芭蕉の俳論といえばまず「不易流行」が上げられると思う。不易と流行と言う言葉の意味を考えてみると「不易」とは変わらないこと。「流行」とは変わることとまったく反対の言葉を取り合わせたように見える。この事について複本一郎氏は「芭蕉は俳諧に、その俳諧性(新しみを大きな要素とする。)を保持したままで和歌的な質の高い文学世界を獲得してみようと言う (中略) それゆえ不易を和歌性、流行を俳諧性と把握しても間違いではないと思う。」(NHKブック、芭蕉俳句16のキーワード)と述べている。
去来抄(修行)には「この年の冬、初めて不易流行の教えを説き給へり」と記載されている。「この年」とは芭蕉がおくのほそ道のたびを終え、畿内に滞在中の元禄2年の冬である。これらに依って不易流行説の成立は元禄2年頃と思われる。
芭蕉は不易流行と言う言葉は直接には言っていない。ただそれに意味する言葉として「倭歌(やまとうた)の風流、代々にあらたまり、俳諧、年々に変じ、月々に新也(あらた)」(常盤屋句合の跋文)「風雅の流行は、天地とともにうつりて、只つきぬを尊ぶべき也」(三聖図賛の跋文)と述べている。ただこれらの言葉は俳諧としての不易流行説とは直接かかわりがないようである。芭蕉が確立した不易流行説は芭蕉の弟子たち(去来の「去来抄」、土芳の「三冊子」)らに依ってまとめられていった。
不易流行とは「千歳不易・一時流行」の略語。「三冊子」では「万代不易・一時変化」とも書かれている。
芭蕉の門人による不易流行論は2つの論に分かれる。一つは去来、支考などによる、不易の句と流行の句に分類して句姿、ないし句体として考える二元論と、不易・流行はともに「風雅の誠」と言う原点に根ざすと言う土芳などによる一元論とがある。
焦門では古株の其角はどのように言っているか?其角は元禄四年の「猿蓑集序」において「久しく世にとどまり、長く人にうつりて、不変の変をしらしむ」といい、同年刊の「雑談集」の中では「俳諧に新古のさかい分けがたし。いわば情のうすき句は、をのづから見あきもし、聞ふるさるるにや。また情の厚き句は、詞も心も古けれども、作者の誠より思ひ合むるゆへ、時に新しく、不易の功あらはれ侍る」といい、元禄七年刊「句兄弟」句合第十八番詞中には「千載不易の句を手本にして変転すなれば」と述べ「誠」を責める重要性を説いている。
参考 角川書店 「芭蕉の本・風雅の誠」 小西甚一編
桜楓社 「俳句辞典・近世」 松尾靖秋編
勉誠社 「元禄文学の開花・芭蕉と元禄俳句」
永田書房 「芭蕉の芸術感」 栗山理一著
芭蕉の高弟でもあり、焦門の2大俳書ともいうべき「去来抄」と「三冊子」の著者の去来と土芳の「不易流行論」を比べてみるとちょっとした違いがある。去来は「贈晋子其角書」において
「句に千歳不易のすがたあり。これを両端に教へ給へども、その本一なり。一なるはともに風雅の誠をとれば也。不易の句を知らざれば本たちがたく、流行の句を学びざれば風あらたまらず。よく不易を知る人は、往々にして移らずといふことなし。たまたま一時の流行に秀でたるものは、ただおのれがくちぐせの時に逢ふのみにて、他日流行の場にいたりて、一歩も歩むことあたはず。」
また、土芳の「あかさうし」には
「師の風雅に万代不易あり、一時の変化あり。この二つにきわまり、その本一なり。その一といふは風雅の誠なり。不易を知らざれば実に知れるにあらず。不易といふは、新古によらず、変化流行にもかかはらず、誠によく立ちたるすがた也。代々の歌人の歌を見るに、代々其の変化あり。また新古にもわたらず、今見る所むかし見しにかわらず、哀れなる歌多し。是まづ不易と心得べし。又、千変万化する物は自然の理(ことわり)なり。変化に移らざれば風あらたまらず。是に押し移らずというは、一端の流行に口質時を得たるばかりにて、この誠を責めざるゆえなり。責めず心をこらさざる者、誠の変化をしるといふ事なし。ただひとにあやかりてゆくのみ也。責むる者はその地に足をすえがたく、一歩自然に進む理なり。行く末幾千変万化するとも、誠の変化は皆師の俳諧也。『かりに古人の涎(よだれ)をなむる事なかれ。四時の押し移るごとく物あらたまる、皆かくのごとし』ともいへり。」
