双蝶々曲輪日記 通し狂言の意義 2003.1.31

27日千穐楽に、国立劇場で上演されていた「双蝶々曲輪日記」の通しを見てきました。

「双蝶々曲輪日記」(ふたつちょうちょうくるわにっき)のあらすじ
角力場(すもうば)
角力小屋の前はにぎわっている。今日の呼び物は人気力士の濡髪長五郎と、草相撲の放駒長吉の取り組みだ。濡髪は、主筋の与五郎が遊女の吾妻を身請けする後押しを頼まれている。もう一人、吾妻に横恋慕している平岡という侍は、長吉を味方につけ吾妻を横取りしようとしている。
それを知った濡髪はわざと相撲に負けてやり、長吉に吾妻をこちらで身請けさせてくれるように頼む。長吉は、相撲が八百長だったと知ってはますますゆずれないと断る。

米屋
長吉の姉おせきは搗米屋を営んでいる。姉思いなのにもかかわらず、悪い友達と縁の切れない暴れ者の弟を気遣って、おせきは同業者の人々に「金をぬすんだ」と長吉を窮地におとす芝居をしてもらって、長吉を諭す。
この場へ喧嘩の勝負をつけにやってきた濡髪は姉弟の気持ちに打たれ、自分も改心し、長吉と兄弟分の誓いをする。
そこへ吾妻と逃げた与五郎が平岡たちにつかまってひどい目に会っていると知らせが来る。濡髪はいそいで彼らを救出に向かう。

難波裏殺し
難波芝居裏のくらがりで、平岡たちは与五郎を痛めつけている。そこへやってきた濡髪はことをわけて許してやってくれと頼み、そのかわり自分を存分に打ち据えてくれと言う。平岡たちはそれでも納得せず卑怯にも切りつけてきて暗闇の中、味方同士の相打ちとなる。
もはやこれまでと思った濡髪は、二人にとどめをさし自分も死のうとするが、後から来た長吉の意見を聞き入れ、落ちのびる事にする。そこへ襲ってきた二人の悪者も殺してしまい、心ならずも濡髪はお尋ね者になってしまう。

引窓
濡髪の実母、お幸は義理の息子、南与兵衛(なんよへい)とその女房で廓から請け出したお早とともに幸せにくらしている。今日は与兵衛が奉行所に呼び出されて、父南方十字兵衛(なんぽうじゅうじべえ)の名前と、七ヶ村の郷代官という職を継ぐ嬉しい日。
そこへ濡髪が母にひそかに別れを告げにやってくる。そうとは知らず再会を喜んでご飯を作ってやろうとするお幸。

そこへ与兵衛あらため十字兵衛が二人の侍、濡髪の殺した平岡たちの親戚とともに帰ってきて、濡髪捜索の相談。それを漏れ聞いたお幸とお早は仰天する。侍達が帰ったあとで、与兵衛は引窓からの明かりで、手水鉢の水にうつった二階にいる濡髪を見つける。

濡髪を捕らえようとはやる与兵衛に、お幸は自分の死後の供養の為にととコツコツとためたお金を差し出し、その人相書きを売ってくれと頼む。

不審に思った与兵衛は考えたあげく、濡髪が義母が昔別れた子供であることに思い至る。そして義母の気持ちを思って濡髪を捕らえるのをやめ、逃げ道をおしえてやり、出かけて行く。濡髪は自首しようとするが、母の気持ちを汲んで思いとどまる。

お幸は濡髪の前髪をそって人相をかえてやるが、親譲りの大きな高頬の黒子だけは切り落とす事が出来ない。すると家の外から与兵衛が路用にと投げた金包みが濡髪の顔に当たって黒子がとれてしまう。
濡髪は「与兵衛への義理を忘れてはいけない」と母を説得する。、わが子可愛さに与兵衛への義理を忘れていたお幸は自分の身勝手さに気づき、涙ながらに濡髪に引窓の紐で縄をかける。

そこへ入ってきた与兵衛が縄を切ると、引窓が開いて月の光が差し込む。「もう放生会(ほうじょうえ)の朝になったので自分の役目は終わった」と温情をしめす与兵衛に、感謝しながら濡髪は落ちのびてゆく。

竹田出雲、三好松好洛、並木千柳合作の「双蝶々曲輪日記」は1749年に人形浄瑠璃で初演。同年歌舞伎に移されて上演されました。同じ作者たちの手による「仮名手本忠臣蔵」の翌年にできた作品です。

「角力場」と「引窓」は独立して演じられるので前に見たことがありますが、その間の事情と言うのがはっきりしないので、面白さがよくわかりませんでした。特に今回「米屋」を上演した事で放駒の長吉の性格がはっきりわかって、この物語に豊かな奥行きが感じられるようになったと思います。

