終幕「醒めた時に見た夢」

猫と出会った最初の場所で、猫と僕は、再び見えた。
光がないのに、僕と猫は、その場にはっきりと映し出され、まるで、
世界から切り離されているかのように、地面かどうかもわからないような場所に、
ひっそりとたたずんでいる。

今が何時なのかもわからない。
今が何日なのかもわからない。
でも、僕は、もうすぐ、現実世界に戻るんだ。

でも、猫は、その僕に、試練を与えた。
あまり意味のわからない言葉で、それの幕を開けながら。
終幕に起こった、最大の試練。
それは、猫と、文字通り、戦うことだった。

「君には、もう一枚、乗り越えなければならない壁が残っている。
  ――それは、私――いや、私と言う形を為した、あの頃の君だ。」
猫は言いながら、ファイティングポーズを取って、僕に正眼の構えを見せた。
僕の目の前で起こった出来事に、僕は、傍観者の心理を働かせていた。
それに気付いた猫が、僕に呼びかける。
「良太よ、目を背けるな。私の形を良く見ろ。」
言いながら、猫は、じりじりと間合いを詰めてくる。
相変わらず言葉を失っている僕に、猫は、さらに続ける。
「私の形、私の言葉使い。それは、昔の君を表している。
  白く、整った毛並みは、汚れを知らぬ者の証。」
言った瞬間、猫の先制攻撃が、無防備な僕の胸に突き刺さる。
「うあッ!?」
ふっとぶとまでは行かなかったけど、僕は、思わずのけぞり、よろけた。
それでも、猫は言葉を続ける。
「私の猫の形は、孤独とプライドの高さの証。」
第2発目。
鈍い音が、僕の体を突き抜ける。
駆け抜ける痛みに、たまらず、猫の拳が当たった場所を押さえた。
「そして、私の言葉遣いは、自分を過小評価する君の内面を表すッ!!」
第3発目。
今までで、一番強い一撃が、猫から放たれた。
「ぐああッ!?」
今度こそ、僕は吹っ飛んだ。
どこが上なのかわからない空間が、僕の視界で、わずかにぼやける。
古い表現だけど、目から星が飛んだのかもしれない。

その時、僕の第六感が叫んだ。
こ、これは・・・本気でやらないと、帰れないッ!!
そう思った瞬間、僕の中で、何かが弾けた。
足を揚げ、降り降ろし、その反動ですっくと立ちあがる。
以前の僕には、到底真似のできなかったことを、今、初めてやってのけていた。
「ほう・・・」
そんな僕を見て、猫は、その瞳孔を、思わず縦長にして、目を細めた。

さっき食らったパンチの痛みが、まだ残っている。
でも、それは、僕が、今まで、避けて通っていた分の痛みだ。
それを、今、猫という、僕の写し身が与えると言うのなら、僕は・・・

ただ、僕は、それだけを頭に浮かべ、胸に当てていた手を握り拳に替えて、
鋭い目に戻った猫に向かって、駆け出して行く。
第1発目。
ひらりと猫はかわしてみせる。
続けて2発目。
反対の腕を出したけど、それもひらりとかわされる。
さすがに、すらっとした猫のしなやかさは、僕のパンチなど、一発も受けることはないか。
それなら・・・!

僕が放った3発目。
猫が同時に放ったカウンターを避け、不意に猫の視界から消えて見せた僕が、コンボの
最後に放ったそれは、的確に、バランスが不安定になった猫の右足首にヒットした。
「――ッ!?」
空かされた猫が、思わず、前に倒れこむ。
さすがに受身らしきものは取ったものの、今の一発が、僕に可能性があることを示していたのは
言うまでもなかった。

それから、間髪入れずに起き上がった猫は、素早い動きで僕の懐に飛びこむと、
なおもボディーブローをかましてきた。
一瞬、すっぱいものがこみ上げてくる。
でも、僕はこらえた。
こらえて、猫の一瞬の硬直を逃さず、振り上げた拳を下に落とすッ!!
猫の姿勢が、大きく崩れた。
――今だッ!!

僕は、無我夢中で、余っていた膝を蹴り出した。

今度は、猫が吹っ飛んだ。

その後も、僕と猫との間で、凄まじいやり取りが行われた。
しなやかさと素早さを武器に、一気に間合いを詰めて崩してくる猫に、
一瞬の隙をついて、カウンターを飛ばす僕。
一進一退の攻防は、いつしか、双方から、相当の体力を奪っていた。

「ここまでやれるようになるとは・・・」
「以前の僕の実力って・・・こんなにすごいものだったのか・・・」
僕達は、同じくらい、息を切らせ、ふらふらしながら構えていた。
僕も、猫も、両方とも、次の一撃を出すことが出来ずに居る。
猫はどうか知らないが、僕の意識は、本当に視界に反映される形で、ぐらついていた。
(次の一撃が・・・・全てを・・・)
無意識のうちに、そんなことを思い始める。

と、その時、どこからか、複数の人間の声がし始めた。
前から・・・?後ろから・・・?それとも、横から・・・?
モノを上手く捉えることの出来ない目を、懸命に動かして探す僕。
いくら探しても見つからないけど、その声は、だんだん、はっきりと聞いて取れるような
感度になっていく。

