1・帰郷 


「ありゃ」
玄関の扉、施錠された固い手応えに、隆史は軽く顔をしかめた。
「いないのか」
ドアの横、『遠野』という表札の下のインタフォンを押してみるが、やはり応答はない。仕方なしにバッグの中をまさぐって鍵を探した。
ちょっと落胆、そして後悔。
夏休みに帰るのは、それこそ春のうちから確定していたことだったが。正確な日時を知らせないまま今日の朝東京を発ったから、こんな行き違いもありうる。いきなり帰って母を驚かせたいという他愛もない計画。頓挫してしまえば、子供じみた心理が気恥ずかしくなる。
「ただいま」
数ヶ月ぶりの我が家に挨拶しながら靴を脱ぐ。暮していた頃には気づかなかった家の匂いを鼻に感じながら居間へと向かった。
重いバッグを放り出して、室内をみまわす。見慣れたまま、なにも変わってないようすに気持ちがなごんだが、やはり母の姿はなく、家の中にいる気配もなかった。ただ、微弱の設定ながら冷房がかかっているから、遠出をしているということではないようだ。近所に買い物にでも出ているのだろうか。
隆史はクーラーを強め、続きのキッチンにいって冷蔵庫から麦茶を出した。グラスを手に居間に戻ると、ソファのいつも自分の指定席だった場所に座る。よく冷えた麦茶も我が家の味。飲み干すと、ほっと人心地がついた。
ソファの慣れ親しんだ感触に深く身をしずめて、久しぶりの我が家にいることを実感する。
大学一年の夏、はじめての帰省。


そのまま三十分ほどボーッと座りこんで旅の疲れを癒した。
まだ、母は帰ってこない。
……部屋のようすを見ておくかと、隆史は立ち上がった。持ち上げたバッグの中から土産の菓子折を出してテーブルに置く。
二階の自室は、春に別れたときのままだった。まばらになった本棚やCDラック、片付いた机の上の寂しさも。
「暑い」
澱んだ室内の空気に、やはり母は今日の帰宅を予期していなかったのだなと思った。帰るとわかっていれば、換気や掃除を済ませているはずだった。
隆史はしっかりと鍵のかけられた窓を開け放った。
窓の外の景色も、この春まで毎日目にしていたもの。狭い裏庭を挟んで立つ三階立ての中規模なマンション。『コーポ遠野』というひねりのない名称の通り、遠野家の持ち物である。五年前に亡くなった父が遺したものだ。
「もしかして、むこうにいってるのかな」
住人の預かり物を届けに…というには時間が掛かりすぎているから、通路や階段の掃除にでも出向いているのかと。
視線をめぐらせたとき、コーポのエントランスから出てきた人影。母ではないが見知った顔だった。隆史は身を乗り出して、大きな声で呼んだ。
「おい、和男っ」
和男はビクリと足をとめてキョロキョロと辺りを見回している。それだけの仕草に“変わってないな”と、隆史は笑った。
「ここだよ、和男」
ようやく気づいた和男がこちらを見上げて、目を見開いた。
「おお! 隆史っ」


