第一幕「猫が見せる夢」

春も半ばに差し掛かって、桜の花も、新芽へと姿を変えたある日。
からすが夕日に映える夕方、僕はいつものように、一人寂しく下校していた。

僕は中学生だが、周りとなじむことができず、いつも一人ぼっちだった。
たまに声をかけられると、それは、一見真面目そうな僕をからかう言葉。
家に帰れば、僕に「良い子」である事を常に課せて来た親が待っているだけ。
・・・僕は、そんな日常が、いやになっていた。
いや・・・。正確には、生きることが、この上なくいやになっていた。
小学生の頃、一緒になってつるんでいた女の子「あや」も、
今となっては、僕には近寄ろうともしない。
・・・人間なんて、そんなもんなんだろうな。

いつものように、僕は独り、家路に就く。
頭の中では、常に、暗いことが渦巻いている。
僕は、他の誰でも良い「僕」である。
僕が、「僕」でなければいけない理由なんて、なかった。
みんな、僕を、「都合の」良い子としか見てくれない。
だから、都合が良い「僕」が、ある日突然、他の誰かになっても、
誰も困らない。
僕は、いらない存在。

・・・そうやって、先の見えない暗黒の中へひた歩く僕は、住宅街へと続く、
小さな道の交差点までやってくる。
家は、すぐそこ。
今度は、親の言うことを聞く「良い子」にならなくてはならない。
・・・それが、日常だった。

・・・でも、今日は、日常通りにはならなかった。
交差点を渡ろうとした時、横道から、ものすごく大きな車(高級外車だ)が、
猛烈なスピードで走ってきたからだ。
それに、僕はまったく気づいていなかった。
気づくことができるほどの余裕がなかった。
刹那、左耳に、けたたましい警告音が飛びこんで――

ドンっ。
僕の身体が、宙を舞い、大きく弾き飛ばされた。
上も下も見当がつかない一瞬なのに、スローモーションのように感じる。
飛ばされて、地面に落ちるまでのさなか、僕は想う。
「これで、死ねる――」

・・・次に気がついた時、僕は不思議な空間の真中にいた。
蒼く、どこまでも続く、広い空間。
ここが、死後の世界なのかな。
なんだか、すごく安心できる空間だった。

次に、事故で吹っ飛んだであろう、僕の身体を見まわしてみる。
・・・あれ?おかしいな。どこにも傷が無い。
あれだけの衝撃を受けたのに、無傷でいられるはずがない。
なのに、今となっては、その痛みさえ、まったく感じられなかった。
(やっぱりここは、あの世なんだ)
こんなおかしな事なのに、妙に納得してしまう自分に、自分で嘲笑。
僕ってこんなに、常識知らずだったっけ?

「残念だが、ここは君が思っているような場所ではない。」
ハスキーな声が聞こえてきたのは、そんな時だった。
「だ、誰っ!?」
思わず、声の主を探す。
「誰、とは・・・。君の目の前にいるだろう?」
・・・え?・・・て、わぁっ!?
思わず声を挙げた僕の視線の先には、どこから出てきたのだろうか、
二足で立ってる、僕と同じくらいの身長の猫の姿があった。
高貴な血統を思わせる、白くて美しい毛並み。
碧色した、綺麗で、つぶらな瞳。
昼間の猫そのものの、縦に細長くなった瞳孔が、僕の姿をじろっと見まわす。
こいつ、誰なんだろう・・・。
不意に思うと、瞬間、猫は、僕が思ったことをそのまま口に出した。
「――こいつ、誰なんだろう」
またも、驚愕。
「わぁっ!?な、何で、僕の考えてたことがわかるんだよ!?」
たまらず、僕は叫んだ。
でも、その猫は、表情一つ変えず、言う。
「私は君だ。故に、君のことは何でも分かる。」
・・・何を素っ頓狂な。
言葉が終わるより先に、猫はまた、その言葉を復唱した。
「――何を素っ頓狂な。」
こ、こいつ・・・っ
「言っただろう。私は君なのだ。君の考える事は、私には筒抜けだよ。」
・・・どうやら、こいつの言っていることは、間違いなさそうだった。
まだ、こまごまとしたところが納得いかないけれど・・・。
信じないわけにもいかなかった。

「で、死んじゃった僕に何の用なのさ?」
コレ以上見透かされまいと、猫の目から視線をそらしながら、僕は訊ねた。
正直、さっさと、天国なり地獄に行きたいのだけれど。
すると猫は、さっきまですっぽりと頭にかぶっていた帽子を脱ぐと、
ぺこりとお辞儀をしてから、僕にこう告げた。
「私は、君の夢を司る、眠りの案内人。
  君にはこれから、私が用意する扉の向こう、夢のホームシアターにて、
  君の好きなことをしてもらう。」
・・・はぁ?
さっぱり理解できなかった。
そんな僕に、猫は、はぁ、とため息を一つ吐くと、端折った部分を説明する。
「君が本当にしたい事、皆に対して願った事を、扉の向こうで実践するのだ。
  途中、障害も出てくるが、それを乗り切って、自分の理想を達成する。
  私は、君に、それをしてもらいに来た。」
・・・理解できたような、全然できてないような・・・。
しかし、猫はお構いなしに、言葉を続ける。
「・・・詰まる所、君にはこれから、現実そっくりのパラレルワールドで
  生活してもらい、自分が考える理想の世界を築いてもらうと言うことだ。」

