『  Au revoir   』   

 

 

 

 

「 お兄さんっ! あのねっ わたし〜〜 」

派手な音をたてて玄関のドアが閉まると ほぼ同時に少女の声が響いてきた。

青年は一瞬、ぎょっとしたが 明るい高声にほっとして浮かしかけた腰を椅子に戻した。

あわてて捻った煙草が まだ灰皿で細い紫煙を流している。

 

 − ・・・ ちぇ! さっき火を点けたばかりなのにな・・・

 

青年は新聞の陰から未練気に吸殻を横目で睨んだ。

 

「 お兄さん? 聞いて、あのね、わたしね ・・・ 」

さ・・・っと冷気と一緒に少女が駆け込んでくる。

コ−トのまま、大きなバッグも抱えたまま。 

彼女は息せき切って話はじめようとした。

「 おい。 子供じゃあるまいし・・・ ちゃんとコ−トを取ってから話せ。

 お前、子供の頃からお袋にさんざん怒られていたじゃないか。 」

「 わたし、今度ね ・・・  え? あ、ああ・・・。  ・・・ただいま、お兄さん。 」

「 うん、お帰り。 フランソワ−ズ。 」

青年はやっと新聞を閉じて立ち上がり、 目の前にたつ少女の頬にキスをひとつ。

 

「 それで? <今度>なんなんだ?  ボ−イフレンドに誘われたってか。 」

「 やあだ・・・ そんなんじゃないわ。 ちょっと荷物を置いてくるわね。 」

少女はくすくすと笑い、ベ−ジュのべレエ帽を脱ぎ、おそろいの色のマフラ−を外した。

アパルトマンの階段を駆け上ってきた熱気か、それとも外気の冷たさの故か、

彼女は白い頬を さくら色に上気させている。

 

 - ・・・ なんて 綺麗なんだ ・・・

 

ほれぼれと青年は妹を見つめなおした。

もともと綺麗な女の子だったけれど、彼女の魅力は単なる見た目の容姿だけではない。

いきいきと動く豊かな表情、深く澄んだ瞳の煌き、次第に珊瑚色に染まる頬・・・

そんな joi de vivre ( 生きる歓び ) に満ち溢れた彼女の存在自身が魅惑の塊だった。

 

 − ああ・・・ この笑顔のためなら。 俺はどんなことだってやってやるよ・・・

   なあ・・・ それが せめてもの、俺の罪滅ぼしだよ・・・ なあ、ファンション。

 

マフラ−をソファに投げかけ、ぱたぱたと自室へ駆けてゆく後姿に、

兄はそっと呟くのだった。

 

 

 

「 ・・・・! どうしたんだ?! 」

「 すみません、こんな時間に・・・ 人目を避けたかったので。

 彼女を・・・お願いします。 ジャン ・・・ さん。 。」

あの日、深夜すぎ。

密やかなノックの音とともに、見覚えのある青年が訪れた。

ガウンを引っ掛け仏頂面でドアを開けたジャンは 戸口で凍り付いてしまった。

セピアの髪の青年の腕には。

毛布に包まれた妹が昏々と眠っていた。

兄と良く似た髪は縺れ白い頬には無数の擦り傷がある。

 

「 おい! フランソワ−ズッ  どうした! 」

「 し・・・静かに・・・ 大丈夫です。 薬で眠っているだけですから・・・ 」

「 眠ってるだけって! 傷だらけじゃないかっ! ・・・おい、フランソワーズ? 」

呼吸の音だけは穏やかだったが 兄は慌てて妹を青年の腕からもぎ取った。

その拍子に毛布から 包帯に覆われた片腕がぷらん・・・と下がった。

「 ・・・この傷でなにが<大丈夫>なんだっ? 」

「 深い傷はメンテナンス済み、です。 あとは・・・普通の傷、時間が治してくれます。 」

「 普通のって。 ・・・ お前、以前に俺に誓ったよな。

 どんなことがあっても妹を護るって。 ・・・ あの言葉は ・・・ ウソだったのか。 」

ジャンは低く問いただし、俯いている青年を睨み据えた。

 

  − ・・・・あ。 コイツもぼろぼろなんだ ・・・! 

