『 忘れえぬ人 』
その時、どうして身体が動かないのか 彼女は自分でもわからなかった。
息を呑んだまま まばたきすらできずに、でも 感覚だけはひりひりと冴え渡り
フランソワ−ズは ただじっとその青年の腕が動くのを見詰めていた。
カレの手のなかには。
鈍い光 − 一振りの ナイフ −
それは するすると決められた道筋を辿って なめらかに 躊躇いもなく
真っ直ぐに 向ってきた ・・・・・ 彼女の胸に。
胸の一点に 火がついた、と思った。
− ジョ− ・・・!
焼きつく痛みで薄れてゆく意識のなか、フランソワ−ズは全身全霊をこめて 呼んだ。
そして ・・・ なにもわからなくなった。
「 ( ・・・・・あ・・・・ああ・・・? ) 」
再び眼を開いたとき はじめて目にはいったのは見慣れた自分の部屋の天井だった。
そこが 地下のメンテナンス・ル−ムでないことが ひどく彼女を安心させた。
− そう ・・・ だわ ・・・ わたし。 ナイフで ・・・・・
ぼんやりと 記憶がもどってきた。
すでに夜も深いらしく 小さな常夜灯が淡いひかりで室内を照らしている。
そうっと息を吸い込んでみたが 胸に多少の重苦しさを感じただけだった。
ゆっくりと首を巡らせると 意外な近さにジョ−の寝顔があった。
− ・・・・ ジョ− ・・・・・ ?
彼はベッドサイドの椅子から 屈みこむように彼女のすぐ脇に突っ伏している。
フランソワ−ズは片手だけを動かして シ−ツに散らばる栗色の髪をそっと撫ぜた。
「 ・・・・・ う ? ・・・ああ、寝ちゃった ・・のか・・・ 」
ぴくりと身体を揺らせ起き上がったジョ−は 軽く頭を振った。
「 ああ・・・! フランソワ−ズ! 気がついた・・いや、目が覚めたんだね! 」
身体を起こすなり、彼女が目覚めているの気がついたジョ−は
いきなり腕を伸ばして その細い身体をかき擁いた。
「 ・・・ ジョ− ・・・・ 」
「 よかった・・・・! もう大丈夫だよ、 全部。 全部もう終わったから。
きみは何にも心配はいらない・・・・ 悪い夢は、忘れよう・・・! 」
「 ジョ−・・・? 」
よかった、よかった・・・・ とそれだけを繰り返し ジョ−は彼女が痛みを訴えるまで
その身体を離さなかった。
− ・・・・ ねえ。 あなた、 泣いていた・・・ わね?
ギルモア博士の診察とおりに フランソワ−ズは順調に回復していった。
本来ならば この身体にナイフの傷など たいしたダメ−ジでは無いはずなのだが
あまりの至近距離と 部位が部位だけに 博士も内心は心配していたらしい。
「 やはり若いモノは回復が早いな。 さあ、もう傷は大丈夫じゃよ、フランソワ−ズ。」
診察後手を洗って博士は 至極満足げに頷いた。
「 ありがとうございます、博士。 」
「 もう、飛んでも跳ねても大丈夫、レッスンもO.K.だぞ。 ああ、もうひとつ ・・・ 」
「 ・・・ ? 」
「 急ぎはせんが・・・ この傷跡を消さねば、な? 」
「 あ・・あの・・・もうちょっと・・・。 少し待ってください。 」
「 いつでも構わんよ、気が向いたときに言っておくれ。
じつはな、ジョ−がえらく気にしておっての。 」
「 ジョ−が? 」
「 大事なお前に 傷を残したくないんじゃろう。
