アンデスのインディオたちは神聖なものや霊的な力を持ったものを全てワカ(グワッカ)と呼びます。ワカは山や岩であることもあれば、特定の場所を指すこともあります。また、古い時代のワカともなると、人の形をして自分の意志で自由に歩き回っていたとされています。神聖で霊的な力を持ち人と同じ姿をした者。つまり我々の概念でいう神と同じです。 けれども『昔非常に古いワカがあった』というように表すのはややこしいことなので、ここでは全て我々の概念に当てはめた表記(「神」や「霊山」のように)をしています。しかし南米のインディオたちにとって、それらは概念的に同一のものである。その事実は興味深いことだと思います。

【パチャカマックの神話】
【ワロチリ(ワラチリ)の神話】
【アルティプラノの神話】
【インカの神話】


【パチャカマックの神話】

 パチャカマックとは、ペルーの首都リマの海岸沿い南にある渓谷の名です。かつてここにはパチャカマックという名の神が祀られており、独自の創世神話が語り継がれていました。人々はインカ帝国の太陽神殿にも匹敵する立派な神殿があるその肥沃な渓谷地域を、パチャカマックの地という意を込めて神と同じ名で呼んだのです。

世界と人類の創造: 初めに北の方からコンという一人の骨無しの男がやってきました。 この男は骨こそありませんが、身のこなしは機敏で、遠くまで旅をすることが出来、 また自らの意志と言葉の力によって、山を低くし、谷を隆起させ、そして自らの進む道を容易に開くことが出来たのです。 彼は、自らがつくった男と女をその地に広め、彼らに食料や生活に必要なものを与えました。 しかし、コンの作った人間達は時にコンの意志に背き、彼を怒らせたので、 コンは人間に与えた良質の土地をその意志と言葉の力によって、 現在でも見られるような雨の降らない乾燥した不毛の砂漠に変えてしまいました (陸の側の砂漠…実は岩塩で、写真中央の模様は作者未詳の燭台です)。 けれどもコンは慈悲深くもあり、人間達がその不毛の土地でも灌漑や労働によってどうにか生きていけるように、川だけは残したのでした。 ペルーのとある沿岸
 そうしてしばらくはコンがその地を治めていましたが、ある時太陽と月の子供である パチャカマック(世界を創造する者という意)が現れ、 コンに戦いを挑みこれを破ってコンのつくった人間達を猿に変えてしまいました。
 さて、コンに代わってこの世を治めることになったパチャカマックはまず初めに新たに男と女を一人ずつつくりました。 しかし食べ物を与えなかったので男は死んでしまいました。残された女はパチャカマックの父である太陽に助けを求めました。 太陽は死んでしまった男の変わりに、自らの光線で女を妊娠させ、女に息子を産ませました。 それを知ったパチャカマックは自分を裏切った女と、太陽の強大な力を妬み、女が産んだ男の子を殺してしまいました。 パチャカマックがその死体の歯や骨などを大地に蒔くと、それらはトウモロコシやマニオクの塊根となりました。 子供の父親である太陽は、パチャカマックの嫌がらせに屈せず、死んだ男の子の体からまた新たに息子をつくり、 ビチャマ(ビリャマ)と名付けました。 パチャカマックはこの子供も殺そうとしましたが、ビリャマは旅に出てしまっており、見付けることが出来ませんでした。 その代わり、母親である女を殺し、その死体をハゲ鷲とコンドルに食べさせてしまいました。
 しばらくして旅から戻ったビチャマは、母親が殺されたのを知ると、その肉片を探し出し、それから母親を元の姿に戻しました。 復讐に燃えるビチャマは、女を殺した後でパチャカマックが新たにつくった人間たちを石に変えてしまいました。 それからビチャマはパチャカマックを追いました。パチャカマックは報復を恐れて海に逃れ、そのまま沈んでしまいました。 そうした後で、ビチャマは父である太陽に新たな人間をつくってくれるように頼みました。 その願いを聞き入れて、太陽はビチャマに金、銀、銅の三つの卵を与えました。 金の卵からは高貴な者が、銀の卵からは女が、銅の卵からは庶民が生まれました。 その後、新たな人類はパチャカマックの力を恐れ、パチャカマックを彼らの神として予言を求め、また予言を受けるための奉納品を捧げ、 豪華な神殿を築き、キリスト教徒たちがやってきて新たな神を広め、パチャカマックを追い出すまで、大いに彼を崇拝したのでした。