 

長めの前髪で隠してはいるが、額には大きな打撲の痕が残っている。

唇の端は切れて血が固まり、彼も右手に幾重にも包帯を巻いていた。

 

「 本当に ・・・ すみません。 ぼくがだらしなかったばっかりに

 フランソワ−ズをこんな目に遭わせてしまった・・・ 可哀想に・・・ 」

青年は手を伸ばし、少女の傷だらけの頬にそっと触れた。

繊細なガラス細工を愛でるように。 すぐに溶けてしまう砂糖菓子を扱うように。

彼の仕草には 深い愛情が滲みでていた。

「 ・・・ お前も 傷だらけじゃないか。 どこでこんな・・・ 」

「 ユ−ロの圏内でしたので、なんとかココまで彼女を連れてくることができました。

 ・・・ 彼女を フランソワ−ズをお願いします。 ぼく達と一緒にいればまた

 ロクでもないことに巻き込まれてしまう・・・ 」

「 ・・・ あ、ああ。 わかった。 」

「 ・・・ それじゃ。 夜明け前にこの街をでなければなりませんから・・・。

 こんな時間に失礼しました。  どうぞ ・・・彼女を・・・ よろしく・・・ ! 」

青年はもう一度 熱いまなざしを兄の腕に眠る少女に注いだ。

「 その怪我で大丈夫なのか。 あ・・・ 妹が気がついたら、なにか・・? 」

「 ・・・ 幸せに。 幸せになって欲しいって。 

 それだけ、伝えてください。 ・・・もうぼく達のことは ・・・ 忘れてくれ、と・・・ 」

「 ・・・ わかった。 」

青年は半分泣いているみたいな微笑を残し、再びパリの夜闇に消えていった。

 

「 あ・・・ お前・・・・ ジョ− ・・・ 君 ・・・ 」

不意に彼の名が口を突いて出た時には、肝心の相手の姿はどこにも見当たらなかった。

 

  − ・・・ 行ってしまった・・・

 

「 ・・・ う ・・・・ ん ・・・・ ジョ ・・・ ぅ ・・・ 」

腕の中で妹が微かに呻き声を漏らす。

「 うん? もう大丈夫だよ。 安心してお休み ・・・ 

 お兄ちゃんがお前をしっかり護ってやるから。 なあ ・・・ちっちゃなファンション・・・ 」

兄はしっかりと妹の身体を抱えなおした。

 

 

「 それで? ジョ−は ・・・ どこへ行ったの? ねえ、教えて! お兄さんっ」

「 こら・・・ ちゃんと寝ていろよ。 傷が塞がらないぞ。 」

「 傷なんて ・・・ ねえ、ジョ−は?」

翌日、昼過ぎにようやく意識を回復した少女は 顔色を変えて兄に尋ねた。

「 わからない。 夜明け前にパリを離れる、と言っただけだった。 」

「 ・・・ どうして・・・ どうして・・・ 置いていったの・・・ 」

「 フランソワ−ズ ・・・ 」

「 酷いわ・・・! 怪我なんて こんな・・・ すぐ治るのに・・・

 わたしだって みんなの仲間なのに・・・! 」

「 フランソワ−ズ、落ち着けよ。 彼がお前に伝えてくれ、と言っていたよ。 」

「 え、何を? 」

意気込んでベッドから半身を起こした妹の肩を 兄はそっと抑えた。

「 幸せになって欲しいって。 自分達のことは忘れて欲しいそうだ。 」

「 ・・・ そ ・・・ そんな ・・・ 」

兄を同じ色の瞳にみるみるうちに涙が盛り上がり頬を止め処なく伝い落ちる。

「 酷い・・・酷いわ・・・! どうして ・・・ 」

「 フランソワ−ズ・・・ いや、ファンション 」

「 ・・・・ お兄 ・・ ちゃん ・・・ 」

懐かしい子供時代の愛称を耳にし、彼女はすこしだけ顔を起こした。

「 なあ、ファンション・・・ 彼は、ジョ−は ・・・ お前の幸せを心から祈っているよ。 」

「 お兄ちゃん・・・! わたし ・・・ わたし ・・・ ! 」

涙で言葉は詰まり 低い嗚咽しか漏れてこない。

やがて彼女は両手で顔をおおい、声をあげて泣き出した。

「 ・・・ ファンション ・・・ ジョ−もお兄ちゃんも ・・・ 皆、みんなお前が幸せになって

 また・・・ 微笑んでくれることを心から願っているんだよ。 」

ベッドに腰をかけると兄は妹をそっと抱き締めた。

亜麻色の髪の冷たい甘さ、すんなりと伸びた手脚のしなやかさ・・・

そんな彼女の全ては あの日以前とすこしも変わりはないのに。

 

  − この温もりが ・・・ この優しさが すべてツクリモノだというのか・・・!

