航空母艦 加賀

(竣工時)
排水量:(公)33,693t ボイラー:ロ号艦本式・重油焚×12基 燃料搭載量:重油 5300t
全長:(水)230.0m
全幅:(船体)29.6m 主機:ブラウン・カーチス式オールギヤードタービン×4基、4軸推進
吃水:7.93m
出力:91,000hp
武装:
50口径20p連装砲2基、50口径20p単装砲6基、
45口径12p連装高角砲6基、
航空機60機(艦戦16、艦攻28、艦偵16)
最大速力:27.5kt
航続距離:14ktで8000浬
乗員定数:1,269名 飛行甲板:171.2×30.5m(上部甲板)、昇降機 2基
(最終改装(昭和10年)後)
排水量:(公)42,500t ボイラー:ロ号艦本式・重油焚×8基 燃料搭載量:重油 7500t
全長:(水)240.3m
全幅:(船体)32.5m 主機:ブラウン・カーチス式オールギヤードタービン×2基、
    艦本式オールギヤードタービン×2基、4軸推進
吃水:9.48m
出力:125,000hp
武装:
50口径20p単装砲10基、45口径12p連装高角砲8基、
25mm連装機銃11基
航空機72機(艦戦12、艦攻36、艦爆24)+補用18機
最大速力:28.3kt
航続距離:16ktで10000浬
乗員定数:約2,000名 飛行甲板:248.6×30.5m、昇降機 3基


 1921年大正10年11月13日、日本は最初の空母・鳳翔を進水させました。鳳翔は空母として設計された艦としては世界最初の就役艦で、イギリスの空母ハーミスより9ヶ月早く就役しました。その後ワシントン軍縮条約により空母保有総トン数は81,000トンに制限されました。これにより鳳翔型空母2隻は建造中止となり、代わって巡洋戦艦赤城、天城の2隻が27,000トンの空母として建造されることになりました。しかし、1923年大正12年の関東大震災により天城が横須賀工廠の船台上で船体を破損したので、代わりに廃艦処分される予定の戦艦加賀が空母として建造されることになり、こうして1923年大正12年11月9日、赤城、加賀の2艦は航空母艦として建造が開始されました。
 加賀は1928年昭和3年横須賀工廠で完成、赤城とともにワシントン条約に基づく日本海軍最初の大型空母でした。飛行甲板は日本海軍独特の3段式甲板(最上段が着艦用、中段が小型機発艦用、下段が大型機発艦用)を持ち艦尾への煙路誘導、強力な兵装配置など極めてユニークな艤装を施していました。しかし当時同様の経過をたどって建造された米国海軍空母サラトガ、レキシントン、(ともに巡洋戦艦より改造)と対比すると、大型のアイランド(島型)構造を採用した米空母に一歩も二歩も劣っていたのが実状でした。赤城と同じく未成艦を空母に変更したもので基本的には赤城と同型でしたが、外見も内部も2艦にはかなりの相違点がありました。
 外見上の最も大きな違いは煙路の誘導方式でした。本艦では煙突を両舷に分けて飛行甲板にそって艦尾まで導いていました。この煙突導設法は、日本最初の大型空母として赤城と比較研究の為採用されたものでしたが、実際には完全な失敗でした。排水量26,900トンと同じですが全長は赤城の方が20m余りも長くて速力も32.5ノットと、加賀の27.5ノットを上回っていました。これらの重大な欠点があったにも関わらず、本艦と赤城はその独特な三段飛行甲板とともに、国民に親しまれ、また当時最重要艦であり、米国のレキシントン型とともに、世界で最も有名な空母でした。しかし前述の空母としての最大な諸欠点と、急激な航空機の発達により、赤城に先んじて完成後わずか数年後に大改装されることになりました。
 
  加賀の近代化大改装工事は、友鶴事件の直後の1934年昭和9年初頭に佐世保工廠で着手され、翌1935年昭和10年6月に完成し、約一ヶ年を費やした突貫工事でした。加賀の大改装は、戦艦長門型や比叡に対応すべき大規模で根本的なもので、諸欠点は勿論、発達した新鋭艦載機に対しても充分な施設とすることなどが目的であり、なかでも最も強く要望されたものが速力の増大でした。加賀の改装の主要点は次の通りです。
 @飛行甲板の単一化と延長、A艦載機数の増加、B煙路の改良、C速力の増大、D対空兵装の強化、E飛行甲板上に艦橋構造物を設ける。以上のような大改装により空母加賀は従来の艦姿をとどめないほどに変貌し、性能的にも大幅に向上されました。改装内容は次の通りです。速力向上のため艦尾が約8m延長することによってより抵抗の少ない艦型にし、飛行甲板は前後にできる限り延長され171.20mから248.58mになり、甲板面積は全通一段甲板として飛躍的に増大しました。対空強化の為従来の12センチ連装砲を12.7センチ連装砲に換え、また数的にも6基から8基と強化して装備位置も高くなり射界を広くしています。25ミリ連装機銃は模型では14基装備していますが、11基装備していたともいわれており、その位置と装備数に関しては明らかではありません。格納庫の増大で搭載機数も60機から一挙に90機となり、攻撃力も拡大しました。速力もタービンの半数を全て新式の大出力のものに換装し缶室、機械室区画は全く新しいものとして、大出力の推進プラントを収容しました。大改装によって42,500トンと排水量の増大にも関わらず速力を27.5ノットから28.34ノットと向上させることができました。以上のような諸点の改装により加賀は、名実共世界の第一線空母に生まれかわりました。
 
 加賀の初陣は、改装前の1932年昭和7年鳳翔と参加した第一次上海事変でした。1933年昭和8年10月予備艦となり、佐世保工廠で大改装。1938年昭和13年10月広東攻略作戦に参加、12月より第2次改装を受け、改装後太平洋戦争を迎えました。真珠湾攻撃には旗艦赤城とともに第1航空戦隊を編成し、空襲部隊の主力として活躍しました。真珠湾攻撃では大戦果を上げましたが、未帰還機29機中その半数に近い15機が加賀艦載機でした。以後、赤城とともにラバウル攻略作戦、ポートダーウィン空襲、蘭印攻略作戦に参加しましたが、昭和17年2月9日パラオ泊地へ入港の際暗礁に触れて前部に損傷したため印度洋作戦には参加せず、内地に帰還して修理を行ない運命のミッドウェー海戦に出撃しました。
 第1航空戦隊加賀、赤城、第2航空戦隊の飛龍、蒼龍を加え、南雲中将指揮下

にミッドウェー攻略作戦が開始されました。5月27日呉を出撃した南雲機動部隊は6月4日ミッドウェー島目指して攻撃機を発進させましたが、この時すでにミッドウェー付近には米機動部隊が待ち伏せており、この攻撃を受けました。米空母エンタープライズの急降下爆撃機により爆弾4発を受け、火災を起こし火薬庫に引火大爆発を起こし、船体中央より真っ二つとなって(1942年昭和17年6月5日)沈没しました。