「今日帰るとは聞いてなかったよ」
居間にもどって、迎え入れた和男と差し向かいになる。
「おばさんは、明後日くらいじゃないかって言ってたけど」
「ああ、まあ、な。向こうでの用事がキャンセルになって……」
言葉を濁して、ごまかした。
ふうんとうなずいて、和男は視線を動かして、
「おばさん、出かけてるんだ?」
「ああ。俺も連絡しないで帰ってきちゃったからな」
帰ると知っていれば留守にしているはずがない──という言外の思いを和男は汲み取って、うんうんと頷いた。
「そうだろうな、知ってたら、おばさん、駅まで迎えにいったんじゃないか」
多分そのとおりだとは思うから、少し面映い。
「……まあ、近場にいるとは思うんだけどな」
そういえば、と思い出す。
「和男、さっき隣りから出てきたな?」
「ん? ああ、うん」
何故だか和男は、少しギクリとしたふうで、
「……知り合いが住んでるんだ」
「知り合い? 最近の話だな、それ?」
「あ、うん、この春からね。……同じクラスだった三上が、ひとり暮ししてるんだ」
「三上?」
もちろん顔と名前は覚えているが。あまり親しくはなかった同級生。卒業後の進路までは記憶にない。
「えっと、三上って…」
「浪人組だよ」
俺と同じ──と、屈託なく和男は言って、こっちで同じ予備校に通ってると付け加えた。
「それで、ひとり暮し?」
「勉強に集中するためとかいう名目だけど。単に実家じゃ居心地が悪いからじゃないか」
「ふうん…」
そういう理由なら、まあわからないこともない。というか他に考えようもなかった。予備校に通うのに便利なわけでもないし。
ただ、ひとつ気になったのは、
「うちのマンションだって知ってて入ったのかな?」
「ああ……うん」
和男は首肯してから、またちょっと考えこんで
「あのさ、送別会のときのこと、覚えてる?」
「送別会? クラスのか?」
予想外のところに話をふられて、隆史は面食らった。
それは三月の末、卒業式も終わった後に開かれた。大学や専門学校に進んで地元を離れる者、残る者、合わせて十数名が集まり大騒ぎをして別れを惜しんだ。
「あまり、思い出したくないな」
進学組の中でも最もレベルの高い大学に合格した隆史は格好の標的となって、潰れてしまったのだった。
「あの時さ、俺と三上で隆史を家まで送ったんだよね」
「そうだったっけか?」
和男に連れてきてもらったことは知っていたが、三上も一緒だったとは初耳だ。
「おばさんから聞いてなかった?」
「どうだったかな。なにしろ、あの次の日はひどい二日酔いで…」
それこそが、送別会の記憶を苦いものにしている理由だった。さらに翌日には出発を控えた、いわば我が家での最後の一日。母とふたりでしんみり過ごそうという心づもりを台無しにされたのだから。
「三上はその時に、隆史のとこが隣りにマンションを持ってるって知って。部屋を探してるところだったから。後日、俺を通じておばさんに連絡したんだよ」
「ふうん」
なるほどと成り行きについては納得したが。妙な感じだった。高校時代の同級生が店子として、すぐ隣りのマンションに住んでいる。
「あ、心配いらないぜ。三上んとこはけっこう裕福だから。家賃を滞納したりはしないよ」
「そんな心配はしないけど」
隆史は苦笑した。“妙な感じ”が顔に出てしまったのだろうが。気をきかせたつもりでズレているところが和男らしいと思う。
「でも、けっこう仲がいいんだな。三上と」
「え、あ、まあね。予備校も一緒だし。話してみると面白いやつだから……」
「ふうん。いや、電話やメールで、そういう話が出なかったからさ」
「え、あ、そうだったっけ……」
何故か歯切れが悪かったり。そういえば、先ほどから妙に言葉を選ぶような気配があった。
もしかして、妙な気をまわしているんだろうか? と隆史は思いいたった。
離れている間に新たな友人を作ったことを、中学高校時代の親友に対して後ろめたく感じているのだろうかと。
いかにも和男ならありそうな思考だが。それは気のまわしすぎだろう。
(遠距離恋愛の恋人じゃああるまいし)
隆史にしたって、向こうでは和男のことなど連絡を受けたときにしか思い出さなかった。薄情なようだが、新たな環境での生活の中で、それどころじゃないというのが本音だった。お互いさまということだ。
「そんなことよりさ、東京の話を聞かせてくれよ。彼女とか、できた?」
隆史の沈黙をまた深読みしたのか、和男が焦ったふうに話題を変える。
「いないよ。まだ、それどころじゃないって感じ」
苦笑を隠して、隆史は調子を合わせた。