こ、この声は・・・
と、父さん、母さん・・・
それに・・・アヤ・・・。
それに混じって、何やら、聞いたことのある、不規則なリズムを刻む機械の音がする。
――ピッピッピッピッ――
こ、これは・・・生命維持装置・・・。
あの、ドラマでたまに出てくる、あの装置の音だ・・・。

その頃になって、ようやく、音源となっている光景が、僕の目を通して・・・
いや、僕の頭の中に、直接描き込まれてきた。

必死で、僕の名前を呼びかける両親。
珍しく、今にも泣きそうな顔のアヤ。
そして・・・生命維持装置をつけられ、身動き一つしない僕が、ベッドに横たわっている。
その光景は、薄れ往く意識の中で、はっきりと像を結んでいた。
そう言えば、僕は、車に轢かれたんだった。

・・・そこまで来て、僕は、はっとした。
この像が示すもの、それは・・・。

「――この戦いに勝たなければ、僕は死ぬんだ!!」
その瞬間、今までぼけやていた視界が、はっきりと醒めて行った。
蒼く沈んだ、何も無い世界に見えた場所は、一気に明るさを増し、生命の鼓動を放ち始める。
やっぱり、ここは、僕の心の中だった。
暗く沈んだ蒼き世界は、僕そのもの。
そして、その中で、たった一人で僕を哀れみ、たった一人、僕の為に犠牲になろうとしている
猫こそが、僕に足りない半身ッ!!

次の刹那、僕は、猫に向かって、正面から突撃して行った。
そして――

ぎゅっ。
猫を、抱きしめた。
僕同様に傷つき、立っているのがやっとの猫を、思いきり抱きしめた。
何故だか知らないけど、これが、唯一、僕が勝つ方法だと確信していた。
猫よ、今までの僕よ。
僕は、今までの僕を否定しない。
今の僕は、今までの僕を、ありのまま、受け入れる。
受け入れて、これから、前向きに生きるんだ。
もう、死にたいなんて思わない。
だから、一緒に「孤独」をやめよう――
そう、心の中でつぶやきながら。
抱きしめられた猫は、一瞬、我が目を疑ったものの、すぐに状況を判断し、そっと笑みを
浮かべた。
そして、言う。

「・・・負けたよ、良太。成長した「私」よ・・・これでは、私は、もはや動けまい・・・」
猫は、この時を待っていたかのように、僕の腕の中で、僕を見上げた。
その目からは、一筋の涙が、零れ落ちていた。
「・・・勝ち、負けじゃないよ・・・。僕と君はプラスとマイナス。
  二人いて、一人の僕なんだから。
  これで、元に戻るんだ・・・二人が、一つになるんだから・・・」
僕は、もらい泣きしながら、猫に言った。
猫を抱いている、僕の両の腕から、まばゆい光が、一筋、また一筋、溢れて行く。
傷ついた世界が、漏れる光に照らされて、にわかに、その輝きを取り戻して行く。
猫の形を取っていた「昔の僕」が、光になって、僕の中へと入って行く。
そして、僕の目の前に広がる世界が、ゆっくりと、揺らいで行く。
それは、闇に溶けて行く感じ。
いや、光に溶けて行く感じなのか。
どちらにしろ、僕の意識は、ふわりと宙を浮き、薄らいで行き――

「・・・た・・・」

声が聞こえる。

「りょう・・・して・・・」

温かい声が。

「良太・・・目を・・・して・・・」

僕が、今、一番聞きたい声が。

「良太、目を覚まして!」

僕は、ゆっくりと、目を開けた。
何日も眠っていたのか、部屋の蛍光灯が、妙に眩しい。
「良太・・・!」
僕の両横から、聴き慣れた声が聞こえた。
父さんと、母さんと、そして、何故か、アヤがいた。
「!――むぐぐ」
声を発しようとして、僕は気付いた。
僕の口には、太いチューブが挿入されており、喋れる状況じゃないことに。
僕の周りでは、泣いて喜ぶ両親と、唐突に、僕の左手を握り締めるアヤがいた。
そんな中で、僕は、ふと思う。
(そうだ、握り返して見よう。)
口は動かせないけど、手は動いた。
彼女の手は、温かかった。

これは、後から聞いた話だけど、僕は、やっぱり、交通事故に遭っていたそうだ。
それも、いつ死んでも全然おかしくないような重症で、僕が目覚めたのは、病院へ
担ぎ込まれてから1ヶ月も過ぎてからの事らしい。
僕の事故現場のすぐ近くで、真っ白くて毛並みの整った猫が、同じように轢かれていて、
僕が助かった原因は、この猫が、偶然に飛びこんで来た時に、車がスピードを
緩めたためだそうだ。
その話を聞いた僕は、少しだけ、センチメンタルな気持ちになった。
猫、か・・・。

それからと言うもの、僕の怪我は、医者も驚くほど早く回復して行った。
あっと言う間に生命維持装置が外れて、ほどなくして、一般病棟に移された。
まだ入院生活だけど、そろそろ、リハビリが始まるらしい。
両親は毎日やってくるし、アヤも、時間のある時は来てくれた。

そう。
僕は、この世界を、歩いていく。
夢のホームシアターで学んだことを、僕は、忘れないだろう。
僕と一つになった猫と、猫の姿をした昔の僕が望んだ僕で。
そして、いつか、アヤと――

Fin.