「椿が?」
意外そうに鷹丸は聞き返していた。
「はい。今朝から体調が悪いと……」
肯いた由良の表情は微かに曇っている。
ここ数回の例によって、信乃のひとり働きといえる結果に終った討伐から一夜が明けて。
いつものように椿と由良の鍛錬に立ち会おうと、鷹丸が館の裏に来れば、そこに二人の姿はなく。遅れて現れた由良が、椿は自室で伏せっていると告げたのだった。
「そうか。椿がな」
意外と感じたのは、いままで一度たりとてそのようなことがなかったからだが。
すぐに、無理もないかという思いがわきあがってきた。
もともと日々の研鑽には一切の妥協がなかった椿だが。ここ最近──信乃に討伐の主役の座を奪われて以来──の過熱ぶりには明らかに逸脱の気味があった。実際、鷹丸は幾度か「そのようなことを続けていては、いくら頑強な体でも無理がかかる」と忠告したのだったが。椿は聞き入れなかった。苛酷な修練でその肉体を苛めぬいた。そうすることだけが、現在の苦境を脱する唯一の手立てだと頑なに信じこんだ顔で。
言わぬことではない、と胸中に呟いた鷹丸だったが。苦い苛立ちは、椿を止めることが出来なかった自分に対するものだった。己の不甲斐なさ、有する“力”の不足がすべての根源なのだという自覚のために、断固として椿を制することが出来なかった。
「……とにかく。見舞うとするか」
波立つ感情を押さえ、椿のもとに向かおうとした鷹丸だったが。由良がそれを止めた。
「鷹丸さまに、みっともない姿を見せたくはない、と」
「……そうか」
申し訳なさそうに由良が伝えた椿の言上に、嘆息まじりに鷹丸は答えた。
水臭いことを、と感じたが。椿ならそういうだろうとの得心もあった。
不調は体に蓄積した疲労だげが原因ではないはずだった。精神的なものが大であるに違いないのだ。
昨夜の今日、だ。またも不首尾に終わった討伐の翌日、ついに限界を越えたように寝付いてしまった姿など見せたくはないという椿の思いは理解できた。多分、様子を見に行った由良も早々に追い返されたに違いない。
ひとりの部屋で、いまなにを思って時を過しているものか、と椿を案ずる。しかし、その願いを無視してまで押しかけたところで、かけてやるべき言葉を持たなかった。椿を追い詰めた現状への焦燥は、鷹丸も等しく共有するものだ。
「まあ、椿にはこれでよい休養になるだろう」
せめて、そう願った。当人には不本意なことであろうが。この休息がその疲れた心身を少しでも癒してくれれば、と。
「由良も今日は休んではどうだ?」
気遣わしげな目を向けてくる由良にも、そう勧めたが。由良はかぶりをふって、
「このようなときであればこそ。次の調伏への準備はしておきたいと思います」
そういった声は、しかし淡々としていた。椿の分も、といったような気負いを見せるわけでもない。
「……そうか」
鷹丸は、改めて静かに目の前に佇む娘の顔を見つめた。
この靭さはなんなのか──と思う。
現状への焦燥、先行きへの憂慮を、由良とて感じていないはずはない。しかし、由良はその言動に、ささくれ立った心裡を覗かせることがなかった。
椿の過酷な鍛錬に黙って付き合いながら、その逸脱に巻き込まれることはなかった。自分から止めようとはしなかったが、鷹丸に制されれば、素直に従い刀を下ろした。
昨晩、討伐のあと由良は鷹丸と同衾した。優しく穏やかなときを鷹丸と由良は過した。またしても不本意な結末に終わった討伐のことなどなかったかのように。
由良がいるから。自分はこの出口の見えない閉塞の中でも呼吸ができるのかもしれない。そう思った。
「ならば、今日は儂が付き合うとするか」
そう言って、模擬刀を手に取る。
はい、と嬉しげに由良が答えて、鷹丸の構えた刀に自らの剣を合わせた。
半刻ほど刀を交えて、鍛錬を終えた。軽く汗をかき、体を温めたという程度のものだったが。本来、すでに役目についている討女の日課であれば、このくらいが適当だと鷹丸は思う。
連れ立って、館へと戻りながら、
「由良は、やはりだいぶ腕を上げたの」
「それは、鷹丸さまが少し鈍ってしまわれたのかも」
愉しかったのだろう、由良が珍しく軽口を叩く。
朗らかな声が途絶えたのは、館の前で、ちょうど中から出てきた人影と出くわしたからだった。
「信乃……」
思わず足を止めると、信乃も立ち止まって丁寧に頭を下げた。
奇妙な間合になる。信乃が玄馬の下に移ってから、討伐のとき以外には顔を合わせる機会がなかった。
「どうしたのだ? 今日は」
とりあえず、鷹丸は訊いた。
「昨晩はこちらの部屋で寝みましたので……」
目線を伏せ、静かな声で信乃は答えた。
「ああ、そうだったのか」
館内に与えられた信乃の私室はそのままに置かれている。であれば、信乃がそこを使うことに支障はない。
この頃の信乃は玄馬と起居する離れ小屋からほとんど出てこないと聞いていたが。たまには、ひとりで過したいときもあるのだろう、と合点する。
いまの信乃と玄馬がどのような疎通を持ち、平素どんなふうに暮らしているのか、鷹丸は知らぬ。知りたいとも思わない。
ただ、短い言葉を交わす間にも、改めて信乃の変容は感じとれた。
しっとりと落ち着いた物腰は、急に幾つか年を取ったように大人びて、以前のおどおどと気弱な色は消えていた。いつも鷹丸に向けられていた、甘えかかりたいと遠慮がちに訴えるような視線もいまはない。
「それでは……」
信乃はまた恭しく頭を下げると、歩き出した。
「あ、ああ」
気詰まりな対話から解放されて、ほっと息をつきながら、鷹丸は信乃の後ろ姿を見送った。玄馬と暮らす小屋へと戻っていく姿を。
慇懃な信乃の態度は頭領である鷹丸への敬いを示したものだとはいえた。
しかし、信乃がもう自分の討女ではないのだという事実を、鷹丸はこの束の間の邂逅の中で改めて思い知った気になった。あれは自分の知っている、おとなしく気の優しい信乃という娘ではなかった。
軽く頭をふって、踵をかえす。由良を促して館に入ろうとすると。
由良は、なにか腑に落ちないといった顔で考えこんでいた。鷹丸の視線に気づいて、
「……信乃は、昨日はいつものように、あの小屋へ帰っていったのですけれど」
「一度戻ってから、また出てきたのだろう?」
別におかしなこととは鷹丸は思わなかった。討伐にもその後の評定にも顔を出さない玄馬に、一応の報告をするために戻ったのかもしれず。或るいは、なにか玄馬と揉めるようなことがあって、飛び出してきたというようないきさつも考えられる。いずれにしろ、気にかけるようなことではないと思えた。どうでもいいことだと。
前夜の信乃が、小屋から離れていなければならなかった本当の理由など。このときの鷹丸には知る由もなかった。
その翌日も椿の体調は回復せず、終日部屋から出てこなかった。
明日も同様であれば、椿の意思がどうあれひと目会って容態を確認せねばならぬ、と鷹丸が思い定めていた宵の刻、鬼の襲来が告げられた。
もとより鬼の出現にはなんの規則性もない。季節も天候も月の満ち欠けも関係なく、定まった周期はない。ひと月に十度も現れることもあれば、十日以上も間が開くこともあった。だからこそ御漉衆は常に迎撃の気構えを崩すことはない。
(──そうとはいえ。なにもこんな時に)
と、手早く身支度を整えながら鷹丸が心中に呟かずにいられなかったのは、無論椿の不調のことがあるからだった。
しかし、出否を問い合わせるまでもなく、椿は参集の場に現れた。いつも真っ先に駆けつける彼女としては遅い登場だったが、隙なく戦装束を身にまとい愛刀を携えた様は、いつも通りの凛々しい討女の姿だった。
「椿、よいのか?」
気遣う鷹丸に、椿は、はい、と静かにうなずき、
「ご心配をおかけしました」
頭を下げて、集結した郎党どもの前に片膝をついている由良と信乃の隣りに並ぶ。その際、案ずるように見上げる由良に軽く肯いてみせて。ふと、由良越しに、こちらは無表情に見つめる信乃と視線があった。
数瞬、ふたりの討女は見つめあって。椿のほうから眼を逸らした。そして信乃もゆっくりと顔を戻した。
(──なんだ?)