それからしばらく土産話に盛り上がった。
途中でトイレに立った隆史が戻ってくると、和男は携帯で誰かと話していた。
「……うん。いま、隆史ん家……そう……あ、じゃ、また」
隆史に気づくと、急いで通話を終わらせた。
「なに、こそこそ話してんだよ?」
とくに気になったわけでもないが、一応つっこんでおく。和男は誤魔化すように笑って、
「いや、隆史が帰ってきたって、みんなに知らせようと思ってさ。また、集まって騒ぎたいじゃん?」
「そんなに急いでふれ回る必要もないだろう」
気の早さにちょっと呆れる。どうせ、放っておいたって誰かが声をかけて集まることになるだろうし。ただその役目を和男が積極的に務めようとするなら、意外なことではあった。やっぱり、和男は少し変わったみたいだ。
勉強しなくていいのか? と諌めることは控えた。ひとまずは。隆史なりに気をつかう部分ではある。

一時間ほど話しこんで和男は帰っていった。明日また連絡すると言い残して。
また、静かな家の中にひとりになって。隆はソファに体を倒した。
なんだか気疲れを感じた。長い付き合いの友人でも、久しぶりに会うとこういうものなのか。
母はまだ帰らない。
「腹、減ったなあ」
朝、出発前に軽く食べたきりだ。かと言って出かける気にもならないし、冷蔵庫を漁るのも侘しい。帰省して早々に。
「……やっぱり、連絡しておくんだったな」
今さらな後悔を呟いて、うだうだと迷っているうちに眠気が忍びよってきた……。


──目が覚めたときには日が暮れていた。思いがけず、長い時間眠ってしまったようだ。
体に薄い大判のタオルが掛けられていた。
「起きたのね」
懐かしい声が聞こえて。キッチンから母の雅代が姿を現す。
……ああ、母さんだ。
まだボンヤリとした眼で眺める。顔を見るのは上京以来。
「……帰ってたんだ」
起き上がりながら、照れくささを隠しすように視線を逃がす。口調はぶっきらぼうになる。
「ごめんなさいね。今日くるとは思ってなかったから」
雅代は壁ぎわによって灯りをつけた。スカートから伸びた素足の白さに、一瞬隆史は目をひかれた。
「びっくりしたわ。帰ってみたら、隆史がいるんだもの。電話してくれればよかったのに」
「ああ……ごめん」
その件については、もう勘弁してもらいたい。
明るくなった部屋のなかで雅代はふりかえり、隆史を見つめた。嬉しそうに。
「おかえりなさい」
「ただいま。……なんか、照れくさいね」
頬を掻く隆史に、雅代もくすぐったそうに笑う。
「さ、晩ご飯にしましょう」
「ああ、腹が減ってたんだ、俺」
あれ、でも……? と、なにかおかしな感じがしたのは、夕餉のいい匂いがしなかったからで。
はたして、雅代が運んできたのは寿司桶ふたつ。馴染みの店の。
「ごめんね。急で用意が出来なかったから」
「ああ、いいよ、全然」
申し訳なさそうに言う母に、軽く答えたけど。久しぶりに母さんの手料理……というアテが外れたのは確かで。では、母の帰宅はかなり遅かったのかなどと思いながら、文句をいえる立場でもない。連絡もしなかった自分が悪いと、この日何度目かの後悔。
「明日は隆史の好きなもの作るから」
「よろしくおねがいします」
ひとまずは、その母の言葉に満足して、出前の上寿司に手をつける。
アテは外れても、寿司は旨かった。海沿いの街で漁港も近いからネタがいい(気がする)。そう言うと、雅代は笑いながら、少し気遣わしげに、
「食事はちゃんとしてる?」
「まあ、それなりに」
それは電話するたびに必ず訊かれる、お約束の問いかけだったが。煩わしいとは思わない。
そこから、生活のさまざまなことについてチェックが入るのも、週一の電話の際と同様だった。時間があるぶん、ゆっくりじっくりと。
隆史はもともと真面目で几帳面だし、雅代もその点で信頼はしているから、くどくどしい話にはならない。それでも、母と差し向かいで、とりたてたところのない会話を交わす時間に、隆史は気持ちがほぐれていくのを感じる。いろいろと予定が狂ってしまった帰郷だったが。ようやく、母子の、家族の温もりに包まれて安らぐ。

