……数時間後。
「マジで、ありえねえよ、宇崎クン。中学生のくせにバイクで事故って、ケガするなんてさ」
高本の大声が、病室に響く。
「カッコイイんだかワルいんだか、判断苦しむもの、それ」
「カッコよくは、ないだろ」
ベッド脇に山と詰まれた見舞い品の中から、果物を物色しながら、市村が口を挟んだ。
「うるせえよ。それに俺はバイクで事故ったんじゃなくて、
ちょっと転んで怪我をしただけだ」
起こしたベッドに背をもたれた宇崎達也が、そらっとぼけた。
いまのこの部屋の主である若者は、パジャマ姿で、左足首をギブスで固め、
袖を捲くり上げた右肘に包帯を巻いている。
「表向きはそういうことになってんだから、間違えるなよ。だいたい、
中学生がバイクなんか乗りまわすわけがないだろが」
「クク……、たしかに宇崎クンは優等生だからなあ。ヒンコーホーセイって、やつ?」
ぬけぬけとした宇崎の言葉に、高本が笑う。
市村は籠から取った林檎を弄びながら、窓の外を眺めている。
この高級な病室に集まった三人は、外見や雰囲気はバラバラだが、
とても中学生には見えないという点が共通していた。
宇崎も市村も、高本ほどではないが長身である。
なにより、顔立ちや言動に、子供らしさというものがなかった。
「……それより」
市村が、宇崎に顔を向けて口を開いた。この痩身の、特徴のない容貌の少年は
宇崎達也とは小学生の頃からの友人で、高本と比べて、達也への接し方に遠慮がない。
「なんで、時間をおいて来いって?」
時刻は、もうすぐ正午になろうという頃だった。
朝のうちに学校を抜け出たふたりの来訪が、この時間になったのは、
達也からの再度の電話で、昼まで待てと言われたからだった。
足止めをくった二人は、繁華街をブラついて時間を潰してきたのだった。
「ああ。午前中は、親父の関係の見舞いが押しかけるって予測できたからな」
そう言って、見舞いの花束や果物籠の山に皮肉な目を向ける。
「まったく。ガキの機嫌をとって、どうしようってんだか」
冷笑を浮かべると、彫りの深い秀麗な顔立ちだけに、ひどく酷薄な相になった。
このメンツ以外には、決して見せない表情だ。つい先ほどまで、その見舞い客たちに
対しても、いかにも御曹司らしい礼儀正しさで接していたのだから。
「でも、思ったよりケガが軽くてよかったよね。これなら、わりと早く出られるでしょ?」
「まあ、そうなんだけどな…」
高本の問いかけに、達也は思わせぶりな間をおいて、
「……この際、少しゆっくりしようかと思って」
「なんで? つまんねーじゃん、こんなとこにいたってさあ」
意外な達也の言葉に、驚く高本。市村も、探るような眼を達也に向ける。
達也は、ニヤニヤと邪まな笑みを浮かべていたが。
ノックの音に、スッと表情を変えた。
「はい。どうぞ」
柔らかな声で応答する達也。
そして、ドアが開くのと同時に、高本と市村へと向かって、
突如、熱っぽい口調で語りはじめる。
「だから、午後からは、ちゃんと授業に出ろよ?」
「は?」
「そりゃあ、心配して駆けつけてくれたのは、嬉しいけどさ」
「え? はあ?」
やおら真剣な顔になって、まったく似つかわしくもない正論をふるう
達也に、目を白黒させる高本だったが。
「……わかったよ。午後の授業には出るから」
「いいっ!?」
市村までが、気持ちしおらしい声で、そんなことを言い出すに及んでは、
完全に絶句して、ただ不気味そうにふたりを見やるだけ。
うん、と宇崎達也は満足げにうなずいて。
ドアのところに立って、わずかに困惑したていで少年たちのやりとりを眺めていた
看護婦―佐知子に向き直った。
「すみません。食事ですね?」
「え、ええ」
佐知子は、ひとりぶんの昼食を乗せたワゴンを押して、ベッドに近づけた。
備え付けのテーブルをセットする。
手馴れた動きで準備を整える佐知子に、三人の視線が集まる。
佐知子は、務めてそれを意識しないようにしながら、手早く作業を終えて、
食事のトレーをテーブルに移した。
「ありがとう」
達也が微笑を佐知子に向ける。
「あ、こいつらは僕の友人で、市村と高本」
「どうも」
高本の名を聞いた時、佐知子の表情が微かに動いたが。
ペコリと、市村に頭を下げられて、無言で目礼をかえした。
「僕のことを心配して、学校を抜けてきちゃったらしいんです。
すぐに戻るって言ってるから、見逃して」
悪戯っぽく笑って、達也が言った。
……無邪気な笑顔に見えるんだから、美形は得だよな。
そう、市村は内心に呟く。
佐知子は戸惑うように、達也の笑顔から目を逸らしながら、うなずいた。
「……なにか、変わりはありませんか?」
「うん。大丈夫です」
事務的な口調で、佐知子が尋ねるのにも、達也はあくまでも笑顔で答える。
「…なにかありましたら、呼んでください」
佐知子は最後まで生硬な態度を崩さずに、そう言い置いて部屋を出て行った。
白衣に包まれた、グラマラスな後ろ姿がドアの向こうに消えるのを、
三人はそれぞれの表情で見送る。達也は微笑を浮かべて。市村は無表情に。
高本は、いまだ要領を得ない顔で。
完全に佐知子の気配が遠ざかってから、達也はふたりへと向いた。
「どうよ?」
そう訊いた口調も表情も、ガラリと変わって、奸悪なものになっている。
「どうよ、って、なにが? つーか、俺が聞きたいよ! なんなの、いまのは?」
堰を切って、疑問をぶつける高本。
「宇崎クンも、市やんも、いきなりワケのわかんないこと言い出してさあ」
「うーん、アドリブが弱いよな、高本は」
「なんだよ、それ!?」
「その点、浩次はさすがだね」
「…あれくらい出来なきゃ、達也とは付きあってらんないよ」
「あー、イラつく! ふたりだけで解っちゃって」
「だから。どうだった? いまの女」
「いまの? 看護婦? ……乳、デカかった」
「ちゃんと、見てんじゃないかよ」
「ケツも、こうバーンと張ってて。それに白衣っつーのが、また…」
佐知子の肢体を思い出しながら、熱っぽく言葉をつらねて。
そして、ようやく得心がいった表情になる高本。
「……そういうこと?」
「そういうことだよ」
ニンマリと笑って、達也がうなずいた。
「ふーん……けっこう年増だね」
「熟れたのは、嫌いだっけ? 高本くんは」
「いえいえ、お好きですよう。いいじゃない、熟女ナース!
