芭蕉俳句鑑賞2
「酒田のなごり日を重ねて、北陸道の雲に望む。遥々(えうえう)の思ひ胸をいたましめて、加賀の府まで百三十里と聞く。鼠(ねず)の関を越ゆれば、越後の地に歩行(あゆみ)を改めて、越中の国市振(いちぶり)の関に到る。」と芭蕉の代表句でもある「あら海や佐渡に横たふあまの川」の詠まれた北陸道、新潟の部分は「奥の細道」では、殆ど触れられていない。
もっとも、「越中の国市振」とあるのは、芭蕉の間違えでまだ「市振」は越後高田藩の関所である。
しかし、許六編の「本朝文選」巻之五「銀河の序」には、長い前書きと「あら海や」の句が掲載されている。
「北陸道に行脚して、越後の国出雲崎といふ所に泊る。かの佐渡がしまは、海の面十八里、滄波を隔てて、東西三十五里によこほりふしたり。みねの瞼難谷の隅々まで、さすがに手にとるばかりあざやかに見わたさる。むべ此の島は、こがねおほく出でて、あまねく世の宝となれば、限りなき目出度き島にて侍るを、大罪朝敵のたぐひ遠流せらるるによりて、ただおそろしき名の聞こえあるも、本意なき事におもひて、窓押し開きて、暫時の旅愁をいたはらむとするほど、日既に海に沈んで、月ほのくらく、銀河半天にかかりて、星きらきらと冴えたるに、沖のかたより波の音しばしばはこびて、たましひけづるがごとく、腸ちぎれて、そぞろにかなしびきたれば、草の枕も定まらず、墨の袂なにゆえとはなくて、しぼるばかりになむ侍る。
あら海や佐渡に横たふあまの川
この文でわかるように、芭蕉が見ていたのは「星きらきらと冴え」た天の川ではない。
「沖のかたより波の音しばしばはこび」その奥にある佐渡島であり、「大罪朝敵のたぐひ遠流せらるる」多くの歴史上の人物、日蓮、藤原資朝、藤原為謙、世阿弥、文覚を思い、「たましひけづるがごとく、腸ちぎれて、そぞろにかなしびきたれば、草の枕も定まらず、墨の袂なにゆえとはなくて、しぼるばかりになむ侍る」と、旅愁に浸り、涙を流すのである。
この事は佐渡に限られた事ではなく、歌枕を尋ね、古人の心に触れる事が「奥の細道」のテーマでもあったのである。
参考 白石悌三・乾裕幸編「芭蕉物語」有斐閣ブックス
尾形仂著「新版・おくのほそ道」角川ソフィア
「あら海や」の句に対して、「横たふ」は他動詞なので正しくは「横たはる」または「よこたふる」とあるべきだとする説がある。
金田一京助は、フランス語に習って、反射動詞(再帰動詞)を持ってきて、天の川がおのれを横たえるというような意味を与えている。
また、杉浦正一郎説では、漢文訓読の影響による語法だとする。
いずれにせよ、文法的には確かにそうであろうが、芭蕉が兄事した宗因に「阿蘭陀の文字が横たふ天津雁」があり、芭蕉は他にも「郭公声横たふや水の上」「春雨や蜂の巣つたふ屋根の漏(もり)」(この場合、『つたはる』、または『つたふる』)の句も作っているので、芭蕉的には問題にする事ではないのであろう。
山下一海氏は「文法的にいえば『よこたふ』は他動詞だから、これは自動詞『よこたはる』とあるべきだとか、他動詞にしても連体形だから『よこたふる』とすべきだなどと文法で説明しようとすれば困ってしまう。句意が不確かだから文法に則って句意を確かめるというならわかる。句意明確なものをわざわざ文法で説明しようとして、うまくいかないからと困惑するのもおかしな話である。」と述べている。
参考 白石悌三・乾裕幸編「芭蕉物語」有斐閣ブックス
山下一海著「名句物語」朝日新聞社
「猿蓑」巻之四「春」の部にある句。
作者は伊賀の荻子(てきし)。荻子は「芭蕉翁全伝」の著者川口竹人(ちくじん)の兄で、辻五平次景方と名乗る伊賀藤堂藩の陪臣である。