     ・・・あの時 俺が追いついていさえすれば・・・ こんなことには!

 

兄は腕の中の暖かい身体を二度と離すまい、と心に誓っていた。

 

 

 

正体不明の男達にジャンの妹が連れ去られ、人々がその事件を忘れた頃に

彼女はひょっこりと ・・・ 突然帰ってきた。

 

狂喜する兄に 妹は フランソワーズは 酷くショッキングな打ち明け話をし、

驚愕し声もでない兄の前で 静かに微笑んだ。

それは とてもとても静かで澄み切った笑みだったけれど、

穏やかな中に 重い絶望が深く沈みこんでいた。

 

「 ・・・ もう・・・ 二度と。 俺は・・・お兄ちゃんはお前を離さない・・・! 」

「 お兄さん・・・ でもわたしは ・・・もう ・・・ 」

「 もう何にも言うな。 以前のまま・・・ あの頃のまま、兄妹二人で暮らそう。

 そして ・・・ 忘れろ。 お前は俺の妹、フランソワ−ズ・アルヌ−ル。 それだけだ。 」

「 ・・・・・・ 」

彼女は ただ黙って涙を流し続けた。

その瞳には その眼差しには ・・・ 深い深い哀しみがいつまでもいつまでも澱んでいた。

 

平穏な当たり前の月日がしばらく続いた。

その間に彼女の<仲間>と称する茶髪の青年が訪ねてきたりして、

ジャンは<妹のカレシ>を迎えるという、ほろ苦いが楽しい体験もした。

そう、全てがごく普通の平凡な日々が兄妹の上に流れていった。

 

そんな ある日。

再び、彼女は一通の置手紙をして姿を消した。

 

  − 必ず戻ってきます。 どうぞ心配しないで。

 

そんな一行は兄をますます心痛に追いやるだけだったのだが。

そして。

昨夜、突如彼女は戻ってきたのだ。

 

 

「 ・・・ はっきりした位置はわからないけれど、エ−ゲ海にある島にいたの。

 < 仕事 >だったのだけれど ・・・  」 

憔悴しきった身体をようやくベッドに起こせるようになった頃、

フランソワ−ズはぽつぽつとそれまでの日々を語り始めた。

「 みんなと一緒だったのだけれど、最後は爆発に巻き込まれわたしは気を失ってしまったわ。 」

「 ・・・ エ−ゲ海? どの辺りか思い出せないのか。 」

「 ・・・・・ 」

彼女は黙って首を振った。

 

・・・ 妹は ・・・ わかっているんだ。 でも ソレを口にはしないだろう・・・

 

ジャンは新聞の片隅に掲載されたていた 北ギリシアのはずれにある無人島が

突然噴火し、水没したという記事を思い浮かべていた。

 

そう・・・ 多分。 でも、言いたくないなら、それでいい。

ともかく お前はここに。 俺のもとに生きて戻ってきたのだから・・・ それで充分だ。

早く元気になって また、あの微笑を俺に、皆に見せてくれ。

兄は祈るような想いで妹の横顔を見つめていた。

 

「 ・・・ジョ−は ・・・ 何処へ行くと言っていた? 」

「 ・・・ え? 」

搾り出すように彼女は低く兄に尋ねた。

「 わたしをここへ連れてきて・・・ それから・・・? 」

もう忘れろ。 彼も多分それを望んでいるよ。 」

「 ・・・ お兄さん・・・ 」

「 あの目は真剣だった。 彼は、ジョ−は本気でお前の幸せだけを望んでいる。

 だから ・・・ 忘れろ。 」

 

以前、帰ってきた時。

彼女は ただ黙って涙を流し続けた。

そして、今。

フランソワ−ズは 涙を払うとそれ以上一言も漏らさずに。

 

