その他の雑学3
藤原俊成(しゅんぜい)はかの藤原定家の父君である。
生まれは永久2年(1114)、鳥羽天皇の時代。
俊成は91歳という長寿だったので、生まれてから死ぬまでの間に歴代10人の天皇が代替わりしている。
俊成が生きた時代は平安時代から鎌倉へ、お公家様の時代から武家の時代へと代わっていく時代だった。
その俊成が中心となって編んだのが「千載和歌集」である。
その中の一首に「故郷花といへる心をよみ侍りけるよみ人しらず」と前書きのある
さざ波や志賀のみやこはあれにしをむかしながらの山ざくらかな
という歌が載っている。
しかし、俊成はこの歌の詠み人を知っていた。
その人は平家一門の中で文武両道の武人として知られた平薩摩守忠度(ただのり)である。
源平合戦の折平家が都落ちをする時、忠度がわざわざ夜に戻ってきて俊成の家を訪れた。そして、
「私はこれから死ぬだろう。しかし、私の詠んだ歌が一首でも勅撰和歌集に採られるのなら」
とこの歌を託したのである。
もちろん平家はその後滅亡する。
そして賊軍となった忠度の歌を、俊成は「よみ人しらず」として採用したのである。
この逸話は「平家物語」の巻七に載っている話である。
ちなみに群馬在住北さんの雑学。電車などでキセル乗車した人を駅員さんは「薩摩の守」と呼んでいたという。その心は「忠度(ただのり)」
参考 大橋敦夫他著「3日でわかる古典文学」ダイヤモンド社
豊臣秀吉と千利休とのお話。
利休の屋敷では珍しい朝顔を栽培しているとの評判であった。
その話を聞いた秀吉は、今度その朝顔を見てみたいと利休に望んだ。
もちろん、利休は喜んで秀吉を屋敷に招く。
喜び勇んでやってきた秀吉は、屋敷の庭を見て愕然とする。
なんと屋敷の庭には肝心の朝顔は一本もなかったのだ。
実はその日の朝、利休は庭に咲いていた朝顔をすべて摘み取らしていたのだった。
当然、不満顔の秀吉を利休は何事もなかった様に隣の茶室へと誘った。
秀吉が茶室へと入っていくと、そこには床の間に大輪の朝顔が一輪だけ活けられていたという。
この逸話について美術評論家の高階秀爾さんは「このエピソードは、日本人の美意識が華やかな装飾性を好みながらも、あらゆる部分を隙間なしに飾り立てるのではなく、時に思い切って主要なもの以外を切り捨てる大胆さを持ち合わせていることを物語っている。」と述べ、「切捨ての美学」と定義している。
参考高階秀爾著「日本美術を見る眼」岩波書店
新古今集巻16に載っている法橋行遍の歌の詞書には
「月明き夜、定家朝臣に逢ひて侍りけるに、歌の道に志深きことはいつばかりのことにかと尋ね侍りければ、若く侍りし時、西行に久しくあひ伴ひて聞きならひ侍りしよし申して」
と、定家が若いときに逢った西行に多大なる影響を受けた事が述べられている。
文治2年に「文治2年、円位上人(西行)、之を勧進す」として定家は「二見浦百首」を詠んでいる。
この時伊勢に住んでいる西行に進められて、伊勢神宮に百首を勧進したのは、定家、家隆、寂蓮、などの当時一流の歌人達だったという。
当時の西行の影響力が知られる。
しかしである。伊勢神宮といえばなんといっても「キング・オブ・神社」。伊勢神宮は神仏習合を厳しく拒絶し、僧の神宮参拝をあくまで拒否してきた所である。
平安時代に成立した「延喜式神名帳」には2861の神社が載せられているが、神宮を名乗っているのは伊勢神宮と鹿島神宮、香取神宮だけだという。
そしてなにより伊勢神宮(内宮)に祭られているのが群馬在住の俳人北さんではもちろんなく、皇祖先天照大神である。
それまで僧徒として公式神宮参拝を行っているのは、かの名僧行基、増基、また西行に東大寺再建の募金を依頼した重源くらいだという。
さらに「神もほとけなりけり」と詠み、家集に収めているのだからたいした者である。
なお定家の「二見浦百首」のなかに、のちに「三夕の歌」と知られる一首が入っているが、これは別ネタで。
群馬在住の俳人北さんの雑学・・・神社と神宮の違い。
専門家によると、「社(やしろ)」は「屋(や)の代(しろ)」であり、「代」とは「依代(よりしろ)」の「代」で、神霊が乗り移るものをいう。
それに対して「宮」は「屋(や)」に接頭語の「み」が付いたもので、神がいる御殿を意味する。
すなわち、神さまが住んでいる御殿が「神宮」、神が降りてくる場所が「神社」と考えられている。
参考 堀田善衛著「定家明月記私抄」ちくま学芸文庫
井上宏生著「神さまと神社」祥伝社新書
以前、藤原定家が西行に進められ、伊勢神宮に「二見浦百首」を勧進した事は書いた。
その中の一首に、
見渡せば花も紅葉もなかりけり浦のとま屋の秋の夕暮
がある。
これは後に新古今集に撰入され、同じく新古今集に収められた
さびしさはその色としもなかりけり真木立つ山の秋の夕暮 寂蓮法師
心なき身にもあはれはしられけり鴫立つ沢の秋の夕暮 西行法師
と共に「三夕の歌」として知られている。
個別の鑑賞は、後暇なときに(毎日暇なくせに・群馬在住の俳人北さん注)。
参考 堀田善衛著「定家明月記私抄」ちくま学芸文庫
「パブロ、ディエゴ、ホセ、フランシスコ・デ・パウラ、ファン・ネポムセノ、マリア・デ・ロス・レメディオス、クリスピーン、クリスピアーノ、シプリアノ・デ・ラ・サンティッシマ・トリニダッド」
これがパブロ・ピカソの本名。長い・・・・・・・。
でも、この長い名前を見て、「あれ?」と思った人がいるかも知れない。
「ピカソ」という名が見えないのである。
では、なぜ「ピカソ」と呼ばれるようになったか?