その響きだけで、グッとくるもの」
「フフ……浩次はどうだよ?」
「面白いね。顔も体もいいし」
「お。いつになく、積極的じゃないか?」
いいんじゃない、くらいの返答を予想していた達也は、意外そうに見た。
「だって、あれ、うちのクラスの越野の母親だろ?」
「越野の? マジで?」
大仰に驚く高本。
「名前見て、ピンとこなかったのかよ?」
「名前? どこに?」
市村は、呆れ顔で高本を見やり、自分の左胸を指差して、
「ここに。名札つけてたろう。おまえ、乳のデカさはしっかり観察しといて、
気づかなかったのかよ」
「あ、そうだった? いや、ほら、あくまで大きさや形を見てるわけでさ。字とかは、ね」
「字とかって……もう、いいよ」
だが、その後の達也の言葉に、市村はまた嘆息することになる。
「ふーん……うちのクラスに、越野なんてヤツ、いたんだ」
「……これだよ。まあ、予測してたけど」
興味のない相手には、石ころほどの注意もはらわない達也である。
「小坊みたいなチビだよ、宇崎クン」
「高本が、しょっちゅうイジメてるヤツだよ。ほら、昨日も」
「……ああ、わかった。なんとなく」
実際、“なんとなく…あいつかなあ”くらいにしか思い出せなかったが。
いまは、その正確さが問題でもないから、達也は適当にうなずいて、
「で、あの女が、その越野の母親だって? 間違いないのか?」
「多分ね。確か、看護婦だったし。そうある苗字でもないだろ」
「うーむ……あの越野に、あんな色っぽい母ちゃんがいたとは。越野のくせに!」
わけのわからない理屈で、勝手に憤っている高本は放置。
「……それでか。最初に会った時から、妙に態度が固かったんだ、あの女」
「まあ、いろいろ息子から聞いてるのかもね。だとしたら、俺たちには、
いい印象はもってないだろうな」
「ああ、越野って、いかにもマザコンくせえもん。
“またイジメられたよう、ママン”とか泣きついてそう。
…あのデカい胸に? うらやましいぞ、このヤローッ!」
「……………まあ、マザコンってのは、あるかもな。
確か、父親は亡くなってて、母ひとり子ひとりってやつだから」
「え? じゃあ、未亡人ってやつなの? あの、ムチムチ母ちゃん」
「確か、そうだった」
「てか、なんで市やん、そんなに詳しいのよ? 越野の家のことなんかさ」
「どっかで聞いたっつーか、小耳にはさんだ」
「そんだけで?」
「浩次は、どうでもいいようなこと、よく覚えてるからなあ。ガキの頃から」
「まあね」
「あ、でも、今回は役に立ったじゃん。越野情報」
「役に立つっていうか、おさえといた方が楽しめるだろ?
せっかく、こんなおいしいシチュなんだから」
「まったくだ」
達也が深くうなずいて。少年たちは、悪辣な笑みを交し合った。
「ちょっといい女だから、入院中のヒマつぶしくらいのつもりだったんだけどな。
こうなりゃ、俺も本気で攻略にかかっちゃうよ」
「おお、宇崎クン、燃えてるよ。こりゃ、越野ママ、中学生の肉便所、確定?」
「なにを言っているんだ、高本くん。僕は、寂しい御婦人を慰めようとしてるだけだよ。
しかも、クラスメイトのお母さんを肉便所にだなんて……肉奴隷くらいにしときたまえ」
「おお、優しい」
「……越野も、気の毒に…」
しみじみとした市村の呟きに、ゲラゲラと笑いが弾けた。
「……さて。じゃあ、君たちは学校へ戻りたまえ。僕も食事を済ませないと」
また、真面目くさった表情を作って、達也が言った。
思いの他に、謀議が長引いて、佐知子が運んできた昼食には、まだ手もつけていない。
無論、いまさら学校へ戻る気などさらさらないが、
達也の芝居に合わせるために、市村たちは腰を上げた。
「ああ、でもなあ……」
未練げな声を上げたのは、高本だ。
「今回は、“口説きモード”で、いくんだろ? だから、こんなサル芝居してるんだよね?」
「まあな」
「そっちのほうが、面白いじゃん」
「そりゃあ、わかるんだけどさあ……俺たちに、まわってくるまで、
だいぶ時間かかるよなあ。辛抱たまらんよ」
「テキトーに誰かで処理しとけよ……ああ、そうだ」
達也は、ふと思いついたふうに、
「なんなら、百合絵つかってもいいぞ」
「マジで!? いいの!?」
「好きにしろ。あいつなら、越野ママをヤる時の予行演習にも丁度いいだろ」
鷹揚に言って、ようやく食事にとりかかる達也。
「……市やん…」
うかがいをたてるように、市村を見る高本。
どうやら、達也の見せた気前のよさは、よほどのことであるようだ。
「…それだけ本気ってことだろ」
そう言いながら、市村も驚きは隠せない。
「ちぇっ。すっかり、冷めてやがる」
スープをひとくち飲んで、達也が舌打ちする。
言葉とは裏腹に、やたらと上機嫌だった。
ナース・ルームへと戻った佐知子は、今しがた特別病室で目にした光景を思い返していた。
それは、またしても、宇崎達也という若者への印象を混乱させるものだった。
また、というのは、朝の初対面の時から、意外な感を抱かされていたからだ。
朝の病室で。達也は入ってきた佐知子を見ると、一瞬だけ目を見張るようにして。
そして、フッと、綻ぶような笑みを浮かべた。
『あなたが、僕を担当してくれるひとですか? よろしくお願いします』
奇妙なほど嬉しげにそう言って、横たわったままながら、礼儀正しく頭を下げてみせたのだった。
初手から、佐知子は当惑させられてしまった。
事前の情報から、どんな厄介な患者だろうかと身構えていたのに、
実際に対面した達也が見せる表情や物腰は、予想とまるで違っていたからだ。
『越野です。よろしく』
困惑を隠して、佐知子は、少し固い笑顔を達也に向けて、簡単に名乗りを済ませた。
その後、朝の検診に取り掛かった。
問診や検温という作業を手早くこなしていく中で、佐知子はペースを取り戻せるかに思えたのだが。
今度は、ジッと自分を見つめてくる達也の目線に、落ち着かない気分にされてしまった。
それは邪まさを感じるものではなかった。
勤務中に、不埒な視線を白衣の胸や尻に向けられることには慣れている佐知子だが。
達也の視線には、そのような色合いはなかった。
実際、達也の注視が注がれているのは、佐知子の顔だった。体ではなくて。
だが、下劣なものは感じなくても。そんなにも見つめ続けられれば、息苦しくなってしまう。
『……どうかしましたか?』
脈拍数を計ろうと、達也の手首を掴んだところで、堪えかねて佐知子は訊いた。
それまで意識して避けていた達也の目をとらえて。声には、微かにだが、
非難するような響きがあった。
『あ、ごめんなさい』
即座に、そう返した達也だったが。表情にも口調にも、少しも悪びれたようすはなく。
佐知子から眼を外すこともせずに。
『綺麗な看護婦さんで、嬉しいなって』
サラリと、そんなセリフを吐いたのだった。
『……っ』
咄嗟に、佐知子は反応できなかった。
この手の言葉にも慣れっこのはずの佐知子が、思わず絶句して達也を見返してしまったのは。
そこに、追従や下心といった下卑た色が、感じられなかったからだった。
なんの気負いもなく、ごく自然なことのように。
『………?』
言葉を詰まらせた佐知子を、不思議そうに達也は見上げていた。