以上の考察については栗山理一氏の「芭蕉の芸術感」に詳しい。
『去来は「千歳不易・一時流行」といい、土芳は「万代不易・一時の変化」と言っている。ともにその本は一として「風雅の誠」を挙げている。一見まさに同類の表現であり、ともに師説を述べたものであればそれは当然と言える。
しかし仔細に読み比べてみると、重要なところで差異があることに気づく。去来は不易流行を句の姿として捉えている。明らかに「句に千歳不易のすがたあり。一時の流行のすがたあり。」といい、また「不易の句をしらざれば本たちがたく、流行の句を学びざれば風あらたまらず。と述べている。
これに対して土芳は「風雅に万代不易あり。一時の変化あり。」と述べ「不易を知らざれば実に知れるにあらず」という様に、不易と変化とは「風雅」にかかわることであって、「句の姿」ではない。
土芳の構想は「師の風雅に万代不易あり。一時の変化あり。この二つに極まり其の本一なり。其の一といふは風雅の誠なり。」につきる。「風雅の誠」を「本」として「万代不易」と「一時の変化」が生じるというのである。これは本体を「誠」とし、其の誠に本づく普遍の原理を「理」とし、流行活動する働きを「気」とする宋学の論理を転用したと言えよう。新古や変化流行を超えて存立する普遍性が「不易」に与えられ、一方「千変万化する物は自然の理(ことわり)なり」として、特殊性が「変化には与えられている。その変化を促すものは「誠を責め」「心をこらす」所にあると言う。してみれば、不易も「誠を本」として「よく立ちたる姿」であり、変化もその本である「誠」を「責める」所に現れるということになる。つまり、不易も変化もともに「誠」を一なる本としていると言う点では論理は整合する。静的なものと動的なものとは相反するものであるにもかかわらず、それが一なる本より生ずると解するのは矛盾がある。この矛盾した論理を統一する為には、静的なものと動的なもの。超時間的なものと時間的に限定されたものとは、別々のものであって、しかも別々のものではないということ、いわば両者は相即関係にあり、そこに不易と変化との同一性が認められなければならない。つまり不易性は固定することによって可能となるのではなく、不断に変化することによって初めて可能になるということになる。なぜならば不断の変化は「自然の理(ことわり)」であるとされるからである。それを「四時(しいじ)の押し移るごとく物あらたまる、皆かくのごとし」と述べている。
「不易流行論」にも書いたが、芭蕉は直接「常盤屋句合」の跋文に「詩は漢より魏にいたるまで四百余年、詞人、才子、文体三たびかはるといへり。倭歌(やまとうた)の風流、代々にあらたまり、俳諧年々に変じ、月々に新也」といい、「三聖図賛」にも「風雅の流行は、天地とともにうつりて、只つきぬを尊ぶべき也」と述べている。
これは風雅の伝統が語られている。しかも、この伝統は固定的なものとして捉えられているのではなく、歴史意識によって変化の相が見定められていることは、伝統の過去性とともに現在性が認められていると言うことにもなろう。』
以上おもに土芳の不易流行論について詳しく述べている。一方去来の不易流行論は土芳に比べて「誠」についての論が弱く、「去来抄」の中で魯町の問いに答えて『「物数奇(ものずき)なる句が不易の句で、和歌や謡曲の文句とりなど、表現に特殊な技巧をこらす物数奇な句が流行の句である』とし、流行とは形容、衣装、器物の「はやり」と同じだと言う様に、不易と流行との句を数寄物の有り無しなどにより別々に説こうとする点に力を入れている。しかしまた『流行の句は己に一つの物ずきありてはやる也。(略)或(あるいは)手をこめ、或歌書の言葉づかい、または謡の詞(ことば)取などをもの数寄したるあり。是等も一時流行し侍れど、今日はとり上るひとなし』(去来抄、修行)とも言っている。