それは彼の描いた絵に「ピカソ」、あるいは「パブロ・ピカソ」とサインしているから。
実は「ピカソ」とは、彼の母の「マリーア・ピカソ・ロペス」から取っている。
彼は母への親愛の情から、「ピカソ」とサインするようになった。
ちなみに群馬在住の俳人北さんは、愚妻から「マザコン」と呼ばれている。
参考 布施英利著「君はピカソを知っているか」ちくまプリマー新書
詩人はなぜ詩を書くのか?
金子光晴いわく、
「腹の立つときでないと詩を書かない」
北川冬彦いわく、
「なぜ詩を書くか、私にとっては、現実の与えるショックが私に詩を書かせるのだ、というより外はない。」
高橋新吉いわく、
「自然の排泄に任すのである」
村野四郎いわく、
「私は詩の世界にただ魅力を感じるから詩を書きます。」
深尾須磨子いわく、
「私が存在するゆえに私は詩を書く」
田中冬ニいわく、
「私はつくりたいから、つくるまでであると答えたい」
寺山修司いわく、
「なにしろぼくが詩を書きはじめた動機は人に好かれるため、だったのだから」
群馬在住の俳人北さんいわく、
「女の子にもてたいから。」
参考 山之口獏著「山之口獏詩文集」講談社文芸文庫
寺山修司著「悲しき口笛」立風書房
私の生まれた村、詳しく云えば日向国宮崎県東臼杵郡村大字坪谷村は山と山との間に挟まれた細長い峡谷である。ことに南には附近第一の高山である尾鈴山がけわしい断崖面を露(あら)わして眼上に聳えているので、一層峡谷らしい感じを与えて居る。村の長さは東西に延びて四五里もあるだろうが、戸数は僅か二百か三百足らずのものであると思う。私の家はその一番戸であった。つまり村の入口に当たっている。(中略)そして村の眺望の基調を成している尾鈴山をば殆ど正面に、而してまたやや斜めにその全体を眺める様な地位に当たって居る。晴れた日も悪くはないが、私の家の眺望は雨の日が特にいい。それは雲と山との配合が生きて来るからである。元来この尾鈴山はその南面の太平洋に臨んだ方は極めてなだらかな傾斜で高まって来て四千尺近い頂上となり、急に北に面して削り落とした様に岩骨を露わしながら嶮しく切れているのである。常に陰影の多いその山の北面には、晴れた日でもよく雲を宿しているが、一朝雨降るとなると山全体が、いやその峡谷全体が、真白な雲で閉ざされてしまう。そしてその雲の徂徠によって到るところの襞の多いその嶮山が恰も霊魂を帯びたかの様に躍動して見えるのである。
私はものごころのつく頃から痛くこの渓と山の雨とを愛した。で、歌の真似などを始め出して雅号というものを使う様になると先ず雨山と称したものであった。白雨とも云った。現に使っている牧水というのも当時最も愛していたものの名二つを繋ぎ合わせたものである。牧はまき、即ち母の名である。水はこの渓や雨から来たものであった。(若山牧水・坪谷村より)
参考 若山牧水著「若山牧水随筆集」講談社学芸文庫
「伝統川柳ーーー実にイヤな言葉である。誰がこんな名をつけた。伝統川柳に近代のおもひを加へた一句をモノする一党!それがどうして伝統だ。本格川柳ーーー本格川柳ーーー僕たちは本格川柳と呼ぼう。」
これは番傘を創刊主宰した川柳人、岸本水府が昭和5年11月号の「番傘」巻頭に書いた本格川柳を誇示した宣言文である。
水府がわざわざ本格川柳と命名したのは、江戸時代から続く古川柳との違いを強調し、新しい時代の川柳として本格川柳を新たに立ち上げようとした為である。
俳句にも右派から左派?があるように、川柳といってもたんなるサラリーマン川柳と考えるのは大間違い。川柳にも色々な流派がある。
よく「俳句と川柳との違いは?」などの問いに、「俳句は季語と切れがあり・・・」「俳句は自然を、川柳は人事を・・・」などと説明する方々もいらっしゃるが(敬語のつもり)そんな簡単なものではない。
参考 田辺聖子著「道頓堀の雨に別れて以来なり」中央公論社
「学」という字の訓読み「まなぶ」は「真似ぶ(まねぶ)」から来ている。見てわかるとおり、「学ぶ」とはもともとは「真似る」ことだったのである。
たとえば書道の勉強法に「臨書(りんしょ)」という方法がある。これは手本を前にしてひたすら真似る方法だが、他にも「引き写し」という手本を下に敷いて、透いて見える文字をなぞる方法。「双鈎填墨(そうこうてんぼく)」という、文字の輪郭を毛筋一本まで写し取って、その輪郭からはみ出すことなく、一筋の空白も残さず墨で書いていく方法などもある。
中国では「双鈎填墨」した書が国宝になっているという。
清の乾隆帝が三稀堂(さんきどう)に収めた王義之の「快雪時晴帳(かいせつじせいじょう)」である。王義之は書の神様と讃えられた人だが、真筆は一つも残っていない。みなこのように伝えられてきたものだけである。
しかし、毛筋一筋もあまさず写し取れば、手本と真似たものとの差がないではないか?と思われるのだが、書家の鶴渓さんは
