第六幕「幸福に気付く時、最後への夢1」

あれから、宣言通り、猫は、一切、僕の前に姿を現さなかった。
彼曰く、現実夢は、もうすぐ、終わりを迎えるとの事。
やっぱり、夢には終わりがあるんだな。
そう思うと、なんだか、ラストスパートをかけたくなるような、もう少しいたいような、
そんな、矛盾した思いが、交互に押し寄せてくる。
現実のアヤとは違うであろう、夢の中のアヤ。
僕の中で、その存在が、徐々に大きくなってきているのも、また事実。
俗に言う恋なのかどうかは知らないが、少なくとも、失いたくない存在であることには
変わりがなかった。

・・・そう言えば、もうすぐ、体育祭だかなんだかが開かれる。
僕にとって、一番苦手なイベントである。
運動神経が、鈍い。
ある種のコンプレックスにもなっているそれのせいで、僕は、この時期になると、
いつにも増して、憂鬱になってしまう。
そして、それに合わせてか、アヤが、僕にさせる「教化訓練」は、バケツ持ちから、徐々に
ハードなものに進化してきていた。
・・・毎日続く(アヤは疑問に思っていないのだろうか?)日曜日を利用して。

「んー、昨日よりは速くなってるね」
公園の端から端まで、ダッシュすると言う訓練(?)。

「ほーら、迷わずにスイングしなよっ!」
アヤが、見様見真似で繰り出すアンダースローを打ち返す訓練。

「怖がらない、怖がらないッ!」
高く上がったボールをキャッチする訓練。

・・・そう、体育祭で、僕が出る種目は、ソフトボールなのである。
もっとも、男女別々で、本番の相手は、むさくるしい男子達なのだが。

運動嫌いな僕が、こうやって、毎日、訓練を受けつづけているのも、
アヤがいるからだった。
昔みたいに、強引に連れ出されるわけでもなく、自分から、公園に向かうように
なっている僕がいる。
それは、たった一人の友達と、一緒に居たいという気持ちがあったから。
彼女と一緒にすることなら、何だって良い。
それ自体が、たとえ、嫌いな運動であっても、楽しくさえ感じる。

楽しい・・・。
それは、僕が、長らく感じたことのない感情だった。

僕が、アヤと一緒に居る意味。
猫が言っていた言葉の真意。
もしかしたら、今、こうしていることこそが、それなのかもしれない。

そして、日曜日が、体感時間で2週間くらいすぎた、ある日のこと・・・。

いつものように、公園で特訓をしていた僕に「ちょっと待って」と、アヤが、
声をかけてきた。
「なんかあった?」
切れた息もそこそこに、僕は訊ねる。
すると、少し離れた位置にいたアヤが、駆け足で、僕のほうへと近寄ってきた。
その走り方が、いつもと違って、妙に、輝いて見える。
アヤは、僕のすぐ近くまで駆け寄ってきて、突然、真剣な顔で、言った。
「アンタは、やればできるんだよ。自信、持ちなよ?」
周りの全てが静寂に包まれた瞬間、アヤの言葉が、まるで、
脳に直接、語りかけてくるかのように、僕の耳に響く。

そして、その言葉の瞬間、時が、動いた。
日が沈み、夜が来て、その夜が終わると、テレビが告げる日付は、
月曜日を指している。
体育祭の日が、やってきたのだ。
いくら練習してきたとは言え、やはり、本番になると、憂鬱になるのは必定・・・
出来ることなら、やりたくないが、それじゃあ、アヤが、僕に付き合ってくれた事が
無意味になってしまう。
・・・それも、なんか嫌だ。

体育祭と言っても、うちの学校のは、とても小規模なものだった。
事前に割り振られた班ごとに分かれて、それぞれの競技を行い、合計勝利ポイントが
一番多いクラスの勝ち、と言うもの。
競技は選ぶことができるが、選考にもれたりすると、別の種目に回される。
僕の場合は、何をやっても上手くいかないと、最初から、選択権を放棄していたのだが。
その結果が、この、ソフトボールなのである。
アヤも、なんだかんだ言って、最終的には、ソフトボールに入れられてしまったらしく
(本当は別の種目がやりたかったらしい)、それは、くしくも、僕との共同練習を
実現させる結果となっていたわけである。

第一試合。
僕のクラスは、後攻だった。
守備は、班の結成当時から決まっていて、ずっと、その位置で、守備を続けている。
僕は、ライトを任されていた。
よりによって、一番怖い場所に配置されてしまったのである(や、どこでも怖いが)
しかし、本番は始まってしまった。これは覆らない。
そして、目の前にある問題、それは、確実に、この、ソフトボールなのだ。
これで、僕が、変われるなら。
やるしか、ない。