パチャカマック: ペルー沿岸地域における創造神はパチャ(世界)カマック(創造者)と言い(一説によると『生命を与える人』)、 その神の神殿のあった土地は神と同じ名、つまりパチャカマックと言われていました。 人々はパチャカマックに対して大いに畏敬の念を抱いており、その名をはっきりと声に出すことさえ避けたそうです。 どうしてもその名を声に出して言わなければならない時は、畏敬の念を示した特別な動作をしなければならなっかということです。
 さてこのペルー沿岸の創造神パチャカマックですが、16世紀になってインカ帝国がペルー沿岸にまで勢力を伸ばし、 パチャカマックの地を侵略した後も尚、その土地の人々に崇拝され続けました。 いつもならば、征服した土地にも自分達の宗教である太陽神崇拝を押し付けるインカ帝国ですが、 パチャカマック崇拝の強大さ、根深さに、パチャカマックの祭儀に自分達の太陽神崇拝を混ぜ合わせるのみに留めざるを得なかったようです。


【ワロチリの神話】

 ワロチリと言うのは太平洋沿岸地域の中の一地方で、現在の地理で言うリマの南に位置する高地を指します。この地方に住むインディオは、ペルー沿岸地域で威勢をふるったパチャカマックとはまた別のコニラヤ(或いはコンナ)と言う創造神を持っており、コニラヤのために壮大な神殿を築いていました。また、どちらがより古い神であるのか定かではないのですが、コニラヤ以外にもパリアカカやワリャリョ・カルインチョという神たちの物語をも語り継がれています。 しかし、神話はキリスト教徒のスペイン人らに断片的に、しかも偏見に満ちたかたちで記録されたに過ぎず、従って神々の属性や機能等については未だ分からないことが多いようです。

コニラヤ:コニラヤは、時にインカの創造神ビラコチャとも同一視されています。コニラヤ・ビラコチャというように呼ばれていたりもするようです。コニラヤは創造主であり、人間に様々な農耕技術を授けました。しかし彼が人々の前に現れる時は、いつもぼろをまとった貧乏人の格好をしていたので、コニラヤと知らずに彼の姿を見た人々は皆彼を嫌いました。
 さて、このコニラヤはある時美しい処女神カビリョカに恋をしました。彼はその身を鳥に変じ、カビリョカの食べるルクマの実に自らの精液を注ぎ込みました。それを食べたカビリョカは妊娠し、一人の子供を生みました。子供が一歳になると、カビリョカは子供の父親を探すべくその土地の主だった神々ビルカ(力強い男神の総称。インカの言語であるケチュア語で『聖なるもの』を意味する言葉だそうです。『ビルカ〜』という地名がこの沿岸部の各地にあるのですが、これは『聖なる〜』という意味なんですね。例えば『ビルカバンバ』は『聖なる谷間』)を召集しました。 その神々の中から子供が選んだのは、ぼろをまとった汚い格好のコニラヤでした。それを見たカビリョカはあまりの恥ずかしさに怒って、子供と共にその場から立ち去りました。
 コニラヤがカビリョカと子供の後を追いかけていくと、途中でコンドルに出会いました。コニラヤがコンドルに二人の行方を尋ねると、コンドルは二人は近くにいるから、すぐに追いつけるだろうと応えました。それを聞いたコニラヤは喜びコンドルを祝福し、コンドルに、山々や谷間を越えて自由に飛びまわり、何者にも邪魔されぬ場所に巣を作ることができ、あらゆる死骸と持ち主が打ち捨てているものを食すことが出来る力、それから毒に対する免疫を授けました。次に出会ったのは狐でした。狐はカビリョカはもう手の届かないところへ逃げてしまったから追いかけても無駄だとコニラヤに言いました。コニラヤは怒って狐をののしり、狐が青く集を放ち、人間に嫌われるよう呪いました(アルティプラノ〈大陸中央辺りの高地〉のインディオたちの間ではいまだに狐は悪をもたらすものとして嫌われているということです)。 更に進んでいくとライオンに会いました。ライオンもすぐに追いつけると応えたのでコニラヤはこれを祝福し、ライオンが死後も人々から尊敬されるようにしました。その後で出会ったハヤブサも朗報をもたらしたので祝福しましたが、最後に出会った数羽のオウムたちは、コニラヤに悪い知らせを教えたので、始終大声でおしゃべりすると言う悪癖を与えました。
 さて、カビリョカと子供はパチャカマックの地にある海岸まで逃げると、そこから海に身を投じ岩になってしまいました。やっと海岸までやってきたコニラヤは親子が岩になっていることに気付き、落胆したということです。