最近は互いの存在をないようにふるまっていたふたりの無言のやりとりに、鷹丸は眉をひそめた。椿は、出動を前にして不調で伏せっていたという失態を恥じているのだろうか、と推察する。
それより、椿の扱いをどうするかだ。
その顔色や身ごなしに弱々しいところは見受けられない。出動に耐えられるほど回復したという椿自身の見立ては、まずは信じていいのだろう。
だが椿は前回の討伐のあと、鷹丸の精を受けていない。
であれば、以前の──あの“覚醒”した夜の──信乃の例にならって、椿には鷹丸や郎党どもと共に援け手にまわすべきなのだろうが。
しかし、椿は討女筆頭の役目にある。信乃とは(少なくともあの時点での信乃とは)立場が違う。たとえ自身が霊刀をふるえなくとも、他の討女たちの指揮を執るのが正しき務めなのだ。椿もその覚悟で出てきているに違いなかった。
迷いを残しながらも、鷹丸は決断した。
「椿。くれぐれも無理はするな」
「はい」
目を伏せたまま、静かな声で椿は答えた。やはり常の椿ではなかった。抑えきれぬ血気の逸り、が窺えない。それが自身の状態に即した自重のあらわれならば、まずは安堵すべきなのかもしれないが。
つまるところ、自分はこれ以上椿の矜持を傷つけたくないだけではないか? と鷹丸は苦く自問しながら、椿の隣りに並んだふたりの討女に眼を移した。
「信乃、由良、頼むぞ」
はい、とふたりの討女は答えた。由良はきっぱりとした強い声で、信乃は低く静かな声で。
頼む、とふたりに掛けた言葉は真情からのものだが。本音としては、信乃の働きをより強く頼りとしている。ここ数回の討伐と同様に、信乃の耀く霊刀が一太刀で鬼の首級を落とすことを期待していた。
信乃がもはや“自分の”討女ではないことに、いまは拘泥すべきではないと思った。不充分な態勢で討伐に臨む女たちの危険が、それで減じるのならば。自分の感情など取り合うべきものではないと。
いずれにしろ、いまは屈託や懊悩にとらわれている暇もないと。配下の者どもに号令しながら。鷹丸の心は、自分でも意識せぬうちに、また少し磨耗していた。
由良と信乃が鬼の巨躯を前後から挟むかたちで位置をとっている。
椿は少し離れた位置で戦況を見守る形になっていた。
戦闘の開始から、すでに幾ばくかの時が経過している。
円陣に争闘を取り囲んだ郎党どもの気配が、ざわめきを含みはじめた。
鷹丸もまた徐々に大きくなる困惑とともに、戦況を眺めていた。
信乃が動かぬ。
──ここ数回の討伐のお定まりの成り行きは。椿と由良が連携して鬼に攻勢を加え、しかし斃しきることが出来ず。疲弊によって攻撃が緩んだとき、おもむろに進み出た信乃が一刀のもとに鬼を屠るというものだった。だがそれは、なにも信乃が勿体をつけているということではないと鷹丸は見てとっていた。椿の主導する戦いぶりが、由良だけを補助役として信乃の存在を無視したものであるため、その狂的に激しい攻勢が一息つくまで手をだしかねている、というふうに見えていた。……奮闘する同輩たちを見つめる信乃の気配に“気のすむまで、やらせておく”という冷ややかさが窺えないでもなかったけれど。
しかし、今日は事情が違う。ひとり離れた椿は、戦闘には加わっていない。
そして由良の戦いぶりは、はっきりと、久しぶりに連携を組む信乃の動きを想定したものだ。自身の動きで鬼の注意を引き、作り出した隙に信乃が必殺の斬撃を見舞うことを期待したものだった。内心の思いはどうあれ、今夜のこの状況で最も有効と思われる戦術を選択した由良の動きは的確なもので、意図したとおりの好機をすでに幾度か作り出していた。
なのに、肝心の信乃が動こうとしない。
構えた霊刀は今宵も幽玄な光を放っているが。その刃は、まだ一度も鬼の躰に触れてもいなかった。
いまもまた、飛びかかった由良の一撃を受け、その肩から血飛沫を上げて苦痛の咆哮を張り上げた鬼の、無防備な背が向けられているのに。信乃は攻撃を加えようとしなかった。
慎重になっている、のとは明らかに違う。強大な“力”を得てからの信乃は、反撃されることなど端から想定もしていないというような放胆さで鬼に近づき、無造作に斬り伏せてきたのだ。
何故、信乃は動こうとしない?
怒り狂った鬼の手をかわして、後方に跳び退った由良が困惑した視線を信乃に、次いで椿に向けた。
そう、椿は何故なにも言わないのか。明らかにおかしな信乃の挙動を責めず、どころか戦闘が始まってから、ただの一言も言葉を発しようともしないのは何故なのか。
じっと動きを止めた椿の背姿に視線を移して。
そして鷹丸は既視の感覚に襲われた。
……何故、椿は、刀を抜かない?
低く重心を落として、腰の愛刀の柄に手をかけたままで。いまだそれを抜き放たずにいるのは何故なのか。
どくん、と鼓動が跳ねる。
重なるのは、あの夜の信乃の姿。鞘に収めたままの霊刀を手に、ふらふらと吸い寄せられるように鬼に近づいていった。
そして、愕然と見守る鷹丸の眼前で、事態は、ほんの些細な差異をふくみながら、記憶と同様の経緯を辿りはじめる。
「……ぅああっ」
低く軋るようなうめきを発した椿の肩に、ぐっと気合がこもって。
突如、椿は走りはじめる。鬼へと向かって。走りながら刀を抜き放ち、鞘を投げ捨てる。
かざした刀身が耀く。信乃の霊刀をしのぐ眩い光を放って。
「あああああああっ」
怒号のような叫びを放った椿の体が宙に跳ぶ。高く。
大上段にふりかぶった耀く霊刀を叩きつけるように振り下ろした。
血飛沫が噴き上がり、鬼の咆哮が轟く。断末魔の叫びは短く、すぐに途絶えた。
脳天に振り下ろされた椿の刀は、鬼の巨大な顔を両断し、喉下まで食い込んで止まっていた。
赤い奔流を浴びながら、椿は両脚で鬼の胸板を蹴り、跳びすさった。
低い姿勢で地に降り立った椿の前方で、すでに生なき巨躯がゆらりと揺れ。そして、どうと倒れ伏した。かち割られた頭蓋から鮮血と脳漿をこぼしながら。
静寂。
ふらり、と鷹丸は歩を踏み出した。その顔は紙のように白い。
おぼつかぬ足取りで鷹丸は、血に濡れた霊刀を下げて凝然と鬼の骸を見下ろしている椿へと歩み寄った。
「……椿」
喉にからんだような声で名を呼ぶと、椿はゆっくりと顔を向けてきた。
貌の左半面が返り血に紅く彩られていた。その奇怪な化粧のせいだろうか、椿の表情は判別しがたいものになっていた。鬼の血は顔だけでなく、髪や戦装束の胸や腹までもべったりと汚していた。
鷹丸は口を開こうとした。だが、舌が固まったように、言葉が出てこない。
訊かねばならないことがある。だが、なにから訊けばいいのか、なんと訊けばいいのか。思考が上手く働かない。
「ひとまずは」
と割って入ってきたのは由良だった。対峙する鷹丸と椿の間に体を入れるようにして、
「椿に汚れを落とさせて。お話はそれからでいいのでは?」
由良は言った。庇うように鷹丸の前に立って。鷹丸を庇うように。
「……そう、か」
そうだな、と鷹丸は肯いて、
「それがよかろう。……ならば、評定も明朝ということにするか」
そう決めることで、ほんの僅かに息をついた心地になって。鷹丸は顔を上げて、沈黙のままに見守っている郎党どもに号令した。
黒衣の男たちが、討伐の始末に動き出す。静けさの底に不穏な動揺を沈めたまま。
「…………」
椿は無言で頭を下げ、踵をかえした。無言のまま帰り去った。
離れた位置から一部始終を眺めていた信乃も、そのまま去っていった。
「……わしらも戻るとしよう。ご苦労だったな、由良」
そう言って歩き出した途端に、草の根に足をとられた。由良の手が腕を掴んで、鷹丸の体を支えた。強い力で。