荻子は元禄3年の18歳の頃、土芳に俳諧の手ほどきを受けたと思われるので、元禄4年刊の「猿蓑」には、僅か一年の初心者で入集した事になる。
しかも、荻子が入集した句は、この一句のみであったが、芭蕉が「あだなる処を作して、もっともなつかし」と評価した事により、この句は注目を集めた。
句意は、武家か商家の家から、駕籠に乗せた雛が出て行くのを見て、「こかすなよ」と駕篭かきに声をかけた様な場面であろう。
「こかすな」といった俗語が利いている。
このことを「去来抄」では
「春風にこかすな雛の駕籠の衆
先師、この句を評していはく、『伊賀の作者、あだなる処を作して、もっともなつかし』となり。丈草いはく、『伊賀のあだなるを、先師は知らず顔なれど、そのあだなるは、先師のあだならするなり」
と述べられている。
これによると芭蕉は荻子の句だけを「あだ」と評したのではなく、伊賀の門人達全般を「あだなる」と評した事がわかる。
さらに丈草は、伊賀焦門の「あだ」なる風は、実は伊賀を故郷とする芭蕉自身の作風に原因すると言うのである。
ここで「あだ」という言葉は何かというと、詳しくは次回に書く予定であるが簡単に言うと「無邪気な素直さ」であろう。
参考 富山奏著「芭蕉と現代俳句」和泉選書
尾形仂著「俳諧史論考」桜楓社
この句が句会に提出されたら、客観写生、具象とやたらうるさい人は「本人が何を思って桜を見ているのか解らない」と言うかも知れない(私もそう思うかも。)
しかし古典が専門の大輪靖宏氏は「この句は、思い出す内容を示していないために、作者が思い浮かべている具体的な内容が分らない。逆に言えば、読者たる私たちは、それぞれ自分たち固有の思いをこめてこの句を見ることができる。(中略)この句は抽象的な表現をとっているだけに、読者がこの句を自由に利用することができるという面を持っているのだ」と述べている。
この句は芭蕉45歳の折の句である。前年の貞享4年10月25日に江戸を発ち、故郷の伊賀上野に滞在中の作である。
ここら辺まで来ると、芭蕉が何を思っていたかおぼろながら推察できる。
さらに真蹟懐紙には前書が書かれており、「探丸子の君、別墅(べっしょ)の花見もよほさせ給ひけるに、昔のあともさながらにして」とある。
探丸子とは、藤堂新七郎家の当主良長の事。そして芭蕉は若い頃良長の父に当たる良忠(俳号蝉吟)に仕えていたのである。
また別墅とは下屋敷のこと。
芭蕉は武士ともいえない無足人階級の生まれで、藤堂家に仕えたのも、料理人という話もある。
しかし、藤堂新七郎家を継ぐ予定だった良忠に気に入られた。良忠が嗜んでいた俳諧を芭蕉に導いたのも良忠であった。
このまま順調に行けば芭蕉も藤堂家の家臣として、別の生き方になったかもしれない。
しかし、良忠は家を継ぐ前に25歳の若さで病没してしまう。
良忠の子だった良長はこの時まだ胎内にいたらしく、藤堂新七郎家(五千石)は別家していた良忠の弟良重が継ぐ事となる。
当然、別家していた良重の家臣達も本家に出仕する事になり、それらの事によって芭蕉の居場所もだんだんと居心地の悪いものとなったのであろう、結局藤堂家を去ることになる。
後年、芭蕉が書いた「幻住庵記」には「つらつら年月の移りこし拙き身の科(とが)を思ふに、ある時は仕官懸命の地をうらやみ」と、当時の事を回想している。
しかし藤堂新七郎家を継いだ良重も24歳で亡くなり、良忠の子の良長が家督を継ぐこととなった。
この句が出来た時は良長は23歳に成長し、探丸と称して俳諧を嗜んでいた。