「個性を没して、ひたすら手本の個性に同化しようと努力しても、真の個性は努力をあざ笑うように厳然と屹立している。しかし、そこまでたどり着いても、どうしても埋まらない手本との違い、それが、実はあなたの新しい個性なのである。王義之の写しの「快雪時晴帳」が国宝とされるのも、そこまでたどり着いた個性による作品だったからだろう。」と述べる。
よく、俳句の上達法として、好きな俳人の句を徹底的に真似てみるという方法がある。邪道ではあるが、これも「学ぶ」の精神にあった方法なのかもしれない。
しばらく、このシリーズで「真似る」「習う」等を書いてみたい。
ちなみに群馬在住の俳人北さんは、「盗作の神様」と呼ばれている。
参考 南鶴渓著「文字に聞く」毎日新聞社
東山魁夷さんは、明治41年(1901)横浜の海岸通りで生まれました。父親は船具商を営んでおり、魁夷さんが3歳のとき神戸へと引っ越したそうです。
これは父親の船具商としての商売がうまくいかなくなったからだそうです。
少年時代の魁夷少年は
「私は三人兄弟の真ん中で、外ではおとなしい、すなおな少年であったが、心の中にいつも密室を持っていて、そこに孤独な遊び場を作っていた。(中略)幼い時から部屋に籠もって絵を描くのが好きであったことは、関連が無いとは思えない。中学生になると、山や海辺に独りで自分を置くことを何よりの安息と感じるようになった。として父の反対と母の心配に、幾度かためらいながらも、画家になる道を選んだ」とある。
そんな魁夷青年を変えたのが大正15年の東京美術学校の入学と、その年の木曽の御岳に登ったことでした。このときは10日間のテント生活を経験しました。彼の手記には
「私はこの旅で、それまでに知らなかった山国の人々の素朴な生活と、山岳をめぐる雄大な自然に心を打たれたのです。それは私が絵に志してスタートしたその頃の緊張した気持ち、一つ一つ骨折って積み上げてゆく意思的な努力といったもの、その象徴が山国の姿であったのです。厳しい冬が長い山国、それにしっかりと耐えている人や樹木、その内奥に豊富なものを深くたたえながら、何と山々は孤独であることか。少年時代に接していた神戸をめぐる自然は親しみ易く、明るく、楽しいものでありましたが、甲信の山々に感じる荘厳なもの、深いものは無かったことを痛切に感じたものです。」と書いてあります。
それ以後、魁夷さんは富士、八ヶ岳、駒ケ岳、上高地と歩き、それらを絵に描いていきます。そして昭和4年の第十回帝展において「山国の秋」(戦災で焼失)が初入選したのです。そのとき魁夷青年は美大の4年生でした。
参考 桑原住雄著「東山魁夷の世界・遍歴と祈りの旅」講談社文庫
日本における中国史の中で、一番人気があるのが「三国志」と言われる、魏・呉・蜀鼎立時代ではないでしょうか。
三国志といえば、「三国志演義」の影響で、劉備玄徳、諸葛孔明、関羽、張飛が活躍する蜀が有名ですが、実際の国力からいえば魏が群を抜いていて、呉と蜀が同盟して初めて魏と対抗できるくらいの国力がありました。
そして小国の蜀がうまく魏と呉とのバランスをとって、蜀を存続させるよう苦労した諸葛亮孔明が日本では名軍師として人気があります。
魏の主人公である曹操は、日本で言えば信長的な名将だったのですが、文学の方でも才能がありました。
曹操は実力的には後漢王朝の実質支配者でしたが、自身では後漢王朝を簒奪する事はありませんでした。
曹操の死後、息子曹丕(そうひ)が後漢王朝最後の皇帝献帝より禅譲を受け文帝と称し魏王朝が始まることになります。
その文帝は自らの権力を保持する為に、近親の者たちをつぎつぎに粛清していきました。
ようするに皇帝となれる資格のある者たちを、処刑、流罪にすることで自らの権力を後世に残そうとしたのです。
その中の一人に、弟である曹植がいました。
これは当時のエピソードを記した「世説新語」にある話です。
あるとき文帝は曹植に七歩の内に詩を作ることを命じ、それが出来なければ処刑すると無理難題を命じたそうです。
しかし、曹植はその場で即座に
豆を煮てもって羹(あつもの)と作(な)し
し(変換できず。納豆のようなもの)を濾(こ)して以て汁と為す
まめがらは釜の下に在りて燃え
豆は釜の中に在りて泣く
本(も)と是れ根を同じくして生じたるに
相い煎ること何ぞ太(はなは)だ急なる
この詩は「七歩の詩」といわれています。
しかし「七歩の詩」は曹植の文集には収められておらず、真作かどうかはわかりません。
しかし、実際に曹植は文帝が即位した翌年、曹植のお目付け役として付けられた役人に、酒に酔って礼をかいたとして弾劾されています。
幸いまだ母親である太后が健在だったので重罪を免れ安郷候に移されるだけですんでいますが。
ちなみに日本人にも親しい三国時代もわずか50年で魏・呉・蜀の三国とも滅びてしまいます。
参考 陳舜臣著「中国の歴史3」講談社文庫
中原中也さんの父親、謙助さんは山口県厚狭郡厚東村棚井の農家に生まれた。旧姓は柏村。軍医学校に学び、明治33年、山口県の温泉町湯田で外科の中原病院を営んでいた中原家の一人娘福さんと結婚。中原家の女婿として中原姓を名乗った。その後、軍医として各地を遍歴した後、大正6年依願予備役となり、中原家の家業を継いでいる。