「……すまん。大丈夫だ」
苦笑して、態勢を直した。案ずるように離れない由良の手を軽く叩いて、
「大丈夫だ」
まだ血の気のもどらぬ蒼白い顔で、鷹丸はもう一度そう言った。
夜の中を駆ける。
行き交う人影はない。しかし、里はまだ寝静まってはいない。討伐からの引き上げが終わって、まださほどの時は過ぎていないのだ。
ならば、集落の外れを指して急ぐこの姿を誰かに見止められないとは限らない。
その意識がいっそう足取りを急いたものにさせた。里の者に見咎められ「何処へ?」と質される前に辿り着いてしまわなければと。
それは逃避の心理だ。椿は逃げている。
そして、逃げこむ先はひとつしかなかった。
濡れた髪が夜気の中に揺れる。洗い髪から、まだ血の臭いがするように思えた。湯を使い、浴びた鬼の血を洗い流したが。ゆっくりと時間をかけてそれをする余裕はなかった。追い立てられる心のまま湯に浸かることもなく湯殿を出ると、椿はそのまま人目を忍び館を抜け出したのだった。薄い寝着一枚をまとい、草履をつっかけた姿で。
暗闇の先に、目指す場所が見えてきた。里の外れの離れ小屋。
椿は足取りを緩め、弾んだ呼吸を整えた。
うら寂しい景色の中に佇む粗末な小屋の外貌を眺めれば、二日前の夜の記憶が蘇った。同じように追いつめられた心理でここまでやって来たこと。そして、その小屋の中で過した一夜の記憶が。
木戸の隙間から明りが洩れている。それに引き寄せられるように、椿はふらりと歩を進めて。
そっと伸ばした手を引き手にかけた。戸を叩き訪いを告げるという当たり前の手順は意識から抜け落ちていた。
ひとつ深い息をついて、戸を引き開けて。
そして、椿は棒立ちになった。眼前に現れた光景に。
「……おや。こんな時分に思いがけぬ客だの」
顔を向けた玄馬が云った。思いがけぬ、といいながら驚いたようすはない。予期していたといったふうに。
玄馬は寝間着を肩にかけた姿で布団の上に立っていた。腕を組んで仁王立ちだ。
その足元に信乃が跪いている。
信乃は上半身は戦装束のままだが、腰から下は裸だった。白い臀をもたげた膝立ちの姿で、信乃は前をはだけた玄馬の股間に顔を埋めていた。握りしめた玄馬の摩羅に口を寄せ舌を這わせていた。
信乃が視線を流して、茫然と立ちすくむ椿を見やった。とろりと淫蕩な色を浮かべた眸に見すえられて、椿は思わず眼を逸らした。信乃の淫猥な行為に眼を奪われていた己に気づいて、頬を熱くした。
「まずは戸を閉めてくれぬか。こんな場所とはいえ、開けっぴろげにも出来ぬでな」
玄馬の言葉に、椿は“あっ”と、自分こそ人目を忍ぶ立場であることを思い出し、慌てて小屋の内に身を入れ戸を閉めた。
「…………」
戸を閉めた自分の手を見下ろしたまま、動きが止まる。あまりに意想外な光景を見せつけられ、この後どうしていいのかわからない。顔を戻すことさえ憚られるのだ。
「聞いたが。見事、鬼を仕留めたそうだの」
めでたいことだ、と玄馬は言った。その口調はまったく平然としたものだが。しかし、顔を背けた椿に伝わってくる気配に変化はない。隠微な唾音も聞こえてくる。淫らな奉仕を信乃に続けさせながら、玄馬は会話をしかけるのだ。まるで平気な調子で。
どこまで恥知らずなやつか、と。胸中にわく思いを、しかし椿はそのまま声にすることが出来ない。
「それで儂に報告に来たのか? 椿は律義じゃの」
笑い含みに玄馬は言って。そんなことではない、とやはり言葉にすることが出来ない椿に、
「だがのう。少し、面倒な成り行きになっておるようだの」
と、口調を変えて続けた。
「椿、おぬし、この二日は不調といって部屋にこもっていたそうだの。であれば、鷹丸さまの閨にもいかなかったのであろう?」
「…………」
「何故、鷹丸さまに抱かれなかった?」
「…………」
椿は答えられなかった。
明確な答えが椿自身の中になかったからだ。
あの夜。夜明けまで椿を犯しぬき、溢れるほど多量の精を注ぎこんで。
未明の頃、腰が砕け足元のおぼつかぬ椿を送り出す際に、玄馬はそう忠告していた。次の務めまでに鷹丸に抱かれ、その精を受けておけと。
もとより秘密裏のうちにしておかねばならぬ玄馬との行為。言われるまでもなく、椿はそうすべきだった。そのはずだった。
しかし、椿はその手順を果たさなかった。
「鷹丸さまの精を受けることで、儂の精の効果がなくなると思ったか。案ずる必要はないと言ったはずだが」
確かに玄馬はそう請け負っていた。玄馬とて試したことはなく、であれば確証もないはずだったが。絶対の自信をこめて、そう言い切っていた。儂の精は鷹丸さまには負けぬ、と。
確証のないはずのその断言を、しかし椿も信じた。幾度となく胎内に注がれた玄馬の精汁の、その夥しさ、その濃厚さ、その熱が。なによりそれを体奥で受けとめたときの壮絶なほどの至福の感覚が、椿に信じこませた。この精が与える“力”は、討魔の業として解放されるまで決して消え去ることはないものだと。
だから、せっかく手に入れた“力”の損なわれることを怖れて、鷹丸との情交を避けたわけではなかったのだ。
椿は改めて己が心象を辿った。
玄馬に抱かれた翌日。終日床に伏せったことは、偽りではなかった。重たい疲労と体の節々に残る痛み。とても起き出して普段どおりの生活を送るなど無理だった。様子を見に来た由良に不調を告げて早々に追い返したあとは、食事もとらず昏々と眠った。眠りは深かったが、時折なにかひどく生々しい夢にうなされるようだった。幾度か目覚めたときには、べっとりと寝汗をかいていて、寝着を換えねばならなかった。
それでも、本来の強靭さのゆえか、夜になる頃にはだいぶ回復していた。軽く食事もとった。
そして、このとき椿は、自分の果たすべきことを思い出していた。ようよう回復した体を起して、鷹丸の部屋へと向かうこと。予定通りに伽番を勤めて、鷹丸の精を受けること。
すぐにも、明晩にでも鬼の襲来の可能性がある以上、必ず椿はそれを果たさねばならないはずだった。玄馬との行為を、自分の犯した不義を糊塗するためには。
しかし椿は動き出そうとはしなかった。
このままでは取り返しのつかない事態に追いこまれると正確に理解しながら、鷹丸の部屋に向かおうとはしなかった。
出来るはずがないと思った。体力は回復しても、総身には前夜の余韻がまざまざと残っている。四肢には甘い気だるさが絡みつき、腰は重かった。女陰はじくじくとした疼痛を孕み、胎奥はいまだ玄馬の欲望の余熱を宿しているように感じられた。
そんな状態を隠して、なにくわぬ顔で鷹丸に抱かれるなど。そんな非道な裏切りだけは犯すことが出来ないと思った。
その翌日も、まだ鷹丸と顔を合わせる勇気はわかず、病人のふりで部屋にこもった。
懊悩と煩悶の中、じりじりと時が過ぎて、宵闇が訪れた頃、鬼の襲来が伝えられた。
そのまま討伐に参加しない、という道をまったく考えないでもなかった。決定的な瞬間を先延ばしにして、未来に修正の余地を残すことを。
しかし、椿は短い逡巡のあと、戦仕度を整えはじめた。馴染んだ装束を身にまとい、刀を取り上げた。愛刀を手にした瞬間、ぞくりと身の内で戦慄いた気がした。
二日ぶりの鷹丸との対面には懸命に平静を装わねばならなかった。正面から眼を見ることは出来なかった。
信乃と眼が合ったとき、その冷ややかに観察してくるような眼色に、彼女が事実を知っていることを悟った。気弱く視線を逸らしながら、“あぁ……”と胸中に慨嘆していた。やはり、破綻はすぐそこまで迫っているのだと。