【アルティプラノの神話】未だ水源不明なプレインカ時代の遺跡

 アルティプラノまたはコリャオ地方と言うのは、太平洋沿岸に寝そべるアンデス山脈の真ん中辺り、ペルー、ボリビア、チリの三国が交わる辺りの高地を指します。このアルティプラノの中心地がティアワナコでした。ティアワナコではティアワナコ文化というものが栄え(いつ頃かについては諸説ありますが紀元前300年〜紀元後1000年に入る範囲です)、インカやその他沿岸文化に大きな影響を及ぼしました。右の写真はそのティアワナコ文化の影響を受けてつくられたと思われるプレインカ時代の遺跡です。この遺跡から流れ出る水の水源地は未だ不明なんだそうです。下の写真はシルスタニにあるプレインカ時代の墓です。石はぴったりと隙間無く積み上げられています。因みに、写真下に見える穴から中に入れます(四つん這いになって入る感じです)。石がぴったり合わさっているので中は真っ暗ですが、カメラのフラッシュで見えた範囲では、中には何も無く、高さは三メートルくらい、広さとしては二十人ほど入れそうでした。
 しかし写真の遺跡のような、高度な技術を要する見事な遺跡を多く残しているにも関わらず、驚くべきことにティアワナコ文化に関してはほとんど記録がないのです。インカ帝国(キープという紐の結び目で物事を伝達する手段は持っていました)を含むこの辺りには文字がありません。ですからこの地方を訪れたスペイン人達は、インカ帝国出現以前に存在したティアワナコ文化について記録すべく、熱心に地元のインディオたちに聞き込みを入れたのです。 けれども、ティアワナコについての詳細な記憶は、彼らの中からすっかり失われており、そればかりかインディオたちはそれらインカ以前の古い遺跡は、自分たちとは全く関係のない人々が作ったものだと信じていたのです。従ってアルティプラノに住むインディオ達は、彼らの過去に関する伝承はしっかりと伝えているのですが、ティアワナコ文化に関する言い伝えは何一つ伝えていませんでした。

 と言うわけで、アルティプラノに栄えたティアワナコ文化の物語を除くアルティプラノのインディオ達の物語を以下に紹介していきたいと思います。

チチカカ湖の近くにあるプレインカ時代の墓
世界と人類の創造:この世界に天と地とを創り、また人類をも創ったのはビラコチャ(或いはコン・ティクシ・ビラコチャ、チクシ・ビラコチャ等)でした。天と地しかない世界は暗く、人類は暗闇の時代を生きていました。ある時、この人類がビラコチャを怒らせるようなことをしでかしました。ビラコチャはコリャオ地方のある湖から、再び人々の前に現れ、彼を怒らせた罰として人類を石に変えてしまったのでした。 この二度目の出現の際、ビラコチャは何人かの人間を連れていました。そうして彼らと共に現在のティアワナコ村に滞在し、その間に太陽と月と星をつくり、世界を昼と夜とに分けたのでした。それからその場所で新しい人類の小さな模型を石でつくりました。その模型というのは、人間とその人間を支配する首長、子をはらんでいる女性、そして赤ん坊をゆりかごに寝かせている女性でした。 ある程度の数の石像をつくり終えると、ビラコチャは彼が連れてきた人間たちを集めてこう言いました。「これらの石像は、このような名前で呼ばれ、このような地方の、このような泉から飛び出し、自らを増やして、その地方を人で満たすことになる。また、これらの石像は、このような洞窟から飛び出し、このような名前で呼ばれ、このような地方を人で満たすことになる。私は、この地において、石の像をつくり、色を塗って区分けした。これらが、私がおまえ達に教えたそれぞれの地方の、泉、川、洞窟、岩などから飛び出してくるのを待て。さぁおまえ達は全員太陽に向かって進み、飛び出した石の像を区分けし、それぞれにそれぞれの名前を指示せよ」。 人間達はビラコチャの言うとおりそれぞれの地方目指して東へ東へと旅を続け、自分の指定された泉や洞窟へやってくると、その近くで新たな人間達が飛び出してくるのを身構えて待ちました。ビラコチャが送り出した全ての人間達が指定どおりの位置につくと、ビラコチャはティアワナコにおいて大きな声で言いました。「石像どもよ。飛び出し、人気のないこの地を人で満たせ。この世を創ったコン・ティクシ・ビラコチャがそのように命じている」。その言葉と共に石像は本当の人間となって各々の場所から飛び出し、大地は人で満たされていったということです。