その謙助さんが中原中也さんを生んだのは、明治40年、旅順の病院付軍医として勤務されていたときである。
さて、中原中也さんの名の由来であるが、父親と母親の記憶が違うのである。
まず、父親の謙助さんは、「中也」の名付親はかの文豪、森鴎外さんだという。
謙助さんと鴎外さんとの関係は、謙助さんが軍医学校の学生だった頃、森鴎外さんは軍医学校の校長だった経緯がある。また、父謙助さんは森鴎外さんに私淑し、軍医時代に地方の新聞社に短編小説を掲載したことがあったという。
そのいきさつから考えると、「中也」の名付親が森鴎外さんというのも、あながちありえない話ではない。しかし、なぜ「中也」という名にしたのかははっきりしない。
そして母親の福さんはまた別の理由を述べている。
それは中也さんが生まれたときの、父謙助さんの上官、軍医大佐中村六也さんの「中」と「也」を貰ったというのである。
これだとなぜ「中也」という名にしたかはハッキリとわかる。
参考 大岡昇平著「中原中也」講談社文芸文庫
三十六歌仙とは、平安時代の歌人藤原公任(きんとう)が優れた和歌を集めた「三十六人撰」に選ばれた人たち、
柿本人麻呂、紀貫之、凡河内躬恒(おうしこうちのみつね)、伊勢、大伴家持、山辺赤人、在原業平、僧正遍照(へんじょう)、素性(そせい)法師、紀友則、猿丸太夫、小野小町、藤原兼輔、藤原朝忠、藤原敦忠、藤原高光、源公忠、壬生忠岑(ただみね)、斎宮女御徽子(さいぐうのにょごよしこ)、大中臣頼基(よりもと)、藤原敏行、源信明、源宗千(むねゆき)、源順(したがう)、藤原清正、源重之、藤原興風(おきかぜ)、藤原元輔、坂上是則、藤原元真、大中臣能宣(よしのぶ)、壬生忠身(ただみ)、小大君(こおおきみ)、藤原伸文、平兼盛、中務(なかつかさ)の36名。
結構、知らない名前が多い。
ちなみに群馬在住の北さんは、「オレの名がない!」と怒っていたが、あたりまえである。
参考 細野正信著「日本画入門」きょうせい
水墨画は、もともとは中国の唐の時代に興ったとされる。
それが禅宗文化の渡来とともに、室町時代に入ると、山水画、花鳥画が流行し、雪舟などによる相国寺派、真能(しんのう)などの同朋衆(将軍家に使え、雑用や諸芸に従事した人々)などの阿弥(あみ)派、東福寺の画僧明兆の流れを汲む明兆派、蛇足(じゃそく)などの大徳寺派と多くの流れが生まれた。
しかし、なんといってもこの時代のスターは雪舟であろう。
そして雪舟に師事した常陸の国の禅僧に雪村がいる。
その雪村が書いたのが日本で最初の画論「設問弟資(せつもんていし)」である。その中には
「画は則ち形は万象に倣ひ、筆跡の省略は師により、筆力は自己の心意に止めて筆を振うべきなり」と述べる。模範は自然、万象に求め、技術は師の教えに従う。しかし、最後は自分の創意が肝心。ということか。
この雪村、たいした自信家らしく、
「予は多年雪舟に学ぶといへども、画風の懸隔たるを見よ、如何」と、師を越えたと自負していたという。
しかし、最近の研究によると、雪村は雪舟の弟子ではなかったという説もあり、後世の作り話という説も。
参考 細野正信著「日本画入門」ぎょうせい
岡倉天心さんが亡くなった後、天心夫人である元子さんが「日本美術院史」に書いたエピソード。
「五浦の研究所で、観山サンが岩崎家の依頼を受けて松方侯爵の金婚式の御祝に差上げるといふ毘沙門弁天を六曲屏風に描いた時でした。
主人は、それを観て研究所から帰るなり、釣に出掛ける船の用意までしてあつたのを止めまして、飲み始めました。
夕方になり、夜になり、夜更けになりましても止めません。
おやすみになりましたらいかがですかと申しましても寝もしませんで、到頭夜明けになりました。
その時になつて始めて主人が申しますのには、昨日研究所に往つて観山の弁天を見て小言を言つて来たから、下村も多分寝ないで居るだらう。オマイ観て来いといふのです。
それで私は未明の露を踏み分けて研究所まで参つて見ますと、果たして観山サンは屏風の前に坐って居られるのです。
それで前日に主人が弁天の絵を見た時に、よくは出来ましたが、琵琶を持つて居ても琵琶の音は聞こえて居ませんと言つたぎり戻つて来たのだといふことを知りました。
観山サンはそれから一晩考へまして、弁天の座下にニ三本『ヒアフギ』の花を添へて描かれたのです。
主人はそれを見て初めて楽の音が聞こえて来ましたと申されました」
岡倉天心さんは近代日本美術に尽くした功労者であり、五浦時代の横山大観さん、菱田春草さん、下山観山さんなどとの流浪生活は有名。
そこら辺のことは、またボチボチと書いていく予定。
ちなみに群馬在住の俳人北さん宅に笑い声は聞こえない。
参考 近藤啓太郎著「大観伝」講談社
岸にせせらぎの音を立てて流るる河水よ、お前は休みなしに何処へ行く、
「私は海へ行く」
海へ去ってそれからどうする。それで終いではないか。
「私は水蒸気となり雨となりまた河と流れ、斯くの如くまた海にそそぐ」
