鎌倉前期にまで遡る抱月血流の祖を探り、
江戸後期~幕末・維新へとつづく波乱の時代と、そこに生きた祖父・一平、父・半三郎の人生と生活を活写し、
抱月誕生~上京当時までを綿密に調査研究した前作『評伝 島村抱月』(1978年刊)から実に30年半、
抱月の全生涯のみならず、抱月の妻・遺児たちそれぞれの末期までをも丹念に探索追究し尽くした
抱月研究の決定版金字塔『評伝 島村抱月』(全2巻)が遂に2009年6月刊行!
*注:送料が別途必要となります。
♦ 目 次 紹 介 ♦
【 上 巻 】 |
はじめに――家史―― |
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先ず、「家史」から始めよう。抱月島村瀧太郎の前半生を考察する上で、都合のいいことには、彼は、「家史」なるものを書き残してくれている…… |
一 祖父一平の章 |
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一 芸石国境の某村 |
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祖父一平を知る人たちは、瀧太郎がおじいさん似であったと伝えている。彼はその祖父について、「祖父、佐々山一平、もと入沢姓、芸石国境の某村より出づ…… |
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二 もと入沢姓 |
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先に進もう。「祖父 佐々山一平 もと入沢姓」とあるから、祖父一平出生の家は、江戸期に姓を有していた家である。江戸後期には名字を貨幣で買えた…… |
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三 八幡原村と戸谷村 |
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浄光寺文章によると、祖父一平は、元治元年(一八六四)七十歳で亡くなっているから、生れは寛政七年(一七九五)である。寛政の改革の指導者…… |
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四 生誕百年 |
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昭和四十六年(一九七一)一月十日、この日早朝の寒気を衝いて、金城町久佐の浄光寺を詣でた。「芸石国境の某村」に振り回されて混乱し切った頭を…… |
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五 いま入沢姓 |
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その年の春、再び久佐浄光寺を訪ねた。佐々山家の墓地裏には水仙が咲き出で、辺りに芳香が漂っていた。すでに中国山脈に雪はない。墓地から本堂に…… |
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六 鉄山業 |
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さて、家史にいう鉄山業とは、中国山地に散在する主に花崗岩地域の風化土層を崩し、鉄穴流しという水洗法によって、その土砂中に含まれている砂鉄を…… |
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七 佐々山姓 |
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浄光寺文書に、祖父一平関係の記事が始めて出てくるのは、天保三年(一八三二)である。 天保三年一月一日亡 和十郎妻リエ 小国長沢鑪 鑪支配人是ハ…… |
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八 三人のリウ女 |
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さて、浄光寺文書に、愈々祖父一平の妻の記事があらわれる。A・B・Cは整理上筆者が記した。 A 万延元年六月五日亡 佐々山一平妻リウ …… |
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九 「たたら」の世界 |
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祖父一平の財の管理運営についての疑問を解明すべく、再度、佐々田家と浄光寺の両文書を調査することにした。 浄光寺文書の中に、次のような奇怪な…… |
二 父半三郎の章 |
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一 りせと吉蔵 |
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弘化三年(一八四六)弥生三月十四日、久佐村白甲鈩で久し振りの男児が出生した。祖父一平の倅半三郎である。弘化三年は丙午の歳であった。江戸時代…… |
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二 源太郎と半三郎 |
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嘉永三年十月二十二日亡 佐々山一平息子 源太郎(『浄光寺文書』) 嘉永三年(一八五〇)に祖父一平の息子源太郎が死亡している。嘉永三年と…… |
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三 嘆願口上書 |
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佐々田家文書から、四枚の和紙を細い丈夫な紙紐でしっかりと綴じた小冊子が出てきた。表紙の真中に『嘆願口上書』、左下に「佐々山半三郎書」と記して…… |
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四 身持不行状 |
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佐々田家文書関係の再調査を進めて行くうちに、やはり予断が誤りであることを知らされた。元治元年父死亡から、慶応元年暮「鉄山退去」にかけて…… |
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五 瀧太郎生誕 |
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半三郎が「一平」を襲名した翌明治四年(一八七一)一月十日、瀧太郎は、父佐々山一平、母チセの長男として生誕した。以後、瀧太郎の父となった半三郎を…… |
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六 災禍幸福基 |
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佐々田家文書の奥から、和紙を二重にも三重にも貼って作った大型の状袋が二つ出てきた。しっかりと詰まった内部の書類が散逸しないように、口は丈夫な…… |
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七 安洋鉄輸入 |
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ここに一つの伝説がある。佐々山家及び瀧太郎の幼少期について、地元の古老たちが語り伝えた話である。そしてこの伝説はいつしか「史実」となって…… |
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八 多分之借金 |