ビラコチャ:ビラコチャとはケチュア語で創造主)と言う意味だそうです。
 上記の創造神話では、ビラコチャは自分はティアワナコにいて、連れてきた人間達を各地に遣わしていますが、別の記録者はビラコチャ自らが旅をし、行った先々で人類を生み出している話もインディオから採取しています。ビラコチャは旅をしながら人々に奇跡を示しています。そうしてビラコチャの奇跡(天から火を降らせる等)によって彼に畏怖の念を抱いた人々は、ビラコチャを讃える巨大な建築物や彫像を造っていたりします。
 ビラコチャの姿について、これは採取した人々がキリスト教の宣教師であったことに影響を受けていないとも言えないものなのですが、「背が高く、裸足で、足まで垂れ下がる白い衣服を着て腰にベルトを巻いていた。そして髪は短く、キリスト教の僧侶のように頭の上の部分を剃っており、手には僧侶の持ち歩く祈祷書のようなものを持っていた」ということです。 宣教師は現地のインディオに宣教のためキリスト教の聖者の話をしました。インディオは宣教師から聞いたそれらの話を、自分の持っている物語に組み込んでいくことにあまり抵抗がなかったようです。アルティプラノにおける文化的英雄で時にビラコチャの別名の一つ(混交か?)ともされているトゥヌーパは、人々に説教をしながら旅をしています。聖アウグスチノ修道会の神父がトゥヌーパについて記録した物語では、トゥヌーパは弟子を連れ、青い目をし、あごひげを生やし(インディオは比較的顔面に毛が生えない人種)、威厳に溢れた態度の人物として登場します。彼は真面目で、禁欲的で、酒を飲むこと、一夫多妻、争うことを非難し、背中には大きな木の十字架を担いでいました。また別の話では、彼はある村で偶像崇拝がなされているのを見ると、怒ってこの偶像を燃やしてしまいます。 アルティプラノのインディオは自然物だけでなく神のための建物や神をかたどった像も神聖なものつまりワカとして祀っていました。そのワカである偶像を崇拝することが悪と言う発想は、やはりアルティプラのらしからぬ発想と言えるでしょう。


【インカの神話】

 インカ帝国の中心都市と言えばクスコですが、インカの人々は自らの起源をチチカカ湖としています。チチカカ湖は標高約3700m(つまり富士山の頂上くらい)という世界一高い場所にある湖です。上記のティアワナコはそのチチカカ湖沿岸にあります。 インカ王は自分達が勢力を強める以前から聖地であったそのティアワナコ及びチチカカ湖を自らの起源を説明する物語に取り込みました。そうして神聖さをアピールし、王を太陽神として崇拝することのへの説明的物語を強化したのです。
 さて、そのインカの起源を語る物語には類話が沢山あります。その類話の中には太陽神やチチカカ湖が全く登場しないものもあれば、王(インカ)がクスコの民を支配下に置けた理由を、王の神性ではなくペテンによるものとしている物語もあります。 それら類話の中から、今回はガルシラソ・インカ・デ・ラ・ベーガというインカ人とスペイン人とのハーフであった人物の記録した物語を中心に途中少々類話も交えて紹介したいと思います。彼の記録した物語は、インカの貴族階級であった彼の叔父達が、これぞインカの正式な伝説であるとして彼に語った物語です。