やがてそれは其角が流行をえていないなどと言う「贈其角先生書」などの論争にもなって行く。去来の考えは新らしみを求める流行が俳諧の不易の本質だとするのである。不易は俳諧の実現すべき価値の永続性であり、流行はその実践と言うことになる。それに反対したのが許六の「血脈」であるが、これはまた別のところで書こうと思う。
理論的に言えは、土芳は不易と流行の本は「誠」と言う一元論。去来は不易と流行とを別々と考える二元論と言える。
参考 勉誠社 「元禄文学の開花・芭蕉と元禄の俳諧」
永田書房 「芭蕉の芸術感」 栗山理一著
角川書店 「芭蕉の本・風雅の誠」 小西甚一編
「三冊子」においての不易と流行との見解を求めてみると、不易とは俳諧より長い歴史を持つ和歌を例に挙げて、それぞれの時代に従った歌風の存在する事に言及し、その上で作品の制作年代が時間的に古いか新しいかとは関係なく人々に感銘を与える作品のあることを述べて、それが不易の基礎的条件である事を指摘している。「是まづ不易と心得べし」と言うのは、時代を超越した文芸的価値の永続性といえる。問題は「流行」についてだが、土芳は流行については2つのタイプがあるという。一つは一時的なはやりによってその読みぶりが世間に受け入れられたものであり、もう一つは万物すべてが無限の変化をつげるものであると言う宇宙の法則、摂理にしたがって変化するものである。和歌と同じように、俳諧にあっても変化する事が無ければ、一つの風体をいつまでも墨守する事になり、それでは新しいものが生まれる可能性のない事はいうまでも無いが、土芳は世情に迎合せんとする一時的なはやりと、変らざるを得ない内的必然性によって変化する事を明確に区別し、後者の変化に新風開発の原理を見出そうとした。しかもその後者の変化は、本質的に不易そのものであると考えている。不易は変化しない、変化するものは不易ではないとするのが一般的であろうが、土芳の所説は、それに真っ向から挑戦しているのである。この特異な理論を可能としているのは、不易と流行の根源とされている「風雅の誠」である。土芳は次のように述べている。「高く心を悟りて俗に帰るべしとの教也。つねに風雅の誠を責悟りて、今なすところの俳諧にかへるべしと云る也。」高く心を悟ることはつねに風雅の誠を責悟る事であり、俗に帰るべしとは今なすところの俳諧にかへるべしと言う事である。俳諧に帰るということは、俳諧の出発点である俗に帰れと言う事である。宗鑑や守武以来、俳諧は通俗性を基本にしてきたのである。しかし、談林派に見られるようなもじりや見立て、ナンセンスな空言などの素材や言葉の通俗性は心にまで及ばないとする。つまり俳諧の俗を通俗性の徹底と言う形で認識していたのではなく、高悟する事、つまり風雅の誠を責める事での通俗性でなければならないとする。「常風雅にいるものは、おもふ心の色、物と成りて、句姿定まるものなれば、取物自然にして子細なし。心の色うるはしからざれば、外に言葉を工(たく)む。是則(すなはち)常に誠を勤ざる心の俗也」すなわち、何か事物や現象に触れて微妙な心の動きが生じた時、それを表現する為に用いるべき素材が作為的ではなく、ごく自然におのずから句が出来上がるのを理想と考えると言うのである。その反対なのが「外に言葉を工む」と言う手法である。そもそも俳諧は伝統文化たる和歌連歌の制約を解き放ち、俗語をもまじえる自由さを追った文学であるから、その側面だけが性急に追求されると、談林の如き俳諧になる。芭蕉はその傾向を堕落と見、俳諧を和歌、連歌と同じレベルまで高めようとしたのである。そのために芭蕉が門人たちに「地ごしらえ」(三冊子。あかさうし)として課した修行が「風雅の誠」を責める事であった。
参考 角川書店 「芭蕉の本・風雅の誠」 小西甚一編
