宴がはじまって一時間ほど。すでに座はかなり乱れていた。
数日前に高校を卒業したばかりの男子が十数名、居酒屋の衝立で仕切られた個室に集い、大きな座卓を囲んでいる。
いまはすべての束縛から逃れているという解放感と、人生で最初の大きな転機を間近に控えた若者の昂揚があいまって、独特なテンションを生んでいた。はしゃぎぶりは、受験に失敗した浪人組のほうがむしろ激しい。そこには、とにかくも長く辛い戦いにひと区切りをつけた安堵があって、悲嘆ややっかみを陽性の冗談にして合格組の連中に攻勢をしかけていく。
であれば“勝ち組”の中でも最も難関の大学に合格した隆史が格好の標的となるのは当然のことだった。開始早々から上座に据えられ、群がる級友たちから延々と乾杯責めにあっている。文句をいい抵抗を示しながら、結局次々と杯をあおらされる隆史は、もうかなり酔いがまわってしんどそうだが、その表情は明るく華やいでいた。
──という情景を、和男は大きなテーブルの端から眺めている。
(……隆史、嬉しそうだな)
チビチビと酎ハイを飲みながら、複雑な思いで胸中に呟く。上がり框の側の隅っこに座った和男は、ひとり場の盛り上がりから取り残されている。最初は隣りにいた隆史が奥の席へと引っ立てられていってから、ずっとそうだった。
こんな状況自体は、慣れっこだから別にどうとも思わない。ただ、これまで、そんなときにも唯ひとり自分を気にかけてくれる存在だった友人にだけ和男の関心は向かっていた。
その隆史は、いまは和男の存在など忘れたように。珍しく酔いのまわった赤い顔で、誰かのわざとらしいあてこすりの言葉に大声でツッコミをかえしている。ドッと笑い声がはじけた。
愉しそうな、自信と喜びに輝くようないまの隆史の表情を見ると、やはり互いの合否がわかってから、自分の前では遠慮していたのだなと和男は悟った。すると、余計に自分が無価値な存在に思えてきて悲しくなった。
(……帰ろうかな)
もともと気乗りはしなかったのだ。隆史も参加するというから来ただけだった。
だが、すぐに帰るふんぎりもつかない。待っていれば、そのうち解放された隆史がそばに戻ってきて、ふたりでしんみりと思い出話をする機会もあるかもしれない。その願望は和男には捨てがたいものだった。明後日には、隆史は東京へと旅立ってしまうのだ。
また切ない気持ちがこみ上げて、不味い酒をぐびりとあおったとき、隣にひとが座る気配。
見ると、隆史が移動してから空いていた席に、三上が座っていた。
「よお……いま、来たのか?」
和男にすれば大事な空席を占められてしまったことに嫌な気分を感じながら、お義理に訊く。
三上は、ぞんざいな頷きをかえしただけで、テーブルに伏せられていた新しいコップを取って手酌でビールを注いだ。向かいに座って話し込んでいたやつらも三上の登場に気づいて、やはり義理のようにジョッキを掲げてみせたが。三上のほうが合わせもせず、勝手にグラスを乾してしまったから、白けた具合になって、また話に戻っていった。乾杯の声が波及して広がることもなかった。
和男はちょっと呆れて、三上の横顔を眺めて。ああ、そういやこんなヤツだっけな…と曖昧に納得して。それでもう、この極端に無愛想で人づきあいの悪いクラスメイトとのやりとりも終わるはずだったのだが。
「それ」
不意に和男の顔の前に手を伸ばした三上が言う。指差したのはテーブルの中央に置かれたまま、ほとんど手付かずの料理の大皿。どうやら取ってくれという意味らしいと気づいて、横柄な態度に腹を立てながらも皿を引き寄せた。
「ろくなもんがねえな」
礼も言わず、そう呟いて。また和男をカチンとさせた三上は、卓上からメニューを取って、通りがかった店員を呼び止める。
「……まずいんじゃないのか? コース以外の注文は」
オーダーを受けた店員が去ると、和男は持ち前の小心さで声を潜めながら訊いてしまった。
「どうせ会費は多めに集めてるだろ」
ぬけぬけと言った三上は、洋モクらしき見かけぬ銘柄の煙草を取り出して咥えた。火を点け、深々と吸った紫煙を吐き出すさまも、また自分でビールを酌む手つきも、やたら場慣れした雰囲気で。思わず和男は見惚れた。