『……看護婦に、お世辞をつかう必要はありませんよ』
なんとか惑乱を鎮めた佐知子は、達也から眼を逸らして、そう言った。
冷静な、大人らしい対応……をとったつもりだった。佐知子としては。
『え? あれ?』
達也は、佐知子の言葉と態度の意味を掴みかねたように、首をひねって、
『……あ、そうか』
解答を見つけて、整った顔立ちをしかめた。
『ごめんなさい。よく、友達にも注意されるんだよね。なんでも思ったままを
口にすればいいってもんじゃないって』
『……………』
『生意気でしたね。謝ります。ごめんなさい』
『え、いえ…』
頭を下げられても、佐知子としては反応に困るような話の流れであり、さらには、
『……でも、綺麗なものは、綺麗だって言いたいんだよな。やっぱり』
真面目な顔で、宙を睨んで、佐知子のことなのか一般論なのか判然としないことを
傍白する達也に、なおさら言葉を奪われてしまうのだった。
……佐知子は、その後すぐに病室を出た。逃げ出したようなものだった。
終始、宇崎達也に翻弄されてしまったのだ。中学生、自分の息子と同年齢の少年に。
ナース・ルームに戻って、気持ちを落ち着かせて。
先ほどまでの、自分の、ほとんど醜態と言っていいような拙い対応を思い出して。
佐知子は、悔しさと羞恥の感情を噛み締めた。自分に腹が立った。
やはり、事前の情報から先入観を持っていたのだ、宇崎達也に対して。
それも、わずかな伝聞と周囲の状況から、いかにも類型的な人物像
―我侭放題に育てられた驕慢なお坊ちゃま―を、思い描いていたのだった。
だが、実際に会った宇崎達也は、そんな漫画的な想像とは、かけ離れていた。
穏やかで礼儀をわきまえた若者だった。
いきなり、そのギャップに戸惑ったことから、ペースを乱されてしまったのだから。
自分の浅はかさへのしっぺ返しをくらったようなものだ。
……と、佐知子が自省していると、仕事から戻ったナースが話しかけてきた。
『主任、どうでした? 特別室の患者さんは』
年若な部下たちは、興味津々といった顔を佐知子に向けていた。
『え?……そう、ね…』
普段の佐知子であれば、このようにゴシップ的に患者を話題にすることを注意したであろうが。
この時には、つい考えこんでしまった。
それは、佐知子自身が、宇崎達也という若者の実像を、どう捉えたらいいのか、
掴みかねていたからだった。
『なんでも、かなり可愛いコらしいじゃないですか?』
やはり、若い娘の興味は、まずそこへ向かうらしかったが。
『可愛い…?』
その言いようには、強い違和感が生じた。
確かに、宇崎達也は端正な美しい顔立ちをしている。だが、それをして
“可愛い”などという印象はまったく受けなかった。
その若いナースは、実際に達也を見たわけではなく、
美形だという情報と、中学生という年齢を併せて、そう言ったようだ。
確かに、“ハンサムな中学生”ならば、“可愛い”という評価で妥当なところだろう、普通には。
だが、宇崎達也は違う。
彼女たちも、一度でも達也と直に接すれば、もう“可愛い”などとは言えなくなるだろう。
『……バカね。主任が、そんなこと考えるわけないでしょ? アンタじゃあるまいし』
佐知子が言い淀むのを、不機嫌さと誤解した他のナースが予防線を張った。
それに気づいて、佐知子は曖昧な言葉で場をまぎらせる。
『そう…なのかしらね。なにしろ、息子と同じ年の子だから…』
『あ、そうか。裕樹くんと同い年ですよねえ』
ならば、そんなこと気にもかけないか、と勝手に納得してくれる。
(同い年か……とても、そうは見えないけれど)
どうせ、彼女たちが実際に宇崎達也を見たあとには、そういう話になるだろう。
自分から裕樹を話題に出したのは失敗だったと思った。
つまらないことだが。母親として、我が子の成長の遅さを言われるのは、
やはり面白くはない。
その後、婦長から呼び出しを受けた。
当然のように、用件は、宇崎達也の看護についてだった。
佐知子は担当者として特別病室への対応を最優先させるよう、あらためて指示された。
そのために、佐知子の従来の仕事を大幅に減らして、他のナースにまわす
という処置には、佐知子はおおいに異存があったが。
婦長は、佐知子の先をとって、言いたいことはわかっている、と頷いて、
『とにかく、こちらとしては出来るかぎりのことをしていると提示することが重要なのよ、この場合は』
だから、熟練の主任看護婦である佐知子を、ほぼ専任に近いかたちで担当にするのだ、と。
『まあ、ここはあなたも、信条を曲げて協力してちょうだい』
苦笑まじりに、そう頼まれれば、佐知子も了承するしかなかった。
……そういう次第で。
特別室の担当となった佐知子は、同時にヒマになってしまった。
ナース・ルームの自分の席で、わずかなデスク・ワークをこなしながら、
思索の向かう先は、やはり、特別病室の患者のことだった。
やはり只者ではなかった、というのがこの時点での佐知子の実感だった。
その、泰然自若といった態度は、とても中学生とは思えないものだ。
そして、いきなりの、あの発言。
“綺麗な看護婦さんで、嬉しいなって”
その時の、達也の表情と声を思い出して(やけに鮮明に記憶に残っていた)
佐知子は、今さらに頬が熱くなるのを感じた。
(まったく……聞くほうが、恥ずかしくなるようなことを…)
だが、真に恐るべきは、そんなセリフが、宇崎達也の口から出ると、
微塵のわざとらしさも感じさせなかったということだろう。
達也の釈明によれば、“思ったままを口にしただけ”ということだ。
その無防備さ、無頓着ぶりが、お坊ちゃんらしいといえるのかもしれないが。
厄介だな、と佐知子は嘆息した。これまでに経験のない種類の厄介さだ。
……佐知子を、ベテラン看護婦らしくもなく悩ませる、“厄介な患者”、
宇崎達也の病室へは、午前中、何人もの見舞い客が訪れた。
佐知子も何度か、窓口から病室までの案内に往復した。
見舞い客は、スーツ姿の大人ばかりで、中学生である達也とは、なんの接点もなさそうな
者ばかりだった。そして病室には、達也の父親の秘書が出張っていて、
来訪者への応対をこなすというのだから……。
空疎なやり取りを垣間見ながら、はじめて佐知子は、宇崎達也に同情したくなった。
しかし、病室に来客を迎える達也の態度は、相変わらず泰然たるもので、
気安い同情や憐憫など、よせつけないような強さがあった。
だから、やはり佐知子は、この若者の実像を掴めずに。
見舞い客が途切れ、秘書が去った後で、昼食を届けに病室へ向かう時も、
気後れと警戒心を払拭することが出来ずにいたのだった。
そして、あのやり取りを目の当たりにしたのだ。
部屋には、達也の友人だという二人の男子中学生が訪れていた。
平日の昼間なのだから、学校をサボっって来たということになるだろう。
それだけを取れば、やはり不良生徒を取り巻きにしているのだと断じることで、
佐知子も、達也への認識を落ち着かせることが出来たろうが。
宇崎達也は、すぐに学校へ戻るようにと、熱心に友人たちに説いていたのだ。
心配して来てくれたのは嬉しいが、学校を抜け出すのはよくない、と。
……どう受け止めればいいのだろう?