 ひっそりと。 静かに・・・ 淡く滲むように微笑した。

 

 

 

「 いってらっしゃ〜い! お兄さん〜〜 」

「 おう。 お前も遅刻するなよ〜〜 」

「 はぁい・・・ 」

 

アパルトマンの最上階、兄妹の部屋の窓から妹が身を乗り出して手を振っている。

早朝の空気はぴん・・・と張りつめ、冷たさがいっそのこと心地よい。 

ジャンは大きく一息吸うと石畳の道を大股で辿っていった。

 

  − ああ・・・! また、こんな朝を迎えられるようになった・・・

 

傷だらけの身体、憔悴しきった顔で運びこまれてた妹は

マロニエの葉が路に散り敷く頃にはすっかり元気になった。

煌く亜麻色の髪に空よりも青い瞳・・・

彼女は紛うことなく輝ける18歳の乙女・・・ 永遠の少女だった。

 

「 あのね。 また・・ 踊ってみようかと思うの。 」

「 踊りってバレエか。 」

「 うん。 ・・・ どこか・・・前と違うスタジオ、捜して。 」

「 ああ、そうしろ。 それがいい。 俺も、踊っているお前がみたいよ。 」

「 ありがとう・・・・ お兄さん。 」

 

そんな遣り取りの後、フランソワ−ズは再び踊りの世界の門を叩いた。

そして。

たちまち夢中になり、以前の<フランソワ−ズ>に戻っていった。

 

 

 

「 それで。 何が<ねえ、聞いて>なんだ。 」

「 うふふ・・・・ あのね。 」

カチン・・・とスプ−ンをソ−サ−に置いて、兄は妹と向き合った。

そろそろ冬の気配が濃厚なこの街で 家々の窓には午後も早くから電気が灯る。

時折、窓ガラスをカタリ、と鳴らしてゆくのはもう紛れも無く冬の風だ。

 

フランソワ−ズはコ−トと帽子を片付け、熱々のカフェ・オ・レを淹れてきた。

もう寒くはないはずなのだが、彼女の頬はずっと上気したままだ。

「 だから〜。 なんだ、プロポ−ズでもされたのか? 」

「 プロ・・・ってやだ、お兄さん! そんな相手、いるわけないでしょう。 」

「 そうか? この前・・・送ってきてくれたヤツ、満更でもない顔でお前をみてたぞ。 」

「 この前・・・ああ、シモン? 彼はスタジオでのただのお友達よ。

 彼の部屋、メトロのふた駅先なの。 」

「 ・・・お前、まさかそいつの部屋に・・・ 」

「 もう! お兄さんったら。 ち ・ が ・ う って言ったでしょう。

 彼とはそんな仲じゃないわ。 ・・・ そんなヒト・・・ わたしには・・・ もう・・・ 」

「 すまん。 つい 気になって・・・ その。 お前がまた どこかに ・・・」

「 お兄さん。 わたしには・・・ わたしが帰ってくるところはここだけよ。 」

 

カフェ・オ・オレの湯気越しに、 兄と妹は同じ色の瞳を静かに見つめ合った。

 

大切にしたい・・・!  今、このひと時を。

ほんのささやかな平穏な日々を。

 

兄も妹も 同じ想いを眼差しで語りあっていた。

 

「 それで・・・ なにが<聞いて>なんだ? 」

「 あ・・・ああ。 あのね。 」

再び極上の笑みがフランソワ−ズの唇に浮かんだ。

 