あの照れ屋がえらく真剣になっていたよ。 まあ、アイツの気持ちも汲んでやっておくれ。」
「 ・・・・・ はい。 」
血の気がなかった頬をやっと桜色に染めた彼女に 博士は目を細めていた。
「 よかったな・・・。 お前の笑顔を見られて嬉しいよ。 」
「 博士・・・ 」
博士の大きな手が くしゃくしゃとフランソワ−ズの髪を梳いた。
目尻になみだをはさんだまま それでもフランソワ−ズは明るく微笑んでみせた。
− わあ・・・・ こんなに高かったかしら・・・
何度も脚をはこび、見慣れていた風景のはずなのに
フランソワ−ズは足許から切り込むその断崖の高さに 改めて息を呑んだ。
「 ユウジは。 あの三本松の崖から落ちていった。 」
「 落ちて・・・? ・・・・ 自分・・・から・・? 」
目顔でうなずき、巨躯の持ち主はがっしりとした大きな手で彼女の頬にそっとふれた。
「 もう、忘れろ。 それがカレのためだ。 」
「 ・・・・・ 教えてくれて・・・ ありがとう。 ああ、気をつけて・・・ 」
無骨に片手を上げただけで G.ジュニアは静かに踵を返しジョ−の待つ車へ向った。
無口な彼は フランソワ−ズの回復を見極めてから祖先の地へと帰った。
別れ際にやっとあの事件の結末を話してくれた。
きみは 知る必要はないよ、とジョ−はなんとしても教えてはくれなかったから。
「 もう 忘れて。 アレは悪夢さ。 」
不機嫌に言い切って それきり口を噤んでしまう。
いつも最後のところでの彼の頑固さはようくわかっているので
フランソワ−ズは ジョ−の前であの事件を話題にしないようにしていた。
あのヒトは。再びみずから落ちていった・・・・・
一度目は 自分自身から逃れる為に、 そして 二度目は。
自分自身を始末し みずからの所業へケリをつけるために。
「 僕は ひきょうものなんだ。 」
「 − 僕は なにもかもダメにする。 」
いっしょに松林をあるいた時の カレのことばをいま、また潮風が甦らせる。
− あなたは。 卑怯者なんかじゃないわ。
崖っぷちにもわずかに地に這う草がある。
フランソワ−ズは 岩の間の草地にゆっくりと腰をおろした。
やわやわと 淡い秋の陽射しが彼女の髪に纏わりつき零れ落ちる。
僕の毒、カレはそう言っていたっけ。
わたしの中も 毒がたくさんよ、溢れそう・・・・
あなたは わたしの中はただ優しさだけでいっぱい、といったけど。
それは・・・・ 嘘。
優しいフリをしているだけよ。
微笑んでいる顔をしてるだけなの。
いつだって
わたしのこころは 毒でいっぱい・・・・
あの人が 微笑みかける女性( ひと )
あの人が 手を差し伸べる女性( ひと )
あの人が ・・・・ その胸に抱く女性( ひと )
すべての ひと にわたしはいつも いつも いつまでも
嫉妬の炎を 吹き付けているのよ 毒の炎で 炙っているのよ
わたしの毒が いつかあの人を滅ぼすわ・・・・
それなのに。
微笑んでいるのよ、 優しいフリをしているのよ。
− 卑怯者は。 わたし ・・・・
白っぽさを増してきた空へ 水平線へ
フランソワ−ズは そのはるか彼方ひかりの向こうに 視線をとばす。
眼を細め 大気を透いて見渡す先には なにがあるのだろう。
ねえ・・・・ ユウジ。
あなたは いま。 しあわせ・・・・?