またも、佐知子は考えこまされる。
病室から戻って、自分のデスクで黙然と思い悩む流れは、朝の行動の
繰り返しになっていた。
……どうもこうも、ないのでは? そのまま、虚心に受け止めればいいだけの
ことなのではないか?
自分が困惑するのは、宇崎達也の言動に、いちいちウラを読もうとするからではないのか。
結局、先入観や偏見を捨て切れずに。
……違う。それは違うのだ。
伝聞だけで人を判断することの愚など、佐知子にもわかっている。
だいたい、宇崎達也に対して、偏見に凝り固まるほどの知識などなかったのだし。
そんなことではなくて。
あの大人びた少年の、穏やかさや柔らかさを、素直に受け入れることを、
佐知子に躊躇わせるのは……佐知子自身の感覚の中にあった。
達也と顔を合わせ言葉を交わす時に感じた、“なにか”。
……曖昧で判然としないだけに、どうにも胸の中にわだかまってしまうもの。
それが、佐知子へ警戒を訴えかけるように思えるのだった。
一方では、馬鹿げていると思う。そんな埒もない感覚に囚われる自分を。
怖れるべき、どんな理由があるというのか?
相手は、大人びているとはいえ、中学生の少年だ。自分の息子と同い年の。
向こうは患者で、こちらはは看護婦。やがて傷が癒えて去るまでの、わずかな時間だけが接点。
怖れや警戒を持つほどの関係など、ありえないのだ。
(……それとも……まだ、あの言葉を気にしているの?)
不意に。そんな自問が意識の底から浮き上がってきて。
佐知子は呆れた。呆然としてしまった。
あの言葉とは、達也が初対面でカマしたやつだ。
“綺麗なひとで、嬉しいなって”
佐知子は、その問いかけを胸に沸かせた自分に呆れた。
馬鹿馬鹿しいにも、ほどがある。
相手は、中学生だ(…今朝から、何度この言葉を心中に繰り返したろうか?)。
息子の裕樹の同級生なのだ。
そんな子供の他愛もない放言を少しでも真に受けて、それで、
自意識を過剰にしているというのか?
つまり、怖れや警戒とは、女としてのものだというのか?
(バカらしい……)
急に、グッタリと疲れを感じて、佐知子は肩を落とした。
(それは……私は、中学生の息子と関係している母親だけれど……)
疲労感のせいか、そんな伝法な思考がよぎった。
それとこれでは、裕樹と宇崎達也では、まるで話が違ってくる。
裕樹との関係は、あくまで母として子を受け入れる行為だ。
そう認識することで、佐知子の中では折り合いがついている。
だから、この相姦の秘密を抱えた美貌の母親は、息子以外の中学生の少年を
男として見ることなど、ありうべからざることと断じるのだ。常識的に。
(……まあ、とても中学生には見えないけど)
少年と呼ぶことすら躊躇わせる容姿と雰囲気を宇崎達也は持っている。
結局、それが一番の戸惑いの要因だろうかと考えながら、立ち上がった。
なんのかんのと考えこんでいるうちに、一時間以上すぎている。
達也は、とうに食事を終えているだろうから、食器を下げに行かなくては。
特別病室のドアは、閉めきられずに薄く開いていた。
ノックに応えはない。
少し待ってから、佐知子はそっとドアを押した。
「……失礼します」
室内は静かだった。見舞いの、二人の中学生の姿は消えている。
宇崎達也は眠っていた。
ベッドを浅い角度に起こしたまま、上掛けは腰のあたりで折り返したままで。
腹の上に組んだ両手を乗せて、いかにも、うたた寝といったふうに。
「……………」
室内は静かだ。聞こえるのは、達也のかすかな寝息だけ。
佐知子が、その場に立ち竦んでしまったからだ。
閉じた瞼に、その意志的な双眸を隠した達也の寝顔は、少しだけ、
年相応な少年らしさを覗かせているようにも見える。
だが同時に、表情をなくしたことで、その怜悧なまでの端正さが強調されてもいた。
「……………」
……と、開け放たれた窓から吹きこんだ緩やかな風が、眠る達也の前髪を揺らした。
毛先に擽られた目元がしかめられて。
そして、達也はパチリと目を開いた。
「…っ!」
我知らず、その寝顔に見入ってしまっていた佐知子は、目覚めた達也と
正面から見つめあうこととなって、慌てて眼を逸らした。
奇妙な後ろめたさに、頬に血が昇るのを感じた。
だが、寝起きの達也は、そんな佐知子の焦りに気づいたようすは見せずに、
「あ…寝ちゃってたや」
まだ寝惚けたような声で、呟いた。
佐知子は気を落ち着かせて、テーブルからトレイを取ると、
入り口の壁際に寄せ置かれたワゴンへと運んだ。
「…あ、ごちそうさまでした」
ボンヤリと、目覚めきらぬ達也の声が、背にかけられる。
考えてみれば、昨夜の入院から、まとまった睡眠はとっていないはずである。
「眠るなら、ちゃんと寝たほうがいいですよ」
ナースの顔で達也に振り向いて、忠告した。
「あ、はい…そうしようかな」
「……窓、閉めますね」
そう言って、キビキビとした動きで窓辺へ向かう佐知子の、
白いタイツに包まれた脹脛の肉づきに。
陽射しを調節しようとカーテンを引いた時の、腰の僅かなよじれに。
白衣のスカートを張りつめた、豊かな臀の丸みに。
達也は、舌なめずりするような表情を浮かべて、粘い視線を這い回らせた。
「越野さん」
しかし、円熟の色香に満ちた背姿に掛けた声は、何気ないものであり。
呼ばれた佐知子が振り向いた時には、その双眸からも危険な色は霧消して、
他意のない表情に切り替わっていた。
「越野さんて、うちのクラスの越野くんの、お母さんなんでしょう?」
「………ええ」
佐知子の返答には、少しの間と躊躇の気配。
「やっぱり、そうだったんだ。どうして、教えてくれなかったんです?」
「……特に、言う必要はないと思ったから…」
「ええ? そういうものかなあ」
どこか弁解がましい口調になる佐知子に、達也は納得できないという顔になる。
無論、意図的に作った表情だった。
「そりゃあ、入院生活には直接関係ないかもしれないけど。
教えてくれるのが、自然なんじゃないかな」
「………………」
達也の主張は、もっともなものだから、佐知子は反駁できない。
「だから、僕、考えたんだけど……。きっと、越野くんから、
なにか聞いてるんじゃないかって」