ほどなく、三上の頼んだ料理が運ばれてくる。五、六品も、それも高そうなメニューばかり並べれば、周囲からは非難がましい視線も飛んだが。座のムードを慮ってか、関わり合いを厭うてか、見て見ぬふりといったところ。
たまたま隣りにいた和男は、今度は三上と一緒に疎外されるような状態になったが。悪い気分でもなかった。周囲に眉を顰めさせながら傍若無人にふるまう三上に痛快なものさえ感じた。
「よく食うなあ」
ずいぶんと軽くなった口調で呆れてみせる。メシを喰ってないからな、と三上は言った。どうやら晩メシをとるために出席したらしい。皆が別れを惜しみ新たな門出を祝いあうために集った送別会に。
どこまでもフザけたやつだなあと感嘆しながら、牛タンの塩焼きを一片かっさらって、口に放りこむ。
熱々で舌が焼けたが、美味かった。

タン塩は旨かったが、それだけのやりとりで、これまで接触が皆無だったこのふたりが打ち解けたというわけでもなかった。
ただ、ほんの少しの気安さを覚えた和男は、場の盛り上がりと無縁に酔いが進むにつれて、胸の裡に溜まった鬱屈を、三上に吐きかけていった。
「隆史はすごい。偉い。あんな難しい大学に一発で合格しちゃうんだから。さすが隆史だよ」
熱のこもった賛美が、それに比べて俺は…と泣き言に変わる。
反応はない。三上は相槌ひとつ打つでもなく、和男に顔すら向けずに、煙草をふかし酒を飲んでいた。
和男とすれば、それで構わなかった。三上が別に煩わしそうな様子も見せないだけで充分だった。壁に向かって愚痴るよりは体裁がいいという程度のことだった。
「けど、俺だってさあ、頑張ったんだよ。自分なりにさ。なんとか、隆史と一緒に東京に行きたくてさあ。……高望みしたせいで、結局どこにも受からなかったわけだけど」
そう言ったとき、三上が視線をよこした。無感情な目で見すえられて、和男は何故だかヒヤリとした。
眼をそらし、酎ハイをひと口飲む。
「…で、でも、あれだよ。隆史ん家のおばさんも寂しくなるよな。四月からひとりきりだもん」
誤魔化そうとして、自分でも思いがけぬ話題が口をついた。
「ひとり?」
「え? ああ、うん。あいつんとこ、親父さんいないから。母ひとり子ひとりってやつ」
「ふうん。そりゃ、確かに寂しいだろうな」
まったく心のこもってない口調だったが、とにかくも三上は反応してきて。
「だろ? ま、俺もたまに顔出して、おばさんを慰めてあげようかな、なんて」
つられたように和男は、また自分でも意外な言葉を口にして。せいぜい冗談めかしたが、それも悪くないな、と。親友の母親の美貌と優しい物腰を思い出して、口の端が緩む。
その表情を見てとったのか、三上が訊いてきた。
「綺麗なのか?」
「隆史の母さん? かなり、ね」
誇らしげに和男は肯いたのだが、三上は素っ気なく、
「つっても、おばさんだよな」
「や、そうだけどさあ」
思わず力が入った。
「でも、大人のおんなの魅力ってゆうか、かなりイケてるんだってマジで。知らない? 三者面談で学校に来たときも、見かけたやつらの間じゃ話題になってたぜ」
「へえ」
「色っぽいし、それに優しいしさあ」
「ああ、了解」
ぞんざいに三上が手をふって。和男はムッとしながらも冷静になる。親友の母親について熱っぽく語ってしまったこと、密かに抱いていた思慕を零してしまったことに気づいて、頬が熱くなった。
気恥ずかしさに顔を逸らして、周囲を見まわす。場はますます野放図に盛り上がっている。依然として何人もに囲まれた隆史は、すでに泥酔に近い状態に見えて、ちょっと心配になった。
「それじゃあ」
「え?」
不意に隣りから声がかかって和男はふりむいた。
煙草を横咥えにした三上が、相変わらず感情の読めない眼を和男に向けて、
「ヤっちゃうか」
「は?」
「その、遠野のおふくろ。ヤっちまうか」
「……はあ!?」
冷静に告げられた言葉の意味を、ようやく理解して、和男は素っ頓狂な声を上げた。
「な、や、やるって、なに言ってんだよ、おまえっ」
周囲をうかがいながら、潜めた声で責める。
「じょ、冗談にしたって」
「遠野は、もう潰れるぞ」
うろたえる和男には構わず、卓の向こうに顎をしゃくって、三上は言った。
「そうしたら、おまえが家まで送ることになるだろ」
「あ、ああ。そうだけど…?」
「俺も一緒に行ってやるよ」
……一緒に? ふたりで隆史を家まで送って。そこで、おばさんを?