ゆったりと風呂につかり(ユニットでない風呂はいいものだ)、涼みがてら、また母と他愛もない会話を楽しんでから、部屋に上がった。
東京での生活サイクルからはかなり早い時間だし、今日は昼寝までしてしまったが。それでも、気持ちよく眠れそうだった。
洗い立てのシーツに寝転んで、天井を見上げる。階下では、母が風呂をつかっているようだ。
家の中に自分以外の気配を感じることで安心するのだと悟った。家を出るまでは当たり前で気づかなかったこと。
家(うち)はいいな、と思う。
この春からの生活、新しい場所でのはじめてのひとり暮し。それは新鮮で刺激的で楽しかったが。夢中で過ごすうちに、心身には疲れもたまっていたらしい。それを癒して、英気を養っていこう。我が家で、母のそばで……


──夜は静かで、心も静かだった。充ちたりて安らいでいた。
どんな夏を過ごすことになるか、知るはずもなかった、このときには。




2・墓参

帰省二日目。
午前中に雅代の運転する車で父の墓参りに向かった。
涼しいうちにということで早く出かけたわけだが。夏の陽はすでに眩しく輝いて、じりじりと地を焦がしはじめている。
「今日も暑くなりそうだね」
「東京と比べて、どう?」
慎重にハンドルを切りながら、雅代が訊いた。
「陽射しはこちらのほうが強いかな。でも、湿度が低いから過ごしやすい」
大都市特有の暑苦しさ、とりわけ毎朝の電車の過密地獄を大袈裟に語ると、雅代は同情するようにうなずいてから、ポツリと呟いた。
「でも……そういうことにも慣れていって。だんだん隆史も東京の人になっていくのね」
「…………」
言葉に詰まった。そっとうかがう母の横顔は薄い微笑をたたえていたけれど。


郊外の霊園は閑散としていた。
わりと新しい墓地だから立ち並ぶ墓石も真新しいものばかりで、その分画一的な印象を与える。隆史は母の先導がなければ迷ってしまっていただろう。
母が水を汲みにいっている間、隆史は佇んだまま父の墓標と対峙した。
父が突然身罷って、五年あまり。“まだ”五年しか経っていないのか、というのが正直な感慨だった。勿論そのときには衝撃を受けたし深い悲しみを感じたけれど。今では、すっかり自分は父のいない生活に馴染んでしまった。ただ、ふたりきり残された母とも離れて暮らすようになって、母の孤独を思うときに“父さんが健在であれば”と考えることがある。
「勝手だよな…」
自分のエゴイスティックな思考に苦笑して。何気なく見回したときに、四角く区切られた敷地の隅に、煙草の吸殻が落ちているのを見つけた。なんでこんなところにと不快に思いながら拾い上げる。茶色いフィルターの際に印された銘柄は見慣れぬもので、外国産らしかった。しかも消すときに墓石に擦りつけたらしく、側面に黒い筋が一本走っていた。
「ひどいことをするなあ」
憤慨して、黒い汚れに手を伸ばしたとき、「あ」と小さく母の声が聞こえた。柄杓のついた手桶を持って戻ってきた雅代は、隆史が摘み上げた吸殻と墓石を見やって、さっと表情を強張らせた。足早に歩みよると、隆史を押しのけるようにしてしゃがみこむ。ハンカチを出して手桶の水に浸すと、墓石の汚れを拭き取りはじめた。ギュッとハンカチを握る手に力をこめて、ゴシゴシと。踵を浮かせたヒールの上で、タイトスカートを張りつめた豊かな臀が揺れ動く。
そんな母の迫力に気圧されたように一歩下がって。隆史は犯人を探すように周囲を見回した。吸殻はどうみても数日以上も前のものだから、無意味な行動だとはわかっていたけれど。
「他の墓参客かな」
ひとりごとみたいに呟く。でも、墓参りに来る人間が、他家の墓にでもこんなことをするだろうかと思う。あるいは、不良の溜まり場にでもなっているとか。こんな場所が? ありえないことではないだろうが、その推測は母には聞かせたくない。
蒼ざめた顔で、念入りに汚れを拭っていた雅代がようやく手をとめる。綺麗になったあたりをそっと撫でて。
「……仕方ないわ。自由に人が出入りする場所だから」
苦い笑みを隆史に向けて、そう言った。どこか取り繕うように。
うん、と渋い顔でうなずきながら、隆史は手の中の吸殻をそっとポケットに落とした。母の目に見せないように。
その後、墓に水をかけ、花を供え、線香をともして。形どおりのお参りをすませた。雅代は陰鬱な表情のまま、手を合わせていたが。思いのほか早々と切り上げて「行きましょうか」と立ち上がった。なんだか──あまり、父の墓前に長くいたくないようにさえ見えて。無論そんなはずはないのだから、やはり気分を害しているのかと思いながら、隆史は母に従った。
隆史のほうは、雅代のようすばかり気になって、父とゆっくり話すどころではなかった。