水よそれは何のためであるのか、徒らなことではないか、
「何のためだか知らない、唯こうやって居るのが私の悦びである」
以上、画家村上華岳の画集に添えられた手記より。
参考 東山魁夷著「風景との対話」新潮選書
来年のNHKドラマは上杉景勝、直江兼続だそうである。
だったらそれに関連して、上杉謙信の辞世の句で今年を締めくくりたい。
上杉謙信はやたら戦は強いが、軍略家ではなかったと言われている。
その根拠はあれほど連戦連勝していながら、越後(新潟県)とその周辺しか領有出来なかった。
しかし、謙信を取り巻く地政学上の問題を考えるならば、関東には戦国時代有数の名将北条氏康、甲斐から信濃にかけては、名将武田信玄、北の東北地方には、名門の最上、伊達氏が根を下ろし、北陸地方の越中、能登においては、あの常識はずれの織田信長も手を焼いた、一向一揆の勢力が控えている。
まして、越後は雪国。冬になればほとんど遠征には出られない。
それらを考えてみれば、やはり上杉謙信は戦国きっての名将といえるであろう。
しかし、上杉謙信も晩年、わずかに光が見えてきた。
その上杉謙信の晩年から書いていきたい。
織田信長を破り、京都へ上洛しようとした武将としては武田信玄が有名であるが、信玄のライバル、上杉謙信も織田信長を破って京都へ上洛しようとした武将である。
織田信長も謙信を警戒し、贈り物などをして謙信の機嫌をとっている。
その一つが、有名な狩野永徳が描いた「洛中洛外図屏風」である。
さて、晩年の謙信に上洛する機会が訪れる。
長年のライバルだった北条氏康、武田信玄が相次いでなくなる。
天正4年には本願寺光佐との和睦が成立、長年謙信を苦しめてきた一向一揆の勢力が同盟者となりこれで京への道が開けてきた。
同年、謙信は能登の七尾城を攻略する。
能登の国は畠山氏の領国だったが、有力家臣らによる勢力争いで国内は乱れていた。当時の領主は春王丸といってまだ幼少の2歳。実力のある家老らが共同で治めていた。
しかし、家老らの中にも長氏の織田信長派と、遊佐、温井氏らの謙信派とに分裂していた。
そして遊佐氏らはクーデターを起こし、信長派の長氏らを追放。
謙信は能登を攻略することに成功する。
さらに信長派の長氏を援護しようとした、柴田勝家、前田利家らの織田軍を加賀手取川にて撃破。
加賀の北半分を攻略する。
その後、謙信はいったん越後へ帰り、ひとまず関東を平定してから、上洛しようとする。
しかし、関東出陣直前の天正6年3月9日、突然脳溢血で倒れ、13日、帰らぬ人となる。ときに49歳。
死因は度重なる遠征と、大の酒好きが原因と言われている。
謙信は大の酒豪であったという。山形県にある上杉神社には謙信愛用の春日杯、馬上杯が所蔵されているが、その杯はなみの大きさではないという。
謙信は亡くなる一ヶ月前に、どういうわけか肖像画と辞世の句を残している。
そして肖像画のほうは謙信が亡くなった日に完成したという。
四十九年一睡夢 一期栄華一盃酒
四十九年の我が生涯は一睡の夢に過ぎなかった。この世の栄華は一杯の酒に等しい。
謙信らしい辞世の句である。
参考 「北陸の名族興亡史」新人物往来社
坂上天陽著「軍神の系譜」f学研M文庫
「ああ!永劫に苦しまねばならぬのか、それとも、永劫に美をのがれ続けなければならぬのか?自然よ、無慈悲な魔女、つねに勝ち誇る敵手よ、もうたくさんだ!私の欲望と誇りをこれ以上誘うことを止めよ!美の探究とは、芸術家が、打ち破られるまえに恐怖の叫びをあげる決闘である。」
ボードレール・「パリの憂鬱」より「芸術家の告白の祈り(抜粋)」
これは吾妻鏡にあるエピソード。
文治2年、西行は東大寺大仏殿再興の勧進のために、東海道から奥羽にかけての旅に出る。
このとき西行69歳。
もちろんこの頃の平均寿命は現在とは比べ物にならないから、当時としてはかなりの高齢といえるだろう。
そして8月、鎌倉に至り源頼朝に謁する。
この時頼朝が西行にむかって、歌道について尋ねると西行は
「詠歌は、花月に対して動感する折節は、僅かに三十一文字を作る許(ばかり)なり、全く奥旨を知らず、然れば、是彼報じ申さんと欲する所無しと云々」(以上吾妻鏡)
このとき西行は頼朝の引き留めも聞かず、頼朝より贈られた銀づくりの猫を門外の嬰児に与えて去ったという逸話がある(東鏡)。(これを聞いて群馬在住の俳人北さんは、西行は犬派だ、と言ったらしいがあまり関係ないと思う。)
西行について小林秀雄さんは
「如何にして歌を作らうかといふ悩みに身も細る想ひをしてゐた平安末期の歌壇に、如何にして己れを知らうかといふ殆ど歌にもならぬ悩みを掲げて西行は登場したのである。彼の悩みは専門歌道の上にあったのではない。陰謀、戦乱、火災、飢餓、悪疫、地震、洪水、の間にいかに処すべきかを想つた正直な一人の人間の荒々しい悩みであつた」
確かに西行の和歌は、思想的な歌が多い。しかしそれは絶えず自分自身を見つめることであり、絵空事の歌道より、自分自身の心の内を深く見つめ、それを表白することが西行の和歌だったのではないだろうか?