永田書房 「芭蕉の芸術感」 栗山理一著
芭蕉が奥の細道の旅の途中、羽黒山へ詣でた時、芭蕉を案内した地元の俳人に図司左吉(呂丸)がいる。呂丸は羽黒山麓手向 (とうげ)村の染物屋であったが、俳諧をたしなみ、この折に芭蕉の門人となっている。(後に京都で客死し、「当帰より哀れは塚のすみれ草」と芭蕉が追悼している。)呂丸は芭蕉を案内した時に聞かされた教えを「聞書七日草(ききがきなぬかぐさ)に書きとどめている。その中に「天地流行」と「天地固有」という言葉が書かれている。
参考 田辺聖子「奥の細道を旅しよう」
かるみとは芭蕉晩年の俳句理論であり、元禄五年(1692)五月七日付けの去来宛の芭蕉書簡に最初に見られる。許六は元禄十一年(1698)の「俳諧問答」(俳諧自讃之論)の中において「かるきと云は、言葉にも筆にも述べがたき所にえもいはれぬ面白所あるを、かるしとはいふ也。かるきとておもしろみのなき事は、うつけたるといふ物也」と述べている。又、去来の「去来抄」(同門評)の中に「俳諧は気鋒(きさき)にて無分別に作すべし」との芭蕉の言葉を載せている。この「気鋒」と「無分別」が芭蕉の「かるみ論」の重要なポイントと述べているのが複本一郎氏である。「気鋒」については元禄十五年頃の成立と思われる土芳の「三冊子」(赤雙紙)に「気鋒」について具体的な叙述がある。「実に入に、気を養ふと殺すと有。気先をころせば、句、気にのらず。先師も、俳諧は気に乗せてすべし、と有。相槌あしく拍子をそこなふ、共いへり。気をそこなひ殺す事也。」要は、「拍子」(調子、リズム)にかかわっての俳諧用語といえる。ちなみに三冊子のかるみに関する言説「木のもとは汁も膾もさくら哉」の自句(芭蕉句)に対する「花見の句の、かかりを少し心得て、軽みをしたり。」における「かかり」も「拍子」にかかわっていると複本一郎氏は述べている。
次に「無分別」については、たとえば「奥の細道」の日光のところで、仏左衛門を評しての「あるじのなす事に心をとどめてみるに、唯無智無分別にして、正直偏固の物也。剛毅朴訥の仁に近きたぐひ、貴稟(きひん)の清質、尤も尊ぶべし。」とみえるように、一つの理想境を示す言葉として用意られており、それが俳論用語として採用されている。ただ「無分別」なる言葉は、本来的に放逸に走る危険性を内包しているので、「かるみ」ブームの最中にあって、「聞きまよ」う俳人たちも少なくなかったようである。
支考は元禄十二年(1699)刊の俳論書、「続五論」において、
「俳諧は無分別のところにありて理屈のなしとのみいへば、吾門にもあやまりたる人ありて、眼前にさへぎりたる物を口まかせていひちらし、切字・てにをはの詮議もなく(中略)、一字半言もこころにおかざれば、人にへつらいなしといはれて、肌着一枚に世情をふみやぶりたるなど是を野鉄砲といふ。風雅の罪人なるべし。」
と述べ、二十年後の享保四年(1719)刊の俳論書「俳諧十論」では、
「ここに俳諧の行(こう)−路難あり。分別と無分別とは、上手と名人とのさかひにして、分別は理屈の静まらざるにおこり、無分別は道理の動かざるにすみやかなり。さるを芭蕉下の学者にも方法放下の風狂ありて、たまたま我が家の俳諧は無分別の所にあり、といへる故翁の一語を聞きたがへて、口にまかせていひちらすに、きのうをしふればけふ覚ゆればあすは上手となりて、江西・湖南にその洒落をしたへば、ほとんど我門の破滅におよばむとす。」
と警告している。ちなみに「方法法下の風狂人」とは惟然の事を指すと思われ、「眼前にさへぎりたる物を口まかせていひちらし」とは惟然の「梅の花赤いはあかいあかいかな」の句が念頭にあったと思われる。(惟然のこの句のことは去来抄にもいろいろと問題として書かれてあるが、これは別とところで書きたいと思う。)
芭蕉が「俳諧は気鋒にて無分別に作すべし」あるいは「我家の俳諧は無分別の所にあり」と発言した真意は何処にあったのであろうか?
