勧進帳 醍醐寺薪歌舞伎 2005.5.2

27日、京都の醍醐寺で3日間に渡っておこなわれた薪歌舞伎の初日に行ってきました。

主な配役
弁慶 團十郎
富樫 海老蔵
義経 時蔵

「勧進帳」のあらすじはこちらをご覧下さい。

27日は昼間からお天気は快晴。夕方5時半に仁王門から入場すると、醍醐寺金堂の前に高さ1メートル位の特設舞台が作ってありました。驚いたのは金堂の扉が全て取りはずしてあって、ご本尊の阿弥陀如来がライトアップされ、いわばご本尊が背景となっていたことで、これは素晴らしい光景でした。

花道は舞台に直角ではなくてほとんど平行に作ってあり、これがどう使われるのかしらと興奮がたかまります。

一部はまず柴燈護摩(さいとうごま)という儀式から始まりました。ほら貝を吹き鳴らしながら30人ほどの山伏の一行が観客席の後方の道を通って舞台上手の離れた場所にある不動堂の前で大きな護摩をたきました。

するとお堂の陰からふいに平安時代の公達が物思いに沈んだ様子で現れ、見ればそれは海老蔵。光源氏と見まごうばかりの美しいその姿はまるで王朝の世にタイムスリップしたかのようでした。

木立を通り抜けて舞台に近づいてきた公達は優雅な仕草で履物をぬいで階段から舞台にあがり、都の桜がいっこうに咲かないので帝が嘆いておられるので、この寺の名僧に祈祷の護摩を焚くように頼んだと語り、和歌を読みます。

するとそれに誘われたように、時蔵の桜の精が美しくもはかなげな様子で現れ、人々が争い末法が乱れた世の中では花も咲かないのだと語り、力尽きて倒れ伏しますが、公達の祈りと僧侶たちの読経によって蘇り、二人して舞を舞うとあたりの桜が次々に花を咲かせるというものでした。

これは秀吉が愛でたという醍醐寺の古い桜の木が先日クローンとして現代に蘇ったというニュースを元に、この催しのために新しく創作された舞踊劇「由縁の春醍醐桜」で、最後に下手に据えられたクレーンの上から桜の花びらがまかれて、華やかに終わりました。

二部はまん中に大導師のすわる場所があり、その後ろから醍醐寺の僧侶たちが舞台にはの字に並びました。この前後に二月堂のたいまつの小さいののようなもので山伏が舞台の上手と下手脇に設置された4つの灯りに「火入れ」をしました。そこへ團十郎が開いた本堂の下手奥から三宝を片手に現れ、口上をのべ最後に團十郎20年ぶりという睨みを見せました。

團十郎が奥へ姿を消すと入れ替わりに大導師が出てきて「声明」が始まりました。このころになるとすっかり日がおちて夜空には星がまたたき、お坊さんたちの声が空へ立ち上っていく有様は壮観でした。最後に加持棒を客席に向かって投げて終わりました。

短い休憩をはさんで「勧進帳」が上演されました。「勧進帳」では義経一行は大仏修理勧進ということで関を通ろうとしますが、実際の大仏修理勧進に際し、醍醐寺で修行した重源上人という人が活躍したという縁で、この公演が行われることになったそうです。

揚幕も臆病口もないため、富樫の海老蔵は金堂の下手奥から姿を見せ、ご本尊の前を通って、正面の階段から登場。

義経の時蔵、友右衛門、家橘、右之助、市蔵の四天王、弁慶の團十郎は花道から普通に登場しました。声は上手くマイクで拾われていて、過不足なくよく聞こえましたが、特に海老蔵の朗々たる声が醍醐寺の山々に見事に親和していたのには感心しました。以前はブツブツと切れる台詞が気になりましたが、この日は全く気にならず、病気から立ち直った父團十郎と再び「勧進帳」を演じることが出来る喜びと感謝と謙虚さが感じられた、とても良い舞台だったと思います。

薪(を模した灯り)の煙がすごくて、それが風向きによっては舞台に漂っていき、問答の時など弁慶が煙にまかれそうで心配しましたが、咳き込むこともなく、團十郎も充実した堂々たる舞台でした。

富樫の引っ込みをどうするのかと思いましたら、登場した正面中央の階段の途中で振り返りながら、泣き上げをし、金堂上手奥へ入っていきました。

富樫が再び現れるときも、同じところから登場。最後普通だと幕が閉まるときに富樫は中啓を差し上げて別れを惜しみ、弁慶は幕が閉まってからもう姿の見えない富樫に向かって頭を下げますが、今回は幕がないので弁慶が花道七三で富樫のほうを振り向いて礼をすると、中央三段のところにいた富樫が中啓を上げさっと金堂上手奥へ引っ込みました。

花道にほとんど角度がついていないので、團十郎は七三での演技をほとんど正面をむいて演じ、飛び六方の時だけ下手をむいて引っ込んでいったようです。

野外の上演ということで山から吹く風が寒かったり、踊りのときは虫が光に集まってきて舞台に虫柱がたったり、勧進帳では煙が舞台におしよせたりといろいろ大変でしたが、それでも劇場で演じられるのとは明らかに違った荘厳な空気の中で行われた今回の公演は、長く記憶に残るであろう素晴らしい舞台だったと思います。


この日の大向こう

この日声を掛ける方は多くなく、「なりたや〜」と尾をひくような上方式のゆったりした声の方が掛けていらっしゃいました。

女の方の声も二人ほど聞こえましたが、富樫の「判官どのにもなき人を・・」のところで「成田屋」と掛けられていたのは、微妙な場面だけに、ちょっと疑問に思いました。

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