参考 「小林秀雄全集(西行)」筑摩書房
東山魁夷さんが「山国の秋」にて第十回帝展にて入賞したものの、その後しばらく不遇な時代を送ってました。
さらに魁夷さんを襲ったのが、戦争という悲劇でした。
しかし、その戦争によって魁夷さんは貴重な体験をしています。
そのことについて魁夷さんはこう回想します。
「私は汗と埃にまみれて走っていた。足もとには焼け落ちた屋根瓦が散乱していて、土煙りが舞い上がった。汚い破れたシャツ姿のこの一団は、兵隊と云うには、あまりにも惨めな格好をしている。終戦間近に召集を受けた私は、千葉県の柏の連隊に入隊すると、すぐその翌日、熊本へ廻された。そこで爆弾をもって戦車に肉薄攻撃をする練習を、毎日やらされていたのである。そんな或る日、市街の焼跡の整理に行って熊本城の天守閣跡へ昇った帰途である。私は酔ったような気持ちで走っていた。魂を震撼させられた者の陶酔とでもいうべきであろうか。つい、さっき、私は見たのだ。輝く生命の姿を。
熊本城からの眺めは、肥後平野や丘陵の彼方に、遠く阿蘇が霞む広潤あn眺望である。雄大な風景ではあるが、いつも旅をしていた私には、特に珍しい眺めというわけではない。なぜ、今日、私は涙が落ちそうになるほど感動したのだろう。なぜ、あんなに空が遠く澄んで、連なる山並みが落ちついた威厳に充ち、平野の緑は生き生きと輝き、森の樹々が充実した、たたずまいを示したのだろう。今まで旅から旅をしてきたのに、こんなにも美しい風景を見たであろうか。おそらく、平凡な風景として見過ごしてきたのにちがいない。これをなぜ描かなかったのだろうか。いまはもう絵を描くという望みはおろか、生きる希望も無くなったと云うのにーーー歓喜と悔恨がこみ上げてきた。あの風景が輝いて見えたのは、私に絵を描く望みも、生きる望みも無くなったからである。私の心が、この上もなく純粋になっていたからである。死を身近に、はっきりと意識する時に、生の姿が強く心に映ったのにちがいない。」
あきらかに戦車に肉薄し、爆弾を投げつける行為は、死を意味する。
死を現実として意識したとき、魁夷さんは一切の欲望、願望といったものが消え失せ、純粋な心になったという。人間、なかなかそうは達観できない。
そして絵画においても
「自然に心から親しみ、その生命感をつかんでいたはずの私であったのに、製作になると、題材の特異性、構図や色彩や技法の新しい工夫というようなことにとらわれて、もっと大切なこと、素朴で根元的で、感動的なもの、存在の生命に対する把握の緊張度が欠けていたのではないか。そういうものを、前近代的な考え方であると否定することによって、新しい前進があると考えていたのではないか。
また、製作する場合の私の心には、その作品によって、なんとかして展覧会で良い成績を挙げたいという願いがあった。商売に失敗した老齢の父、長い病中の母や弟というふうに、私の経済的な負担も大きかったから、私は人の注目を引き、世の中に出たいと思わないではいられなかった。友人は次々に画壇の寵児になり、流行作家と云われるようになって行ったが、私はひとり残され、あせりながらも遅い足どりで歩いていたのである。こんなふうだから心が純粋になれるはずがなかったのである。」
ここで大事な事は、絵画界でもそうだが、たえず新しい題材の探求や、新しい技法の工夫というものは大事であり、絵画界でも常に新しい題材や工夫によってその時代のニーズに応え、それによって新しい価値観が生まれてきている。
しかし、そればかりが中心となり、もっともかんじんなもの、「根元的で、感動的なもの、存在の生命に対する把握」が脇役にあまんじてはいけないと魁夷さんは考えるのである。そして
「その時の気持ちをその場で分析し、秩序立って考えたわけではないが、ただ、、こう自分自身に云い聞かせたのはたしかだ。もし、万一、再び絵筆をとれる時が来たならーーー恐らく、そんな時はもう来ないだろうがーーーー私はこの感動を、いまの気持ちで描こう。」
参考 東山魁夷著「風景との対話」新潮選書
ヴァランシエンヌの
「画学生、特に風景画家に与える教訓と忠告」
18世紀後半から19世紀にかけて活躍した画家にピエール・アンリ・ド・ヴァランシエンヌがいる。
彼はフランスで18世紀中頃から活躍した風景画家達の先駆的な役割を果たした画家である。
その彼が1800年に出版したのが「実用遠近法入門」。
その著書の付録に「画学生、特に風景画家に与える教訓と忠告」があり、そのほうが「実用遠近法入門」よりも有名だという。
その中でヴァランシエンヌは若いときには大いに旅をせよと説く。
ヴァランシエンヌ自身も、当時フランスにおいては旅といってもせいぜいイタリアまでの時代に、エジプト、シリア、ギリシャなどの国を旅している。
具体的には
「馬車での旅は金持ちに任せて歩きなさい。彼らは走馬灯のように景色が通り過ぎるのを見ているだけで、最も美しい情景を見ることはない。」
「旅日記をつけなさい。素描できないものは書き留めておくこと。それは何年たっても役に立つ。」
「目にする人々の衣装や風俗を記しておきなさい。」
