『 小僧の女神様 』
頭が熱いのに指先が冷えている。向こうの白と黒のボールが遠く見える。深呼吸をしようとしたら、胸にこみ上げてくるものがあって上手くいかない。浅い呼吸に息が詰まってちかちかする。
合図があった。1歩踏み出した。足の裏にグラウンドの感覚。2歩目、スパイクのかみ締める大地と上がる膝。3歩目、上がる頭、広がる視界。感覚が戻ってきた。彼は助走のスピードのまま思い切りボールを蹴った。ボールは高く遠く、今までになく飛んだ。
彼の名前が呼ばれた時感じたのは、手応えがあったからだとかチビでも大丈夫なんだとか、そういった諸々の感情ではなく、ひたすら明るい目の前だけだった。その後、これからのことを監督に言われ、解散し、母親の元で思いっきり肩を揺さぶられて、ようやっと実感がわいてきた。
「やったわねえ!合格よ!頑張ってきたものねえ!」
彼女も今までの彼の努力や家族のサポートが認められる結果になって大喜びだ。
「これでアンタも春から憧れのクラブチームでサッカーが出来るのね!」
彼も顔がほころんでくるのを止められなかった。今までの練習、春からの期待、サッカーに関する色々が浮かんでくる。この喜びを伝えたい人の顔も浮かぶ。父親、祖父母、学校の友達、そして憧れのあの人。きっとみんな喜んでくれる。
まだ呆然と突っ立っていた彼は肩を小突かれてよろめいた。
「よ、やったな!」
近所のお兄ちゃんだ。おにいたんと回らぬ舌で呼びながら彼がサッカーボールを蹴っているのを覚束ない足取りで懸命に追いかけるところから少年のサッカーは始まった。もうお兄ちゃんとは呼ばない。クラブの先輩と呼ぶんだ。少年は言葉の響きにくらくらした。
「ありがとうございます!」
敬語が自然に口から出てくる。もう子供じゃないんだ、と少年は自分を誇らしく思った。
元お兄ちゃん、今クラブの先輩は少年の頭をガシガシ撫でて、
「オレたち、土日も河川敷で練習してるんだ。基礎トレぐらいは監督も許してくれると思うから、一緒にやらね?」
「やる!」
少年は即答した。誘われた!先輩と練習・・・じゃなくて、キソトレ!何だかわからないけど。でも強くなれそう。彼はドキドキした。そうだ、「ボク」も今日からヤメて、「オレ」にしよう。子供っぽいもんな。
「あらあ、大丈夫?まだこんなに小さいのに、足手まといにならない?」
少年の母親が言う。やめてよ、先輩の前で子供扱いして、と少年は口に出さずにムクれて彼の母を肩で押した。
「大丈夫ッスよ。基礎トレだけッスし、今から慣れておいた方が春からの練習にもついてこれます。」
「本当?じゃあ、面倒かけるけど、お願いしていいかしら。」
「勿論ス。」
先輩は少年に向き直り
「監督はきついぞ〜。しごかれて泣くなよ〜。」
「泣かないよ!」
少年は胸を張った。大人は泣かないんだ。だって今日からクラブチームの一員なんだから。彼は憧れの世界への第1歩を踏み出しただけだが、既に自分は大人になった気持ちでいる。
「お?じゃ、土日の朝9時半に迎えに行くから。チャリ乗れるか?」
「乗れる!」
「河川敷までは自転車なの?」
少年の母親が聞いた。
「ハイ、ランニングで来るヤツもいますけど、オレらはちょっと距離があるんで、自転車で通ってまス。」
「あら〜。この子の自転車、子供用のなのよね。やっぱりみんな大きい車輪の自転車なのかしら。」
「大きいっつうか、普通のママチャリのヤツも多いけど、子供用はいないッス。」
「そうなのね、やっぱり。車輪が小さくてついていけなくなっちゃ困るし、新しい自転車も要るかしら。」
新しい自転車!補助輪をはずして使っているカラフルでプラスチックの多い幼稚園児みたいな今のじゃなくて、最初から2輪のメタリックな新しい自転車!!少年の興奮は最高潮に達した。
「交通事故とか大丈夫〜?」
「監督からなるべくまとまって行動するよう言われてるッス。」
後輩の面倒をみるのも先輩の務めッス、と言う先輩に少年の母も感心したようだった。
「後でお母様に電話するわね。」
「母にも言っときまス。」
大人ねえ、と彼の母が言うのを、少年は自分も大人になったかのように聞いていた。そうだ、もう大人だ。クラブチームのユニフォームを着てサッカーする自分、「オレ」と呼ぶ自分、新しい自転車。家族が誉めてくれる、友達も羨ましがる、それに大好きなあの人も「すごいわ」って言ってくれる。彼の頭は興奮でグラグラ沸いていた。
「じゃ、失礼しまス。」
「し、失礼しまス!」
少年は先輩に反射的に言葉を返した。さよなら、と今まで普通に使っていた言葉を使わないことが大人に思えた。
「これからよろしくお願いします、でしょう?」
母が注意するのも、相手が先輩ならなんてことない、受入れられる。
「これからよろしくお願いシマス!」
「おう、頑張ろうな!」
先輩はさわやかに手を振って、友人達の元に戻っていった。
「立派ねえ。このクラブチームで正解だったわねえ。」
母がほれぼれと言うのを、当然、と自分のことのように胸を張って、
「お母さん、ボク、オレ、キソトレ絶対行くからね!」
と少年は母に念を押した。
「はいはい、わかってます。土日の9時半ね。」
母親は復唱したが、あら、とこぼし、
「そうすると、日曜ミサの時間と重なるわね。あらら、どうしましょう。日曜学校も当然駄目ね。」
途端に少年の熱が引いた。
「早朝ミサも微妙ねえ。ちょっと後でお父さんと相談しないと。あ、お母さん、向こうで入団書類もらってくるから、ここで待ってなさいね。」
と言って、少年の母は事務局に歩いていった。グラウンドの片隅で少年はさっきとは違うことで呆然としていた。毎日曜日に教会で会う人。退屈でつまらない日曜学校に通うたった一つの理由。その人に会えなくなるなんて、彼はそれまで少しも考えていなかった。
「フランソワーズ。」
名前を呼んだ少年の脳裏に金髪の美しい人の姿が浮かんだ。向こうに、練習を開始した先輩達の姿が見えた。二つの姿が少年には重なって見えた。
フランソワーズはため息をついた。ジョーは助手席の彼女を見やった。彼女はぼーっとして遠くを見ている。ジョーは聞いてみた。