・・・。
いつしか僕は、その言葉を、ただ黙って聞いていた。
なんかこう、徐々に、吸い込まれて行くような――。
人の視線を逃さない、彼の強力な瞳の力なのだろうか・・・。

猫は、一通りの説明を終えると、一つ二つ、注意事項も言ってみせた。
一つは、夢の世界だからと言って、何でもして良いと言うわけではない、
と言うこと。
これから見る夢は、限りなく現実に沿ったもので、法に触れることをすれば、
その中で裁かれ、延々とその刑に服する夢を見るハメになるらしい。
もう一つは、起こった問題を、絶対に丸投げしないこと。
解決できるまで、ずっと、その問題は継続されるらしい。
「最悪、永遠に、その問題に追われることになる。
  夢のホームシアターに飲みこまれ、現実世界で肉体が朽ちても、
  その悪夢を永久に見続ける事になるぞ。」
・・・なんだか怖い制約だな・・・。
聞きながら、僕はひそかに震えていた。
猫には、その様子も、考えてることも、つぶさにわかるようだったけど、
こればっかりは性根なんだからしょうがない。
猫も、気づいてはいるのだろうが、敢えて何も言ってはくれなかった。

「さあ。心を決めたら、振りかえらずに、扉を開きたまえ。」
相変わらず、全てを見通しているかのような眼力を放ちながら、
猫は、自らの後ろに、豪著な、観音開きの扉を出現させる。
なるほど、確かに、形状は、映画館みたいだった。
でも、その先に待っているのは多分、天国とも地獄ともつかないような、
そんな空間だろう。
ためらいつつ、僕は、猫に問う。
「入らないって選択肢は、あるの?」
「入らなくて良い」と言う、多少の期待を胸に言ったのだが、
猫はあっさり、その期待を裏切る。
(しかも、おやつのじゃこらしきものを口に放りこみながら)
「そんな選択肢はない。最初から、丸投げしようとしてどうする」
・・・まぁ、そうなんだろうな。
自分の意思を尊重されたことなどない僕にとっては、これが一番、
自然で、通常通りの展開なんだろうな。

さっきまで、自分が現世からいなくなれたことがうれしくてたまらなかった
身体が、今では、何故か、その扉の向こうを畏れて震えている。
どうしても、前に一歩、進むことができない。
でも、猫は相変わらず、おやつを頬張りながら、こちらをじっと、
見据えているだけだった。
――今まで僕がされてきたように、強引に押しこんでくれれば良いのに。
猫は、何もしてくれない。

それからしばらくして、猫が不意に、こんなことを言った。
「君が君である必要はないという言い訳を、今更、君は実践しているのか?」
ニュアンスに邪気はなかったが、それだけに、鋭く刺さる一言。
「僕は奴隷みたいなものだし、命令されなきゃ動けない」
やさぐれて、言い返す。
言われた猫は、またもため息を吐くと、じゃこの入った袋に手を伸ばすのを
やめた。
そして、一言。
「ならば自分に命令すればよいであろう・・・?」

・・・なんて屁理屈だ、くそう。
どうやら、僕に与えられた選択肢など、本気でないようだった。

・・・もう、どうにでもなっちゃおう。
扉の向こうにあるというパラレルワールド。
そこで死ねば、多分、次は本当に死ねるだろうし。
僕は、自暴自棄になった心に身を任せ――

ギィィィィ・・・・ッ

重厚な造りの扉を開き放ち、一歩を踏み出した。
その先に広がるのは、ただ真っ暗な世界。
「な、何も――ないじゃないか・・・」
少々がっかりしながら、僕は、なおも、一歩、また一歩と前進して行く。
そして、ある程度、奥に入ったところで――

バタンッ。

開けっぱなしにしてきた扉が、音を立てて、閉ざされてしまった。
振りかえった先には、もはや闇しかない。
あの猫・・・、僕を、暗闇に押しこめるために――
目を閉じて、眉間にしわを寄せて、怒りの感情を培養する。
憎しみを増幅させて、出会ったばかりの猫の終末を妄想する。
ところが・・・。
しばらくすると、急に、僕の周りから、音がするようになった。
それも、一つの音じゃない。
鳥の声、車の音、木々のざわめき、そして、人の声――
はっとして、僕は目を見開く。

するとそこには、いつものあの街があった。