「大都市に行ったらまず、最も高い地点や鐘楼に行きなさい。町と周辺の全貌と地形を知るために」
「大食は精神の活動を鈍らせるのでこれを慎むべし」
これらの忠告は旅吟についてもいえるのでは。
参考 「グレート・アーティスト別冊・新古典・ロマン・写実主義の魅力」同朋社
「日本美術院では時々研究生を集めて、各界の名士を招き、講義を聴いて勉強してをりますが、これもその時の話です。
ある理学博士をお招きした時のことです。
その時、ある若い現代作家の牡丹の絵と宗達の牡丹の絵を並びにかけて講義を聴きました。その理学博士は美術にも教養ある人でしたが、
『この二つの絵は、私も今日見るのがはじめてで、その作家が誰であるかも知らない。が・・・・・』といつて、若い作家の牡丹を指して
『これは丹念に花弁も自然の法則通り描いてあるし、葉柄もまたちやんと描かれている。しかし、惜しいかな病気に罹つてゐる。ちよつと見ると華麗な絵にはなつてゐるが、もう一日もすると、恐らく枯れ始めるでせう。それに反してこつちの方は・・・・』と宗達を指して、
『花弁も御定法通りには描かれてゐないし、葉柄も略されてゐる。しかし、健康な絵といへば、こつちの方を推す。また一幅の絵としても、こつちの方が、どれだけ牡丹の絵になつてゐるかわからない。』と、申されました。
写実、写実と騒ぎ立てて、いたづらに形のみに捉はれて、その真髄を描き得ない人々にとつては、この理学博士の言葉は一大警告であり、頂門の一針とも申せませう。光琳派の始祖俵屋宗達も一理学博士の言で面目を全うしたともいへませう。」(横山大観・大観画談より)
以下、パート2で。
参考 近藤啓太郎著「大観伝」講談社文芸文庫
俵屋宗達の牡丹の続き。
「画論に気韻生動といふことがあります。気韻は人品の高い人でなければ発揮できません。人品とは高い天分と教養を身につけた人のことで、日本画の窮極は、この気韻生動に帰着するといつても過言ではないと信じてゐます。
今の世にいかに職人の絵が、またその美術が横行しているかを考へた時、膚の寒きを覚えるのは、ただに私だけではありますまい。」
大観の気韻生動については、昭和17年、大観が描いた「東海の曙」の絵について、河北倫明さんが著書「大観」で、次のように述べている。
「大観は写生画を重んじなかったが、写生を無視したわけではなかった。適格に感じをつかんだ、かなり精密な描写を用いながらも、それを越えた高邁な感情、気迫に眼目をおくところが、大観の本領である。」
よく言われることだが、絵画は画集などで見る場合、うまさはわかるが力はわからないという。
大観の描いた富士の絵などは、絵のうまい人がかけば誰でも書けるのではないか、などと思えるような絵もある。
しかし、その絵の中から作者の気というものが本物には表現されているのであろう。
参考 近藤啓太郎著「大観伝」講談社文芸文庫
「紅旗征戎吾が事に非ず」この言葉は19歳の折の藤原定家の日記「明月記」に記されている。
ただ、いつの日付かは解らない。
この前には「世上乱逆追討耳に満つと雖も、之を注せず。紅旗征戎吾が事に非ず」とある。
この文の「紅旗」とは朝廷において勢威を示すために、鳳凰や竜を描いた赤い旗。「征戎」とは中国における西方の蛮族、日本においては西の戎、すなわち源氏追討を意味している。
これには原典があり、中国の唐の詩人白居易の白氏文集中の一節「紅旗破賊吾が事に非ず、黄紙除書に我が名無し、ただ、嵩陽の劉処士と共に、囲きし酒を賭けて天明に到る」」を採用している。
白居易の詩は簡単に言えば、「蛮族を討伐したとて俺には関係ない、除目(黄紙)には俺の名はない。ただ、劉くんと囲碁をし酒を賭けながら夜明けまで騒ぐだけだオッパピー」
藤原定家が活躍した時代は鎌倉幕府が開かれた頃、当時の朝廷も親幕派と反幕派とが対立していた非常に難しい時代であった。
ここだけ見ると、定家は世間の事には関心を持たず、隠士的な処世を行っていたように見える。
ところがどっこい、明月記にはおのれの出世が遅いのを嘆いたり、上役の愚痴を言ったり結構保身に苦労する話が書き込まれている。
いつの世も宮仕えは大変なのである。
参考 堀田善衛著「定家明月記私抄」ちくま学芸文庫
半藤一利著「漱石先生大いに笑う」ちくま文庫
「四面楚歌」と「ひなげしの花」、全然関係がないようだが実は関係がある(少しだけれど)
まずパート1では「四面楚歌」から。
「四面楚歌」とはもちろん周り中が敵だらけのこと。
いわゆる群馬在住の俳人北さん状態のことである。
これは中国の故事からきている。
中国の歴史上有名な秦の始皇帝が中国を統一したのが紀元前221年。
しかしその後始皇帝は宮殿の造営や過酷な賦役などで庶民の反感を買ってしまう。
そして12年後に始皇帝が亡くなると、各地で反乱が勃発。
その反乱軍の中で力を持ってきたのが、楚の項羽と漢の劉邦でした。
しかし、この二人、生まれも育ちも全然違う。
項羽は楚の国の名門の生まれ。武術も戦も強いヒーローだった。
一方の劉邦といえば出は農民でしたが、家のことはほとんどせず、やくざの親分みたいな事をして暮らしていたという。