場面は一回表、ツーアウト、二塁。
打順巡って、第四打者。
こいつ、野球部のエースだ。
一気に、周りの連中から、緊張のオーラがにじみ始める。
それはピッチャーも例外ではなかったようで、さっきまでの球筋はどこへやら、
ふにゃふにゃと、とうへんぼくな所へ落ちて行く。
ボール。ボール。またボール。
ノーストライク、スリーボール。
ピッチャーが取るべき手段は二つのうちのどちらか。
勝負をするか、敬遠するか。
打者は、打つ気満々、と言った雰囲気で、ピッチャーをまじまじと、睨むように見据える。
その視線に押されてか、ピッチャーが、全力投球の構えを見せ――

カキィン。

音と共に弾き返されたボールは、高く上がり、ピッチャー、ショートを抜け、
こともあろうに、僕の方向へ向かって、落ちてくる。
お、おい、まさか、よりによって、フライコースなのかッ!?
いっそのこと、ホームランになれば良いのにッ!!
思っている間、まるで、周りはスローモーションのように流れる。
その間にも、ボールは、着実に、僕の守備範囲に向かって、下降線を描き始めている。
どうしよう、どうしよう。
くそ、どうすりゃ良いんだ。こんちくしょう。
歯噛みして、僕は、落ちてくるボールを見つめる。
それは、もうすぐ、どうやっても取れない位置まで、落下しそうになっていた。
くっ、やるしかないッ!!
僕は、意を決して、落ちてくるボールの落下地点へと、全速力で向かう。
落ちるボールは、みるみる落下速度を上げて行く。
くっ・・・間に合わないッ!?
思わず、ボールへ向かって、ジャンプをしかけた。
グローブを突き出し、その中の手をいっぱいに広げ、その平に、ずしりとした
感触が走るのを祈る。

ボフッ。

次の瞬間、僕は、自分のグローブの中に、大きなソフトボールの球が、すっぽりと
収まっているのを見つけた。
それを見届けた打者が、一様に、走るのをやめた。
守備陣も、僕が取るなど、微塵にも感じていなかったせいか、唖然とし、
微動だにしない。

で、できた・・・
その事実に、僕は、思わず、グローブを、天高くへと突き上げた。

4回表、相手が1点。
6回裏、こちらが1点。
両者、一歩も譲らない戦いが続く。
その後、試合は平行線の一途をたどり、巡り巡って、9回の裏、ツーアウト。
打順は回り、僕は、今日何度目かの打席に立つ。
はっきり言って、下位打線も良いところだ。
そんなんだからか、相手ピッチャーは、不敵な笑みさえ浮かべて、僕に対峙する。
くっ、やっぱり、なめてやがるな。

一球目、ストライク。
二球目、ストライク。
三球目、ボール。
四球目、五球目、ボール。
俗に言う、フルカウント。
出塁者は、いない。
相手は、もちろん、余裕を持って、ストライクボールを投げてくるだろう。
それくらいは、僕にでもわかる。
しかし、それを打ち返すことなど、僕にできるのか?
悪い結果ばかり予想するのは悪いことだってのはわかってるつもりだが、
今まで成功したことがないぶん、悪い結果を予想するのは、もはや癖である。
くそ、このままでは、侮辱されたまま終わるぞ。
そんなの、もういやなんだ。
何が何でもッ!!

ピッチャーが、最後の一球にしようと、大きく振りかぶる。
当てに行こうと、僕は、全神経を、バットとボールに集中させる。
絶対、打ってやる。
僕のために、今まで、いっぱい助けてくれた、アヤに報いるためにも。
さあ、来いッ!!

勢い良く、ボールが投げられる。
余裕の表情で投げられたそれは、やはり、嵌れば確実にストライクが取れる、
やや中央寄りの、外角ストレート。
投げられたボールが、空を裂いて、ミットに向かって飛んでくる。
キャッチャーは、そのミットの中に、ストライクボールが収まることを
確信しているようだ。
くっ!!