あなたには わかっていたのね。
優れた能力 ( ちから ) が その持ち主を幸せにするとは限らないということを。
ねえ・・・・ ユウジ
あなたは いま しあわせね・・・・
同じ悲しみに囚われる前に
ともに波間に消えた女性( ひと )も きっと ・・・・ 。
あなたは なぜ わたしとめぐり合ったのかしら。
あなたの 苦しみを引き伸ばしてしまったわたし・・・・
わたしは なぜ あなたを助けたのかしら
わたしの 哀しみをすこしでも分け合えるヒトを求めていたのかしら
コレは。 この傷は
そんな わたしへの罪への刻印・・・
あなたが 置いて行った贖罪のしるし・・・
フランソワ−ズは そっと胸の狭間に手を当てた。
もう 痛みも何も感じない。 ともすれば そこに刺し傷があることすら忘れそうである。
でも、と彼女は手に力を込める
わすれては いけないの。 なかったコトにしては いけないのよ。
これは・・・・ わたしが わたしである為にカレが残していってくれた 想い出 ・・・
かさり・・・・
柔らかな足音が 少し枯れはじめた草地を踏み分けてくる。
「 ここにいたんだ・・・捜しちゃったよ。 」
「 ・・・・ ジョ− ・・・ 」
振り仰げば そこにはいつもと少しも変わらぬセピアの瞳が穏やかな光をたたえている。
「 どうしたの? まだ 身体が辛いのかい? 」
静かに隣りに腰を下ろし、ジョ−は彼女の肩にそっと腕をまわした。
− この人は。 いつも やさしい・・・・
肩を覆う彼の手から じんわりと暖かさが身体に染み透ってくる。
海風に吹かれていて いつのまにか少し冷えたのかもしれない。
さむいのは ・・・・ 身体だけ ・・・?
「 ううん・・・ 大丈夫、なんともないわ。 」
「 なら、いいけど。 まだあんまり風には当たらない方がいいよ。 」
「 ・・・・・・・ 」
淡い微笑みを浮かべた彼女の手を ジョ−はちょっと躊躇ってからやんわりと包み込んだ。
「 ・・・・ 元気になったね。 よかった・・・・いつものきみだね。 」
「 え ・・・・ そう? わたし、 ヘンだった・・・? 」
「 いや、そうじゃないけど。 ごめんね、ショックだよね、あんな事件に巻き込まれて
すぐになんでもないって顔なんか できないよね。 」
「 ジョ− ・・・・・ 」
絡めてきた彼の指をさり気無く解き フランソワ−ズは海風になびく髪を押さえた。
・・・・ とくん。
もう 何ともないはずの傷が そっと疼いた。
「 博士にさ、怒られちゃったよ。 」
「 怒られた? ・・・・ どうして? 」
「 ほら、 あの傷跡を消す手術のこと。 そんなに簡単なことじゃあないんだぞって。
あ、手術そのもののことじゃなくて・・・・ 」
「 ・・・・ そうなの ・・? 」
「 きみの ・・・ その、気持ちをちゃんと考えろって。
戦闘時じゃない、日常の生活で至近距離からあんな目に遭った きみの・・・
その・・・ ショックをね、もっと思いやれって。 」
いつものように自然に寄り添っては来ない彼女の肩を ジョ−は少々強引に引き寄せた。
「 すぐに忘れるなんて 無理だよね。 でも。 これだけは覚えていて欲しいんだ。
これこそ忘れないで欲しい。 ・・・・・ いつも 僕がいるってことを。 一緒に・・・ きみと。 」
「 ジョ−。 忘れるなんて そんなこと・・・。 」
「 うん・・・・ 信じてるけど。 」
いつもより少しだけ強く ジョ−は彼女の顎に手をかけ、正面から見詰めてきた。
「 約束だよ・・・ 」
「 ・・・ あ ・・・・! 」
熱く重ねられた唇に フランソワ−ズの言葉は飲み込まれたしまった。
いつもより ・・・・・ 深く ながく 激しく。
ジョ−は 海風の吹くなか、腕の中の身体がふらつくまで口付けを止めなかった。
「 ・・・・ごめん。 冷えちゃったろ。 これ、着ろよ。 」
「 ううん 大丈夫 ・・・・ 」
「 さあ。 帰ろう、 夕食ができてるはずだよ。 」
「 ・・・ ええ。 」
自分のジャケットをすっぽりと彼女に羽織らせて、ジョ−はゆっくりと歩き出す。
すこし。 ほんの少し。
肩を抱かれながらもフランソワ−ズの身体は ぴたりとは付いて来ない。
ジョ−の手に 力がはいる。
何も言わなくても 何も問わなくても。 今までいつもそれで十分だったのに。
・・・・ きみは きみのこころは。 何に囚われているの・・・・?