最初のうちは小勢力だった劉邦など全然相手にしていなかった項羽だったが、ひょっこりと劉邦が秦の都咸陽に一番乗りしてしまったのだからさあ大変。
ここに秦の国は滅ぶことになった。
ここで漢の劉邦と楚の項羽との二大勢力が誕生。
しかし項羽は武術にもすぐれ、戦争も強かった。かたや劉邦はたんに気のいい中年ののんきなオヤジ。
劉邦は連戦連敗のありさま。
しかし、項羽は名門の出でもあってうぬぼれが強く、癇癪持ち。しだいに有能な部下が離れていく。
かたや劉邦は自分には才能がないことを自覚し、部下の意見をよく聞きまた活用する才能に恵まれていた。
だんだんと有能な家臣が劉邦のもとへ集まってくることに。
やがて二人の力関係が逆転し、ついに項羽は垓下(がいか)といところで漢軍に取り囲まれてしまいました。
そしてある夜、項羽が耳を澄ますと取り囲んでいる漢軍のなかから項羽の出身地である「楚の歌」が聞こえてくるではあ〜りませんか。
これを聞いた項羽は、「すでに故郷の人達まで私を見放した」と完敗を悟ったという。
これが「四面楚歌」の由来です。
「ひなげしの花」が出てこないではないか?とお怒りの皆様、「ひなげしの花」は次回パート2で。
参考 石川忠久著「漢詩への招待」文春文庫
四面楚歌の続きです。
さて、垓下で漢軍に囲まれた項羽は万事窮す、部下たちを集め最後の酒盛りを始めます。
その時作った歌が「垓下の歌」と呼ばれています。
力拔山兮 氣蓋世 (力は山を抜き 気は世を蓋う)
時不利兮 騅不逝 (時利あらず 騅逝かず)
騅不逝兮 可奈何 (騅逝かず 如何すべき)
虞兮虞兮 奈若何 (虞や虞や 汝を如何せん)
「わが力 山をあげ わが意気は 天下を呑む ああ天は味方せず わが騅(すい)も走らない 騅
がゆかねば どうにもならぬ 虞(ぐ)よ虞よ おまえを どうしよう」(石川忠久訳)
ここに出てくる騅は項羽と長年つきそった名馬。
そして虞とは虞美人と呼ばれた項羽の愛姫です。
項羽がこの垓下の歌をうたい涙を流すと、虞美人は剣の舞を踊り最後にはみずからその剣で自殺したといわれています。
そして虞美人の流した血が土にしみ込み、その後から生えた草が虞美人草(ひなげし)だったという伝説が生まれました。
そのためひなげしの花は別名「虞美人草」と呼ばれています。
さあ、皆さんも歌いましょう。
「おっかの上ひなげしの花でぇ〜〜〜」
参考 石川忠久著「漢詩への招待」文春文庫
よく「芸術とは何か?」とか「純文学と大衆文学とはどう違うのか?」という疑問が問題となることがあります。
しかし、この問題は非常に難しい。
特に20世紀の芸術は、今までの芸術の常識を破るのが芸術の使命と考えられた場合が多かったからです。
その最初の一人がマルセル・デュシャンでした。
マルセル・デュシャンはもとは印象派に学んだ画家でしたが、やがて自転車の車輪の一部や雪かき用シャベルなどを基本的にはそのまま展示し、話題を呼んだ人でした。
この手法は「レディ・メイド」と呼ばれ、いまは現代アートの古典的手法となっています。
そのデュシャンが1917年、満を持して発表したのが「泉」でした。
この「泉」という作品はなんと市販の男性用の便器に「R・マット」と署名しただけの作品でした。
「マット」とは英語で「バカ」とか「マヌケ」とかいう意味だそうで、また当時新聞掲載漫画の主人公の名前だったともいいます。
しかし、デュシャンの思いもむなしく展示委員が作品の展示を拒否したため、実際は仕切り壁の裏側に置かれていたそうです。
しかしこの作品、2004年に世界のアート界のリーダー500人による「最もインパクトのある現代アート」投票において堂々の第一位でした(第二位はピカソの「アビニョンの娘たち」)。
では「泉」の芸術性はなにか?
これについて
「男性便器をただの実用品とみなすかぎり、けっしてみえてこないであろう、その奇妙にも美しい形態です。ごくありふれた便器も、押し倒すなどしてその通常の位置からずらしてやれば、芸術的な何かを秘めていることがわかる。」(本江邦夫)
「考えてみると千利休の『みたて』といわれる考え方も、大陸の骨つぼや漁師の日常道具を茶道具として『認知』し、全く別の価値観を与えるということをやっていたわけですから、デュシャンのことをおかしいと批判する理由にはなりません。」(千住博)
また、
「デュシャンが『レディ・メイド』を通して挑んだ舞台は価値の認定機関としての美術館でした。そこらの道ばたにサイン入りの便器を置いただけでは話にもなりませんが、美術館に置こうとしたから問題になったのです」(千住博)
と現実的な見解もあります。
のちにデュシャンは
「ぼくはレディ・メイドを発見したとき、美学を意気消沈させようと考え(中略)便器を[お偉いさんたちの]顔面に挑戦として投げつけたのですが、いまや彼らはそれを美しいといってほめてくれるのです。」
と言っている。
ちなみに群馬在住の俳人北さんが便所の壁に「ヨクキタナ、マアスワレヤ」や「ウンヲツカメ」などと落書きするのを芸術と呼ばないのは言うまでもない。
参考 千住博著「美術の核心」文芸春秋
本江邦夫著「現代美術入門」平凡社