冗談にしか聞こえない。聞こえないのだけれど。
「……趣味が悪いぞ」
和男は無理に笑った。引き攣った笑み。
あの無感情な眼が、また和男へと向けられる。
「遠野に恨みがあるんじゃないのか?」
「恨み? 俺が隆史を? んなわけないじゃん」
そんなはずがない。唯ひとりの親友。大事な存在。
「浪人すんのは、遠野のせいなんだろ?」
「違う、よ。それは俺がバカだから」
即座に否定しながら、動揺する。心のすみ、ほんの僅かにそんな理不尽な感情があったことは否定しきれなかったから。
「そ、そんなことで、隆史を恨むわけないだろ? 俺が」
「あ、そう」
あっさりと三上は引き下がる。その冷淡さが不気味だった。
「お、おまえこそっ。自分は浪人するからって、隆史のこと妬んでんだろ? だから、そんなタチの悪い冗談を」
「そういうことでもいいけど」
どうでもよさそうに。
和男は、徐々に追いつめられていく。何故だか。
「じゃあ……じゃあ、なんでいきなり、そんなことを言い出すんだよ?」 
「美人で色っぽいっていうから。遠野の母親」
「はあ?」
呆気にとられる。
「そんな、会ったこともないくせに」
「他のやつも騒いでたってんなら、アテになるだろ」
和男ひとりの評価でないなら、ある程度信用できるという意味らしい。
「実際に見て、気に入らなきゃやめる」
「お、おまえ…」
「酒を飲むと、女を抱きたくなるんだよな」
「……おまえ、おかしいよ」
ようやくそう吐き捨てて、和男はそっぽを向いた。
つまりは酔っ払いの戯言だと、乱れ騒ぐ心を落ち着けようとする。あるいは自分をからかっているだけだと。
「やらないのか?」
「もういいってのっ」
「そりゃ残念」
例によって、さほど惜しくもなさそうに。まったく、なにを考えているか解らない。始末が悪い。
放っておくにかぎる……と。そう思い決めたのに。
「田村も、一度くらいは遠野の上に立ちたいかと思ったんだがな」
三上がひとり言のように付け足した言葉に、大きく鼓動が跳ねる。
「……なに、言って…」
もう隣りへ、この得体のしれないクラスメイトへと顔を向けることは出来ず、握りしめたグラスを見つめたまま、震える声をしぼり出した。
本当に、なにを言っているのか。こいつは。無茶苦茶じゃないか。
……隆史の上に立つ? おばさんを、隆史の母さんを“ヤる”ことで? “ヤる”──“犯る”? つまりレイプするということだろう? おばさんを? 三上とふたりがかりで襲って?
馬鹿馬鹿しい。上手くいくはずもない。それとも──三上はそんなヤバイことに慣れてるのか? ふたりがかりでなら可能なことなのか?
(……違う。なにを考えてる。上手くいくとか、そんな問題じゃない)
怯えたように頭をふる和男の脳裏には、しかし遠野雅代の美しい面が浮かび上がってくる。柔らかな微笑が。均整がとれて、それでいて豊かな体つきが。綺麗な頸すじが。腕や下肢の白く滑らかな肌の色が。
次々と蘇る記憶の鮮明さに和男は茫然とした。いつの間に自分は、こんなにも熱をこめた眼で親友の母親を観察していたか、と。
(……だけど。だからって。隆史のママと…)
腹の底に巣食った暗い熱を鎮めようとする。
もし…もしも、そんなことを仕出かしてしまったら。
なにもかもお終いだ。大事な親友を永久に失うことになる。それも考えうるかぎり最悪の形で。
たとえ。隆史に気づかれなかったとしても。自分の中で、隆史との関係は決定的に変わってしまうだろう。
…………でも。
本当に……隆史に気づかれずに。その最愛の母と、背徳の関係を結んだら? 自分と雅代の間には、ふたりだけの秘密が出来る? 隆史には絶対に明かせない秘密を共有することになる?
(……そういう意味か)
三上の“隆史の上に立つ”という言葉の意味を、和男は理解してしまった。


──それから一次会が終了するまでの時間を、和男はひとりの世界にこもって煩悶し続けた。
三上はもう話しかけても来なかった。やはり誰とも関わらず、ひとりで飲んでいた。
時折うかがったその横顔は、このあとに途方もない暴挙を企んでいるようには、とても見えなかった。
だから、和男も一応は安堵していたのだ。煩悶は、三上の誘導によって気づかされた自分のドス黒い感情と向き合っていたというものだった。
まさか──現実のことになるとは思っていなかったのだ。
二次会へと移動しようとする騒ぎの中で、完全に酔いつぶれた隆史へと近づき、肩を貸して立たせようとして。
ごく当たり前のように、逆側から隆史の体を支える三上の行動を目にするまでは。