ちからを込めた腕から するりと細い肩が逃げてゆく・・・ような気がした。
「 フランソワ−ズ?? 」
「 ・・・ え? なあに、どうしたの、ジョ−。 」
振り仰ぐ顔には いつもの穏やかなほほえみ。
「 ごめん。 なんでもない・・・・ 」
重ならない二つの影に 黄昏が追いつき、そして追い抜いていった。
博士の<完治>宣言を聞かされたジョ−は
その夜 待ちかねていたように彼女を抱いた。
いままで 彼は決してフランソワ−ズが嫌がることはしなかったし、
自分のペ−スだけで振り回すこともなかった。
でも。 その夜、
念入りにあまりに念入りに愛撫を繰り返す彼に 初めは久振りの逢瀬に
うっとりしていた彼女も次第に 複雑な想いに囚われだした。
ジョ−・・・・? ちがうわ いつものあなたと。
・・・ 愛してもらって・・・・ 嬉しいけど。
やっと取り戻したタカラモノを 点検してるみたい・・・
あの事件を忘れたいのは あなたの方じゃないの?
あなたは・・・・ 自分のこころから眼を逸らせたいの?
「 ・・・・ねえ? 」
「 ・・・なあに ・・・・ 」
自分の傍らにうつ伏す白い身体は ほんのりと桜いろに染まっている。
手を伸ばしお気に入りの亜麻色の髪を ゆるく愛撫して ジョ−はささやく
その間にも 一方の手は彼女の白い胸を再びまさぐりはじめている
「 あの、さ。 この傷跡・・・ 」
「 ・・・え ・・・・」
「 やっぱり・・・なるべく早い方がいいよ。 博士がきれいにしてくれるから、さ? 」
「 ・・・・ キレイに ・・・・ ? 」
「 うん・・・。 イヤなんだ。 この身体をだれか他人が傷つけたと思うと・・・
僕は居たたまれなくなる・・・・・! 」
熱い吐息が ほとんど目立ちはしない傷跡に注がれる・・・
「 ・・・わかったわ ・・・・ 」
「 ありがとう! ああ、嬉しいなあ・・・ また 綺麗なきみの身体が戻ってくるね・・・ 」
「 ・・・・・ あなたの望むとおりに するわ ・・・・ 」
自分の胸に顔を埋めつぶやくジョ−の身体に フランソワ−ズはそっと腕を絡めた。
− < 綺麗 >? ・・・・じゃあ。 この傷 は あなたにとって 汚いモノ ?
・・・そうね、ソレはわたしに相応しいのかもしれない。
汚い ・ しるし。 毒の ・ しるし。
わたしの本心を曝け出した その印なんだわ。
あなたを 愛しているわ、 ジョ−。
いつまでも 側にいるわ、 いつまでも 一緒にいたいの
いつの日か ともに地獄に堕ちるまで
でも。
あのヒトを おぼえているの
あのヒトは 永遠にわたしの胸に棲むの
誰にも言わない 教えない
こころの奥の院、 クロ−ゼットに鍵かけて
ラベンダ−の薫る 引き出しのなか
そう、 ユウジ。 あなたは ・・・・ 忘れえぬひと ・・・・・
白い彼女の胸に ぴったりと頬を押し付け
幼子のように 穏やかな表情 ( かお )で眠るジョ−。
そんな彼の栗色の髪をやさしく撫で、 フランソワ−ズはひっそりと微笑んだ。
***** Fin. ******
Last updated: 05,25,2004. index
***** 後書き by ばちるど *****
原作 『 眼と耳 』 編 捏造的後日談?? すみません、ちょっと設定が変えてあります。
原作では ジョ−君たちはフランソワ−ズに事件の結末をちゃんと説明しています。<(_ _)>
・・・・オンナノコなら。 誰でもこっそりこころの奥に仕舞っている<忘れえぬひと>。
それは・・・・アナタの愛するヒトとはまた違った意味で大切な存在、ですよね?
【 忘れえぬひと 】 は ロシア人画家の作品名です。