「かるきというは、言葉にも筆にものべがたき所に、えもいはれぬ面白(おもしろき)所あるを、かるしといふ也。かるきとておもしろみのなき事は、うつけたるといふ物也。」と「かるみ」を理解していた許六は、元禄十五年(1702)刊の俳諧書「宇陀法師」において「当流はむつかしき事なく、無分別に理屈のなきがよし、といひなぐる人々あれど、それはさる事にしてすこし子細有べし。随分腸(はらわた)をつよく案じて、口外へ出す時無分別に理屈なくいふ事也。さやうにいひもてゆけば、後には俳諧消果(きえはて)て、野鉄砲の作者のみに成るべし。」との見解を示している。これは「無分別」の構造とも言うべきことを明らかにしている。すなわち「随分腸をつよく案じて、口外へ出す時無分別に理屈なくいふ事也。」の部分である。「随分腸をつよく案じる」ところの作句過程が「かるみ」における許六の「えもいはれぬ面白ところ」を生み出す事に繋がるのである。事実、許六自身、「俳諧問答」(俳諧自讃之論)において
「かるきといふは、発句も付句も、求めずして直ぐに見るごときをいふ也。言葉の容易なる、趣向のかるき事をいふにあらず。腸の厚き所より出でて、一句の上に自然とある事をいふ也。」
との「かるみの論」を展開している。一読明らかなように「腸の厚き所より出でて、一句の上に自然にある事をいふ也。」との「かるみ」の構造は、そのまま、先の「無分別」の構造とかさなって居る事がみてとれるのである。それは「かるみ」と「無分別」が極めて近い位置関係にあるということの証左でもある。
参考 勉誠社「元禄文学の開花U」複本一郎著「かるみの論・惟然を追って」
芭蕉の唱えた「かるみ」とは奇をてらった物や、単なる単純とは当然ながら趣が違う。許六に「かるみ」と「おもしろみ」との比較をした一文があるので参考にすると
「惣別おもき・かるきといふ事、趣向又は詞(ことば)つづき容易なるを、かるきと覚えて侍りて、上をぬぐひたるやうなる句、このごろいくばくか侍る。それはうつけたるといふものにて、かるきといふ物にはなし。面白、俗のよろこぶ所のしみつきたるごとき事を、おもきとはいふ也。かるきと云うは言葉にも筆にものべがたき所にえもいはれぬ面白き所あるを、かるしとはいふ也。かるきとて、おもしろみのなき事は、うつけたるといふ物也。この事翁にたづねて、よく究め置き侍るなり。」(俳諧問答・俳諧自讃之論)
これによると、芭蕉の唱えた「かるみ」とは、只見たもの、感じたものを平明に句にするのは「うつけ」と決め付けている。その中に「えもいはれぬ面白き所」がなければならない、と述べている。また、「言葉にも筆にものべがたき所」このことは言外にある余韻と考えても良いと思われる。ここのところが「かるみ」と「ただ事」との境目となるであろう。
参考 勉誠社「元禄文学の開花U」復本一郎著「かるみの論」
芭蕉が始めて本格的な旅をしたのが、貞享元年(1684)の「甲子吟行」別名「野ざらし紀行」と呼ばれている旅である。出立吟は「野ざらしを心に風のしむ身かな」から始まり、美濃大垣に到着した後の「死にもせぬ旅寝の果てよ秋の暮」と詠まれている様に、この旅のテーマは「旅」と「死」であった。初期の「甲子吟行」には「馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり」「猿を聞人捨子に秋の風いかに」などの漢文調などの芭蕉初期の俳風が残っている。しかし、後半に入ると「あけぼのや白魚白きこと一寸」「山路来て何やらゆかしすみれ草」などの小動物などに、「造化」(宇宙を創造し、支配するもの)の顕現としてのそれらの神秘と美を発見し、共に生きる事の喜びを共有する。ここにおいて芭蕉は漢文調、古人の模倣、破調などから脱却し,奇功を凝らした風も、温雅な自然体とする新しい俳風を得るのである。これらは単なる客観写生ではなく、老荘思想や宋学の影響、また「気先(きさき)」を持って「物の微」を直感的に捕らえていく禅の骨法に近い。無心に徹して対象と一体化、いわゆる「物我一如」の境地に入り、機が熟するのを待ってから露頭する「造化」の働きを感得し、これを詩として形象するのである。このことを弟子の土芳は「三冊子」において「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」「物の見えたる光、いまだ心に消えざる中にいひとむべし」」と芭蕉の言葉として伝えている。