僕は、渾身の力をこめて、バットを振るった。
そのあと聞こえるはずの、乾いた、それでいて高い、金属バットの音が聞こえることを、
心から願って。

そして、それは、実現した。
打ち返されたボールは、またも高く上がり、ピッチャーを抜け、二塁を抜けた。
なおも上昇を続けながら、球は飛んで行く。
センターが、ボールを追いかけ始める。
出来ることなら、そのまま、ホームランのラインを超えて行って欲しい。
でも、その意識を無視して、僕の足は、すでに、一塁を蹴り、その場に留まる。
ボールが、下降線を描きながら、地面へと落ちて行く。
それが、僕たちの背より少し上にまで来た時、センターが、グローブを天に向け、
ボールをキャッチしようとする。

次の瞬間、連中一同、その目を疑った。
センターが、ボールを取りこぼしたのだ。
い、今だッ!!
僕は、一目散に、二塁へと駆け出す。
取り損ねたボールを追いかけ、センターが、大急ぎでボールを取りに行く。
僕は、その間に、二塁を抜け、三塁へと向かう。
センターが、ようやく、ボールを掴むと、間髪居れずに、それを、投げ返す。
投げた先は、三塁。
ものすごい勢いで返ってきたそれを、サードが取ろうとする。
ま、間に合えッ!!
思った瞬間、僕は、服が汚れるのも省みず、全く練習をしていなかった分野を
しだす。
――ヘッドスライディング。
目を疑ったのは、サードだった。
まさか、スポーツがとことん苦手な僕が、ここまでするなんて、誰も思っちゃ
いなかったのだろう。
僕自身、思っていなかった。

そして、僕の手は、三塁のベースに触れた。
判定は・・・セーフ!
その時、ここに来て、仲間側が、一気に湧きかえった。
誰もが延長戦を意識していただけに、僕の、この活躍は、一気に、
皆の気持ちを、勝利へと向かわせた。

そして、ここに来て、代打。
確実に、僕をホームへと返そうと、一番打てるヤツが選ばれた。
相手も、確実に仕留めようと、ピッチャーを代えた。

第一球、ストライク。
第二球、ボール。
第三球、ボール。
第四球、ストライク。
第五球、ボール。
さっきの僕ので、焦ってしまったのか、相手側は、さっきまでの余裕とは
打って変わって、明らかに、悲壮感を持ってその場に陣取っている。
そして、フルカウントで迎えた、第六球。
ボールは、やや外角にカーブしながら、キャッチャーミットへと向かって行く。
そして・・・

カキィン。

僕は、全速力で、ホームへとひた走る。
打ち返されたそれは、ショートとライトの間に落ち、ライトが、ワンバウンドした
球を、すかさず掴み上げると、ここぞとばかりに、バックホームを狙う。
走る僕。
迫るボール。
ホームベース付近に来て、僕は、本日二度目のスライディングを敢行した。
ほぼ同時に、キャッチャーミットがぼふっと音を立てる。
そして、ホームベースに、僕の手が付き、ほぼ同時に、ミットが、僕の体を
叩いた。

次の瞬間、聞こえてきたのは・・・

セーフ、ゲームセット。
僕が、試合を決めた。

思わず、雄たけびを上げて、僕はガッツポーズを取った。
チームメイトが、僕に駆け寄り、口々に、「やればできるじゃねーか」、「いつの間に
できるようになったんだよ」などと、賞賛の言葉を投げかける。

うれしかった。
今までで、最高に。
この僕が、ここまで出来たことが。

唐突だけど、とりあえず、結果発表。
・・・第二、第三試合(準決勝)と進んで、僕達は、結局、そこで敗退した。
でも、チームの表情に、落胆の色はなかった。
そして、僕の中では、いつかの僕には、考えもしなかったことが、駆け抜けていた。
・・・僕が、今まで、鬱々とした生活を送ってきたのは、自信がなかったせいなのだ、と。
そう、僕は、自信を持てば、他の奴らと同等に、いや、それ以上にできるんだ。
そして・・・。
人が、僕から目を背けていたのではない、と言うことも。
目を背けていたのは、僕のほうだったのだ、と。

それを気付かせてくれた、猫とアヤ。
二人には、感謝しなければいけない。
ありがとう・・・。
今度逢ったら、迷わず、そう言おう。

体育祭の帰り、頑張ったせいで、すっかりくたびれていた僕の肩を、
幼馴染の右手が叩く。
「おーっす、大活躍だったみたいじゃん、良太ッ」
僕は振り返り、飛びきりの笑顔を見せた。
「おーっす!」
夕日が落ちかけた黄昏時、僕達は、久々に、公園に寄らずに、そのまま、帰路についた。

・・・その日の夜・・・。
ちょっと前から見つづけている、あの不気味な二重夢の中、今度はアヤの言葉が
聞こえた。

「おめでとう、良太」と。

・・・それは、今日の活躍を意味しているのか。
それとも、現実夢の終わりを、意味しているのだろうか・・・。