芭蕉が良長の父、良忠に仕えていた頃と同じ年頃である。
そのような状況で、芭蕉の心の中に去来したものは「さまざまの事」以外に表現の仕様が無かったのであろう。
この句の脇は探丸が「春の日はやく筆に暮れ行く」とつけている。
参考 大輪靖宏著「芭蕉俳句の試み」南窓社
加藤楸邨著「芭蕉全句・中」ちくま学芸文庫
パート1では、この句の読まれた背景を書いたが、芭蕉の俳文として有名な「笈の小文」にもこの句は採用されている。
「伊賀の国阿波の庄といふ所に、俊乗上人の旧跡有。護峰山新大仏寺とかや云、名ばかりは千歳の形見となりて、伽藍は破れて礎を残し、坊舎は絶て田畑と名の替り、丈六の尊像は苔の緑に埋て、御ぐしのみ現前とをがまれさせ給ふに、聖人の御影はいまだ、全おはしまし侍るぞ、其代の名残うたがふ所なく、泪こぼるる計也。石の蓮台・獅子の座などは、蓬・葎の上に堆く、双林の枯れたる跡も、まのあたりにこそ覚えられけりれ。
丈六にかげろふ高し石の上
さまざまの事おもひ出す桜哉」
笈の小文は貞享4年10月25日より5年4月23日まで、芭蕉が上方に旅した記録を元にした紀行文である。
しかし、この文は芭蕉の弟子である乙州が芭蕉が亡くなった15年後に刊行したもので、内容的に不自然な部分もあり色々と議論もされている。
しかしこの部分においての論は、その事は無視してもかまわないだろう。
俊乗上人とは俊乗房重源。鎌倉時代の僧で、東大寺を復興し、7箇所の不断道場を興隆し、護峰山新大仏寺はその中の一つ。
芭蕉が新大仏寺を訪れると、坊舎は跡形もなく田畑と成り果て、尊像の置かれた台は苔むしている。
しかし、そんな中でも上人の尊像は無傷で残っていた。
双林とは仏教伝説で、釈迦入滅の時に沙羅双樹の林がいっせいに枯れて白くなったことをいう。
まさにその事が今、目の前に起こっているのを見るようだ、と書き綴っている。
そしてその文の後に「さまざまの事」の句が置かれている。
この文に関してはパート1に書いたような懐旧の情は見えない。
むしろ「平家物語」にあるような「祇園精舎の鐘の声。諸行無常の響きあり」にあるような栄枯盛栄の情を読み取ることが出来る。
その事について大輪靖宏氏は「俳句にはこういう性格がある。偶然の結果であるにせよ、作者の意図にあるにせよ、句が特定の場に置かれると、そこで背景と響き合って意味の広がりを作っていくのである。」と述べる。
俳句は説明が出来ない、説明を拒否すると言われるが、そのことが周りの状況によって、句の読み方が変って行く事にもなりえるのである。
また加藤楸邨氏は「花」といわず「桜」と言ったことについて「『花』といわず『桜』と言ったところに桜の全容が時間を負ってそびえている感じがある」と鑑賞している。
桜は栄枯盛栄に関係なく、昔ながらの姿を芭蕉の目の前に現しているのである。
参考 大輪靖宏著「芭蕉俳句の試み」南窓社
加藤楸邨著「芭蕉全句・中」ちくま学芸文庫
「芭蕉文集」新潮社
枯枝に烏のとまりたるや秋の暮
延宝8年(1680)の作。「泊船集」には「秋のくれとは」と前書きが付いている。
新古今集にある「三夕(さんせき)の歌を意識し、「俳諧における『秋の暮』とはこれだと示したもの」(尾形仂)という。
枕草子以来烏といえば群れになってねぐらへ向かう姿を連想するのが通例だが、この句は枯れ枝に一羽だけ止まって動かない烏を詠んでいるのが俳諧である。
水墨画の題材に「寒鴉(かんあ)枯木」があるが、それの俳諧編といったところである。
二十数羽の鴉を配し、この句が画賛されてある絵があるが、これは絵師が旧来の慣習と誤解したための勘違いだという。