「・・・どうしたの?」
え?と彼女の方こそ驚いたように振り向いた。無意識にため息をついていたらしい。それだけ心配が深いということか、とジョーは眉をひそめた。
「教会の帰りから、ずっとため息をついてるよ。」
「やだ、本当?」
いつもの日曜ミサの帰り、ジョーはフランソワーズを車で迎えに行った。フランソワーズはいつものように教会の門の前で待っていたが、そこから既に浮かない表情をしていた。車中でも、いつもはおしゃべりに花が咲くのに、今日は歯切れが悪かった。
「わかりやすいよ。」
「もう。」
フランソワーズはちょっと怒った顔をして、助手席に座り直した。彼女の頬にちょっと赤みが差して、ジョーはほっとした。
「それで、本当にどうしたの?」
再度聞いたジョーは少し後悔した。
「・・・口をきいてくれないの。」
彼の小さな恋敵が彼女に心配をかけていた。
「話そうとしても、逃げられてしまうの。私、何かしてしまったのかしら。大事なお友達だったのに。」
彼女の最後のセリフに、それかな、とジョーは探りを入れてみたが、そうではないらしい。
「前までは、憧れのサッカーチームの入団テストを受けるんだって、絶対合格するんだって、あんなにおしゃべりしてくれたのに。」
「・・・入団テストに落ちちゃったとか。」
「ううん。お母様から、見事合格したって聞いたわ。」
フランソワーズは仲の良かったお友達に冷たくされて落ち込んでいた。ジョーとしてはこのままでいってくれた方が都合が良かったが
「おめでとうって言いたかったのに。」
悲しむ彼女の姿は男心を大層刺激した。少なくとも島村ジョーは彼女が彼以外の男のことで心悩ませるのを傍観していられる男ではなかった。来週の日曜ミサのお迎えは少し早めの時間にしようとジョーは決心した。
この前の日の土曜日の9時半、少年は初めての「キソトレ」に参加した。自転車ではなかった。彼の母親が「初回ですもの、監督や皆さんに挨拶しなきゃね。」と言って、彼女の運転する車で河川敷のグラウンドに向かった。結果は正解だった。コーチは新入部員向けのメニューを用意して待っていてくれたが、たまたま初参加が彼一人だったことと、彼が先輩達と同じメニューをこなしたいと言ってきかなかったので、最後は監督も笑って「じゃ、やってみるかあ」ということになった。そして当然のことながら、ウォーミングアップやストレッチ、ランニング、全て今までの彼の練習と質も量も桁違いで、先輩達が声を張り上げて動く中、彼は途中でへばってベンチに運ばれた。
「いやいや、たった1年上でも経験者のメニューについてこれるはずがありません。」
監督は母親に言った。彼の母親も先輩の母親に電話をかけ詳しく聞いていたので焦らなかった。
「小さいのに、よくここまでついてきたと逆に誉めてあげたいぐらいです。ガッツがある子ですね。」
監督は誉めた。
「しかし、明日は無理でしょうな。本人が来たがっても休ませてあげてください。体のためです。」
母親はうなずいた。先輩も
「初めてなのに、結構ヤルな。」
と誉めてくれた。でも本人は寒空の下スポーツドリンクをがぶ飲みしながら悔しくてこっそり泣いていた。小さくても練習についていきたかった。明日も参加したかった。そうなったら日曜ミサに行けずフランソワーズに会えなくなるのに、それに全く思い至らず、ただ強くなりたいと思っていた。翌日の日曜日、礼拝堂で彼女に会えて嬉しかったのに、合格したと伝えたかったのに、昨日の練習の惨めな自分が蘇ってきて、春から会えなくなる事実も思い出して、彼はフランソワーズを見ることができずに避けてしまった。そして自分の蒔いた種ながらフランソワーズが寂しそうにしているのを見て、彼自身もまたすっかり落ち込んで、二重でドツボにはまってしまった。そんな彼を見て、両親は心配そうに顔を見合わせていた。
翌週の土曜日も少年は先輩達についていこうとしたが、最後までこなせず、やはり日曜ミサに出ていた。入団できたことで浮かれていた反動から惨めさはつのり、悲しそうなフランソワーズと相まって、彼はますます彼女を見られず、そして大好きな彼女と話もできない自分に余計に惨めになっていた。そんな状態で島村ジョーに会ったのだから、彼がつっけんどんになってしまっても無理はない。
「ちょっと神父様達と春からのことを相談してくるから、教会の敷地の中で待っているのよ。」
と両親に言われ、ボールを持ってくればリフティングができたのにな、と思いながら彼が教会の前の花壇の花をむしっていると、
「やあ。」
彼が顔を上げると、目の前に、フランソワーズをいつも迎えにくる男の人が立っていた。名前は「ジョー」とフランソワーズが呼んでいたので知っている。それ以外はフランソワーズに聞いた時「彼は家族なの」と彼女が言ったので「家族なんだ」と思ったぐらいしか知らない。それ以上を考えるほどの知識は彼になかった。とにかく、フランソワーズのお迎えだとはわかっていたので、彼は
「フランソワーズはまだ中にいるよ。」
と教えてやった。
「ウン。知ってる。」
と「ジョー」は答えたが、集会所に向かう様子はなく、彼の前に突っ立っていた。いつもは車の横で彼女を待っているのに、どうしたんだろうと彼は考えたが、以前日曜学校の年長の女子が、「ジョー」がフランソワーズを待っている時女性から声をかけられて困っているところを見たと言い触らしていたことを思い出して
「逆ナンされて逃げてきたの?」
と聞いた。「ジョー」はぎょっとして
「違うよ!ボクはそんな・・・。」
と真っ赤になった。
自分のこと「ボク」だってさ。少年はへっと思った。大人なのに。こいつ子供っぽい。彼の中で「ジョー」は先輩より下にランクづけされた。
「あのさ、君に話があって来たんだ。」
「ジョー」に言われて、彼は面食らった。そして「何?」の代わりに子供特有の眼差しでじっと「ジョー」を見つめ返すと、「ジョー」は何故か焦りながら
「・・・彼女のこと、フランソワーズって呼んでるのかい?」