「 今度の公演でね。 短いのだけど・・・一曲だけ、ソロを貰えたの ! 」

「 へえ・・・ 凄いじゃないか。 頑張ってきた甲斐があったな。 」

「 まだ大きな作品には出してもらえないし、今回は若手がみんな一曲はソロを踊るんだけど・・・

 でも、わたし・・・ 頑張るわ。 」

「 うん、うん。 ・・・ やっとお前の夢が、子供の頃からの夢が叶うな。 」

「 まだまだ・・・ これからよ、お兄さん。 やっと一番下の階段に足を掛けたってトコ。 」

「 よ〜し、イッキに駆け上がれ! 」

「 ・・・・ 随分 ・・・ 回り道をしてしまったけど・・・ 」

「 お前に舞う情熱がある限り、道は開けるよ、きっと。 」

「 そう ・・・ そうだと・・・いいな。 」

「 な〜んだ? さっきまでの勢いは何処へ行ったんだ。 

 そうだ、明日ディナ−に行かないか。 いい店を見つけたんだ。 前祝いってことで。 」

「 まあ、お兄さんったら・・・ 随分気が早いのね。 でも、嬉しいわ。 」

「 おう、俺もさ。 あ・・・ それでソロってことはパ−トナ−はいないんだな。 」

「 ええ。 バレエ団のレパ−トリ−にあるヴァリエ−ションだから・・・ 」

「 ふふん・・・ アイツはさぞかし悔しがっているんじゃないか。 」

「 アイツ・・・? ・・・ああ、シモンのこと? 」

フランソワ−ズは言葉を切って 頬をますます上気させた。

兄と同じ青い瞳は いま、しっとりと潤い艶やかな光を帯びている。

 

「 約束したわ。 彼といつかきっと。 一緒にパ・ド・ドゥを踊ろうって。 」

「 ほ〜お・・・ <ただのお友達>じゃなかったのか〜 」

「 もう・・・ お兄ちゃんの意地悪! 」

 

子供の頃の兄妹喧嘩のように。

頬をふくらませている妹が 可愛くて。

どんな時にも決して弱音を吐かずに自分を庇ってくれた兄が 慕わしくて。

そして なによりも。

そんな当たり前の会話を 当たり前に交わせる日々が再び巡ってきたことが嬉しくて。

兄と妹は、今はただ黙って微笑みをかわした。

 

外は木枯らし。 でも ・・・ ここは。 我が家は こんなにも暖かい。

 

 

 

「 あ・・・ 美味しかった♪ も〜 お腹いっぱい・・・ 」

「 ははは・・・ バレリ−ナがそんなに食べていいのか。 明日からリハ−サルなんだろ。 」

「 う〜ん ダイエットも明日からよ。 」

「 まったく〜 でもその調子で頑張れ。 」

「 うん。 ・・・ ありがとう、お兄さん。 」

「 いいってコトよ。 今にお前がエトワ−ルになったら う〜んと自慢できるもんな。 」

「 ふふふ・・・もう・・・お兄さんったら 」

コ−トの襟を立てしっかりとマフラ−を巻きつけて それでも兄妹は楽しげに足を運んでゆく。

夜も更ければ通り抜ける風もその冷たさをますます増していたけれど、

二人の心は温かだった。

約束どおり、兄は気に入りの店に妹を案内し<前祝>のテ−ブルを囲んだのだ。

 

「 あ・・・ ここからだとオペラ座が綺麗ね。 」

「 うん? ああ・・・ちょうど正面だな。 」

夜でも行き交う人々の間に 美と芸術の殿堂が聳え立つ。

「 わたし ・・・ ずっと ・・・ エトワ−ルになって 『 ジゼル 』 を踊るのが夢だったわ・・・ 

 もう・・・ 見ることの出来ない夢だけど・・・ 」

「 ファンション・・・ 」

「 ・・・ お兄ちゃん ・・・ 」

ぐ・・・っと兄は傍らを歩む妹の手を握った。

夜気にその細い指は冷え切っていた。

「 夢は ・・・ また見直せばいい。 何度でも 何回でも・・・ 」

「 ・・・ それが 許されるかしら・・・ わたしには。 」

「 もう、言うな。 」

それより、と兄は殊更明るい調子に口調を変えた。

「 こんなに冷たい手をして! パリではこの季節にはもう手袋は欠かせないぞ。 」

「 ・・・あ・・・ええ、そうね。 しばらく もっと暖かいトコロに居たから忘れてしまったわ。 」

「 ようし。 じゃあ買ってやるよ。 」

「 もうこの時間じゃ お店は開いてないでしょう。 」

「 う〜ん ・・・ あ、ホテルのア−ケ−ドとかなら。 行こう! 」

「 あん・・・ 待ってよ〜 お兄さんったら。 相変わらずせっかちねェ・・・ 」

口ではぶつぶつ言っても 兄と妹は手を取り合い楽しげに夜道を駆けていった。

 

 

 