やはりこの句からイメージされるのは、一羽の烏がふさわしい。
ちなみに延宝8年は、芭蕉が日本橋の街中から深川の芭蕉庵へと移った年で、この句は閑寂美への開眼であり「芭蕉頓悟(とんご)」の句としても喧伝されているが、「それは誇張であろう。あくまで蕉風への過程の句と見たい」(加藤楸邨)と述べる。
この句は元禄2年刊の「あらの」には「かれ枝に烏のとまりけり秋の暮」とあり、その後、「泊船集」「三冊子」などに同形で書かれているが、「東日記」にこの句の形に改められている。
参考 中山義秀著「芭蕉庵桃青」新潮社
尾形仂著「芭蕉ハンドブック」三省堂
加藤楸邨著「芭蕉全句・上)ちくま学芸文庫
この句は元禄7年9月7日、芭蕉が奈良に一泊したときの句。
この旅に同行した支考に「芭蕉翁追善之日記」というのがあり、この時のことが詳しく書かれている。
芭蕉はこの日朝霧が立ち込める中、故郷の上野を実兄の半左衛門などに見送られて終焉の地となる大阪に向けて旅立った。
この日が芭蕉の故郷、および実兄との最後の別れとなることになる。
もちろんこれが最後の別れとなるとは誰も判るはずもないが、そのとき実兄の半左衛門は支考に対し、
「かねて引わかれたる身なれば、あはじゝとこそはあきらめつれ。互いにおとろへ行程は、別(わかれ)も浅猿(あさま)しうおもほゆる。」
兄弟でもずっと別れ別れに暮らしてきたのだから、また会う事もあるまいと諦めてはいるものの、お互い老いてからの別れは、ことさら辛く感じられる、と支考らに弟である芭蕉の世話をよくよく頼んだという。
その日は重陽の日だったので、是非とも奈良で過ごしたいと、無理をして強行を重ね、日暮れ頃芭蕉一行は奈良の宿に着いた。
その後、宿で仮眠をとり、「其夜はすぐれて月もあきらかに、(中略)鹿は声々に啼乱れてあはれなればいつしか風情の動き出て」猿沢の池周辺を吟行することになった。
その時できた句が「ぴいと啼く」の句である。
この句についての蕉門の反応や、芭蕉の見解については、パート(2)で。
ちなみに群馬在住の俳人北さん家のダレ犬モコは「めしくれ、めしくれ」と啼くという(ほんとだよ)。
参考 「俳句研究昭和63年10月号・特集・芭蕉の文学」富士見書房
この句について、当座にいた支孝は「此声は、その夜某所にありて、古き都の哀れさを知らば、いづれの人か涙をおとさざらん。支孝は鈴鹿の山中にも住みて、鹿の音のあはれも聞き覚え侍るに、此の五文字のかなしみ、今宵此処なはいかで承り候はんと感じけるに」と支孝は書いている。
支孝の考えでは、この句古都奈良での重陽の夜に聞く鹿の声というのがこの句の眼目と思えたのであろう。また、「夜の鹿」とあるので、鹿の姿は現れず、声だけが悲しく響いているという効果もみのがせない。
しかし、それに対して芭蕉は「此の句はやすき筋をいひ得たるよし」と言ったという。
芭蕉の晩年の俳論である「軽み」、そのものズバリを、平明に述べた句と考えているのである。
鹿といえば古来より、その優雅な姿を主に詠まれてきたが、この句では「ぴい」という擬声語や「尻声」といった、俗語を用い平明に歌い上げている。にもかかわらず、この句にはほんわりとした哀愁が漂う。
ここに芭蕉は新しい工夫を見たのであろう。
この日の支孝の句は「鹿の音や糸引きはへてつづら山」であった。この句と比べると芭蕉の句がいかに斬新だったかというのがわかるであろう。
さて、芭蕉の句に感動した支孝は、この日の事を京都や湖南の芭蕉の門人たちに書き送っている。