と聞いてきた。
「うん。」
少年は何のこだわりもなく答えた。
「・・・どうして?」
「フランソワーズがそう呼んでほしいって言ったから。」
「・・・そうなんだ。」
日曜学校の子供達全員にフランソワーズは呼び捨てでいいと言っているのだが、ジョーはそれを知らない。
他に何かある?と目で語る少年に押されるように、ジョーは
「・・・フランソワーズを避けているのはどうして?」
「!」
何でこいつが知ってるんだ、という疑問は、彼の脳内で、彼女を避けているのは自分が惨めだから→惨めな自分を「ジョー」は知っている、に子供らしい思考回路で転化され、それは「ジョー」に対するある意味理不尽な怒りへと変わった。
少年はカッとなって、とにかく叫んだ。
「・・・うっせえ!カンケーないだろ!!」
「ジョー」の顔が凍り付いたが、それは汚い言葉を投げつけられた時に誰もがする表情なんだからと彼は自分に言い聞かせ、彼の良心の訴えを無視した。
しかし彼にとって良いのか悪いのか、その時ちょうど大人達が集会を終えて外に出てきた。
「ジョー!」
「こら!なんてこと言うの!」
フランソワーズと彼の母親が走ってきた。その後から彼の父親と、神父まで駆け寄ってきた。彼は自分が言ったことがただの汚い言葉ではなく悪いことなんだと理解した。が、強い怒りは彼に、謝るもんか、と衝動的に決意させていた。
「どんな理由があっても、失礼なことを言っては駄目だ。謝りなさい。」
と父親が言うのにも口を固くつぐんだまま、彼は頭を振り回されても下唇を噛んで開こうとしなかった。
「いえ、ボクも突然だったものですから。」
とジョーが言ってくれたが、そのジョーの横にフランソワーズがついていることが本当に理不尽ながら許せなくて、彼はますます意固地になった。
「まあまあ。」
神父が執り成してくれて、彼の両親は彼を責めるのを止め、ジョーとフランソワーズに謝りだした。
「本当に、家の息子が失礼なことを・・・」
両親が頭を下げているのを見て、彼は何だかますます自分が惨めになってきて、泣きたくなってきた。
「いいえ、気にしてません。」
と「ジョー」が言うのにも、ますます泣きたくなった。そこに彼の母親が彼の指と足元を見て
「あらっ!アンタ、ひょっとして、花壇を荒らしてたの?!」
「!!」
彼は、やってはいけないと注意されていた草花へのいたずらを無意識にしてしまったことに今更気づいた。しかも、この花はフランソワーズが好きな花ではなかったか。
両親が神父にも謝りだした。フランソワーズが悲しそうな顔をしてちぎれた花を見ている。今度こそ完全に自分が悪い。彼は涙をこらえた。とどめに母親が彼の耳を掴んで引っ張った。
「もう!本当にアンタって子は!」
憧れの人の目の前で最大級の恥辱(子供扱い)。もう彼に残された手は、恥をかかせた母親に向かって
「ぅおぐぁあざんのぶぁくぁ〜!!」
と鼻声で叫んで逃げ出すしかなかった。
「あ、こら、待ちなさい!」
母親が呼ぶが、彼は教会の門扉をすり抜けて、あっという間に走っていってしまった。
「追いかけないと!」
ジョーとフランソワーズが焦るが
「大丈夫ですよ。家はそこの坂の途中なんです。」
教会から続く上り坂の途中を父親は指差した。そこに向かって走る少年の後ろ姿までよく見える。
「家に帰って泣いてますよ、きっと。」
「家の鍵は開いてませんけどね。」
馬鹿呼ばわりされた母親はぷんぷんだ。
「本当に申し訳ございません。帰ったらよく叱っておきます。」
改めて、彼の両親はジョーとフランソワーズ、それに神父に頭を下げた。
「いえ、本当に大したことではなかったんですから。」
ジョーが恐縮していると、神父が人懐っこい笑顔でウンウンとうなずきながら
「見守りましょう。今彼は大人に成長する途中で惑っているのですから。」
と少年の気持ちを代弁した。
「え・・・?」
ジョーが一人蚊帳の外にいると、彼の両親がジョーとフランソワーズに
「お二人は恋人同士なんでしょう?」
「え・・・。」
ジョーが否定をしないでいると、少年に致命傷を与えたがそれに気づいていない母親が
「すみません、うちのバカ息子がフランソワーズさんに横恋慕なんてしちゃって。」
と言ってしまった。
「よ、横・・・?」
ジョーの方が口ごもっていると
「そうなんです。いっちょまえに。」
はーっと彼の母親はため息をついた。父親は頭を掻きながら、
「申し訳ありません。随分八つ当たりされてしまったんではないですか?」
また両親はジョーに頭を下げた。
「いえ、きっとボクにも悪い点があったんですよ。」
ジョーはとにかく両親に頭を上げてもらおうとした。神父がやわらかい口調でジョーに
「あの子は春からサッカーチームの練習に参加するので、これからはご家族で早朝ミサに移られます。日曜学校にも来られなくなるので、もうあまりフランソワーズさんに会う機会もなくなってしまいます。」
神父は太い眼鏡のフレームの中からフランソワーズを見て、
「フランソワーズさん、私からもお願いです。あの子とお話ししてやってくれませんか。」
フランソワーズはこくりとうなずいた。
「ええ、私でよければ。」
「ありがとうございます。」
神父と彼の両親は礼を言った。
その後、5人は少年が荒らした花壇を整えた。母親はちぎれた花や葉を帚で掃き集めながらフランソワーズに
「本当にお手間ばかりとらせてごめんなさいね。これじゃフランソワーズさんにフラレて当然ですわ。」
ジョーには「安心してくださいねー」と、もし聞いていたら少年の息の根は止まっただろうことを言った。彼の父親は父親で、折れた枝を剪定しながら
「いやあ、でも年上の美人さんに惚れるなんて、男としてはでかしたと思いますよ。」
「ちょっと。」
妻にこづかれて、フランソワーズに頭を下げた。
「ま、そこで失恋するのも人生経験ですから、どうぞ構わずに遠慮なくフってやってください。」
ガツンとね、と笑う彼の両親に、ジョーとフランソワーズは苦笑するしかなかった。神父も微笑みながら