「 ・・・ お早うゴザイマス〜〜 」

遠慮がちなノックも もう毎朝の習慣になってきた。

ジャンは直ぐドアあけ、金髪の青年を迎えいれると、妹の部屋へ声をかけた。

「 おい、ファン?! 彼氏の<お迎え>が来たぞ〜〜  

 おはよう、シモン。 毎朝すまんね。 」

「 いえ・・・ 」

自分自身も大きなバッグを抱えた青年は一瞬はにかんだ様子だったが

すぐにさっと顔を引き締めた。

 

「 あの。 ジャンさん。 」

「 なんだ。 お〜い、フランソワ−ズ? 遅れるぞ! 」

「 お願いがあります。 」

「 え? 」

シモンと呼ばれた青年はバッグを足元に置くときちっと姿勢を正した。

「 フランソワ−ズ・・・いえ、妹さんと交際させてください。

 僕、真面目です、将来のことも・・・その、前提に・・・ 」

「 ・・・ 君 本当に・・? 」

「 ジョ−クでこんなコト、言えませんよ! お願いしますっ!! 」

 

「 ごめんなさいっ ちょっと手袋が見当たらなくて ・・・

 あら、どうしたの? 」

ぱたぱたとやはり大きなバッグを抱えてフランヲワ−ズが居間に飛び込んできた。

戸口で立ち尽くしている兄とシモンの姿に 目を見張っている。

「 あ・・・ あの・・・ なんでも・・・・ 」

「 なんでもなく、ないぞ。 O.K.! シモン、これから先は君次第さ。

 ・・・ 頑張れよ? 」

「 は・・・はい! ありがとうございますっ ・・・・お兄さんっ! 」

「 ??? なに、どうしたの? お兄さんもシモンも・・・ なにかあったの? 」

フランソワ−ズは怪訝な面持ちで二人を交互に見つめている。

「 いや・・・ さ、早く行けよ。 今日で楽 ( 千秋楽 その公演の最終日のこと ) なんだろ。

 最後に遅刻、じゃサマにならんぜ。 」

「 ええ・・・。 あ、お兄さん、今夜見に来てくれるでしょう? 」

「 ああ、勿論。 お前の最高の姿をしっかりと観にゆくよ。 」

「 頑張るわ。 ・・・ねえ、なにがあったの? なんだか・・・二人ともヘンよ? 」

「 いいっていいって。 後は ・・・ 彼氏から聞くんだな。 

 じゃ・・・ 妹を頼んだぞ? シモン。 」

「 はい! はい・・・・!! 」

「 なあに?? 本当にヘンよ。 」

「 いいから・・・ ほら、はやく行けったら。 朝のレッスンに遅れるぞ!」

首をかしげている妹と 耳を真っ赤にした青年をジャンは戸口から押し出した。

 

 

 ・・・ ああ。 これで一安心だ・・・

 

ジャンはどっかと椅子に腰を落とした。

これで妹を安心して託することができる。 うん、アイツはまだ若いがしっかりしたヤツだし。

二人で好きなだけ踊ってゆけばいいんだ・・・

 

ふと。

彼の脳裏に セピア色の瞳をした若者の面影が過ぎった。

 

 ・・・ あ。 ああ・・・ お前 ・・・ ジョ−、だったな・・・

 

アイツもいいヤツだったが。

悪いな・・・ 俺はやはり妹に平穏な人生を用意してやりたいんだ。

もう、悪夢は沢山さ。

悪い夢は夜の闇と一緒に消え、朝日とともに新しい日々が 始まるんだ。

俺は今晩、その新しい日々の<始まり>を この目で確かめにゆくよ。

 

ジャンは勢いよく立ち上がり、彼自身新しい日へ出かけていった。

 

 

 

「 ねえ、シモン? さっき兄と何を話していたの。 」

「 ・・・ うん。 」

ギシ・・・っとバ−を鳴らして シモンはストレッチを続ける。

公演最終日を控え 朝のレッスン場はダンサ−達の静かな興奮で満ちていた。

「 あのさ。 今晩 ・・・ ハネたあと、ちょっといいかな。 」

「 ええ・・・ 全員での打ち上げは明日でしょ、いいわ。 でも・・・なあに。 」

「 うん ・・・ まあ、舞台が終ったらね。 」

「 いいけど・・・ ヘンねえ? お兄さんもあなたも。 」

「 ・・・・・ 」

 