討伐の場で鬼と対峙したとき、椿は玄馬から与えられた“力”が本物であることを知った。滅すべき対象と遭遇した霊刀から凄まじいほどの“気”が伝わって、柄を握りしめた椿の腕を痺れさせた。
それでも、“力”の解放を求めて唸る愛刀を抜き放つことを椿がためらったのは、未練のためだった。
これまでの自分、正統な討女として生き、ただひとりの主に忠誠と思慕を捧げてきた日々。不器用に育んできた鷹丸との関係への未練が、椿をためらわせた。
しかし、霊刀から溢れ出す波動、それに感応して椿の体内で荒れ狂う戦いへの衝動は、そんな感傷で抗えるものではなかった。
ついに椿は愛刀を抜いた。そして、その瞬間から意識は滅殺への意志だけに塗りつぶされた。
鬼へと駆け寄り、跳び、刀をふるった。光を放った霊刀は、あまりにも易々と鬼の頭を割った。その刹那の総身の血が沸き立つような歓喜の情感は、いまも椿の記憶にまざまざと残っている。
だが、長く待ち望んだはずの歓びは、すぐに冷めてしまった。
掠れた声で名を呼ばれ、鬼の血に汚れた顔を上げて鷹丸と対峙した。
蒼ざめた鷹丸の表情は、すべてを理解したことを告げていた。
──終わった。そう思った。
何故か、ひどく静かな心で、あのときの椿は訣別を受け容れてしまっていた──。
「……まあ、いまさら済んでしまったことを言うても仕方がないが。さて、どうしたものかの」
玄馬の言葉が耳に届いた。顔を背けたまま答えようとしない椿に、埒があかぬというふうに、ひとりで話を進める。
「……以前に、鷹丸さまから授かった精が、今宵になって“力”を発揮した──というのは、ちと無理があるか」
ぶつぶつと呟くのは、どうやって椿の“不義”を誤魔化すかという算段だった。どこまで本気なのか、わからないが。
「──とてものこと」
と、答えたのは信乃だった。
熱心に舐めしゃぶっていた玄馬の逸物から口を離し、上目遣いに見上げて、
「そのような誤魔化しが通じるような、そんなさまではありませんでした」
「ほう。そんなにも凄まじかったか?」
「はい。椿ほどの手練れが玄馬さまの御力を授かれば、これほどの強さになるものかと。見ていて、身震いしてしまうほど」
「ほうほう。それは儂も見てみたかったの。今宵ばかりはやはり見物に出向くべきだった。惜しいことをしたわ」
「それに。椿が鬼を斃したあとの鷹丸さまの顔色は、もうすべてをお察しになったものと」
「そうか」
ふうむ、と玄馬は大仰に嘆息して、
「これは、明朝の評定は荒れるの。……どうする? 椿」
「…………」
椿は眼を伏せたまま、のろのろと顔を向けた。
どうする、と問われても、やはり答えようはない。どうしていいかわからず、ここに逃げこんできたのだ。
椿を向き直らせたのは、今しがたのふたりのやりとりだった。そこでの信乃の態度だ。
甘い媚びを湛えた声音。“玄馬さま”と呼び、その“力”を礼賛する言葉。
いや、そんなことはまったく今更だ。
いま、そっと視線を上げて盗み見る椿の前で、信乃はまた玄馬の肉体への愛戯を再開している。隆々と頭をもたげた魁偉な肉塊に口を寄せ、赤黒い肉瘤にちろちろと舌を這わせている。その戯れかかるような舌の蠢き、野太い根元を握りしめた手指に滲む愛しげな色。もう一方の手は、重たげに垂れ下がったふぐりを捧げるように持って、やわやわと揉みたてている。
見るからに、熱情のこもった懇ろな奉仕。上気してうっとりと蕩けた横顔。
とてものこと──玄馬が言っていたような、いまだ前の主に心を残しながら、ただ“力”のため嫌々ながらに新たな男に身をゆるす女の姿とは見えなかった。
椿は、嬉しげに淫らな行為に耽る信乃に──甘い唾液に濡れた巨大な肉根に──吸い寄せられる視線を引き剥がして、玄馬を睨んだ。
「……嘘を、ついたのだな」
糾弾の言葉に、しかし強い力はこもらない。ただ、恨むように。
「さて? なんのことか」
玄馬が小首をかしげる。口許は笑みの形に歪んでいる。わかっていてとぼける顔だ。
椿は、それ以上言う気にはならなかった。“信乃がいまも鷹丸に恋着し、その妻の座を狙っている”との玄馬の言葉がまったくの偽りで、ただ椿を突き崩すための手管だった、と。今更暴いたところでなんになるのか。うかうかと騙された己が愚かさを確認するだけだ。
それに。“やはり”嘘だったか……と。すんなりと納得するのだ。いまの椿は。
「それより、明日の評定のことよ。どうする気なのだ、椿」
「…………」
また玄馬が訊いて、椿は答える言葉を持たない。
「やれやれ。では、どういうつもりでここに来たのだ?」
「……それ、は…」
逃げてきたのだ。
だが、何故逃げこむさきがここだったのか。ここしかないと思いこんでしまったのか。
言いよどむうちに、視線を感じた。
信乃がこちらを見ていた。また玄馬への奉仕を中断し、首を起こして。冷然と椿を見据えていた。
思わず身構える椿に、信乃は淫靡に濡れた唇を開いて、
「鷹丸さまは、ひどく驚いて。そして、悲しんでらしたわねえ、椿」
「…………」
「私のときとは大違い。まあ無理もないのだろうけれど」
そう言って悔しげに眉根を寄せてみせたが、それはどこか芝居がかっていた。さほど気にもしていないように。
「明日の評定だって、私のときのように簡単に落着するとは思えないわね。なにしろ、今度は討女筆頭の椿のことなんだから。役立たずの信乃の場合とは、話が違ってくるでしょうねえ」
「…………」
「だからね、椿」
うっすらと笑う。優しげに。
「貴女さえ、そのつもりなら。まだ元に戻ることは出来ると思うのよ。今度のことは、もう隠しようもないとして。正直に打ち明けて、それも務めを果たしたい一心からの勇み足であったと詫びを入れれば。貴女ならば、また鷹丸さまの下に戻ることを許されるのではないかしら」
「そうかもしれんの」
玄馬が言い、信乃は顔を上げて丁寧にうなずいて、また椿へと向き直って。
「“力”のことは、どうなるかはっきりとはわからないわね。今夜の一度かぎりで失われてしまうかもしれない。或いは、その一度が呼び水となって、これからは鷹丸さまの精でも充分な“力”をふるえるようになるかもしれない。もしそうであれば、貴女にとっては一番いい成り行きよね」
「……そんな…不確かな……」
咄嗟に椿は反駁していた。信乃の言うとおり、それが最も望ましいなりゆきであるはずなのに。
すっと信乃の眸が細められた。見透かすようなその眼に、椿はひやりとしたものを背筋に感じた。
「だからそれはわからないわ。そう願って、鷹丸さまのもとへ戻ることは出来ようという話。それで上手くいかなければ、またそのときに考えてもいいでしょうし。でも……どうやら椿は、そうなることを望んではいないようね」
「私、は……」
「いいのよ、椿」
信乃が笑みを深くする。優しげで、しかしどこか禍々しい笑顔。椿が見たことのない貌だった。
かつては未熟者と見下し、のちには裏切りによって不当な力を得た女と蔑みながら瞋恚を向けていた年下の同輩が、いまはその表情と声だけで椿に息苦しいような圧迫を与えて。
「貴女はひどく戸惑っていて。自分の本当の心もわからなくなっている」
だから、と信乃は続けた。託宣を告げるように。
「私が教えてあげる」
「……なにを、」
言うのかと、ようよう反発する意識を覚える。教える? 自分の心、本心を? 何故、おまえが。
「わかるのよ。私には」
信乃が言う。揺るがぬ確信をこめて。