「あの子とフランソワーズさんは、一途にひたむきなところが似てますからね。今は頭では理解していても心がついていっていない状況ですから、ゆっくり話せばわかってもらえると思いますよ。」
フランソワーズの気が軽くなるようフォローした。当然ながら少年の失恋が大前提の会話だ。そうでなきゃ困るジョーだったが、少年の心情を思うと何故か微妙な塩梅になった。フランソワーズは終始眉尻の下がった困った笑顔でいたが、その瞳には事態を真剣に受け止めている光りがあり、それがまたジョーの心を波立たせた。
掃除が終わった後、彼の両親はフランソワーズと日時を確認すると、帰宅の途についた。歩きながら彼らは
「美男美女のカップルっているんだなあ。」
「まったくねえ。」
先程別れた2人を思い出して彼らの息子に思いを巡らせていた。
「フランソワーズさんもいい人だしなあ。我が息子ながら目が高い。」
身の程知らずめ、と言いつつ父親は彼の息子を誉めている。
「大丈夫かしらねえ。きちんときれいにフラレてくれるといいんだけど。」
彼の母親は心配そうにため息をついた。
「通過儀礼だろ。すぐに年上の憧れの人って想い出になるよ。」
「そうだけど・・・。」
彼の母親は自分の息子が初めて会った時からフランソワーズ一直線だったことを思い出していた。子供なので、教会を一歩出るとそんなことはすぐ忘れて目の前のことに夢中になっていたが、少なくとも彼にとって日曜は朝からフランソワーズの日だった。(大体彼女だって退屈な日曜学校に行きたくなくてぐずる息子に「フランソワーズさんに会えるわよー」という餌で釣っていた。)彼女の息子は物心ついて教会に通いだしてからの人生のうち、少なくとも7分の1はフランソワーズで占められていた。そしてそれは彼の今まで生きてきた長くない年数の中で非常に大きな割合だった。
「大丈夫だろう。すぐにサッカーや学校の友達で小さい脳味噌をいっぱいに溢れさせるよ。特に春からクラブが始まれば、振り返っている頭なんかあいつにないよ。」
父親の言う通りだったので、母親は杞憂を振り払った。
両親が家に到着してみると、少年は玄関の前にサッカーボールを抱いて泣き疲れて眠っていた。
腹の泥だらけのボールと背にした地べたに、彼の母親は、ああ、教会用のよそ行きが、と嘆いた。
「道路に大の字で寝ているよりマシだよ。」
と彼女の夫はしょうもないフォローを入れた。どっこいしょと息子を持ち上げ、
「こいつ、重くなったなあ。」
母親は息子の手から落ちたサッカーボールを受け取り、彼の頬の涙の跡をぬぐって
「大人しいのは寝てる時だけね。」
家族は家の中に入っていった。
フランソワーズは3人が無事に家の中に入るのを確認して、目のレンジを下げた。こめかみに指先を当てたフランソワーズがほっと一息ついて瞳を閉じたのを見計らい、ジョーは車を発進させた。
「あの子は大丈夫みたい。」
「ン。」
ジョーの運転する車はギルモア邸に向かった。
「悪いことをしたね。」
ゴメン、とジョーが前方を向いたまま謝った。
「あの子を怒らせてしまった。」
「ジョーのせいじゃないわ。」
誰が悪いのでもない、と助手席のフランソワーズは呟いた。
「そうかな。」
反射的に答えてしまったジョーは、フランソワーズの鋭い眼差しに射抜かれた。
「ジョオ?」
また何か考え込んでいるわね、しかも悪い方向ね。フランソワーズの目は語っている。他の件ならともかく、私のお友達に関わることなの、話してちょうだい。フランソワーズは目だけで彼を問い詰めた。
そうじゃないんだけどな、とジョーは横顔に彼女の視線を感じながら、口を開いた。
「ボクは何でか人を怒らせる才能があるんだなあってさ。」
なるべく茶化して言ったのに、フランソワーズは容赦が無かった。
「ジョーと話していると相手が怒ってしまうの?何故?」
「・・・わからない。話し方なのか考え方なのか、それとも別の何かなのか。ただ、昔からボクと話していて苛立つ人は多くて、そして大概嫌われてきたから。」
フランソワーズは聞いてきた。
「あの子に何を言ったの?」
ジョーは思い出さなくても言えることを思い出しながら話しているかのように言った。
「・・・フランソワーズを避けているのはどうしてかって。」
フランソワーズは車の進行方向に向き直った。沈黙が落ちる。どうしたのかなと思ったジョーが信号待ちで彼女に振り向くと、フランソワーズは肩を震わせて声を出さずに笑っていた。
「フランソワーズ?」
情けないジョーの声にフランソワーズは何とか笑いの腹筋を押さえ込もうとしながら
「だって、ジョー、それは相手を怒らせて当たり前だわ。」
いくら小さいあの子でも怒るわよ、と言った。
「それって・・・。」
ジョーが言葉を詰まらせていると
「確かに、ジョーは相手を怒らせる天才ね。」
不器用な人、と言ってフランソワーズは目尻の涙を指で拭き取った。
「・・・だから、そう言ったろう?」
ジョーはむっとして、
「ボクは口下手なんだ。」
「そうかしら。」
とフランソワーズが答えた。
「どういう意味?」
ジョーがますますむっとして聞くと
「それはきっと、あなたが本質を掴んでくるからね。」
とフランソワーズは言い、
「聞かれたくないことや真実をズバリ言い当ててしまうの。図星を指されると、人ってむっとしちゃうでしょ。そこを隠さないで突いてしまうから、相手の心を波立たせるのよ。」
だから不器用な人なのよ、とフランソワーズはジョーの眉間のシワをつついた。ジョーがつい身を引くと、背後からクラクションが鳴った。ジョーは前を見、青信号を確認するなり乱暴にアクセルを踏んだ。
いきなりの急発進に、きゃ、とフランソワーズがシートに倒れ込んだが、まだくすくす笑っている。
「でもね・・・」
と笑いを遮るように言いかけたジョーだったが、あんまり彼女がニコニコしているので反論する気を失ってしまった。
「ま、それでもいいけど。」
呟きは捨て台詞のようになってしまい、彼女をますます笑わせることになった。
フランソワーズは笑いをようやっとおさめてから、やれやれ、とため息をついた。