参考 勉誠社「元禄文学の開花U・芭蕉と元禄の俳諧」
去来抄(先師評)に載っている話。
巴風の句に「下臥(したぶし)につかみ分けばや糸桜」と言う句があった。しかし芭蕉はこの句を評価しなかった。そこで去来は巴風を弁護する気持ちで「糸桜の十分に咲きたる形容、能く謂ひおほせたるに侍らずや」と質したところ、芭蕉は言下に「謂ひおほせて何かある」と一喝したという。去来はそのときの感想を「ここにおいて肝に銘ずる事あり。はじめて発句に成るべき事と、成るまじき事をしれり。」と述べている。「去来抄」の直ぐ前条にも「発句はかくの如く、くまぐま迄謂ひつくす物にあらず。」という芭蕉の言葉に支考が「はじめて発句といふ物をしり侍る。」と感嘆したという。
参考 栗山理一著「芭蕉の芸術観」永田書房
芭蕉が中国思想、特に荘子に多くの影響を受けた事は有名だが、芭蕉の代表的俳論「不易流行論」においては、宋学(朱子学)に原型を見ることが出来る。「師の風雅に万代不易有。一時の変化有。この二つに究まり、其本一つ也。その一といふは、風雅の誠なり。不易を知らざれば実にしれるにあらず。不易といふは、新古によらず、変化流行にもかかわらず、誠によく立ちたるすがた也。・・・・千変万化する物は自然の理也。変化にうつらざれば風あらたまらず。」これは許六の「三冊子」の中に在る不易流行論である。芭蕉が元にした宋学とは栗山理一氏によると「宋学では、宇宙の絶対者としての「太極」を想定し、その太極が万物を生成する創造力を「気」とし、気の流行活動する働きを支える不変の原理を「理」という。そしてその本体を「誠」とする。気は分かれて「陰陽」となり、更に分化して「五行」となる。万物・人倫はその理気・陰陽・五行の働きによって生成し、個々の小宇宙としてはすべて太極の理を備えていることになる。宇宙をこのような構造として捉える宋学の世界観を俳諧芸術論にも適用しようとしたのが芭蕉である。即ち、不変の原理である「理」を「天地固有」とし、流行活動する「気」を「天地流行」とし、その本体である「誠」を後に「風雅の誠」と呼ぶようになった。このように見れば、宋学の説く宇宙構造と芭蕉の説く俳諧理念の構造はおおむね符合する。後に笈の小文で『造化に随ひて四時(しいじ)を友とす』といい、『造化に随ひ、造化にかへれ』と言うのも、『造化』は宇宙の根本実在を指し、その造化の働きによって生ずる万象の四時の変化を友とするのが俳諧心ということになろう。造化の不変の原理を俳諧の「地」とし、造化の働きとしての「気」を俳諧の流行変化として捉えれば、「わが思ふこと」は思無邪として理にかない、万象が不断に変化するように、その俳諧も流行変化せざる得ないと言う事になる。」と述べている。
参考 栗山理一著「芭蕉の芸術観」永田書房
去来抄の一節。
「『岩鼻やここにもひとり月の客』(去来)。先師上洛の時、去来曰く『酒堂はこの句を月の猿と申し侍れど、予は客勝りなんと申す。いかが侍るや』先師曰く『猿とは何事ぞ。汝、この句をいかにおもひて作せるや』去来曰く『明月に乗じ、山野を吟歩し侍るに、岩頭又一人の騒客(風流人)を見付けたる。』と申す。先師曰く「ここにもひとり月の客、と己と名乗り出づらんこそ、幾ばくの風流ならん。ただ自称の句となすべし。この句は我も珍重して、笈の小文に書き入れける』となん。予が趣向は猶ニ三等もくだり侍りなん。先師の意を以て見れば、少しの狂者の感もあるにや」