そしてはや3日後の11日には去来より「ならの鹿殊の外に感」との感想が書いてあり、文末には「北嵯峨や町を打越す鹿の声・丈草」「露草や朝日に光る鹿の角・野明」「啼鹿を椎の木の間に見付けたり・去来」と添えられていた。
また16日には大津の門人正秀より「奈良の鹿殊の外感じ」と書かれた書簡が届き、それにも「明星や尾上に消る鹿の声・曲翠」「霧の降る畳の上や鹿の声・臥高」とこれにも添えられていた。
今の時代と違い、通信網の発達していなかった江戸時代。蕉門の団結力はたいしたものである。
参考 「俳句研究・昭和63年10月号・特集芭蕉の文学」富士見書房
加藤楸邨著「芭蕉全句・下」ちくま学芸文庫
「奥の細道」がどの様な過程で出来たが書いてみたい。
「奥の細道」がいつごろ脱稿したか、それは定かではない。
芭蕉が「奥の細道」の旅を終え、大垣に着いたのが元禄2年の8月20日頃。
しかし、その後すぐに「奥の細道」が書かれたか、というとそうではない。
その後芭蕉は「幻住庵記」、「嵯峨日記」、「笈の小文」、さらには「猿蓑」の成立があり、多忙を極めている。
その後に「奥の細道」を執筆したのである。俳文学者の井本農一さんは「元禄5年後半以降むしろ6年が『奥の細道』の完成に力を入れた時期と見てよいのではあるまいか」と文献をあたって書いているが、細かい事は俳文学者にまかせここではかない。
芭蕉は脱稿した「奥の細道」を門人であり、書家でもあった素龍に清書を頼み、それが芭蕉のもとに届いたのが元禄7年4月。すでに「奥の細道」の旅から5年が経っている。
芭蕉は届けられた「奥の細道」を持って、上方へ最後の旅を行う。ちなみに芭蕉が持っていった清書本は「芭蕉所持本」と呼ばれている。
芭蕉はこの芭蕉所持本を、生前ほとんど人には見せなかった。(少し例外あり。これは後に)
旅の途中、もっとも信頼していた弟子の去来のもとを、芭蕉が訪ねたときも「元禄七年水無月、予が方に寓居ましまして、かつがつほのめかし玉ふ」(去来本「奥の細道」奥書)とある。現代訳すれば、去来「ねぇ、ねぇ、師匠。ちょっとだけ見せてよぉ。」芭蕉「見たいか?見たいか?でも、見せないよぉ〜だ。」去来「う〜ん、お師匠さんのいじわるぅ。」(群馬在住の俳人北さん訳)
そして芭蕉が亡くなったのがその年の元禄7年10月12日。
その後、去来が芭蕉の遺言により、清書本を芭蕉の死後所持していた芭蕉の兄から譲り受け、その代わりに自ら書写したものを兄半左衛門に贈っている。去来が落柿舎で書写したのが元禄8年9月12日。
この去来が書き写した「奥の細道」を、伊賀上野の門人たちが書写して、少しずつ広まっていく。
やがて版元の井筒屋から「奥の細道」が出たのが元禄15年、芭蕉没後8年目のことである。
参考 井本農一著「芭蕉の文学の研究」角川書店
稲垣安伸著「人と文学・松尾芭蕉」勉誠出版
「古池や蛙飛び込む水の音」(芭蕉)といふ句を見て、作者の理想は閑寂を現はすにあらんか、禅学上悟道の句ならんか、或は其他何処にかあらんなどと穿鑿(せんさく)する人あれども、それは只ゝ其儘(そのまま)の理想も何も無き句と見る可し。古池に蛙が飛びこんでキヤブンと音のしたのを聞きて芭蕉がしかく詠みしものなり。」(俳諧大要より)
参考 中沢新一他著「明治の文学・正岡子規」筑摩書房
「芭蕉の生涯は、旅人の生涯であったばかりでなく、漂泊者の生涯であった。『漂白の思ひやまず。』と、道の記の中に力強く書いてあったと思ふ。芭蕉に行かうとするものは、あの言葉の光を捉へることを忘れてはなるまい。
やがて死ぬ景色は見えず蝉の声
この句は、漂泊者の精神の光景を指摘して見せたやうで、何となく胸に迫る。」