恋人同士と言われて否定しないのに、こういうところに無意識が出るから、期待したら駄目なのよね。
いけないいけない、と彼女は自分の気を引き締めた。
「そう言えば。」
とジョーが切り出した。
「あの子と君って、どんな出会いだったの?」
フランソワーズは噛み締めるように想い出を話してくれた。
「あの教会に初めて行った日からなの。」
長い。しかも初日からか。ジョーは警戒の念を強めた。
「外人さんって、やっぱり遠巻きにされるでしょう?」
別に教会に限らないのだが、日本語がぺらぺらで日本文化に理解があると皆に浸透されるまで、フランソワーズは日本のコミュニティで腫れ物に近い扱いを受けることはままあった。
「礼拝堂でおミサを受けていても、私の周辺には信者さんもあまり座りに来ないとか。だからあの教会に初めて行った日も、しばらくは1人なんだろうって思ってたわ。」
強いな、とジョーは思う。彼も外見で疎外されていた人間だったのでその寂しさはわかる。でも彼は周囲の壁に近寄ろうとしなかった。彼女は自ら壁に寄り、1人壁を壊しつつ皆も壁を壊してくれるのを待っていた。
「でも、あの子は最初から私の隣に座ってくれて、忘れちゃったので讃美歌集を見せてもらえませんかって大きな声をかけてくれたの。」
それは作戦だ、とジョーは思ったが、口にしなかった。
「私が、もちろんどうぞ、って言ったら、日曜学校の子供達が、日本語しゃべれるんだねって、次々に話しかけてくれて、つられて大人の方達もどんどん話しかけてくれるようになって・・・」
フランソワーズはちょっと言葉を切って
「私、最初からあんなにお友達ができたのは、この国では初めてだったの。」
嬉しかった、と最後に小さな声で言った。
「大切なお友達なんだね。」
ジョーの言葉に
「ええ。」
フランソワーズは強くうなずいた。
恵まれた少年だ。いや、ごく普通の家庭で育てられている少年だ。両親の愛情と周囲の理解の中で、彼は平凡にしかし大きく成長するだろう。幸せな子供時代を約束された子だ。自分とは全然違う、とジョーは思った。そして自分とフランソワーズも全然違うのだということを改めて強く感じた。神父も言っていたではないか、彼とフランソワーズは似ていると。彼とフランソワーズは一緒だ。ジョーとは違うのだ。情けなくも懐かしい負の思考が強力にジョーを捕えた。昔馴染みの感覚に肝を焼かれながら、ジョーは彼女が遠くに行かないよう願った。
その望みは不幸なことに叶えられた。
2人がギルモア邸に戻ると、死神がリビングに立っていた。
テラスの向こうの海を見ていたアルベルトは、リビングのドアの開く音に振り返り、2人を見て片頬を上げた。
「よう。」
「アルベルト!いつ日本に?」
駆け寄ったフランソワーズのキスを受けながら、アルベルトは
「今さっきだ。」
「連絡をくれれば迎えに行ったのに。」
ジョーと握手をしながら、アルベルトは
「002の足で飛んできたのさ。」
フランソワーズが息を呑んだ。
「不幸の使者ってわけだ。」
すまんな、と004は言った。いいえ、と003は首を振り、009は
「それで、どんな事件が起こっているんだい?」
と聞いた。
フランソワーズが透視して見た彼の家に行くと、外まで大きな声が響いていた。
「もうこのバッグは嫌だ!」
彼のヒステリーに近い声に母親が答えている。
「何言ってるのよ、おばあちゃんが作ってくださったお稽古バッグなのよ。ほら、サッカーボールのアップリケだって、アンタが好きだって言うからつけてくださったのよ。」
「みんなビニールのスポーツバッグなんだよ!男はそんな女の作ったのなんてしないんだ!」
「生意気言ってんじゃないの。」
アンタ中学生になったら今のセリフ後悔するわよ、と母親は意味深な言葉を贈った。
「春になったら、一揃い新しいのを揃えなきゃいけないんだから、それまで待ちなさい。」
「嫌だ!今がいい!」
「いい加減にしなさい。」
母親は普通の声音で、ぴしゃりと言い切った。
「アンタがクラブチームに入った時も、おばあちゃんは誰より喜んでいたでしょう。そのおばあちゃんのお気持ちを踏みにじるようなことは許しません。」
母が感情的になっていない注意の時は何を言っても無駄ということを彼は既に理解していた。
彼だってこれがわがままだってことはわかっている。自分に対する無力感と惨めさが別の方向で苛立を呼んでいるのだと薄々感じてもいる。わかってはいるのだが、彼の心中の鬱憤は行き場を求めてさまよっていた。そして最終的には
「お母さんの馬鹿!!」で炸裂した。
「はいはい。」
流されたことにまた憤り、彼はとにかくここにいたくないと玄関に走った。
「こら!今日は家にいるって約束したでしょう!」
「知らない!」
彼は靴をつっかけると、玄関に転がっていたサッカーボールを掴んで表に飛び出た。外に出て、1、2歩たたらを踏んで止まった。家の前にフランソワーズが立っていた。
「こんにちは。」
笑いかけてきたフランソワーズに彼はぼうっとなって、しかしうつむいてしまった。フランソワーズの顔が曇った。彼の後を追いかけてきた母親が
「あら、フランソワーズさん!」
弾んだ声をかけた。
「よく来てくださったわ。さあ、入って。」
フランソワーズは彼女の声に誘われるように玄関まで来たが、
「ほら、アンタも入りなさい。」
と母親が彼を家の中にいれようとするのに、彼が身をよじって拒否するのを見て
「あの。」
と声をかけた。
「彼とこの周辺をお散歩しながらお話ししてもいいですか。」
彼はぱっと顔を上げてフランソワーズの顔を見た。彼女はまたにっこり笑って
「いい?」
と聞いてきた。彼はまたぼうっとなったが、こくりとうなずいた。
心配そうな母親に見送られて、少年とフランソワーズは歩き出した。彼は掴んでいたボールを手放すことができず、両手の間にはさんでくるくる回しながら歩いた。
「どこに行こうか。」