「 おはよう。 さあ・・・ 最後の仕上げはいいかな。 」

 

バレエ・マスタ−が稽古場に現れ、ざわめきはぴたりと止んだ。

今夜の舞台に向かって ダンサ−達の一日が始まった。

 

 

 

拍手のうねりはなかなか止まなかった。

ダンサ−達は若やいだ顔をなお一層上気させ、優雅にレベランス ( お辞儀 )を繰り返す。

 

「 ・・・ どうかした? 」

「 ・・・え ・・・う、ううん ・・・ なんでも ・・・ 」

 

周囲よりもほんの一瞬 長く顔を伏せていた女性ダンサ−に 隣の男性ダンサ−が

ひそ・・・っと訊ねた。

それは僅かの差であり、おそらく気がついたのは手を取り合っていた彼、シモンだけだったろう。

「 ・・・ なんでもないわ。 感激しちゃって・・・ それだけ。 」

「 そう・・・? 」

そんな小声の遣り取りは ブラヴォ−の掛け声にたちまち打ち消されてしまった。

 

千秋楽の舞台。 

華やかに踊るフランソワ−ズ・アルヌ−ルを 見つめる満員の観衆の中には

約束どおり 兄の姿があった。

そして   ・・・ もう ひとり。

ひっそりと二階のサイド奥で セピアの髪の青年が彼女に熱いまなざしを注いでいた。

 

 

その夜 セ−ヌ沿いの小路を密やかに歩むカップルが居た。

他の恋人達の甘い語らいを邪魔せぬよう、二人の声は低い。

川面から立ち昇る夜気が しっとりとあたりの空気を潤している。

 

「 ・・・ 今更 ・・・ 酷いわ。 あんな風にわたしを置き去りにしておいて・・・ 」

「 置き去りなんかじゃ ・・・ いや、ごめん。 ぼくが悪かった。 」

「 わたし、捨てられたのよ?  ・・・ いくら足手纏いでも・・・ 酷いわ。 」

「 捨てるなんて! きみを普通の生活に返したかっただけだ。 」

「 ・・・ わたし ・・・ どんなに・・・あなたを。 ジョ− ・・・!」

 

かつん、と靴音が響く。

ベ−ジュのコ−トの裾がゆれ、ダッフルコ−トと向き合った。

 

「 ・・・ いやよ。 また・・・また、殺し合いなんて! 」

「 フランソワ−ズ ・・・ 」

「 今夜の舞台を ・・・ 見てくれたのでしょう? わたしは ダンサ−よ。

 そうよ、 ただのフランソワ−ズ・アルヌ−ルなの。 」

「 うん ・・・ とても良かった。 今の君がよくわかったもの。 」

「 今の ・・・ わたし・・・? 」

「 うん。 幸せそうだった。 ああ・・・ フランソワ−ズは幸せに生きてるんだなって

 ぼくまで嬉しかったよ。 」

「 ・・・ ジョ− ・・・ 」

ほろり、とついに涙が堰を切って彼女の頬を伝い落ちた。

「 ごめん・・・ ぼくはきみを泣かせてばかりだね。 

 もう・・・忘れてくれ。 そして ・・・ これからもうんと幸せに生きて欲しい・・・ 」

「 ジョ− ・・・ ! 」

「 本当を言うとね。 ぼくは戦場を駆けるきみよりも舞台で舞うきみの方が

 ずっと何倍も ・・・ 好き ・・ なんだ。 」

「 ・・・・ わたし ・・・ 」

「 さようなら。 もう 二度ときみの前には現れない。

 どうか ・・・ 幸せに。 ・・・ フランソワ−ズ ・・・ 」

 

  − ちょっとだけ。 いいかな・・・

 

ジョ−は独り言みたいに呟くとフランソワ−ズを引き寄せ ・・・ 唇を奪った。

 

  − ・・・ ジョ− ・・・・!

 

懐かしい彼の匂いが 彼の温かさが 彼の・・・愛が。

ふつふつとフランソワ−ズの中から 湧き出てきた。

忘れていた、いや、忘れようとしていた熱い想いが身体の芯に 眼の奥に

蘇り ・・・ あっという間に燃え上がるとたちまち爆ぜた。

 

 ・・・ わたし。 この瞬間を 待っていた・・・わ。

 わたしが 望んでいた しあわせ は。 この人と共にいること・・・?