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三人の債権者の債権の内容から、父一平の借金原因は解明できないものか。彼等はそれぞれ浜田海浜部の裕福な地主で、幕末から明治にかけて庄屋・戸長…… |
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九 一心被相究 |
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大前鉄山支配人佐々山一平の多分之借金に対する貸金催促事件は、最終的には鉄山株所有者佐々田家が二十年間鉄山を譲渡するという形で落着した…… |
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十 類外之落書 |
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父一平の思惑を外に、債権者は着々と法的手続きを進めていた。明治八年九月、山口県士族中島高輔なる者が、「此度石津平造外二名之係ル事件ニ付…… |
三 養父文耕の章 |
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一 履歴書 |
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先ず履歴書から始めよう。松江地方裁判所浜田支部に瀧太郎の養父嶋村文耕の履歴書が綴ってある。養父文耕の大凡の職歴がわかるので略記しておこう。…… |
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二 明淵寺 |
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松山市からJR予讃線で二時間、宇和島の三つ手前に伊予吉田という小さな駅がある。駅頭に立つと三方から急峻な山が迫り、南方だけが宇和島湾に開け…… |
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三 無用の人 |
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慶応二年六月二十四日午後五時、英国公使パークスは、サラミス、プリンスロイヤルの二隻の軍艦を従えて宇和島港に投錨した。宇和島藩主伊達宗城の…… |
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四 中邏卒文耕 |
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嘉永六年(一八五三)、文耕出生の前年の六月、アメリカ東インド艦隊司令長官M・C・ペリーは四隻の軍艦を背景にした軍事的恫喝によって、我が国の…… |
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五 池辺村嶋村家 |
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武蔵国都筑郡池辺村は、現在の横浜市都筑区池辺町に当る。池辺町を訪ねるには、JR東神奈川駅から横浜線に乗り換え鴨居駅で下車し、十分は歩かねば…… |
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六 文耕入夫 |
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さて、嶋村家屋内の邏卒出張所に来任した文耕の最初の仕事は、同一地所内にあった第六区の会所に行き、区長以下の面々に着任の報告をすることであった…… |
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七 検事補文耕 |
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嶋村家の菩提寺は池辺町の真言宗高貴山正覚寺である。寺蔵の文書に次の記事を見付けた。 明治十三庚辰三月三十一日亡 春暁院華岳貞散大姉 嶋村文耕妻 …… |
四 瀧太郎上京 |
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一 明治四年辛未の年 |
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抱月島村瀧太郎は、明治四年(一八七一)辛未の年一月十日、島根県石見国那賀郡小国村下土居(現金城町小国)に、父佐々山一平、母チセの長男として…… |
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二 出生――高源の地―― |
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高源鈩は、今、周布川ダムの湖底に沈んでいる。高源の地とは、那賀郡弥栄村門田から山を越えて周布川の本流に出、川沿いに金城町小国に行く小径の途中…… |
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三 生育――鉄山 |
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さて、瀧太郎の幼少年期を語る上で見落とすことのできない事実がある。彼の出生から明治十六年浜田へ出て病院の薬局見習生になるまでの十数年間…… |
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四 生育――小国 |
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明治四年(一八七一)一月、瀧太郎出生の時、高原鈩で稼ぎ中であった父一平は、翌明治五年二月六日浜田地震に遭遇して大打撃を受け、操業不能となった…… |
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五 成育――久佐 |
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明治十四年(一八八一)、債鬼に責め立てられた父一平は遂に住家を人手に渡さなければならなくなった。この日から佐々山家の流浪が始まる。瀧太郎十歳の…… |
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六 薬局見習生 |
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浜田(現島根県浜田市)は、江戸時代の始め元和五年(一六一九)、伊勢国松坂城主古田重治が転封を命ぜられ、浜田川河口の亀山に築城以来、六万一千石…… |
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七 裁判所給仕 |
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現在、松江地方裁判所浜田支部に一冊の履歴書綴が残されている。表紙は「自明治十年 至明治廿七年 履歴書 浜田区裁判所」と墨書されている…… |
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八 私塾 |
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瀧太郎が学んだ私塾については、幸いな事に学友大島幾太郎が書き残してくれている。幾太郎は瀧太郎と同年の明治四年浜田原井(現浜田市真光町)で生誕…… |
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九 文耕着任 |
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明治十九年(一八八六)十月六日、三十三歳の検事補嶋村文耕は、正装して松江始審裁判所浜田支所に着任した。支庁長の首席判事塚本近義に挨拶をすませ…… |