とフランソワーズに言われても、とにかくとにかくこの状況についていくのが精一杯で、どこに、なんて考えられなかった。本当にとにかくとりあえず、思いつくまま「あっち」「こっち」とフランソワーズの顔を見ず言うだけで、ただ歩き回った。フランソワーズも彼の指示通り一緒にただ歩いた。
教会の中でしか会ったことのない彼女と日常の生活範囲の中で会うのは不思議な気がした。彼女の服装も、いつもの白いブラウスに黒いスカートといった礼拝用のとは違う明るい色の春物を着ていて、彼にはものすごく新鮮だった。ずっと歩き回るうちに、彼の胸の中の苛立は少しずつ落ち着いていった。
2人は会話を交わすことなくどんどん歩いた。手元の回るボールを見つめていた彼は、気づくと、自分たちが土日に練習している河川敷の土手の上を歩いていることに気づいた。彼はここまで歩いてきたとは思わなかったので驚いた。そして向こうに練習しているグラウンドが見えたので、ついフランソワーズに
「あそこで土日にいつも練習しているんだよ。」
と声をかけた。
フランソワーズは
「まあ、あそこで?」
と言い、
「でも、今は野球をしているようよ。」
と彼に問いかけた。彼は話し出した。
「曜日で色々なチームが借りているんだよ。土日がサッカーで、ボク、オレらが使えるの。平日は時間によってクラブチームのグラウンドで練習するんだ。」
フランソワーズが嫌いになったわけではないので、話し出すと次々に止まらなくなった。
「クラブチームのホームは芝生なんだ。足元が全然違うんだ、沈むから。疲れる。でも入団テストはグラウンドで普通のスパイクでしたんだ。慣れてたから良かった。普通に蹴れたよ。練習もグラウンドだから平気。砂埃が凄いから水撒きが大変だけど。でも芝生は最高だって先輩が言ってた。」
避けていて話せなかった分を取り返すかのように話した。
「キソトレはすっごくハードなんだ。先輩達と一緒だから。でも小さい子のメニューは嫌なんだ。だって強くなれそうじゃないんだもん。早く上手くなりたいんだ。先輩は凄いんだよ。ダッシュも早くて、あっという間に向こうに走ってっちゃうんだ。ドリブルが苦手だから、ジシュトレもすごくしてる。ボクもしたいって言ったら、転ばないで走れるようになるまで駄目だって。転ぶわけないじゃん?リフティング頑張れって先輩が言ったから頑張ってる。キソは大事って!ボク、オレもそう思う。」
彼はその時感じたこと言いたかったことを思い出したまま話した。フランソワーズはうんうんとうなずき彼の目を見ながら真剣に話を聞いてくれたので、彼はこの上ない理解者を得た気持ちになって、ひたすらしゃべった。最後には大好きなサッカーで脳味噌がいっぱいになり、目の前の大好きなフランソワーズと一緒になって
「フランソワーズもサッカーをすればいいのに!」
と、大好きなカレーに同じく大好きなチョコレートを入れるのと同じ発想で言った。
フランソワーズは答えた。
「サッカーに誘われたのは初めてよ。ありがとう。」
にっこり笑って
「私はずっとバレエを踊ってきたの。」
「バレエ?」
「そう。バレエ。知ってる?」
日本のサッカー少年、特に低年齢層におけるバレエの認識は決して良いものではない。彼もその程度だったが、この時彼はそれが誤っているものだと瞬時に理解したので、
「知らない。」
と正直に首を振った。
「そうねえ、なんて説明したらわかりやすいかしら。」
フランソワーズは小さな彼にもわかりやすいように言葉を選んだ。
「舞台で踊りながら物語を表現するの。歌やセリフはなし。全部ダンスや仕草で見る人に伝えるのよ。私の産まれた国には昔からあって、私も小さい時から憧れて練習を続けてきたわ。」
そう言って、フランソワーズはくるりと一回転した。彼はビックリした。彼が驚いたのは、フランソワーズが回ったからとかそういうのではなくて、彼女は今確かに彼の目の前で回ったのに、これがバレエかというような回転だったのに、何の力みもなく一瞬でしかもさりげなく、風のように自然だったことだ。彼を驚かせた彼女は、そんなことなかったかのように言葉を続けた。
「学校が終わった後やお休みの日もずっと練習してきたわ。練習は辛くて厳しかったり、友人と遊んだり他のことをしてみたくなったこともあるけど、それでもバレエから離れられず続けてきた。」
太ると跳べなくなるから、甘いものも我慢してきたのよ、とフランソワーズはおどけて舌を出した。
「バレエを通じて親友もできた。色々なものを得ることができたけど、同時に振り切らなければならなかったものもたくさんある。悲しかったけど、後悔していないわ。」
フランソワーズは少年と瞳をあわせて聞いた。
「サッカー、好き?」
「大好き!」
彼は間髪入れず答えた。フランソワーズは微笑んで
「その気持ち、忘れないでね。」
と言ったが、すぐにまぶたを閉じると首を振って
「ううん、忘れてもいい。どんなに憎くても離れられないのですもの。」
彼は驚いて聞いた。
「フランソワーズはバレエが嫌いなの?」
「バレエのこと?そうねえ・・・。」
フランソワーズは西の空を見た。日は暮れかかり、夕焼けに染まりつつあった。徐々に茜色にうつろう空と太陽に向けて、フランソワーズは河川敷の土手の上でお辞儀をした。少年には初めて見るお辞儀の仕方だったが、これがバレエのお辞儀なんだとわかった。首を傾げたり腰を折るお辞儀ではなく、足を前後にずらし膝を曲げながら上体を傾けるお辞儀。動作にあわせてすうっと指先が空気中を泳ぎ、彼の視点までフランソワーズの肩が下がってきた。赤い陽光がフランソワーズの金髪に照りかえり、鼈甲色のグラデーションになって彼女の肩から流れるように落ちた。さらさらと髪の毛の一本一本が立てる音まで聞こえるような気がした。彼から見える彼女の横顔には、濡れるような翠の瞳と当たった橙色の日の光りの中でも鮮やかな唇が艶めいていた。去りゆく今日に別れを告げて、フランソワーズは少年に言った。
「私も大好きよ。やっぱり忘れることなんてできないわ。」
サッカー頑張ってね。応援してるわ。