「……なにか?」
「そうです。なにか、僕の良くない噂を聞いていて、だから、
越野くんのお母さんだってこと、隠してたんじゃないかって」
「そんなことは…」
「だって、越野さん、最初から妙によそよそしいというか。態度が固いですよね」
苦笑を浮かべる達也。大人びた口調と表情に、佐知子はまた言葉を失う。
「正直に言って、越野くんとは、そう親しくはないんです。あまり、話をしたこともないし。
で、そういう人たちの間で、いろいろ言われてることは、僕も知ってるし」
「それは」
佐知子は釈明の必要を感じた。このままでは、裕樹の立場が悪くなると思ったのだ。
「裕樹からは、宇崎くんについて悪いことなんて、なにも聞いてないの。 それは本当です」
そして、口を開いたうえは、母親として言っておくべきことがあった。
「ただ……今日来ていた、高本くんに、裕樹がイジメを受けているようなの」
「高本に?」
ユウキ、コシノユウキね。いちおう覚えとかなきゃな、とか考えながら、驚いてみせる達也。
「高本が、ユウキくんをイジメてるって?」
「そうよ」
ごまかしは許さないといった決然たる態度で、達也に向き合う佐知子。
裕樹の母親だと明かしてしまえば、その立場が、おのずと明確なスタンスを定めてくれた。
ようやく足元が安定した心地で、佐知子は、これまでの劣勢を挽回しようとするかのように、
厳しい眼で達也を見据えた。
(いい女は、怒った顔もソソるな)
と、愉しんでいるのは、おくびにも出さずに。
「うーん……確かに、高本のヤツは、悪フザケが過ぎることがあるからなあ」
首をひねりながらの、達也の暢気な言いぐさは、当然ながら佐知子には承服できない。
「悪フザケで済むようなことではないわ」
「でも、悪気はないんですよ」
佐知子の怒りの気色にも、達也はあくまでもノホホンと、
「まあ、お調子ものだから、悪ノリしすぎってこともあるでしょうけど」
「……………」
噛み合わない会話に、佐知子は言葉を途切れさせた。
だが、達也が、事実を糊塗しているようには思えなかった。本当に、
そういう認識しか持っていないのだろうと思わせる態度だった。
「あ、ごめんなさい。お気楽すぎましたね」
佐知子がムッツリと口を噤むと、すかさず達也は謝罪して、表情を引き締めた。
「確かに、いくら悪気がなくたって、相手がそれを苦痛に感じるなら、イジメと
同じですよね。高本には、僕から注意しておきます」
キッチリと話をまとめられてしまって。
それでいいですよね? と、あくまで落ち着いた調子で問われれば、
佐知子はうなずくしかない。
文句のつけようもない達也の対応に、自分の方が大人げない言いがかりを
つけてしまったように思われて、羞恥の感情がわいた。
つくづく……宇崎達也は、佐知子にとって鬼門というべき相手であった。
どうあっても精神的優位に立つことを許されず、逆に余裕や平静さを奪われてしまうのだ。
「じゃあ、これで余計な引っかかりもなくなったってことで」
サラリと、そんな言葉を吐いて、達也は屈託なく笑う。
「越野さんも、もう少し打ち解けてくれると嬉しいな」
「別に…私は、普通に接しているつもりだけれど…」
「じゃあ、他の患者にも同じ感じなんですか? 僕くらいの年の子に、
いつも、そんな馬鹿丁寧な言葉使いで話すんですか?」
「それ…は……」
「普段は、もっと気さくで柔らかい感じなんじゃないですか?
越野さんって、いかにも優しい看護婦さんのイメージだし。
だったら、僕も、そういうふうに接してほしいな」
熱をこめて達也は言い募ってから、ふと表情を変えて、
「……それとも。僕が宇崎の息子だからですか?」
探るような眼を向けて。佐知子が咄嗟に返答できずにいると、
フイと視線を横に逸らせた。
「……特別な扱いなんて、望んじゃいないのに」
つまらなそうに呟く。
「………………」
寂しげな翳りを刷いた横顔。佐知子の胸に痛みが走った。
「……ごめんなさい」
罪悪感が、謝罪の言葉を吐かせた。
「確かに……誤解を受けるような態度だったかもしれないわ。謝ります」
自分の非を認めて、頭を下げる。
「あ、いや、そんなに畏まられても困っちゃうな」
頭を掻いた達也。拘りのない表情に戻っている。
「……ただ、身近でお世話してもらう人くらいは、気楽な関係で
いたいなって、思っちゃうんで」
「……そうでしょうね」
ベッドの横の、無意味な見舞い品の山を見れば、達也の言葉が深く納得されて。
佐知子は、しみじみ頷いた。
「ま、“お坊ちゃま”稼業も、端から見るほど楽じゃないってことです」
悟ったような達也の言いぐさが、やけにおかしくて、佐知子はクスリと笑った。
「あ、ようやく笑ってくれた、越野さん」
そう言って、こちらも嬉しそうに笑うまではよかったのだが、
「やっぱり、綺麗なひとが笑ってるのは、好きだな」
しれっと、そんな言葉を付け加える。
「なっ……」
気を緩めていたところへの不意うちに、不覚にも赤面してしまう佐知子。
「ねえ、越野さんの、下の名前はなんていうの?」
「え?」
「いつまでも、“越野さん”なんて堅苦しいし。出来れば、名前で呼びたいな。
勿論、僕のことも“達也”でいいです」
「え、でも……」
奇妙な気恥ずかしさが、佐知子を躊躇させる。
「マズいようなら、他の人の前では呼ばないから。教えてよ」
達也は強引で。佐知子も、頑なに拒むのも、おかしなことだと思えて。
「佐知子…越野佐知子よ」
……その夜。越野家。
「今日、宇崎達也が怪我をして入院したって聞いたんだけどさ」
いつも通り、母子ふたりでの夕食の場で、裕樹が持ち出した話題。
「もしかして、ママの病院に入院した?」
「……ええ。そうよ」
「やっぱりそうかあ…」
やや複雑な表情で、裕樹は言った。
宇崎達也の入院という報せに、小気味よいような感情を覚えたが。
すぐに、入院先としては、母の勤める医院が順当なのではと気づいた。
実際、予測のとおりだったと知らされて。
裕樹は、あまりいい気持ちはしない。なにがどうというわけでもないが、
母の勤め先に、宇崎達也がいるということが愉快ではなかった。
だが、そんな心情を洩らせば、母に怒られると思ったから、その話題はそれきりになった。