「どうして貴女が鷹丸さまの閨に行かなかったか。本当はそうするつもりでいたのでしょう? 何食わぬ顔で鷹丸さまの精を頂いて、それで玄馬さまとのことは隠しおおすつもりだったのでしょう?」
「…………」
椿は言葉に詰まる。改めて突きつけられれば、あまりに卑劣な心算だったと己を恥じずにはいられない。追い詰められた心を、さらに玄馬の弁舌に惑わされてのこととはいえ。
「ふふ、そんな顔をしなくてもいいのよ。貴女も辛かったのよね? 討女筆頭という立場の苦しみ、この信乃にも察することくらいは出来るわ」
優しく諭すように信乃は言い、椿は唇を噛みしめる。かつてその行動を恥知らずな裏切りと詰った仕返しをされているように感じながら、いまは甘んじてそれを受けるしかない椿だった。
「その立場のゆえに貴女は“力”を求め、その立場なればこそ決して犯した罪を知られることは出来ない。そのはずだった。なのに貴女は事実を糊塗するためのことを果たさず、自らを抜き差しならぬ状況へ追いこんだ」
椿の行動の矛盾を突いて、しかし信乃は理解を示すように肯いてみせる、
「わかるわ。とても出来なかったのよね。何事もなかったように鷹丸さまに抱かれることなど」
そう言って、信乃は掴みしめたままの玄馬の屹立へと視線を流して、
「──もし。この小屋で過した夜のことが。これまでの貴女が識っていたのと変らぬものであったなら。隠しおおすことも出来たでしょうにねえ。そうは思わない? 椿」
「…………」
そうかもしれない、と思ってしまった。
実際にそんなつもりだったのだ。強大な“力”への希求を抑えきれず、一度かぎり玄馬に身をゆだねるつもりでこの小屋を訪れたときの自分は。行為のさなかでは汚辱を、事後は鷹丸への罪の意識を耐え忍べばよいものと。そう思いこんでいた。
そんな浅はかな覚悟を、玄馬によって粉々にされてしまったのだ。
「──けれど、ね」
椿へと視線を戻した信乃が、薄笑みを浮かべて言った。
「それだけではないと思うのよ」
「…………」
僅かに細めた眼を見返す椿の瞳が揺れる。恐れ怯えながら、信乃の言葉の先を待った。
「露見を怖れる心とは別に、鷹丸さまに肌身をゆるすことを厭う気持ちがあったのではなくて?}
「……馬鹿、な」
しぼり出すように椿は呟いた。
ドキリと鼓動が跳ねるのを感じていた。
「そうかしら?」
「な、何故、私が鷹丸さまを、」
「討女は、ただひとりの主に身も心も捧げつくすものだからよ」
「なっ……」
絶句する椿に、信乃は不意に笑声を上げて、
「ねえ、椿、気づいている? 先ほどから貴女、この私の手の中にある逞しいものを、しきりに気にして。ちらちらと盗み見て。どんな目色になっているか、わかっている?」
「……っ!?」
かあっと頬に熱が昇るのを感じた。羞恥を感じたのは信乃の言通り“盗み見て”いたことを自覚してしまったからだ。信乃と目を合わせながら視野の隅に、繊手に握られた魁偉な肉塊を捉えていた。その、自分の目色までは椿には解らない。いったい、どんな感情を浮かべていたというのか。
「遠慮することはないわ。いまさら、でしょう? とくと見るがいいわ」
「…………」
信乃の声に促され、一度は逸らした椿の視線は逡巡しながら、また舞い戻ってしまう。
信乃が長く伸ばした舌を剛直へと這わせていた。舌先の蠢きは明らかに見せつける意識がこもって。信乃の面持ちは淫蕩に緩み、流し目に椿を見やる瞳はとろめいていた。
「……汚らわしい…」
椿は呟いた。
無論、椿には一度も経験のない行為だ。そんな不浄の場所に口舌を触れさせるなど、椿の常識の埒外なことだった。
なのに、吐き捨てた言葉に、さほども強い忌避や嫌悪の感情はこもらなかった。愉しげに踊る信乃の舌から視線を外すことが出来なかった。胸にわいたのは、いま信乃はどんな心地を味わうのだろう、という思考だった。あんなにも陶然と、愛しげに。
ああ、と感に堪えた声を信乃が洩らす。視線を傲然と佇む玄馬の顔へと移して、
「今宵も、ほんとうに逞しゅうございます、玄馬さま。こうしているだけで、信乃は」
切なげに細い腰がうねり、浮かせた裸の臀が揺れる。
玄馬は薄笑いをうかべて、無言で見下ろしている。うっとりとそれを見上げて、信乃は堪えられぬといったふうに、行為に熱をこめていく。唾液にまみれ淫猥に照り輝く矛先に吸いつき、張り出した肉傘に舌を絡める。茎根を握りしめた手は、その野太さ硬さを確かめるようにしながら、ゆるやかな扱きを続ける。行為のひとつひとつが玄馬の凶暴なまでの肉体の特徴をなぞっている。
こく、と唾を呑む音を椿は聞いた。自分の喉が鳴らした音だった。
記憶が──呼び起こされる。まざまざと甦る。見せつけられる信乃の淫戯によって。
赤黒い先端部をちろちろと舌先でくすぐりながら、信乃が伸ばした一指で剛茎の上側をなぞった。
「……龍紋」
呟いた言葉どおり、信乃の指先はぶくりと浮き上がった血の色の紋様を撫でている。
「龍紋は、御漉の“力”の証。我ら討女の主たる御方が持つ御印。……そうだったわね?」
視線を椿に戻して訊いた。椿は答えることが出来ない。
「信乃が」
代わって口を開いたのは玄馬だった。
「そんなにありがたがるのは、これで盛(さか)った肉壺の中を擦られるのが堪らぬからであろう」
下品な言いようで決めつけられ、しかし信乃は否定しない。
「ええ。ほんとうに堪らぬ心地にさせてくれますもの。愛おしいこと」
淫蕩な笑みを浮かべて肯き、その愛しい膨れだちに口づけしてみせる。
そして、そんな狎れあったようなやりとりによって、椿も思い出さされるのだった。玄馬の“龍紋”が我が身に与えた狂おしい感覚を。信乃の言う“堪らぬ心地”を。
「信乃の素晴らしい主さま。鬼を討つための強い“力”を与えてくださった。女としての悦びを教えてくださった」
崇拝の眼で玄馬を見上げた信乃が、謳うように口にする礼賛の言葉が耳に届く。するりと入りこんで胸に落ちていく。撥ねのけることが出来ない。
そして、愛しい主の肉体から名残り惜しげに口を離した信乃が、ゆっくりと椿へと顔を向ける。
その眼に見据えられて、椿は追いつめられた心地になった。
「──もう一度言うけれど」
信乃が言う。
「貴女がそのつもりなら、まだ鷹丸さまのもとへ戻ることも出来るでしょう。椿、あなたが本当にそれを望むのなら」
「……私、は…」
「どうするの?」
「……私…は…」
椿の震える声が途切れる。
しばし、沈黙が閉ざした。
ふっと、信乃が笑う。
「玄馬さまは、貴女を迎え入れてもよいとお考えなの。私は……正直、妬心を覚えないでもないけれど。主さまの御意向に従うだけ」
さあ、と片手をかざした。
「こちらにおいでなさい、椿」
──おずおずと伸ばした手。
震える指先が触れた瞬間、思わずびくりと引きかけるのを、信乃の手が押さえる。
「しっかりと握るのよ」
耳に吹きこむように教唆され、手首を掴まれた手をそれへと押しつけられる。
再び指先に触れた肉塊の熱さと硬さに息を呑みながら、怖々と指を回して握りしめた。
掌によりはっきりと感じる熱さと、指が回りきらぬ図太さに、知らず熱い息をこぼしていた。
「逞しいでしょう?」
信乃の問いかけに、上の空のまま微かな肯きをかえしていた。
本当に、なんという雄々しさかと、眼前に屹立する魁偉な肉体を見つめた。
その長大さ、ごつごつと節くれ立ち巨大な肉傘を広げた禍々しい形状。すべての特徴が、椿にとって唯一の比較の対象である鷹丸のそれとはかけ離れている。違っていることを、こうしてそば近く眺め、手にとることで改めて思い知らされるのだった。
(……こんなものを?)