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一〇 有美孫一 |
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小島塾に異色の俊才が入門してきた。明治二十年前後のことであろう。有美孫一と名乗る東京医学校(現東京大学医学部)中退の男である。彼の漢学の学殖の…… |
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一一 裁判所雇員 |
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明治二十一年(一八八八)三月、邇摩郡波積北村(現江津市波積町北)光善寺では第十一世波北長証師が遷化した。享年六十四歳であった。瀧太郎が最も…… |
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一二 Rといふ男 |
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瀧太郎の転機は、突如として訪れた。明治二十二年(一八八九)の早春の事である。この年二月末、伊勢本一郎は、叔父常之丞の援助で上京、私立東京商業学校…… |
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一三 上京 |
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ここに一枚の借金証書がある。日付から見ると、久佐の佐々田家での会合から旬日も経過していない。 金借用証書 一金 弐円也 但 明治二十二年八月…… |
五 早稲田の日々 |
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一四 大隈さんの学校 |
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ブルートレーン『出雲号』は、午後四時浜田駅を発車すれば、翌日の早朝には東京駅に着く。明治二十三年(一八九〇)、佐々山瀧太郎は、六日がかりで上京…… |
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一五 養子入籍 |
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商業学校とは、正式には私立東京商業学校(現東京学園高校)といい、当時神田錦町三丁目一番地にあった。錦城学校の教室を夜間借用していた。同校には…… |
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一六 『同窓紀念録』 |
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明治二十四年(一八九一)九月某日、早稲田の東京専門学校では、文学科第二期生の入学式が挙行されていた。集える者四十五名余。その中に島村姓に変って…… |
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一七 『友垣草紙』 |
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秋田の六郷町からの帰途、東京に立ち寄った。宙外の資料等を大切にしておられる稜次郎先生夫妻の話など、島村家の娘たちに伝えるためだ。父瀧太郎に対する…… |
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一八 『呑吐天地』 |
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秋田行きの翌昭和五十五年(一九八〇)の秋のことである。三女トシさんから分厚い封書が届いた。中には、A弁護士からB出版社社長宛の「事実経過報告書」…… |
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一九 卒業 |
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ここに不思議なことがある。瀧太郎の結婚についてである。彼は家史に「妻島村イチ 明治八年七月十七日生、神奈川県都筑郡都田村字池辺平民農島村瀧蔵二女…… |
六 文学者抱月登場 |
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二〇 帰去来 |
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さて、東京専門学校を卆業し、自力で生活を始めた瀧太郎を、以後抱月と呼ぶことにする。 逍遥宅に置かれた『早稲田文学』の編輯室は活気に満ちていた…… |
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二一 梁川・近松・鴎外 |
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「かう生活が苦しくては仕方がない。一つ地方の中学校へでも行つて四十円も貰つて、後に捲土再来するかね。」(五十嵐力『我が島村君』、『抱月追悼号』)…… |
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二二 人間・男と女 |
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拝啓 以御蔭今暁一時安産 母子共至極健康に御座候間御休神匕下度 生児は女子にて御座候 万事好都合に相運び候へば御配慮匕下まじく候 早々 三月八日…… |
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二三 文士無妻論 |
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明治三十年(一八九七)六月、養父文耕よりごく内輪の祝い事をするから夫婦で来るよう連絡を受けた。文耕は横浜の場末の七軒町から、市の中心部…… |
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二四 留学生推挙 |
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明治三十三年(一九〇〇)四月、抱月は最初の著書『風雲集』(春陽堂)を上梓した。後藤宙外、伊原青々園と合著である。三人は『早稲田文学』編集員以来…… |
七 英独留学 |
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二五 渡英日記 |
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明治卅五年三月八日 午前三時半起床 六時半東京牛込甲良牛込町四十一番地ノ宅ヲ七時五十五分ノ汽車ニテ横浜ニ向フ 見送人多シ 宅ヨリハ車六台ヲ…… |
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二六 世紀末のロンドン |
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抱月のロンドン到着の前年、一九〇一(明治三十四)年一月二十二日、ヴィクトリア女王は八十二歳の高齢をもって崩じ、六十四年の長い治世は終わった…… |
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二七 「故山に背く」 |
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お手紙昨日入手うれしく拝見致申候、子規君の死はかへす/\も悼しき事に候。(略) 小生今月始めより当地に参り候。併し新聞は此前申上候通り…… |
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二八 劇への興 |