フランソワーズの極上の微笑みに少年は舞い上がった。フランソワーズが手の平を差し出してきた。彼も手を差し出し、思い返してズボンの横で手をこすって拭いてからフランソワーズと手を繋いだ。少年は右手にフランソワーズ、左手にサッカーボールを抱えて家に戻った。
遅い帰宅に母親は心配していたが、少年の憑き物の落ちたような顔を見て安心した。引き止める母親に「もう遅いですので」と遠慮して、フランソワーズは少年に
「さようなら。これからも頑張ってね。」
「うん!バイバイ。」
またね、と彼は大きく手を振った。フランソワーズも手を振り返しながら坂を下っていく。彼はその後ろ姿を最後まで見送った。
暗くなった道を歩くフランソワーズの前方から、赤い防護服を着た009が姿を現した。
「もう、いいの?」
「ええ。」
フランソワーズは坂の途中から後ろを振り返ることはなかった。ジョーは言った。
「彼はすぐに大きくなるよ。」
「?」
フランソワーズは前髪に隠された彼の顔をのぞくように見た。
「20年、いや、10年後には君に相応しい男に成長していると思う。」
「ま。馬鹿ね。」
彼女は彼の鼻の頭を指でつついた。
「彼は私の孫どころか、曾孫の歳なのよ。」
ジョーはこの時だけは年齢を気にする彼女で良かったと思った。
ジョーはフランソワーズに手を差し出した。フランソワーズはそれに応じ、ジョーは彼女を抱き上げると、待機中のドルフィン号を目指して走り出した。
翌週の日曜日、礼拝堂にはフランソワーズの姿はなかった。用事かな、と少年は思ったが、帰り際に両親から、フランソワーズは急な家の都合で日本を離れることになり、いつ帰って来られるかわからなくなった、お世話になった方々に挨拶もできず申し訳ない、と神父に電話をかけてきたのだと教えてもらった。
いきなりの別れに少年は呆然とした。もう全く会えないのだという実感は鈍い頭には湧いてこなかった。彼は礼拝堂を振り返った。天井に近い丸窓にステンドグラスがはめてある。彼は初めてそこにステンドグラスがあったことに気づいたような気持ちになった。色セロファンのようにも見えるちゃちな造りだが、その赤を通して床に落ちる光りはあの日の夕焼けに似ていると思った。
まもなく彼の所属するクラブチームの新年度スケジュールが始まり、彼は新入部員として専用プログラムを開始することになった。今までの土日に参加させてもらっていた経験者のプログラムとは別物の、体力と基礎作りがメインの年少者の彼にも充分こなせるメニューだった。彼は同年齢の新入部員とこのプログラムを消化し、そしてサッカー漬けの毎日を送るようになった。土日には河川敷に入り浸るようになり、早朝ミサは爆睡時間となった。
競技場は超満員だった。楕円のボールが空を舞い、ナショナルカラーのジャージを着た男達が走り、ぶつかり合う。国と国との名誉を懸けたスポーツの一戦に双方の国民は怒号のような歓声を上げていた。
ドームだったら耳が潰れていたかも、と003は思った。ロビーにいてこれなのだから、いくら指向性の超聴覚でも敵わない。観客の中からより見渡しのできる外からの方が実行犯を確認しやすかろうとして、彼女はロビー上階からの探索に切り替わっていた。観客席側にはメンバーの数名が客やスタッフとして紛れ込んでいる。
<こちら異常なし。>
<こちらもだ。>
定期的にメンバーからの脳波通信が入る。
<こちらも異常は見受けられないわ。>
003も競技場周辺まで目を配りながら応答した。
<了解。引き続き調査を続けてくれ。>
009の脳波通信を最後に、また吠えるような観客の叫びが彼女の耳を支配した。
大規模なテロの可能性があると持ってきたのは004だった。連合王国の不安定な火種を消すことはサイボーグ戦士達にはできないが、怨嗟と流血を止めることはできるとして、彼らはここに集まっていた。爆弾か、詳細は不明のままだったが、国技ともいえるスポーツの大勝負中に悲劇を起こすことを阻止しようとして、予想される競技会場で彼らは密かに警戒に当たっていた。
003は気分が悪くなって休憩所のベンチで休んでいる風を装っていた。警備員が近寄ってくると、その旨説明しては「少し休めば大丈夫ですから」と追い払っていた。集中できる場所は他にないかと周囲を見渡した彼女の目に、「メモリアルホール」という文字が入ってきた。
連れを心配して水を持ってきた風を演出した009が003の元に行くと、彼女は壁や柱に多くのプレートが貼られたエリアの片隅に立っていた。
「どうしたの?」
<何かあった?>
と009が言うと、003は<何も>と首を振って、彼女の目の前のプレートの文字を指で追った。数多く展示されているプレートには、この競技場の歴史や過去開催された試合や名場面の解説が書かれていた。
「ここではサッカーの大会も行われるのね。」
003の言葉に009は彼女が何を思い出していたかわかった。
<003、今は・・・>
「今度の世界大会もここで行われるのかしら。」
テロのみならず、設備の整った競技場が減るということは、主催国にとって致命的だ。
<地下に行きたいわ。>
と003は009に送った。
<もう一度「音」を聴いてみたいの。>
「スポーツの大きな大会だとここは外せないだろうね。」
<わかった。>
と009は返信した。
「世界中からトッププレイヤーが集まって・・・」
<002、005、外の哨戒を頼む。>
「・・・彼もここで試合することがあるかもしれない。」
009の肉声に、003は彼を振り返った。
「かもしれないわね。」
ジョーに言われると本当にそうなるように聞こえるわ、と彼女は笑顔で答えた。
<行きましょう。>
003はロビーを離れる前に競技場を振り返った。
「奇麗な芝生。」
その真下に潜るために、彼女はその場を後にした。