酒堂が下五を「月の猿」と提案した事に対して芭蕉は「猿とはなにごとぞ」と言下に一蹴している。酒堂の発想は「巴峡秋深シ、五夜ノ哀猿月ニ叫ブ」(和漢朗詠集)などの漢詩句にしばしば詠まれている巴峡の猿によったものであろう。この様な詩句や画題のもたれる発想をすでに空疎とする芭蕉の考えがここには現されている。去来の着意は、岩頭に月を賞する一人の風流人を見つけて「明月に乗じて山野を吟歩」する自分の共感者を発見した喜びを詠んだ事になる。しかし、そのような遊吟自体の持つ風狂性は去来の発想では十分に表出されたことにはならない。その微弱な風狂性が、芭蕉の解のように自称の句とすれば、作者自らが岩頭にうずくまり、天空の月に向かって「ここにもひとり月の客が居るよ」と呼びかける激しい狂態が生じることになる。「明月に乗じて山野を吟歩」するのも俗心を離れた風騒の興ではあろうが、けれども芭蕉の解には、風騒の遊心そのものを対象化する異常な心意であり、去来はその激しさに打たれて「狂者のさま」を思い描いたのである。
参考 加藤楸邨著「芭蕉の本・詩人の生涯」角川書店
「辛崎の松は花より朧にて」の句鑑賞
「眼前体」の句。其角の「雑談集」編
其角の表わした「雑談集」の中に次のような逸話がある。
「伏見にて、一夜、俳諧もよほされけるに、かたはらより、芭蕉翁の名句いづれにて侍ると、尋出られけり。折ふしの機嫌にては、大津尚白亭にて、「辛崎の松は花より朧にて」申されるこそ、一句の首尾、言外の意味、あふみの人もいまだ見のこしたる成べし。其けしき、ここにもきらきらとうつろい侍るにや、と申したれば、又かたはらより中古の頑作にふけりて、是非の境に本意をおほはれし人さし出て、其の句誠に俳諧の骨髄得たれども、慥なる切字なし。すべて名人の格的には、さようの姿をも発句とゆるし申にやと不審しける。答えに、哉どまりの発句に、にてどまりの第三を嫌へるによりて、しらるべきか。おぼろ哉と申句なるべきを、句に句なしとて、かくは云下し申されたる成べし。朧にてと居られて、哉よりも猶徹たるひびきの侍る。提、句中の句、他に的当なかるべしと。此論を再び、翁に申述侍れば、一句の問答に於いては然るべし。但し予が方寸の上に分別なし。いはば、さざ波やまの入江に駒とめてひらの高根のはなをみる哉、只眼前なるは、と申されけり。」
元禄元年、其角が上洛した際、伏見西蓮寺で俳諧の座が持たれたらしい。その時其角はある人の問いに答えて、芭蕉の名句として「辛崎の松は花より朧にて」の句を褒め上げた。その時かたわらから其角の言葉によると「中古の頑作にふけりて是非の境に本意をおほはれし人」(俳諧に詳しい人?)という人が、「俳諧の骨髄は得ているが、この句は切れが無い。発句としてはいかがか?」との問いに其角が「朧にてとしたほうが、哉よりも響きがまさる。」と答えた。
後日、其角が師の芭蕉にその時の事を話すと、芭蕉は一句の理屈としてはそうだが、私の胸の中では、そんな思案は無い。ただ眼前の景をそのまま句に詠んだだけだ、と言ったという。例として挙げられているのは源三位頼政の歌で本当は「近江路や真野の浜辺に駒とめてひらの高根のはなをみる哉」が正しい。
この歌を芭蕉は「眼前体」または「見様体」の歌として挙げているので、辛崎の句も、同じく「眼前体」の句だと言うのである。
「眼前体」あるいは「見様体」とは歌学用語で、見たままをそのままに、あまり趣向を働かさせずに詠む和歌の一体の事である。
ちなみに同じ話が「去来抄」にも載っているが、その話はパート2で。
参考 「俳句の本・俳諧と俳句」より山本健吉・「軽み」の論序説
「辛崎の松は花より朧にて」の句鑑賞
去来抄より、「即興感偶」とは
前回、「辛松の」の句の其角編を書いたので、今回は去来編。
「『辛松の松は花より朧にて』芭蕉。伏見の作者、にて留の難有。其角曰、にては哉にかよふ。この故、哉どめのほ句に、にて留の第三を嫌ふ。哉といへば句切迫なれば、にてと侍也。呂丸曰、にて留の事は、巳に其角が解有。又此は第三の句也。いかでほ句とはなし玉ふや。去来曰、是は即興感偶にて、発句たる事うたがひなし。第三は句案に渡る。もし句案に渡らば、第二等にくだらん。先師重ねて曰、角来が弁、皆理屈なり。我はただ花より朧にて、おもしろかりしにみ、卜也。」
去来はこのホームページの「其角編」で書いた「雑談集」(元禄四年刊)を読んだ上で書いたのであろう。