これは島崎藤村さんが大正11年、51歳の時、「芭蕉のこと」という短文の冒頭の言葉である。
参考 久保田晴次著「脱出の文学」桜楓社
「二十二日、朝の間雨降る。けふは人もなく、さびしきままにむだ書してあそぶ。そのことば、
喪に居る者は悲をあるじとし、酒を飲む者は楽(を)あるじとす。「さびしさなくばうまからし」と西上人のよみ侍るは、さびしさをあるじなるべし。又よめる、
山里にこは又誰をよぶこ鳥 独りすまむとおもひしものを
独住ほどおもしろきはなし。長嘯隠士の曰く、「客は半日の閑を得れば、あるじは半日の閑をうしなふ」と。素堂この言葉を常にあはれぶ。予も又、
うき我をさびしがらせよ閑古鳥
とは、ある寺に独居て云ひし句なり。」
以上、芭蕉の「嵯峨日記」より。
この句の鑑賞は、パート2で。
参考 目崎徳衛著「芭蕉のうちなる西行」花曜社
この句は「奥の細道」の中にある、芭蕉さんの句。
芭蕉さんが旅をしていた頃は、象潟(さきがた)も松島と並ぶ名所といわれ、また象潟は芭蕉が訪れた最北の地と言われている。
その頃の象潟は、南北30キロ、東西20キロにもなる大きな潟で、九十九島、八十八潟(本当は小島の数は78で語呂のいい99島と言っていたようである)と呼ばれていたという。
しかし、芭蕉さんが訪れた115年後の文化元年(1804)6月4日、出羽地方を襲った大地震によって、一夜のうちに象潟の海は隆起して陸と化してしまった。
ここでは芭蕉さんは、能因法師が3年間幽居し、西行法師が「象潟の桜は波にうづもれて花の上こぐあまの釣舟」と読んだという能因島にも寄っている。もちろん今では単なる陸地になっていて、「西行法師歌桜の跡」という碑だけが立っているという。
さて、パート2では西施さんの話である。
参考 峰尾北兎著「奥の細道伝説紀行」博友社
高橋ちはや著「江戸の旅人」集英社文庫
いきなり漢詩の話である。
水光れんえんとして 晴れて方(まさ)に好し
山色空(くう)もうとして 雨も亦(また)奇なり
西湖を把(と)って西子(せいし)に比せんと欲すれば
淡粧(たんしょう)濃抹(のうまつ)総べて相宜(あいよろ)し
(光る湖 ひたひたと 晴れの景好く けぶる山 ぼんやりと 雨もまた妙 西湖の美 たとえみん 西施のさまに
うす化粧こい化粧 ともにうるわし)
この漢詩の作者は蘇轍(そてつ)さん、かの蘇軾(そしょく)さんの弟である。蘇軾さんといってもあまり知られていないかも知れないが、蘇東坡(そとうば)という別名が有名でしょう(ここらへんのことは 別ネタでね)。
この漢詩の題は「飲湖上初晴後雨(湖上に飲す 初めは晴れ後に雨ふる)」といい、蘇轍さん38歳の時の作。
この詩を作った時は(浙江省)に赴任していた時で、西湖のほとりで酒を飲み、一杯機嫌で即興で作った詩と言われています。
ここでは西湖の美しさを西施さんの美しさに喩え、雨のけぶる景色を西施さんの薄化粧に、晴れた輝かしい景色を西施さんの濃化粧に喩えています。
さて本題です。
芭蕉さんは「奥の細道」の象潟の所で「闇中に模作して、雨もまた奇なりとせば、雨後の晴色またたのもしと」と述べ、
「象潟や雨に西施がねぶの花」と書いてあります。
芭蕉さんは蘇轍さんの漢詩を下敷きにしながら、象潟の所を書き、象潟からさらに中国の西湖へと思いを巡らせているのです。
それにしても芭蕉さんの知識はすごいものがあります。
ちなみに群馬在住の俳人北さんの愚妻(愚かな妻と書いて「ぐさい」と読む)は「うす化粧こい化粧ともにわるし」となります。念のため。
参考 石川忠久著「漢詩への招待」文春文庫