3・夕餉

墓参りからの帰り道、大型スーパーに立ち寄った。
隆史はカートを押して、母の買い物につきあった。
「あ、隆史、これも好きだったわよね」
雅代はさまざまな食材をカゴの中へと入れていく。昨日の約束どおり、今晩はたっぷり腕をふるうつもりらしかった。表情も晴れて楽しげだった。そのことに隆史はほっと安堵したから、機嫌よく母の調子に合わせた。“母子で仲良く買い物”という構図は少し気恥ずかしいが、まんざらでもなかった。
結局、大きな袋三つにもなった買い物を後部座席に詰めこんで帰宅した。
昼食は軽く素麺で済ませて、ひと休みすると、雅代はさっそく夕餉の下ごしらえにとりかかった。いくつか時間のかかる料理がある。
隆史は居間に残ってテレビをつけたが、意識は画面よりキッチンに向かっていた。てきぱきと、やはり楽しげに立ち働く母の気配に。
なるべく互いの気配が感じられる場所で過ごそうという思いがある。
昨日、ひとり静かな家の中にあった時間の寂しさ。それは、母が日々味わっていたもの。
だから、せめて家にいる間は──隆史なりの、ささやかな気持ちだった。

夕方近く、食欲をそそる香が家の中に漂いはじめた頃になって、和男がやってきた。
「お、いい匂い」
通されるなり、鼻をひくつかせて、和男は言った。
「和男くんも食べていく?」
「いいんすか?」
冷たいお茶を出しながら雅代が訊くと、和男は声を弾ませたが。すぐに窺うように隆史を見やった。
「いまさら、遠慮する仲でもないだろ」
「でも、せっかくの水いらずのとこ、邪魔しちゃうとさ」
「なに言ってんだか」
正直、そういう思いがないでもなかったが。拘るほどのことでもない。夏やすみは長いのだし。
「じゃあ、お言葉に甘えて。へへ、おばさん料理が上手いからなあ」
以前から雅代の手料理のファンだった和男は嬉しそうに笑ったが、そのあとで、
「あ、ついでにさあ……三上も呼んでいい?」
遠慮がちに訊いてきた。
隆史は目顔で雅代にたずねる。
「いいわよ」
気安く雅代は答えて、キッチンへと戻っていった。
じゃあ呼んでくる、と和男は即座に立ち上がった。
やれやれ、と隆史はひとりごちた。穏やかに流れていた時間が急に忙しなくなった。また予定とは違ってしまったなという思いもある。。まあ、いずれ三上とも顔を合わせることにはなるはずだった。和男が親しくしているし、店子としてすぐ隣りに住んでいるわけだし。

