが、 二年ほったらかしだったのかw 改めてごめんなさいw 許してね
さて、パソコンで例のごとく転職情報サイトを 見ていたのですが、久しぶりに「流星野郎」で 検索してみっかーと思いw見てみると、 古い情報ながら、けっこう出てきますなw なんか同名の芸名のようなものを使ってる人も いたようで、これ昔は俺と勘違いした人もいたんだろうなあと思い、ちょっと青くなりましたw しかし、未だにあのCDジャケットの写真とか出てくると地味に凹みますw 俺はなんてことをしてしまったんだwと今でも思う。 一生懸命やったのは間違いないんだが、あれを買った人がいると思うと、本当に肩くらいは揉んで差し上げたいと思ってしまいます。 まあ、あのCDは本人である私が聞くと、あのキカイダーのギルの笛の音のような効果のものだと思ってくださいw マニアックな例えで申し訳ないが、気になった人は、マンガやビデオの「人造人間キカイダー」を見てくださいw さて、未だにここを見に来てくれてる方の多くは ラジオ番組「流星野郎のゲーム業界裏情報」または 「流星野郎のGAMEMAX」(以下流ゲーもしくはリュウゲー)のリスナーの方が多いと思うのですが、 これだけ本人が書き込まない日記を、辛抱づよく 待っていてくださる方もいらっしゃるので、感謝の意味を込めて当時を振り返り、私が思った事をいろいろ書いてみようかと思います。 放送では流さなかった話やどんな事を考えてスタッフが番組を作っていたかなどを話してもいいと思える範囲で、ここで語っていきたいと思います。 まあ、うろ覚えのこともあるし、話してもたいした事ではない事もありますが、私が好きだった番組を 懐かしむ思いにお付き合いくださればと思いますw 第一回 リュウゲー誕生のいきさつ 〜その1〜 まず、なぜリュウゲーが始まったか。 ここから話さねばならないでしょうねw 第一回はここから始めましょう。 当時私はまだアトラスの社員で、年齢は28くらいだったと思いますが、すでに宣伝担当をしていました。 ゲーム業界は、任天堂の初代ゲームボーイ(弁当箱みたいなやつねw)が好調で当時の私も自社タイトルの宣伝をしていました。 ある時、皆さんも知っているヒゲの上司から、ラジオ関西の宣伝枠で、新作のPCエンジンのプロモーションをしてみないかと言われ、担当代理店のKさん(大変お世話になりました)と宣伝について打ち合わせをしたのです。 Kさんが言うには、ラジオ関西ではアニメ特撮関連のリクエスト番組がありゲームユーザーも多数聞いていると思われるので、ここで新作をアピールしてみてはどうか?という内容でした。 その番組はリスナーを非常に大切にしており、いいものであれば生の声で伝えた方がいいでしょうと言う事になり、なんと神戸に行って出演し、直にプロモーションしてみてはどうかと言うことになったのでした。 この時思った様々な事は、のちの番組を担当する上での良い経験となるのですが、最初は「電波で素人の俺が喋って、はたしてうまくやれるんだろうか?」 という思いでした。 神戸行きが近づいてくる中、宣伝するソフトを前にして自分で喋る内容を台本にして、仕事から帰ってから、一人暮らしの6帖の部屋でペン立てをマイクにみたて、毎日練習しましたw このいい加減に見える俺がそんな事をしていたなどと、意外に思うでしょうが実は小心者なのですw そんなことをしているうちに、ソフトの事ではなく、ラジオ関西の番組のことを考えるようになりました。 いかに宣伝とは言え、番組の空気もあるだろうし、まず番組の面白さを損なわない上でソフトの宣伝がリスナーの皆さんに受け入れてもらえるようにならなければならないのではないか。 宣伝自体も楽しいものにしたいと思うようになり、台本を何回も書き直しましたw そうしているうちに、台本自体に意味があるんだろうか?と思うようになりせっかくの生放送なんだから、言うべき事を頭に入れて、あとは生の流れに委ねた方がいいだろうと自分で思い、台本で練習するのをやめたのでした。 今にして思えば当たり前のことですが、番組にはパーソナリティやスタッフがいて番組全体を見ながら進めているので、素人の私があれこれ考えるより、必要事項をきちんと伝えられるようにしておけば、あとは生放送の中でうまく出来てしまうものなのです。 まあ、スタジオに入ったことなどない私があれこれと悩んでしまったのは、素人ゆえの事ではあったのです。そんなことがあり、実際に神戸に行くことになったのでした。 その2へ続く