佐知子も、自分が達也の担当になったことを、裕樹に告げなかった。
裕樹の達也に対する感情を慮ったせいでもあるが。それだけが理由でもない。
“どうだった?”と裕樹に訊かれて、答えられるほど
達也への印象が整理されていなかった。
まさか、“掴みどころがなくて、苦手だわ”などと、率直な気持ちを
息子に吐露するわけにもいかないだろう。母としての沽券にも関わる。
なにしろ、相手は中学生、息子の同級生なのだから。
(……裕樹の同級生……そうなのよね……)
それにしても……なんて違うんだろうと、佐知子は差し向かいに座った裕樹を
改めて見やった。裕樹は、平均より小柄で顔立ちや雰囲気も幼いほうだから、
余計に達也との差が際立つ。
(……物腰や言動も、とても中学生とは思えないし……)
……そんなふうに、仕事を終えてからも、佐知子は宇崎達也のことを
あれこれ考えさせられてしまっていた。
そして、
『綺麗な看護婦さんで、嬉しいなって』
フッとした拍子に蘇る、達也の言葉、笑顔。
その度に、鼓動が跳ねて、思考が止まってしまう。
(……まったく。あんな見え透いたお世辞も、御令息としての嗜みなのかしら)
無理やり、毒づくことで、佐知子はなんとか平静を取り戻そうとする。
(……あれさえ、なければね……まったく……)
『綺麗なひとが笑ってるのは、好きだな』
(……本当に、あんな……)
「……どうしたの? ママ」
不意に、現実の声をかけられて、ハッと我にかえる佐知子。
「え? なに、どうかした?」
「なにって……急に固まっちゃうから」
訝しげに母を見る裕樹。
「な、なんでもないの。ちょっと考えごと」
「顔、赤いよ。大丈夫?」
「だ、大丈夫よ。なんでもないから」
そう繰り返して、食事を再開する。まだ頬には朱を刷いたまま。
なにやってんだか、と内心で自分を叱咤した。
(こんな調子で……明日から、どうするのよ)
明日になれば、また達也と顔を合わせなくてはならないのだ。
しっかりしなさい、と佐知子は己を鼓舞したが。
奇妙に胸が騒ぐのを、鎮めることは出来なかった。
翌日。
午後の検診のために、佐知子は特別病室へと向かった。
足取りに、前日のような重さはない。
この日ここまでの宇崎達也との接触は、なんの問題もなく済んでおり、
それが、佐知子の気持ちを軽くしていた。
正直、まだ達也の前に出る時には、反射的に身構えてしまうものがあるのだが。
明るく屈託のない達也の態度に、そんな固さを溶かされてしまうのだ。
義理と追従のためだけの見舞い客は、昨日のうちにノルマを果たしてしまって、
この日は、ほぼ途絶えていた。
それもあって、時間を持て余す達也は、佐知子が病室を訪れるたびに、
大袈裟と思えるほど喜んで、引きとめたがった。
佐知子も、他に仕事というほどのものもない状況であり、
ヒマと活力を持て余す患者の無聊を慰めるのも務めのうちと思って、達也につきあった。
これも務めと思って、佐知子は病室に留まり、達也の話に耳を傾け、
そして、いつの間にか、職務上の義務感など忘れていた。
達也の話術には、人をそらさぬ巧みさがあり、話題も豊富だった。
佐知子は、ほとんど口を開くことなく、静かに聞き役を務めるのだが、
しらずしらずのうちに引き込まれて、達也の大人びた声に聞き入ってしまっていた。
口元には自然に笑みが浮かぶことが多くなり、幾度かは声を上げて笑いもした。
そんなふうに、この日のこれまでの時間を過ごしていたのだ。
まったく、思いがけないほどに平穏で良好な状態といえた。
昨夜、眠りにつく直前まで、落ち着かぬ心で思い煩っていたのが、馬鹿らしくなるほどに。
とにかくこれで、なんとか退院までやっていけそうだ、と。
佐知子は、自身の心の軽さを、職業意識上の理由からだと思っている。
こだわりや先入観という色眼鏡を外して見れば、宇崎達也は、
なんの問題もない患者だった。
(……あとは、あれさえなければねえ…)
軽い歩みで特別病室へと向かいながら、佐知子がひとりごちた“あれ”とは、
達也の例の悪癖のことだった。
この午前中も、達也は会話の中に、いきなり、美貌を賛美するセリフを
挿しこんで、佐知子を硬直させたのだった。それも二度、三度と。
さすがに佐知子も、多少は耐性がついて、表面上は
冗談として受け流すことも出来るようになったが。
実のところは、毎度毎度、かなりのダメージを受けてしまうのだった
(これがまた、忘れた頃、気を緩めた時に、狙いすましたようにカマされるのだ)。
それに比べれば、すっかり“佐知子さん”と呼ばれるようになったことなど、
多少くすぐったいだけで、いかほどでもない。佐知子の方は、
もともと少ない機会の中で、まだ“達也くん”とは呼んでいなかったが。
(本当に……あの悪い癖さえなければ……)
そう内心に嘆息する佐知子だったが。そこに重苦しさはなかった。
……だいたい、“悪い癖”などと呼んでいる時点で、その達也の言動を
許容してしまっているということだった。佐知子は自覚していないが。
つまり、現在唯一といってよい担当患者との関係に、佐知子はほとんど問題を
感じていないということだった。
わずかな時間で、ずいぶん変わったものだが。構わないと思う。
いずれにしろ、良い方向への変化は歓迎すべきである。
だが。
特別病室の前に立って、軽やかなノックの音を響かせようと手を上げて。
佐知子は動きを止めた。
軽快な気持ちは霧散して、表情が強張った。
そうさせたのは室内から漂う、焦げくさい匂い。病院内では嗅ぐはずのない。
間違いない、煙草の匂いだった。
佐知子は、ノックせずに、勢いよくドアを開けた。
窓際に立った大柄な影が、驚いたようにふりかえった。
制服姿の高本だった。斜めに咥えた煙草から紫煙を立ち昇らせている。
室内には、高本ひとりだった。
達也ではなかった…と、安堵の感情が胸をよぎるが、それも一瞬のこと。
佐知子はツカツカと大股に歩み寄って。
キョトンとしている高本の口から煙草を?ぎ取ると、叩きつけるように床に落として、爪先で踏み消した。
「な、なにしやがる!?」
「あなた、中学生でしょう!?」