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彼の英独留学中の三冊の『日記』を読み進んで行くと、日曜日ごとの教会詣でとともに、夥しい観劇の記録に驚嘆させられる。その回数は実に百八十回余…… |
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二九 ベルリン日記 |
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明治三十七年(一九〇四)七月十六日、二年余の英国留学を終えて、次の留学地ドイツのベルリンへ出立した。その前夜、サマーズ宅で彼のために極く内輪の…… |
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三〇 帰国日記 |
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三年間余の欧州留学も残り少なくなったが、日露の戦況の推移が気になる所であった。戦争は最終局面を迎えようとしていた。旅順陥落後、ロシア軍は…… |
八 芸術と実生活 |
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三一 『早稲田文学』再刊 |
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帰国の翌日の朝、満八歳の長女ハルは、始めて父というその男を見たという。欧州出立時幼少であったため父の面影が記憶になかったのだ。その色の浅黒い父…… |
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三二 曲がり角 |
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転居後間もなくのことである。明治三十九年(一九〇六)三月のことである。島根県石見国邇摩郡波積村(現江津市波積北)の光善寺の伯母波北ヨシから…… |
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三三 暗雲朦朧 |
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明治四十年(一九〇七)、中山晋平は島村家で二十歳の元旦を迎えていた。前年末東儀鉄笛家の書生を田中忠治と入替わり、再び島村家の書生になったのである…… |
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三四 観照の芸術論 |
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在るがまゝの現實に即して 全的存在の意義を髣髴す 觀賞の世界也 味に徹したる人生也 此の心境を藝術といふ 右は島村瀧太郎著『近代文芸之研究』…… |
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三五 神経衰弱 |
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さて、明治四十一年(一九〇八)の現実に立ち帰ろう。島村家の書生中山晋平は一月十三日、玄関脇二畳の書生部屋でこの夜日記をしるしている…… |
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三六 偽りの皮 |
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明治四十二年(一九〇九)四月、文芸協会演劇研究科の開所を前にして、島村家ではささやかな祝い事があった。長男震也が余丁町小学校へ入学するのである…… |
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三七 ユーフォニィ |
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文芸協会の演劇研究所は、俳優養成のための演劇教育という新世界を開拓すべく講師、研究生ともに清新の気に満ち活気が溢れていた。研究者の一人、当時…… |
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三八 分裂生活 |
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私は元来心臓の弱い方で、自分は早晩心臓病で斃れるだらうと云ふ一種の信仰さへもッて居た程である。けれども肺や胃腸などは、人並以上に丈夫だと…… |
嶋村・島村家関係図 |
人名索引 |
事項索引 |
【 下 巻 】 |
九 文芸協会 |
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三九 転機 |
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さて、文芸協会演劇研究所では新時代の俳優養成を目指して、坪内逍遥を中心に充実した教育が進められていた。講義とともに実技指導のために試演会が実施…… |
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四〇 『人形の家』 |
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『人形の家』の稽古は、真夏の八月から九月にかけての約二か月間、一日置きに週三回、午前八時すぎから十一時半頃までの涼しい間におこなわれた…… |
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四一 『マグダ』 |
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明治四十五年(一九一二)の元旦は、激変の年を象徴するような年明けであった。この日東京市内の市営電車はすべて動かず、足を奪われた年始客たちは…… |
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四二 八月二日夜 |
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再び抱月の「陳情書」に復える。その後の彼と須磨子との情況を彼の言葉で語らせよう。 夕楽座の公演が済んでから、マグダの大阪行きまでの間には運命の人…… |
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四三 心の影 |
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長野の講習会は、大正元年(一九一二)八月五日から十一日までの七日間、信濃教育会の招聘を受け早稲田大学校外教育部の事業として開催された…… |
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四四 道理の外 |
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奈良に来て二日目の十一月六日、その暖かさはシャツや外套の冬支度が耻かしいやうである。黄いろい光りに包まれた南都の秋を、自分はこれから何う受取るで…… |
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四五 決意 |
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大正二年(一九一三)は、明治憲法下の政府が始めて民衆運動によって倒閣された年となった。事は前年の十一月に始まる。陸軍が朝鮮に二個師団の…… |
一〇 芸術座 |
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四六 芸術座創立覚書 |