インカの起源:昔々、人々は家や町を持たず、洞窟やほら穴、岩の裂け目の中などで、宗教も政治も知らず、そればかりか衣服も身に付けずに、獣同然の暮らしをしていました。父なる太陽はこの人間達の有様を見て不憫に思い、王と女王となって人々を支配し啓蒙させるために自らの子供の中から息子と娘を一人ずつ選び下界に遣わすことにしました。 太陽の息子はその名をマンコ・カパック、娘はその名をオクリョ・ワコと言いました(別の話ではこの二人は太陽の子供ではなく、パカリ-タンボ(起源の宿)或いはタンボトッコ(穴の場所)から飛び出した八人の兄弟姉妹のうちの三男マンコ・カパックと三女ママ・オクリョ)。太陽神は、兄妹に金の細長い棒を持たせてチチカカ湖にあるチチカカ島に下しました。 父から授かった金の棒を持って、二人は太陽神の聖なる都市を築くための土地を求めてチチカカ湖から北へと旅立ちました。二人は行った先々で金の棒が大地に埋まるか試しました。金の棒が完全に土中に埋まる土地(つまりそれだけ土がやわらかく農耕などに適している土地。高地は石だらけの不毛の土地が大部分)こそ、神に定められし定住の地だったからです。 そうして旅を続け、ある時やっと金の棒が完全に埋まる土地を見付けたのです。その土地は後に太陽神の聖なる都市としてインカ帝国の中心となるクスコ(ケチュア語でヘソの意であるが、ある物語は八人の兄弟姉妹のうちの次男クスコ・ワンカが最初の統治者となったためにクスコと名付けられたと説明している)でした。
 土地を見付けると今度は人々を集めるために、二人はワナカウリと呼ばれる高台から兄マンコ・カパックは北へ、妹オクリョ・ワコは南へというようにそれぞれ別々の方向に下っていきました(他の物語の中でワナカウリが登場するものとして以下のようなものがあります。「八人の兄弟姉妹の中の一人アヤル・カチは自慢好きがもとで他の兄弟姉妹たちの怒りを買い、ある洞窟に閉じ込められその地においていかれてしまう。しかし兄弟姉妹たちがワナカウリに着いた時、そこへアヤル・カチの霊が現れクスコ市の建設を熱心に説き、その場で石に変じた。以後インカの祭儀においてその石は礼拝の対象とされた。」 「兄弟姉妹はアピタイという場所へやってきてそこで歩を止めた。そこから兄弟姉妹のうちで最も賢いとされていたコリ・オクリョが一人でクスコに偵察へ行った。彼女はクスコを定住するに相応しいと判断し、兄弟姉妹たちをクスコへ呼ぶためアピタイへ戻った。しかし長兄ワナ・カウリだけはアピタイに留まることを望み、兄弟姉妹たちは長兄を忘れないために、以後そのアピタイの高台をワナ・カウリと呼ぶことにした。」)。
 マンコ・カパックとオクリョ・ワコは出会った全ての未開の人々に、何ゆえ太陽神が人々に彼らを遣わしたのかを物語り、そして人々に人間らしく生活する術を与えることを約束しました。未開の人々は皆と違う彼らの姿に太陽神の子に相応しい気品を感じ、彼らを太陽神の子として支配者とみなし、崇拝服従することを約束しました。そうして太陽の子たちは彼らに付き従う人々を大勢引き連れてクスコに戻り、その地に都市を築きながらマンコ・カパックは男たちに農耕技術や道具作りの技術等を、オクリョ・ワコは女たちに縫い物や織物の技術、衣服の作り方等を教えました。 このようにマンコ・カパックは王(インカ)として男たちの師となり、オクリョ・ワコは女王(コヤ)として女たちの師となって、クスコの最初の統治者になりました。

サクサイワマン

←ここサクサイワマンでは、毎年6月にインカ時代の儀式を再現した太陽の祭(インティライミ)が行われます。
 かつてはこのサクサイワマンの城壁の中央部分に塔が立っていました。しかし、異教崇拝を嫌うスペイン人はその塔を破壊してしまい、今では城壁だけが残っているというわけです。











サクサイワマンからのクスコ


←サクサイワマンからはクスコの街が一望できます。因みに、クスコの標高は3,360mです。雲が近いです。
 余談ですが、クスコは街全体ジャガーの体に見立てられており、その見立てでは写真中央近くに見える広場が心臓とされています。 頭はサクサイワマンであるとする人もありますが、現地のガイドさんはサクサイワマンをもっと登ったところにある巨岩だと言っていました。で、その巨岩は心なしか丸くて赤茶色をしています。階段のようなものが造られていて頭の上や中に入れます(良いのかな?)。