自分の躰は受け容れたのか、と。今更に信じられぬ思いがわき。その思考が先夜の壮絶な体験を呼び起こせば、じんと背筋が痺れ、胸苦しいような心地が生じた。無意識にうちに屹立を握りしめた手に力がこもって、弾き返すような硬度と脈動を感じると、胸奥の熱さはさらに高まって、固い唾を呑み下した。
「思い出しているのね」
「……っ!?」
笑い含みの声で信乃に言われ、かっと羞恥に頬が灼けた。どんな表情を目色を晒してしまっていたのかと。
そして、上目遣いに玄馬の顔を窺っていた。
横柄に腕を組んだ姿勢のまま、玄馬は冷笑を浮かべて見下ろしている。
そう、玄馬が見下ろしている。椿はその足下に跪いている。
ほんの数日前なら絶対に受け容れられなかったはずの状況。その転倒ぶりを自覚しながら、耐え難い屈辱とは感じられない自分に椿は気づく。胸にわくのは、ただ切ない情感のみ。
(……私は……もう…)
「いいのよ」
優しく言い諭すような信乃の声が耳に届く。
「いまさら恥じることはない。とくと思い出せばいいのよ。この玄馬さまの逞しい摩羅に貫かれて、よがり泣いたときのことを。討女だとか御漉の務めだとか、余計な構えをすべて剥ぎ取られて、剥き身の女の姿を曝け出したときのことを。その歓びを」
「…………」
「また、いくらでも味あわせていただけるのだから。貴女が忠実に玄馬さまに尽くせば。身も心も捧げて、新たな主さまに御仕えすれば」
「……また…」
あの夜の体験を。あの──快楽を。いくらでも。
「そうするために。そうなりたくて、今夜貴女はここに来たのだから。そうでしょう? 椿」
「…………」
「ほら、こうして」
信乃が玄馬の肉体に顔を寄せる。紅唇を開き、伸ばした舌をねっとりと這わせはじめる。
懇ろな奉仕のさまを、今度は至近の距離から椿は見せつけられた。愛しみをこめて蠢く信乃の舌先から、新たな唾液を塗りこめられててらてらと卑猥に照り光る巨大な肉瘤から一秒たりとも目を離すことが出来なかった。しきりに生唾がわいて、何度も喉を鳴らした。
やがて、顔を起こした信乃に「さあ」と促されれば、ごく自然に体が前にのめっていた。
顔を近づけると、鼻に感じる臭気が強くなる。いままで嗅いだことのない強い牡の精臭。まぶされた信乃の唾の匂いと相まって、より鼻をつくその異臭を厭わしいとは感じず、無意識に深く吸いこんで、じんと脳髄を痺れさせながら、椿は震える舌先を伸ばした。
ぴとりと、粘質の肉感が舌に触れた刹那、びりりと衝撃が走って、腰を震わせていた。初めて、椿の口舌は男の肉体を味わった。
おう、と。頭上で玄馬が感に堪えた声を洩らした。それは、あの椿についに口舌の奉仕をさせる、という感慨からのものであったろうが。男のその率直な声が、未知の行為に挑む椿を勢いづかせる。
おずおずと始められた口舌の奉仕が、すぐに激しさを増していった。見せつけられた信乃の動きをなぞって、椿はぎゅっと握りしめた長大な肉塊を、卑猥な唾音をたてて夢中で舐めしゃぶった。舌で感じる玄馬の肉体の凶悪な特徴が椿の情感を煽り、舐めしゃぶるほどに強くなるように感じられる味と臭いが昂奮を掻き立てて、いっそう行為を熱烈なものにしていく。
「ほほ。椿ったら、こんなに夢中になって」
無我夢中といったていで行為に耽溺する椿を笑って、信乃は玄馬を振り仰ぎ、
「いかがです? 椿のはじめての奉仕は」
「ふふ。あの椿にこんなことをさせていると思えば気分はよいが。技巧のほうは、これからかの」
「それは玄馬さまのお仕込み次第。私のときのように。でも、椿はすぐに上達しますわ。こんなに玄馬さまの摩羅が気に入った様子ですもの」
「そうかの。では、仕込みの第一といくか。少し椿の躰を暖めてやれ」
「心得ました」
阿吽の呼吸で肯き、信乃は位置を移す。椿の後ろにまわって、浮かせた腰から着物をまくりあげた。
「……っ!? な、なにをっ」
「椿はそのまま続けておれ」
驚いて振り向きかける椿の頭を玄馬が掴んで、無理やり戻させる。そして、椿の口内へと剛直を突きこんだ。
いきなり長大な肉根を咥えさせられ、椿が苦鳴に喉を震わせる。それに構わず玄馬はぐいと腰を送りこんで、乱暴に髪を掴んで動きを封じた椿の口を犯しながら、
「ほれ、吸いたてろ。舌を使え」
「…んふ…ぐ……んぐっ」
苦しげに喉を鳴らし、苦悶の貌で玄馬の目を愉しませながら、やがてたどたどしくも指示どおりに舌を蠢かせはじめる椿。その背後で、
「まあ、椿。もうこんなになって」
裸に剥いた椿の臀の中心、秘裂の奥を覗きこんだ信乃が、大仰な驚嘆の声を上げる。しかし言いようは大袈裟でも形容は偽りではなかった。玄馬と信乃の淫らな戯れを見せつけられ、はじめて口舌に男の肉体を味わう椿の女陰はしとどに濡れそぼっていた。
その有り様を自覚する椿が、苦鳴に羞恥の呻きをまじえて、裸の臀を恥ずかしげにうちふる。
形よく張りつめた臀丘の肌をつるりと撫でた信乃が、片手を秘裂へと差しこむ。濡れにまみれて解れた肉弁にそっと触れて、椿をヒッと鳴かせながら、
「本当にべと濡れになっているじゃあないの。もう内腿まで溢れさせて」
「確かに、椿は汁気が多かったの。その点では信乃以上かもしれん」
「ええ。いくら私でも、躰に触られもしないうちから、こうは濡らしませんわ」
頭越しに交わされる会話が、椿を身も世もない羞恥に悶えさせる。きつく閉じた目尻に涙が滲んだ。
ヒイッ、と。椿が玄馬の剛直を吐き出して喉を反らしたのは、信乃の指が女陰の中へと挿し込まれたからだった。
「い、いやぁっ」
「そういうわりには、易々と呑みこんでいくじゃあないの」
「や、やめ──んぐっ」
拒絶の声は再び口内へと押し込まれた剛直によって遮られる。
「熱く滾って。ひくひく震えてるわ。こんなに嬉しそうに喰いしめて」
ずぶずぶと、揃えた二指を根元まで埋めて、熱っぽい声音で信乃が評する。
「実際、具合のいいホトだったのう」
「まあ。さすがは討女筆頭ということでしょうか」
玄馬の述懐にそう返した信乃の声は、揶揄の底に瞋恚の響きを帯びて。
挿しこんだ指の動きが激しくなる。じゅぷじゅぷと溜めこんだ淫蜜を掻き出すように椿の滾った女陰を擦り、鉤状に曲げた指先で爛れた肉襞を引っ掻いた。
椿が塞がれた喉の奥で悲鳴をふりしぼる。腰がのたくり、剥き身の臀が悶えた。
同性の手で嬲られることへの嫌悪など、すぐに霧消してしまった。責める信乃の技巧がどうのより、椿の肉体自体が鋭敏になりすぎている。
しばし、女の敵愾心を露にした信乃のいたぶりと、それに悶え泣く椿の姿を愉しげに眺めた玄馬が、
「尻を叩いてやれ」
「ああ、そうでしたわね」
嬉しげに応えた信乃が、ずるりと椿の中から指を引き抜いた。指先を汚した粘っこい汁を、ひくひくと震える臀肌になすりつけながら、
「椿。なんでも貴女、変わった好みらしいわねえ」
笑い含みにそう言って、椿の汗を浮かべた臀丘を撫でまわして、
「この形よく張りつめたお尻をぴしゃぴしゃ叩かれると、貴女とっても昂奮するんですってね」
「……っ!? ふ…ぐ…」
呻くように喉を鳴らした椿が、否定の意をこめて頭をふる。しかし野太いものを咥えさせられ、髪を掴まれたままの状態では、その動きは小さく。それ以前に否定に力が欠けていた。椿自身、いまだにそれだけは理解できないこと。あの夜、玄馬に腫れ上がるほどに臀を打たれ、苦痛の果て、わけのわからぬ情感に襲われて悶え啼いた自分。
「そういえば、まだ薄っすらと赤みが残っているように見えるけど」
でもねえ、と信乃は続ける。
「いくら玄馬さまの御言葉とはいえ、私には信じられないのよ。あの椿が虐められて歓ぶ女だ、なんてね。だから」
臀肌を撫で回していた手を振り上げた。
「確かめさせてもらうわ」
ぱしーん!