日記書くぞ! とか思っても、やっぱり日が開くなw まあ、何年も開いたのを考えれば、頻繁に 書いてる方だろうかw 特に日常は変化もないので、不定期連載?w いきたいと思います。 誕生のいきさつ その2 さて、ラジオ関西の人気番組「青春ラジメニア」に出演させて頂いたのですが、その時の印象は「意外に冷静にやれた」ということでした。 これは一重に、番組のパーソナリティである岩崎さんとカオリンのお人柄によるとこが大きいです。 元来、図図しい私はすぐ打ち解けてリラックス しましたw ここで 今だから言える二人の第一印象を話しておきましょうw まず岩崎さんは、物静かな落ち着いた口調のなかに 優しさを感じさせる方でした。 また初対面の私にも、リスナーを大切にする思いを語って下さりすごく感動したのを覚えています。 これはのちのリュウゲーの制作にも影響を与えます。 私が岩崎さんを師匠と呼ぶゆえんでもあります。 そしてカオリン もう、これは「なんてカワイイ人なんだ!」 第一印象は、これですw まず笑顔がステキですw そして打ち合わせを始めると、番組に対しての情熱が 岩崎さんと同じように熱く、二人ともすごく番組を大切にしているのがよくわかりました。 これも意外な事かもしれませんが、思い出すと、私はあまりカオリンの顔を直視していなかったと思いますw というのも、照れくさくてあまり見れなかったのですw なので岩崎さんの顔ばっかり見てましたが、けしてホモであるとかwそういうことではないのですwww そんな分けで番組の私の出演も滞りなく終わり、番組の途中でスタジオをあとにしました。 実は最後まで見たかったのですが、ラジオ関西の営業さんと担当代理店kさん、 ラジメニアのプロデューサーの方と食事をしようということになったので、 最後まで見ることはできなかったのですw まあ、私の出演の打ち上げみたいなものですw 実は、この食事がリュウゲー誕生の発端になりますw 当時須磨にあったラジオ関西をあとにした我々は 三宮の繁華街に向かいました。 そこで食事というか酒を飲みつつ、ゲーム業界の話や ラジオ番組の話などをしていたのですが、誰が言ったか覚えていませんが、「相原さんは喋りもいけるから、番組持ってはどうです?」 というような事を言われたのでした。 私も酔っていたので「どうすれば番組なんてできるんですか?」というような 流れになったとうろ覚えに覚えていますw まあ、酒の上の話なのでと思ったのですが、みんな笑いながら話してるのに当時の担当営業さんだけは真顔で「いけるいける」と言ってたのを覚えています。 何を隠そう、この担当営業さんこそ、のちのリュウゲーを支える重要人物「流星ジローw」その人であったのですw 食事が終わってプロデューサーさんが局に戻り、私とKさんジローの3人はタクシーでホテルに戻ったのですが、その車中でジローとKさんがまた番組を作れないかという話を始めました。 話をしているうちにその気になってきた私はやるならこういう内容にしようとかいろいろ思いつくままを喋ったように思います。 のちに私の上司に提出される企画書の素案がここで語られたのですw しかし、番組を作るには当然お金が必要でスポンサーがいなければならないこと、それはアトラス社の広報が喋るならほかのスポンサーは付かないので、アトラス社がしなくては不可能という事を聞き、実現は難しいなあと思いました。 しかし、二人はそれならアトラスがスポンサーでやれないかと真摯に話してくれたのですが、私は宣伝予算の事を考え「それなら私の決済範疇を越えているから 上司に企画を持ち込んでくれないか」というような事を言い、この話はとりあえず終わったように思います。 東京に帰った私は、ラジオ番組など、まず実現は不可能だと思っていました。 というのも、30分という枠で番組を持つには莫大な予算がかかってしまうのです。 これは単にお金という問題だけでなく、私がこれに取られる時間もありますし、それに関連したもろもろのコストもあり、まず無理であろうと思っていました。 しかし、Kさんはジローとすでに企画書を作っており、なんと帰京後すぐに私の上司にこの話を持っていったのです。 その3へ続く