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骰子は投げられた。 逍遥へ提出した長文の「陳情書」は、抱月の希望通り彼の手許へ返されてきた。返送された同書の末尾に――河竹繁俊によれば紫色の…… |
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四七 主体と客体 |
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大正二年(一九一三)七月中旬のことである。従弟の永見勇吉の妻マツが石見津和野の実家から届いた筍の塩漬けを島村家へ持ってきてくれた。帰り際に…… |
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四八 近代劇と舞台監督 |
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大正二年(一九一三)は新劇の最全盛期であった。“雨後の筍の如く簇生する新劇団”と新聞の見出しにうたわれた通り、後から後からと新劇団が芽を出して…… |
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四九 二元の道 |
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実は、第二の誓紙を取り交わす一か月前のことである。大正三年(一九一四)一月十七日初日の芸術座第二回公演『海の夫人』の上演前か上演中のことである…… |
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五〇 『復活』 |
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帝劇公演を大正三年(一九一四)三月三十一日盛況裡に打ち上げた三日後、二人は密かに三度紙を取り交していた。 印紙 証 下記ノ両名ハ終生愛情ヲ渝ヱザル…… |
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五一 家出 |
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大正三年(一九一四)六月三十日、各新聞紙はオーストリア皇太子の暗殺事件を大々的に報じていた。外務省公電は次のように伝えている。 墺太利匈牙利皇嗣…… |
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五二 著作興行権 |
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大正三年(一九一四)十一月八日、芸術座顧問弁護士鈴木富士弥は芸術座幹事長島村瀧太郎の意向を受けて、台湾の台南で上演中の近代劇協会主宰上山草人…… |
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五三 「職業」と「事業」 |
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大正四年(一九一五)四月中旬、中山晋平は兄明孝から「ハハキトク……」の電報を受け急ぎ車中の人となった。母へのはやる気持ちを抑えながら…… |
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五四 新劇職業化への道 |
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大正五年(一九一六)一月、東大教授吉野作造は、『憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず』(大5・1『中央公論』)を発表し、立憲君主制…… |
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五五 『闇の力』 |
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大正五年(一九一六)新春、三ヶ日も明けない内から新築の芸術倶楽部の舞台では、創作劇三本の活気に満ちた稽古が始まっていた。吉蔵作社会劇『真人間』…… |
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五六 芸術倶楽部 |
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長女ハルは大正五年(一九一六)四月、日本女子大学英文科予科に合格した。同じクラスに後に作家となる中条(宮本)百合子、網野菊、丹野(野町)禎子らが…… |
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五七 義絶 |
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「春の浅草公園 二割方上景気」の見出しで『都新聞』(大6・1・23)は大正六年(一九一七)新春の浅草娯楽街の様子を報じている。「世間は莫迦に景気が…… |
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五八 水平興行地 |
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抱月の予言は見事に的中した。欧州戦争が勃発し日本が参戦した直後の大正三年(一九一四)九月、次のように予測している。 之れは歐羅巴戦争如何に依る…… |
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五九 『生ける屍』 |
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大正六年(一九一七)六月から九月にかけて、抱月の母校早稲田大学では学長の人事をめぐって激しい争いが持ち上がり世間の耳目を集めていた。世に言う…… |
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六〇 松竹との提携 |
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我が国最大の興行資本・松竹合名社(現・松竹株式会社)から芸術座への交渉は、大正七年(一九一八)春、九州巡業中の旅先への手紙から始まる。仲介に立った…… |
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六一 「スペイン風邪」・死 |
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世界三十一か国を巻き込んだ欧州戦争(第一次世界大戦)は、大正七年(一九一八)四年目に入り新たな局面を迎えていた。この年三月ソビエト革命政府は…… |
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六二 芸術座自滅 |
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大正七年(一九一八)十一月五日朝、小雨の中をまさかとの思いで駆けつけた座員や脚本部員たちは、土色に変色した抱月の痩せこけた顔に対面し言葉を失った…… |
一一 終章 |
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六三 父母みんなの墓 |
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大正八年(一九一九)二月十二日、早稲田文学社主催の抱月の百日忌追悼会が計画され、島村家は中学生の嫡男震也の出席を要請された。だが、この時震也は…… |
島村抱月年譜 |
嶋村・島村家関係図 |
お話を伺ったお方 |
参考文献 |
あとがき |
著者略歴 |
人名索引 |
事項索引
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