「ひいぐっ」
痛撃を見舞われて、椿がくぐもった悲鳴に喉を震わせる。
一瞬にして、記憶が甦る。あの夜、生まれて初めて受けた打擲。その衝撃、その感覚が。
ぱしーん!
「ふぐぅっ」
続けざまに信乃は打った。仮借ない強さで、悶える臀丘に平手を叩きつけた。
連続した尻打ちになった。
瞬く間に、椿はあの得体の知れぬ情念の底に落としこまれた。臀肌の痛苦と、あの未熟者と見下していた信乃に尻を打たれる状況が椿の狂乱を煽った。みるみる紅く染まっていく臀を悶えさせ、感泣の声を洩らし続けた。涙が溢れて止まらなかった。
信乃が意地悪く打擲の間隔をあけると、もどかしげに臀をふらずにはいられなかった。わざと軽く打たれると、物足りなさに鼻を鳴らさずにはいられなかった。無様な醜態を信乃に哂われると、血肉はいっそう滾りを強くした。
堪えきれぬ昂奮を、椿は咥えこんだ玄馬の肉体へとぶつけた。あさましく鼻を鳴らし、物狂ったような烈しさで玄馬の剛直を吸い立て舐めしゃぶった。舌に感じる肉の味が、吹き広げた鼻孔に吸う牡臭が、狂熱をいっそう高める。漲り反り返った魁偉な肉塊のすがりつきたくなるような逞しさが、脳髄を痺れさせた。
「なんて無様な姿なの、椿」
信乃が哄笑する。
「このざまを里の者が見たら、どう思うかしらね? 由良が、鷹丸さまが、那智さまが、いまの貴女の姿を見たら」
その言葉とともに、ひときわ強く打たれた刹那、椿の意識は白く発光した。
ほとんど絶頂に近い感覚が総身を貫き、ぶるぶると痙攣が走る。
「おっと」
噛まれると懸念したのか、玄馬が椿の口内から剛直を抜き出す。髪を掴んでいた手も離すと、椿の体はくたりと前のめりに突っ伏した。しどけなく開いた唇から、涎が褥へと零れた。
「あらあら」
額に汗を浮かべ、息を荒げた信乃が伏した椿の顔を覗きこむ。
「どうしたの? 椿。もう満足したのかしら」
「…………」
膜がかった椿の瞳が、のろのろと信乃を捉える。
「……っと…」
掠れた声が洩れた。
「え?」
「……もっと…打って…」
「……まあ」
嘆息して、信乃は玄馬を仰ぎ見て、
「本当に、主さまの仰るとおりでしたわ」
「……ああ」
鷹揚に肯いてみせながら、玄馬の顔には微妙な色があった。自分で仕向けたこととは言いながら、予想をはるかに上回る信乃の振る舞いに、いささか気圧されるふうだった。
「主さまの御言葉を疑うなど、信乃が間違えておりました。おゆるしを」
従順に頭を下げてみせるのに、(よく言うわい)と内心に呟く。端から疑ってなどいなかったくせに。
(……これも積年の恨みというやつかの。女は怖いの)
玄馬の述懐をよそに、信乃はまた椿へと顔を向けた。
いよいよ、仕上げにとりかかるのだ。
「もっと打たれたいと言うの? 椿。貴女のお尻、もうだいぶ赤く腫れているけれど。まだ足りないと」
「…………」
褥に頬を擦りつけたまま、椿がこくりと肯く。こちらは幼児に戻ってしまったような風情だった。
「そう。……でも、それなら、もっと言いようがあるわね」
「…………」
信乃が語気を改め、椿の瞳が不安げに揺れる。
「同じように、玄馬さまにお仕えする身になったといってもね。貴女と私では、同格ではないの。私のほうが先に玄馬さまにお仕えしているんですからね」
「…………」
「わかったかしら? それなら」
目顔で言い直しを命じると、椿はまた微かに肯いて、
「……信乃さま…」
か弱い声で、しかしはっきりとそう呼んだ。
そのときの信乃の顔はなかなかに見ものであった。冷静な表情を崩すまいとしながら、隠しがたく眼に浮かんだ満悦の感情。
一方で、椿の従順さである。素早く信乃の意をくんだのは利発さの表れだろうが。重要なのは、そこではない。
やはり、椿はそういう女なのだ──と、玄馬は内心に肯いた。
「……信乃さま、もっと、打ってください」
「そう。椿は、もっと尻を打たれて啼きたいのね」
媚びを滲ませた声で求める椿に猫撫で声で答え、優しく頬を撫でながら、しかし信乃は、
「でも、私もう疲れてしまったの。手も痛くて」
「……あぁ。そんな……」
悲しげに、本当に悲しげに椿は嘆息した。
「代わりに。もっといいものが頂けるわよ。主さまにお願いすれば」
信乃は優しく言って、椿の視線を上へと誘導する。
「ああっ」
そそり立った玄馬の雄根を捉えて、椿の眼に精彩が戻る。
やれやれ、とひとりごちながら、玄馬は精々胸を反らしてみせる。
椿が体を起こす。その態勢は玄馬の前に三つ指をついたようなかたちとなった。
わかるわね、と念を押す信乃に肯く椿の眼はまっすぐに玄馬の顔へと向かっていた。陶然として、敵意や警戒などの感情は微塵も残っていない瞳。
「玄馬さま」
躊躇なく、そう呼ばれて。
ああ、これは来るものがあるな、と玄馬は先ほどの信乃の感慨を理解した。あの椿に、ついに「玄馬さま」と呼ばせたことは。
「玄馬さま、椿に、お情けを」
「よかろう」
精一杯に重々しく頷いてやると、椿の顔はぱっと歓びに輝いた。
「椿の好みのかたちで抱いてやろう。どのようにされたい?」
「あっ、ああっ」
逸った声を洩らして、椿が動いた。考えるより先に体が動いたといったような素早さでとった姿勢は、玄馬の予測通り、四つん這いのかたちだった。信乃の打擲に紅く染まった臀を玄馬へと掲げ、ベト濡れにぬれそぼった秘裂を曝け出して。
信乃が甲斐甲斐しく、その上体に纏わりついた夜着を脱がせる。そのあとは一歩さがって、興味と昂奮と、多少の嫉妬を眼色に浮かべて、初めて実見する主と他の女の媾いを観戦する構えをとった。
待ちきれぬ、といったふうに椿の臀が揺れる。
そのくびれた腰を掴んで、ベト濡れの女陰に狙いを定めた玄馬は、そのまま一息に貫いた。
「ああっ、あっ、アアアアアーーーーっ」
狂おしい絶叫を張り上げた椿が、乱れ髪をふりたくって背筋を反らせる。一撃で絶頂に達したことを、その肉体の反応から玄馬は知った。息をつく間も与えず烈しい勢いで攻め立てる。
「ああっ、玄馬さま、玄馬さまっ」
総身に絶息の痙攣を刻みながら、椿は懸命に応えてきた。腰をうねらせ、臀をふって、苛烈な攻勢を受け止めた。
繰り返し、新たな主となった男の名を呼びながら──。
「──今後は、玄馬殿の下で働くことをお許しいただきたく」
椿はそう言った。硬く強張った声だったが、確かにそう言った。
うっ、と息を詰める気配が座を満たす。