「ひさしぶり」
和男に連れられてやってきた三上は、しごく簡単な言葉で久闊を叙した。
ああ、こういうやつだったなと、隆史は少ない記憶と照らして納得する。口数は少なく、かなり無愛想。
「送別会のときは、ありがとうな。送ってもらって」
自分では覚えがなく、昨日になって和男か教えられた借りに対して、礼を言った。
「いや。おかげでいい部屋を見つけたし」
素っ気ないような態度は、準備ができたと告げた雅代に対しても同様で「どうも」と軽く頭を下げただけだった。
四人で食卓を囲む。
和男は「うまいうまい」と大袈裟に連発した。隆史にしても母が手間ひまをかけた料理に文句のあるはずもない。
だが、どうにも会話は弾まなかった。やはり和男ひとりがはしゃいで、他愛もない話題を持ち出すが、応えるのは隆史くらいで。
三上は黙々と箸を動かしていた。雅代も、口数が少ない。
舌と腹は満足して。でも、どうも居心地の悪さを抱えたまま、会食は終わった。
食後の珈琲を飲みながら、さてこのあとはどうしたものかと、隆史は思案した。内心では、和男がもう三上を連れかえってくれないかなと期待する。
と、ごそごそとポケットを探った三上が舌打ちして、「煙草、忘れた」と呟いた。
おいおい、と隆史は呆れた顔で見た。許しも求めず、煙草を点けるつもりだったのか。親もいるのに。
だが、さらに驚いたことには、和男が自分の煙草を出して差し出したのだ。
「和男、吸うのか?」
「あ、うん、ちょっとだけ。めしの後とかね」
言いながら和男は、一本抜いた三上に、百円ライターで火を点けてやる。和男の煙草はマイルドセブンだった。
「あ、おばさん、灰皿いいすか」
自分も一本つまみながら、流しに立つ雅代に頼んだ。順序が逆だろうと思う。
「ちょっと待って」
雅代が洗い物の手をとめて、戸棚を開ける。来客用の、実際にはほとんど使われることがないはずの灰皿は、やけにすんなりと出てきた。雅代は、未成年である息子の同級生たちに注意するこもなく、ガラスの灰皿をテーブルに置いた。
ふーっと大きく煙を吐いた三上は、それだけでもう貰い煙草を灰皿に押しつけてしまった。
「やっぱり、口にあわねえ」
「ひでえ」
そう言いながら、和男はケラケラと笑っている。
よくわからない関係だと隆史は思う。これはこれで仲がいいのか。和男はともかく。食事中からの態度を見ても、三上のほうは本当に和男を友人と思っているのか? と疑問を感じる。
その三上がチラリと和男を横目で見やった。和男もその視線をとらえて、ほんの微かにうなずくようにしたのを隆史は見た。なんだ? と訝しく思ったとき、和男がこちらに向いて訊いてきた。
「隆史、明日はヒマ?」
「……別に予定はないけど?」
「じゃあ、海に行かないか」
「海……K浜か」
昔はよく泳ぎにいった海水浴場。懐かしさに気をひかれた。
「明日も晴れるし、暑くなるみたいだからさ。行こうぜ」
「……そうだな。久しぶりに行ってみるか」
「よし、決まり!」
はしゃぐ和男を前に、隆史は隣りを気にかけた。三上は“行く”でも“行かない”でもない。どうするつもりなのか、わからない。
三人で行くのか? と間接的に和男に訊こうとしたら、
「おばさんも一緒に行きませんか?」
「はあ?」
思わず、隆史は間の抜けた声を上げた。
「なに言ってんだ? 和男」
「いいじゃん? せっかく隆史が帰ってきてるんだからさ」
「親同伴で海って、小学生じゃあるまいし」
「ああ、昔はよく連れていってもらったよな」
懐かしそうに。とにかく和男は本気で雅代を誘っているらしい。
「……車を出してもらえれば、行き帰りも楽だしな」
三上が口をはさんだ。やはり、自分も行く気らしい。少し図々しい言いぐさだが。
「おばさん、どうですか」
重ねて和男が訊いた。
行くわけないだろ、と思いつつ、隆史も雅代を見やった──のだが。
流しに立ち、これまで背中を向けたまま話を聞いていた雅代は、ここでふりむいて、
「いいわよ」
と、簡単に了承したのだった。
「え?」
「よし、決定」
楽しそうに和男が告げる。
隆史はまったく意外な展開に呆然と母を見た。雅代は微笑んでいる。どこかぎこちない笑みにも見えたけれど。
とにかく。四人で海へ出かけることになってしまった。