 

ジョ−はぎこちなく身体を離すともう一度フランソワ−ズの手きゅ・・・っと握り・・・

そして。

彼は踵を返すと石畳の小路を鳴らして歩んでいった。

 

  − ・・・ ジョ−・・・!  あなたの背中 ・・・ 初めて見る・・・?

 

フランソワ−ズは一足も踏み出せずに 湿気た夜闇に溶け込んでゆく

彼の後姿を いつまでもいつまでも見つめていた。

 

見慣れたはずの彼の背中は 思っていたよりもずっと小柄で ・・・ 淋しげだった。

 

ジョ−・・・ わたしは・・・。

 

フランソワ−ズの呟きはそのまま パリの夜に飲み込まれていった。

 

 

 

「 ・・・ なんだ。 帰ってきたのか、ファンション 

 今晩は てっきりアイツと一緒に ・・・ 」

「 ・・・ ただいま。 お兄さん。 」

「 ・・・・! フランソワ−ズ ・・・ 」

兄は 入ってきた妹の顔を一目見て、言葉を続けることが出来なかった。

彼女は ・・・ 穏やかに微笑んでいた。

夜目にも白く浮かび上がる頬には 優しい彼女の微笑みが浮かんでいる。

でも。

その双の瞳は。 兄と同じ色のその瞳は。

  

  確固たる決意に 静かに密やかに ・・・ 燃えていた。

 

「 ・・・ ジョ−に会ったわ。 」

「 !? ・・・ そうか。 ・・・その ・・・元気だったか。 」

ええ、とフランソワ−ズはごく普通に頷いた。

「 仕事のことで こちらに来たの。 」

「 ・・・ そうか。 」

「 そうなのよ ・・・ 」

「 疲れたろ。 コ−ヒ−、淹れるぞ。 」

「 ありがとう、お兄さん。 ちょっと荷物を置いてくるわね。 」

「 ・・・あ? お前、手袋・・・」

「 ・・・ ええ。 片方・・・多分楽屋に忘れて来たみたい。 」

「 そうか。 」

「 ・・・ そうなのよ。 ・・・明日 ・・・ 取りに行ってくるわ。 」

「 ・・・ 明日、な。 」

「 ええ・・・。 」

 

ジャンの妹は いつもと同じ足取りで自室へと居間を出て行った。

 

その夜。

兄と妹は遅くなったがごく普通にお休みの挨拶を交わした。

兄は ・・・ ドアの向こうに消えてゆく妹の後姿をひた、と見つめ ひくく呟いた。

 

「 ・・・ 帰ってこい。 必ず・・・! 」

「 ・・・・ 」

 

こくん・・・と妹は後ろ向きのまま、かっきりと頷くと、静かにドアを開けて行った。

 

 

翌朝。

テ−ブルの上には 片方だけの手袋と  Au revoir  の一行だけのメモがあった。

 

・・・いいさ。 

思い切り自分の望むままに生きてゆくがいい。

俺は。 お兄ちゃんは いつでもお前の帰りを待っているから。

 

この ・・・ 同じ空の下、

お前と同じ空の下で 俺も生きてゆく。 

だから 必ず帰ってこい。 元気で戻ってこい。

 

  Au revoir ・・・! また 会う日まで・・・!

 

ジャンは 大きく開け放った窓から 旅立っていった妹に心からの挨拶を送った。

 

 

その頃。

同じ大空の上で 亜麻色の髪の乙女はひっそりと涙を流し・・・

そんな彼女の手を セピアの瞳の青年はしっかりと握っていた。

 

 

*******   Fin.   *******

Last updated: 11,14,2006.                      index

 

 

****  ひと言  ****

一応原作 ( サンデ−・コミックス版 ) 第五巻 冒頭 ・・・ 設定なのですが。

も〜 いろいろごちゃ混ぜになってしまいました (^_^;)

その辺はどうぞ〜〜〜 眼を瞑ってくださいませ〜〜〜

へへへ・・・ お兄ちゃんと妹が主役ですから ジョ−君、出番はほとんどナシ♪

あ、片っ方の手袋とシモン君、いつか続きを書く・・・かもしれません。