文中にある呂丸とは芭蕉の奥の細道の途中、門人になった出羽羽黒山の郷士図司佐吉のこと。呂丸は元禄五年に江戸に芭蕉を尋ね、そのまま上京して病を得て六年二月二日に京で亡くなっている。ゆえに去来と会ったのはその京滞在の時であろう。
その時呂丸は、「朧にて」と留めたのは発句の格ではなく、連句の第三の格であると疑問を呈した。それに対して去来は、これは「即興感偶」の句であるから、発句たることに間違いは無い、と言った。
「即興感偶」とは、大津から湖を隔てて一里ほど北に、雨気を含んで朧な唐松孤つ松の夜景を望み、感を発して即座に句にしたと言うことである。
発句に必要な切字を欠き、第三と同様の「にて」留めとなっても、製作の場に即応した感興を即吟するといった発句の基本に従っている。
もし第三であったら、それは発句・脇句との関係を頭に置いて考案し、技巧的に句を構成する連句の第三とは本質的に違うというのだ。
この句が発句としての位を持っていることに注目し、そのよって来る所為を「感偶即感」に見た事は去来の卓見であろう。
「感偶即感」とは芭蕉の言う「物の見えたるひかり、いまだ心に消えざるうちに言ひとむべし」(赤冊子)と言うことである。
感動と表現との間の距離が可能なかぎり最短である事、それが「即興」である。その距離が大きくなるにつれて、そこに句案とか趣向とかいった作家の作為が介在する。作句の創作の中に、西洋の美学流に構成とか造型とかいった観念を持ち込もうとする人は、それだけ「即興感偶」から来る俳句の品、格、位から遠ざかる。芭蕉はそのような俳句の品を「物の見えたる光」がその中に消えずに残っているものと見た。
言い換えれば、物の「命」と言うことである。芸術を「かたち」として見るその先に「いのち」として見るところに、欧米流の芸術観に対する、東洋、日本の芸術観があるらしい。
しかし、芭蕉にとっては去来の解釈さえも、それは解釈であり、理屈であった。「予が方寸の上に分別なし」「汝等が弁皆理屈なり」と吐き捨てるように言っている。
晩年の芭蕉は目の前のものを虚心に捉えて、そのものの光が消え失せぬうちに、間髪を容れずに吐き出すことにもっぱら執着していた。造化の自ずからが、ただ端的に面白いのであった。そこには句案も趣向も要らないのである。去来の説は式目作法としての説であって、超理論的な感動の表白と説く芭蕉の主張とは本質が全く異なるのである。「見る処、花にあらずといふ事なし。思ふ所、月にあらずといふ事なし」(笈の小文)といった西行的心境は芭蕉の願いであったが、軽みを説きだした時、芭蕉はそれに近い心の境地に到達していたのである。
参考 「俳句の本・俳諧と俳句」より「山本健吉:軽みの論」筑摩書房
富山奏著「続芭蕉と現代俳句」泉選書
「俗談平話をただす」とは、「祖翁口訣」の一節にある言葉である。
「俳諧は中人以下のものとあやまれるは、俗談平話とのみ覚たる故也。俗談平話をたださんが為なり。拙きことばかり云を俳諧と覚たるは浅ましき事也。俳諧は万葉の心也。されば貴となく賎となく味ふべき道也。唐・明すべて中華の豪傑にも愧(はじ)る事なし。只心のいやしきを恥とす。」
ここで言う「俗談平話をただす」とは、日常に用いている歪んだ言葉を正すという事を言っているのではない。「俗談平話とのみ覚えたる故也。俗談平話をたださんが為なり。」とある様に、俗といわれる日常茶飯事の中に高雅なものを見付けるということである。
具体的に解明していくと、「俗談平話をただ」すために要求され期待される事は「心のいやしきを恥」づという事である。即ち心に風流心を存しないことを恥じるのである。何故かと言うと「心のいやしき」ままに風雅の本体を把握する事は出来ないので、「拙きことばかり云を俳諧と覚」えるようになるからである。
従って「心のいやしきを恥」じる者は心の高きを求めなければならないが、そのために芭蕉の指示している事は「俳諧は万葉の心也」という事である。
即ち、万葉集の志向しているものと、俳諧の本質とは同一という事である。
参考 杉崎重遠著「蕉風の終着駅」桜楓社