少年は初の試合の日を迎えていた。といっても大会でもなんでもなくて、近くのチームとの練習試合・・・というより親睦会という方が正解の交流戦だ。しかも例の河川敷のグラウンドが会場だ。サッカー振興のために地元の結びつきを強めお互い切磋琢磨しより良い関係を深めよう・・・というのが目的なので、試合といってもレギュラーから新入部員まで縦に割ってチーム分けされる上、ちびっ子もいるのでミニミニゲームだ。恒例行事なので、先輩方も相手チームに顔見知りがいるから気安いし、勝負にこだわるよりもいつもと違う顔ぶれや空気を楽しむ雰囲気が強い。それでも全国大会になればライバル同士なので、試合中互いの実力や成長を計る気は満々だし、何より新入部員にとってはクラブ以外の選手との初試合だ。少年は試合前の親睦とウォーミングアップを兼ねたレクリエーションゲームの時点から緊張していた。
ミニミニゲームが始まった。11人の年齢を足した数字が均一になるよう編成された混合チームの勝ち抜き戦で、上級生は利き足の使用を禁じられているので、試合になるようでならない。見てるギャラリーからは笑いも起こる。そんな和やかなムードの中、少年の試合が始まった。
先輩が後輩の面倒を見るという側面もあるので、フォワードは年少者が任せられる。と言っても実際はそこそこ慣れた年中組が攻撃を担う。年長組はディフェンスラインで同じく攻めてくる敵の年中組からゴールを守ったり後輩をカバーしたり、全体を見通す役割を果たす。そして新入部員の年少組は年長組の指示で周辺をちょこまかする。大体そんな試合運びになる。やりがいがあるのは年中組だ。逆足しか使えない年長組から時々パスを奪ったりフェイントで抜き去ったりして喝采を浴びる。年長組は抜かれると苦笑いだ。年少組はボールについていくので精一杯。目の前のボールを奪おうとしても、さっさと抜き去られておしまいだ。この年頃の1年の違いは大きい。
それでも少年は小さい体でボールを追いかけ回した。格段に大きい相手のストライドにまったく届かなくても、フェイントにまったくついていけなくても、とにかくとりあえずひたむきに走り回った。
「馬鹿だなあ。」
守備の先輩がアドバイスをくれた。
「ただ走り回ってても、ちっこいお前の体じゃ追いつけるわけないじゃん。試合の展開を読んで、ボールの先回りをするんだよ。」
経験値ゼロが試合なぞ読めるわけがないのに、彼はもう読めるような気になって大きくうなずいた。だから、次の自軍の攻撃で彼がボールの転がる場所に追いつけたのは偶然だ。味方のパスミスのこぼれ球が彼の目の前を転がっていた。届く、と彼が思った時、目の前が暗くなった。気づかないうちに敵陣のディフェンスラインを割った位置まで上がっていたのだ。一回りも二回りも大きい敵チームの上級生が彼に迫っていた。
滅茶苦茶大きい相手に思えた。彼は牛を間近で見たことがなかったが、そんな巨大な生き物が襲ってくるかのように感じた。見る見る相手との距離が縮まる。彼は恐くなった。足がすくんだ。ボールのことなんか試合のことなんか頭から素っ飛んでしまった。脅えた彼の足が止まりかけた時、
「頑張って!」
ギャラリーの歓声の中からフランソワーズの応援が聞こえた。彼の視界に河川敷の土手の上に立つフランソワーズとジョーの姿が飛び込んできた。彼女は大きく開けた口の両脇に手を添えて叫んでいた。
彼は後ろ足に力を込めた。ボールは彼と敵上級生のちょうど間にある。走っていたのでは間に合わない。右横に味方のユニフォームの色が見えた。そちらにボールが転がればいい。彼は最後の一歩を踏み切って、ボールに向かってスライディングした。
結局彼はそのミニミニゲーム中、一度もボールに触れることはなかった。決死のスライディングは間に合わず、ひょいと敵上級生にボールを拾われ、しかも彼の頭上を飛び越えて走っていかれた。あっという間に彼の目の前から前線は遠ざかっていってしまった。その後も彼は奔走したが、試合展開についていけず、あっという間にゲームは終わった。しかも負けた。あとで先輩が
「いい時間稼ぎになってたぞ。」
と言ってくれたが、まだまだ試合を読めない彼にはその意味がわからなかった。
「惜しかったなあ。」
見学にきていた両親が慰めてくれた。彼は
「フランソワーズが来てなかった?」
と聞いたが、
「見てないわ。えっ、来てたの?」
と逆に聞き返された。
「じゃ、見間違い。」
彼はそう言い直した。あれだけ目立つ2人なのに気づかれないなんてありっこない。でも彼は、あれは本当にフランソワーズで、応援に来てくれたのだと信じた。
「オレさ、全然まだまだだよね。」
試合に負けて落ち込んでいると思っていた両親は、彼らの息子の顔を見た。彼は悔しそうな情けない笑顔で
「フランソワーズさんに誉めてもらえるように、もっと頑張んなきゃね。」
と言った。父親は彼の頭を乱暴に力一杯撫でた。
彼は毎日リフティングの練習を続けている。後ろ足でボールを蹴り上げ目の前に落とし、また逆に後ろに蹴り上げ背後で受け止めると同時に掬うように前に持ってきて頭上に蹴り上げる。上手くいかず脳天にボールが落ちてきたり2、3歩向こうにボールが転がったりするなんてザラだ。上達せずに苛つく時、彼はイメージトレーニングをする。名選手の足に吸い付くようなドリブルやフェイント、ボールさばき、そしてフランソワーズの回転を思い出す。息をするように自然な体の動き、と今なら彼もそう言える。そんな身のこなしができるようになった自分を想像する。現実にそこに至るには彼は全然まだまだだ。いつかそんな風にサッカーと一体になれたら、試合を見守ってくれている彼女と再会できるのではと彼は思っている。
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管理人より
福寿草覆雪様から頂きました♪
ふふふ〜〜〜 この お話は福寿様のサイト 【 福寿草覆雪 】様方に掲載なさった
『 毎年女王様 』 の続編であります♪
<小僧の神様> ならぬ <小僧の女神様 >〜〜♪ 甘酸っぱい初恋の味、でしょうか☆
彼は 今頃・・・ Jリ−ガ−になっている・・・かも???
福寿さま〜〜〜 ありがとうございました(#^.^#)
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