吉右衛門の長五郎は時代な台詞まわしがいかにも気持ちよく、吉右衛門ならではのゆったりとした風格が出て濡髪にピッタリだったと思います。

富十郎の与兵衛はわざと町人に戻った時も妙に軽薄にならなくて良かったと思います。花道に走り出てきた時の、苦衷があらわれたような表情の見得が印象的でした。

長吉の歌昇は「角力場」では若さがたりないように私は思いましたが、「米屋」では姉思いの弟と言う人間性が感じられて良かったです。お幸の吉之丞は品があって、普通に出している声なのに三階までよく通るのには感心しました。「濡髪を引窓の紐で縛る」などということを、おかしいと感じさせない品格がありました。

信二郎の「つっころばし」の与五郎ですが、贔屓の濡髪を誉められると「これも、あげましょ」と言って持ち物を全部、茶屋の主人にやってしまうところなど、「ああ、この人のせいで濡髪は苦労する事になるんだなぁ」と言う事が実感できました。
「つっころばし」というのはその名の通りちょっと突かれるとすぐ転んでしまうような情けない役で、どうかすると気持ち悪いような役を信二郎はさらりと演じていました。

この日の大向う

千穐楽ということで大向うさんが比較的多かったです。

大向うさんは三階の下手に一番たくさん、上手と中央に少しいらっしゃいました。この日寿会の田中嘉一さんがいらしたので「引窓の場」では、どんな風に声をかけられるか、近くから拝見していました。

一番興味があったのは「手水鉢の水鏡にうつった濡髪長五郎と南与兵衛が顔をあわせるところで、何と声を掛けられるか?」ということでした。答えは「天王寺屋」。

「引窓の場」の主役は与兵衛を演じている富十郎さんと言う事なのだと思います。ほとんどの声を「天王寺屋」に、与兵衛が登場する前は「播磨屋」、濡髪の吉右衛門さんに掛けていらっしゃいました。

十字兵衛女房のお早の時蔵さんには最初の登場の時と、後は「私は馬に乗って」というあたりなど数回だったでしょうか。母お幸の吉之丞さんには長五郎を紐で縛って極まったときだけではなかったかと言う印象です。

田中さんで一番感心したのはやはりその声です。とてもよく響く気持ちの良い声で、いわゆるさびの効いた声というのとはちょっと違う感じです。背筋をまっすぐに浅く腰掛けられ肩はリラックスしていらして、理にかなった姿勢だなと思いました。

それと今回共通して掛ける「掛け時」を二つ見つけました。一つは「物語を始める時」です。「お聞きなされて下されませ」など、「始めるきっかけの台詞」を言い終わった時に声を掛けられていました。

もう一つは入り口の戸をピシャンと閉めた時や、入り口を入って一声掛けた時でこちらの方は場面によって少しタイミングが違うようです。

濡髪の登場の時は、揚幕を出たときは茣蓙で顔を隠しているので掛けません。花道七三で後ろを振り向いた時に顔が覗くので、そこで短く声をかけられたようです。

与兵衛の出でチャリーンと揚幕が開く音がしても、すぐには掛けられず数秒たってから「天王寺屋」と掛けられたので、どうしてだろう?と思いました。七三に出てきた役者さんをみましたら、二人の侍の方が先に歩いているんです。なるほど富十郎さんが出てくるタイミングを計って掛けられたんだなぁと納得しました。

与兵衛がうちから走り出てきて、花道七三できまるところでこの日たった一度だけ「五代目」と言う声を掛けられました。後は全部屋号できちんというのと、はしょって短く言う二通りあったようです。

「米屋」の最後で濡髪が花道を引っ込むさい、七三で極まった時全ての大向うさんが声を掛けますが、その後一歩出た時と、二歩出たときに田中さんは声を掛けていらっしゃいました。この時他の大向うさんは全く掛けていませんでした。

というわけでこの日は田中さんのお陰でとても有意義な「大向うウォッチング」が出来ました。この場を借りまして田中さんにお礼申し上げます。

ところで私はウォチングを書くのになるべくメモをとらないようにしています。どうしてかといいますと周りの方が「何を書いているんだろう?」と気が散ってしまわれるようなので、ご迷惑にならないようにしたいからです。型の事を書きたいときだけは間違えると困るのでさっとめもります。

というわけで記憶をたどって書いていますので、ひょっとしたら実際と少しちがうかもしれませんが、どうぞお許しいただきたいと思います。

ところでどなたか「大播磨」と掛けていらっしゃいました。これは吉右衛門さんのことなんでしょうが、私は「大播磨」はまだちょっと早いんじゃないかしらと思います。「芸術院会員になられたのでこれを機に」というところかもしれませんが、なんだか一気にお年寄りになってしまわれるような気がします。(^^ゞ

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