討伐から一夜明けて開かれた評定の場には、常は見られぬ顔が加わっていた。里の古老格が数名、那智の背後に居並んでいる。
緊迫した雰囲気の中に、玄馬、信乃とともに現れた椿は。部屋の中央に並んで座した那智と鷹丸の前に平伏して、玄馬から“力”を授かったことを改めて明らかにし、勝手な行動を謝罪し、だがそれは討女としての務めを果たしたい一心からのことであったと己が思いを告げた。ひと息にそこまで言葉を連ねて、そして「願わくば」と続けたのだった。これからは玄馬の下で働きたいと。
場がざわめく。背後の古老たちがひそひそと言葉を交わす声を鷹丸は聞く。
討伐からの引き上げ後、緊急にもたれた里の上層部の会議は紛糾というには重く沈鬱な空気に支配されていた。
「まさか、椿が」という驚きの声から合議ははじまった。装束も改めぬまま座に加わった鷹丸とて、その驚愕は同じくするところだったが。くどくどと繰り返される古老たちの嘆きを聞くうちに、自身の茫然たる心地はさめていった。
そこまで信じられぬなりゆきではない、と思えた。椿は“力”を欲していた。討女筆頭という矜持、それが力量的にはるかに劣る信乃に戦果を独占され続ける屈辱の中で、強い“力”を求め懊悩し煩悶していた。そして椿の主である自分はその切なる希求に応えてやることが出来なかった。
ならば、ついに耐えかねた椿を責めることはできないと思った。
「ゆるすべきではない」という声は当然のように上がった。信乃のときとは違うと。討女筆頭たる者の軽挙をこのまま捨て置きには出来ないと。しかし、里の上層部としては当然なはずのその見解が、すぐに賛同の声を集めるでもなかった。「それはそうなのだが……」と。誰も口重たく言いよどみ、ちらちらと鷹丸の顔を窺ってきた。
古老たちの腹の中の思いを、鷹丸は正確に理解した。やはり信乃のときと同じなのだ。鷹丸のもとに戻った椿が、その凄まじい“力”を失うことを恐れている。経緯はともあれ一度は手にいれた強大な戦力の喪失と、なにより頭領の権威の失墜を。
それが解ったから、そこで鷹丸は退出することにした。結局、一言も発言しないまま。
誰も引き止めはしなかった。やはり無言で古老たちの不活発なやりとりを聞いていた那智も。
やはり最初から出席しないほうがよかったか、と思いながら。鷹丸は命じもせぬのに廊下で待っていた由良を下がらせ、ひとり私室へと戻った。
その後、会議がいつまで続いたものかは知らない。いずれ、いま椿の申し入れを受けての反応を見れば、それが時間の空費に終わったことは間違いないようだった。
横目で隣りの那智を窺う。
平伏した椿を見やる静かな横顔。しかし、その目尻や頬に憔悴と懊悩の色が滲むのを見て取った。
椿へと言葉を返そうとしないのは、那智においても未だ確固たる結論が出ていないということなのか。
無理もない。それほど問題は重大だった。
(──しかし)
鷹丸は視線を前へと戻した。
平伏した椿、その後背に少し離れて。玄馬と信乃が坐っている。玄馬は他人事のような呑気な顔で、信乃は静かな表情で、事態を眺めている。
自分の手から離れていこうとする椿。その背後に後ろだてのように座した玄馬。
そんな構図にずくりと胸が疼き、叫びだしたいような衝動がこみ上げたが。鷹丸はそれを堪えて、言葉を吐く。意地でも、落ち着いた冷静な声で。
「──椿」
「……はっ」
肩を震わせた椿が、引き攣ったような応えを返し、そしておずおずと顔を上げる。
眼が合った。おどおどと揺れる椿の瞳。見たことのない表情だった。
「玄馬の討女となるか?」
淡々と問われて。椿の貌が歪む。泣き出しそうに。
「よかろう。許す」
ざわ、と。背後の気配がどよめく。
はっと、隣りから那智の視線が突き刺さるのを感じながら、鷹丸は言葉を継いだ。
「昨夜の働き、実に見事であった。これからも御漉の討女として、しかと務めを果たすよう」
「……ははっ」
再び叩頭する椿に肯いて、視線を巡らす。古老たちが複雑な目を向けてきた。
「……那智どの」
ひそめた声で呼ぶ者があった。ここまで一言もない那智の意見を求めて。
那智は内心を探るような眼で鷹丸を見やっていたが、つと居住いを正して、
「当代のお決めになったことです。我らは従うまで」
迷いのない声で、そう言った。
しかし、評定が終わり、呼び止めた鷹丸と二人きりになって対峙すると、
「これでよかったのか……」
と、らしくもなく煮えきらぬ言葉を那智は洩らした。鷹丸を見つめる眼には案ずるような色があった。
「御漉の務めは鬼を討つこと。なれば、これが最良の選択でしょう」
やはり淡々と鷹丸は言って、ふと皮肉に口許を歪め、
「信乃のときは許して、椿は許さぬというのも、おかしな話だ」
「…………」
「それにしても、今日はらしくもなく偉そうな口をきいてしまったが」
似合わぬ自嘲的な笑みを浮かべて、
「さて、いつまで儂も頭領などと威張っていられるものか」
「なにを言うのです」
那智が語気を強める。気色ばんだ、そんな表情も珍しいものと思いつつ、鷹丸の言葉は止まらない。
「三人の討女のうち、ふたりが玄馬の預かりだ。これで頭領などと……」
こみ上げる感情に、自虐の言葉が震え途切れる。自嘲の笑みが崩れて、
「……どうしろというのかっ」
吐き捨てた呟きに真情がこもった。
「…………鷹丸」
那智が呼んだ。柔らかな、いたわりのこもった声だった。母が我が子にかける声だ。
「あなたの苦衷は察します。救ってやれぬ自分を不甲斐なく思います」
「…………」
「けれど、これだけは忘れないで。あなたは隼人さまの子。御漉の正統を継ぐ者はあなたしかいないのです」
「…………」
理屈がない、と思った。“それならば、この状況はなんなのか”という反駁も直ちに胸にわいた。
しかし、全き信頼をこめて見つめてくる母の瞳に向き合えば、そんな言葉を口には出来なくなった。
そう、那智はいま母親として自分に対しているのだ。後見役ではなく。母が子に向ける無条件な信頼と親愛だけで、苦しむ自分を支えようとするのだ。
器用な人ではないのだ、と今更に気づかされる。そんなところで、自分たちは似ているようだ。繋がっている。
暗闇は払えない。この先、どうなっていくのか。暗澹たる思いが胸を去ることはなかった。
それでも、自分には母と由良がいる、と思えた。
「……はい」
だから、今は鷹丸は素直に肯いて、深く頭を下げた。