ようやく高本が張り上げた蛮声を、はるかに気迫で凌駕して、佐知子が叱責する。
「それに、ここは病院です! 煙草を吸っていい場所じゃあないのよ!」
「なっ…このっ」
眦を決して、高本を睨みつける佐知子の迫力に、思わずたじろいで。
「ザケんな、ババァッ!」
それが、この不良にとっては耐え難い恥辱だったのか、いかつい顔を赤く染めて、
巨体を踏み出し、佐知子の腕を掴んだ。
「なにするの!? 放しなさいっ!」
「うるせえっ!」
身をよじって、振り解こうとするも、ガッチリと腕を掴んだ大きな手はビクともしない。
「や、やめなさいっ、放して!」
凶暴なほどの力を実感して、佐知子の声に怯えの色が混じった。
完全に逆上したようすの高本は、そんな制止を聞くはずもなく、
ブンまわすように、掴んだ腕を引っ張った。
「い、いやっ」
たたらを踏んだ佐知子の片足から、シューズが脱げ落ちる。
恐怖に、拒絶の言葉が悲鳴に変わろうかという時、
「なにをしてるっ!?」
怒気に満ちた声が、騒乱の病室に響いた。
達也だった。
佐知子が開け放ったままのドアのところ。
左手で松葉杖をつき、右肩を市村に支えられて立った達也が、
もみ合うふたりを睨みつけていた。
「高本っ!」
再度、怒声を迸らせると、達也はその不自由な体で飛び出した。
市村の手を振り払い、前のめりになりながら、杖と右足で進んで、
佐知子と高本の間に体を割り込ませる。
「う、宇崎クン…」
「離せよ、コラッ!」
うろたえる高本の腕を、手荒く叩き払った。
佐知子は解放された腕を胸元に抱き寄せながら後退って、
茫然と達也を見上げた。杖にあやういバランスを取りながら、
自分と高本の間に立ち塞がった達也の背を。
「おまえっ、佐知子さんになにしてんだよ!」
また、凄まじい怒気が咆哮となって叩きつけられる。
これが、あの温厚な達也だろうかと、佐知子が目を疑うほどの苛烈さ。
「い、いや、だって、このアマがさ」
その鬼気に圧されて、しどろもどろに弁解しながら、
高本は咄嗟に床の吸殻を指さしたが。
その言葉と行動は、達也の激発を招いた。
「ザケんなっ!」
ガスッ、と重たい音が響いて。
達也の右拳を顔面にくらって、高本の巨躯が尻から床に落ちる。
ヒッと、思わず悲鳴を洩らした佐知子だったが、
殴りつけた勢いのまま、達也も倒れこむのを見て、
「や、やめなさい!」
ようやく制止を叫びながら、達也に飛びついた。
「達也っ」
緊迫した声を上げて、市村も駆け寄る。
市村と佐知子の手で抱き起こされながら、高本を睨みつける達也。
「……こんな場所で煙草ふかして。それを注意されたら、逆ギレで、女相手に
腕ずくで出るってか? カッコいいなあ、おまえ」
まだおさまらぬ怒りに震える声で、苦々しく吐き捨てた。
高本は尻もちをついた体勢のまま悄然とうなだれて、
「……つい、カッとしちゃって……」
蚊のなくような声で答えた。
「頭に血が昇れば、なんでもアリか? この馬鹿ッ!」
「達也、落ち着け」
「二度と佐知子さんにこんなことしてみろ、俺がっ」
「達也くん、もういいから」
達也の二の腕をギュッと掴んで、佐知子が必死に訴えた。
「私も、言いかたがきつ過ぎたわ。だから、もう怒らないで、落ち着いて」
「……………」
ようよう昂ぶりを抑えて、達也は佐知子に案ずる眼を向ける。
「佐知子さん、大丈夫だった? 怪我とかしてない?」
「大丈夫よ。別に、なにもされてないし」
「そっか……」
力をこめて無事を告げる佐知子に、ホッと安堵するようすを見せて。
「……浩次、そのバカ、連れて帰って」
「わかった」
即座に了解して立ち上がりながら、市村は佐知子に眼を合わせた。
「すみません、あとはお願いします」
「ええ」
真剣な面持ちで、佐知子はうなずきを返した。
……ションボリと、ゴツい肩を落とした高本が、市村に連れられて
病室を出ていくのを見送ってから。
佐知子は、達也に手を貸して、立ち上がらせた。
「大丈夫?」
「うん。すみません」
ズッシリとした重みが、佐知子の腕にかかる。
支えようと肩を寄せれば、体の大きさも改めて実感された。
先ほど、高本の巨体に迫られたときの恐怖を思い出す。
だが、達也の大きさを感じることは、恐れではなく
不思議な安心感を、佐知子に与えた。
「いい? 歩ける?」
問いかける声が、意識せぬままに柔らかくなっている。
「うん、大丈夫」
松葉杖を持ち直した達也が答えて、ふたりは、ゆっくりとベッドへと向かった。
達也の背にまわした佐知子の手に、熱と固い筋肉の感触が伝わってくる。
かすかに汗ばんだ達也の体臭も、この時の佐知子には不快に感じられなかった。
辿り着いたベッドに、ひとまず達也を腰かけさせて、ひと息ついた。
ギブスを巻いたの左足を支え上げて、横たわらせようとした時、
「……てっ」
達也が小さく声を上げて、ベッドに突こうとした右腕を浮かせた。
「どうしたの?」
「うん、いや、なんでも…」
「腕が? 痛むの?」
「いや、ちょっと……痺れただけ」
「見せて」
なんでもないと済ませようとするのを許さず、佐知子は達也の腕を取った。
達也の右腕は、肘のあたりに包帯を巻かれている。軽微とはいえ負傷しているのに、
この腕で高本を殴りつけたのだ。
真剣な目で佐知子は検分した。見たかぎり異常はない。
「痛むの? ちゃんと正直に答えて」
視線を上げ、達也を睨みつけるようにして訊いた。
「手を突いた時、ビリッって…」
「今は? どうなの?」
「痛くはないです。痺れて、力が入らない感じかな」
「そう、わかったわ。すぐに先生に来ていただくから」
「あ、待って」
医師を呼ぶために立とうとした佐知子の腕を左手で掴んで、達也が止めた。
「大丈夫だから」
「ダメよ。ちゃんと診てもらわないと」
「平気だよ、大事にしたくないんだ。お願い、佐知子さん」
「…………」
手首のあたりを掴んだ力は強いものではなかったが。
懸命に頼む達也の顔を見ていると、無理に振りほどくことが躊躇われた。
「……わかったわ」
結局、佐知子はため息まじりに了承して、自由なほうの手を重ねて、
達也の手を、そっと外した。
あらためて、達也を横にならせて。椅子を引いて、ベッド横に座る。
「もう一度、よく見せて」
両手で捧げ持つようにして、入念に視診する。
「まだ、痺れがある?」
「だいぶ、治ったみたい。力も入るようになったし」
グッグと、掌を握りしめる達也。
筋が攣ったという程度のことだろうか? と、ひとまずの診断を下す佐知子。
佐知子は、白く細い指に力をこめて、達也の腕を押した。
「痛かったら、言うのよ」
やはり、固く引き締まった筋肉の抵抗を感じながら、揉みこんでいく。
「あ……気持ちいいや」
陶然とした声を洩らして、達也が眼を細めた。
反応をうかがっていた佐知子は、その艶っぽい表情にドキリとしてしまって、
慌てて手元に目線を移した。
「…………あんな無茶をして」
誤魔化すように、怒った口調で言った。
「うーん……やっぱり、ムチャだったかな」
他人事のような達也の口ぶりが、無性に癇に障った。
「当たり前でしょう。 あなたは、怪我をして入院してるのよ?」
「それは、そうなんだけど……。佐知子さんが危ない、って思った瞬間に、
頭が真っ白っていうか。完全に逆上しちゃったんだよね」
「…………………」
「気がついたら、飛び出してたって感じで。それで、あのバカがフザけたことを言うから、思わず…」
「……で、でも、あの時、もし彼が向かって来てたら」
「そりゃあ、ヤラれてたよ。一発だね」
何故か、愉快そうに達也は断言した。
「腕っぷしじゃあ、五体満足の時でも、高本には敵わないもの」
笑ってる場合か、と佐知子は思うのだが。
「だから、ほんと考えるより先に体が動いてたんだよね、あの時は。
…これじゃ、高本のことは言えないなあ」
苦笑する達也の、彼らしくもない猪突の行動が、すべて自分のためだったという
事実に、なんと言っていいのかわからなくなってしまう。
「まあ、そんな目にもあわずに済んだし。佐知子さんも無事だったし。
結果オーライってことで」
あっさりと話をまとめる達也。
「……本当は、高本に、あの場で謝らせるべきだったんだけど」
「彼のことは、もういいわ」
佐知子の中では、達也と高本を峻別する意識が出来上がっている。
にべもない反応に、達也は渋い顔をして、
「うう……あんなことの後だから、佐知子さんの気持ちはわかるけどさ。
悪いヤツじゃないんだよ、あいつも。バカだけど」
いまさら高本を弁護する達也を、佐知子は呆れた眼で見つめた。
何故、達也が、あんな粗暴な不良を、そこまで友達として遇するのか理解できない。
「……達也くん、正直言わせてもらえば」
「ああ、わかるよ」
みなまで言うなと、意見しようとする佐知子を制して、
「でも……あのふたり、高本と市村くらいなんだよね。壁を作らずに接してくれるのって」
ちょっと弱い声。わすかにのぞかせた諦念と寂寥が、秀麗な顔立ちをさらに大人びたものに見せて。
……佐知子は、波立つものを胸に感じた。
だが、達也はすぐにそんな翳りを消して、
「でも、本当に、悪いヤツじゃないんだよ。バカだけど。かなり」
熱をこめて、褒めるのだか腐すのだかわからないアピールを繰り返した。
「本当だよ?」
「……ええ、わかったわ」
根負けしたように、佐知子は言った。
高本への心証は、すぐには変えられるはずもなかったが。
「達也くんの気持ちは、よくわかったから」
数少ない友人に向ける達也の想いは、充分に理解できたから。
白い歯を見せて、達也が嬉しそうに笑った。
目を細めたくなるような眩しさを佐知子は感じる。
「……ねえ? ようやく、達也って呼んでくれるようになったね」
「え? …そう…そうね」
言われて、気づいた。いつの間にか、そう呼んでいた。
口にしてしまえば、どうということもない。“宇崎くん”などという
呼びかたよりも、ずっと口に馴染む気がした。
これだけのことに喜ぶ達也を見ると、もっと早くそうすればよかったと思えて。
そして、佐知子は、もうひとつ、まだ言えずにいる言葉に気づいた。
まだ言っていない、しかし、言わなければならない言葉。
達也の右腕の包帯のあたりに、指先をあてて。
うん? という顔になる達也に眼を合わせて。微笑む。
「……今日は、ありがとう。達也くん」
夜。
越野裕樹は、昨夜以上に頻繁に、ボーッと考えこむ姿を見せる母の姿に、
どうしたのだろう? と首をひねったが。
ささやかな異変の理由、母の物思いが向けられる対象のことなど、
無論、しるよしもなかった。
同じく夜。
広い病室にひとり過ごす宇崎達也は、開け放った窓のそばに置いた椅子に座っていた。
片手には携帯電話を持ち、もう一方の手には、高本の置き忘れた煙草が一本はさまれている。
一服吸って、窓の外に煙を吐き出しながら、達也は顔をしかめて、
電話の向こうに文句をつけた。
「高本、これ、強すぎ。こんなもん吸ってたら、成長が止まるぞ…って、それ以上
大きくならなくてもいいか」
『でも、今日の宇崎クンのパンチで、ちょっと縮んじゃったよ。マジで殴るんだもん』
通話の相手、高本の大声は電話越しでも変わらず。そのハシャいだ調子には、
病室を追われた時の消沈ぶりは、1ミリたりとも残っていなかった。
『痛いし、カッコ悪いし、やっぱ役が良くないよ、俺』
「とか言って、ちゃっかり佐知子の体、触ってたんだろ?」
『ダメ、宇崎クンたち、入ってくんの早すぎんだもん。あれじゃ、殴られ損』
「まあまあ。おかげで、グッといい感じになったからよ。いまは堪えて、
いずれ思いきり佐知子にブツけてやれよ」
『もち、そのつもりよ! 今日ので、ますます燃えたよ、俺は!
越野ママ、近くで見ると、マジいい女だったし、いい匂いしてたし』
「なんだよ。結局役得してんじゃないかよ。ああ、わかったから浩次に代わって」
『……もしもし』
「かなり、効いたみたいよ、今日のは。ちょっとクサイかと思ったけどさ」
『まあ、まさか、中学生に狙われてるとは、思いもしないだろうからね』
「思わないよなあ。……もっとも、あまり中学生を見るような眼でもなかったけどな。
今日の芝居のあとは、特に」
『フフ…、年のわりにウブなんだな、越野のママ』
「そう。あんまり可愛いんで、マジ惚れしちゃいそうだ」
『嘘こけ』
「うん。嘘」
ケラケラと笑って。達也は短くなった煙草を弾き捨てた。