『 遥かなる月 』

 

 

 

 

九月も半ばを過ぎると・・・・

まだまだ日中は結構気温が上がるが、照りつける日差しにもはや激しさは感じられない。

海沿いのこの地では 朝晩の風から熱気はとうになくなっていた。

 

 

 

「 ・・・ちょっと出かけて来る。昼はいらんから・・・」

外出の用意をして、アルベルトは出掛けにリビングの戸口から声をかけた。

リビングではフランソワーズがソファで朝刊を広げていた。

洗濯物を干し終えて一休みしているのかもしれない。

 

「 ・・・え、あ、ああ。ごめんなさい、ちょっと・・・ぼうっとしていたわ 」

びくり、と亜麻色のアタマが驚いた風に振り返った。

あわてて頬に掛かる髪を掻き揚げたが、その顔はかすかに上気していた。

 

・・・ぼうっとって・・・そうか? えらく熱心に読んでいたじゃないか?

 

口には出さずに、アルベルトは彼女の手元の紙面をじっと見詰めた。

勘のよい彼女は すぐにその視線に気づき、肩をすくめてみせた。

「 ふふ・・。お見通しね。・・・この展覧会、いつまでかなって思って。」

「 展覧会? 」

少し照れた風に彼女が示した記事にアルベルトは改めて視線を落とした。

 

 【 遣唐使 と 唐の美術 】

 

「 ・・・こういうのに興味があるのか? 」

「 興味ってことも・・・ないけど。」

「 東洋 、いや日本史 ・・・ というより国文学だな。 」

「 そうなの? その方面にはまったく弱いんだけど・・・ 」

「 だったら、<夏休み>とかでその辺でごろごろしているヤツにエスコートさせろよ。」

お呼びがかかれば大喜びでお供するぞ?・・・・とこれは彼の口の中の会話であったが。

「 それがね・・・だめなの。 今ね・・・」

 

「 フラン! ぼく、Y市の図書館まで行ってくるから。 ああ〜ぎりぎりだ〜 間に合うかなぁ・・・! 」

茶色のアタマがひょいと戸口から覗いたと思うとすぐにまた、あっという間にひっこんだ。

「 ジョーォ?? 気をつけて・・・。お昼御飯はどうするの? 」

彼女の言葉が半分も終わらないうちに玄関のドアが音をたてて閉まった。

「・・・ お出かけ、か? 」

「 そうみたい。 ・・・宿題がね、終わらないんですって。」

「 宿題??! アイツはいくつかよ? 小学生じゃあるまいし・・・」

普段、彼女とこの邸に文字通り<一つ屋根の下>暮らしている茶髪ボ−イは

その外見年齢にふさわしく、この春から大学に通いはじめている。

もっとも、聴講生であるがそれでも目新しい日々を充分に楽しんでいるようだった。

 

「 レポ−トの提出がいくつかあるのを全然忘れていたらしいのよ。

 来週から後期の講義が始まるんですって。

 今から資料を探して読んで・・・ 間に合うのかしらね。 」

「 ・・・ったく要領の悪さは相変わらずだな。 」

そうね、とフランソワ−ズも軽く笑った。

 

「 ・・・ 10分。 」

「 え? 」

「 10分、 待っててやる。 ・・・ 見たいんだろ、その展覧会。 

 ちょうど俺も都心に出るんだ、付き合うぞ。 」

「 ・・・ 20分! 」

「 10分が限界だ。 」

「 レディ−の支度には時間がかかるの、 ご存じない? 」

青い目が真剣に見つめ返してきた。

 

「 ・・・ じゃ、真ん中とって・・・15分。 」

「 D'accord!( 了解 ) 」

新聞紙を跳ね除け、ソファから飛びあがると亜麻色の頭は次の瞬間には走り去っていた。

 

・・・ 加速装置、ついてるなあ。

 

いやいや、乙女の脚には羽が生えているのだろう、とアルベルトは低く笑った。

 

 

 

 

「 ・・・ ありがとう。 」

「 ・・・ あ・・・? 」

人ごみが途切れて、すこしのんびりと歩ける地点に来たとき、フランソワ−ズがぽつり、と言った。

展覧会は期間終了間際だったせいもあり、意外はほどごった返していた。

もっとも、大人向けの静かな催し物なので子供らの喧騒とは程遠いものだったが

一種の熱気が満ち溢れていた。

それは 好ましいものではあったが、ヒトの熱意というものはどこか重たいものだ。

 

 − ・・・ふう。 どこかで 一服・・・

 

アルベルトが思わずポケットをさぐっている時に となりから小さな声が飛んできた。

 

「 付き合ってくれて・・・ありがとう。 ・・・ 来て、よかった。 」

「 ああ。 俺も面白かった。 ・・・ この国は、なんというかな・・・その。 面白い、な? 」

「 うふふ・・・そうねぇ。 確かに<面白い>わね。 住んでいるヒトも・・・ 」

「 違いない。 」

二人とも反射的に 小学生なみに<夏休みの宿題>に追われている・誰か、を

思い浮かべて 小声で笑いあった。

 

「 ・・・ちょっと羨ましいな、って思ったわ。 」

「 ヤツがか? 」

「 え? ・・・ あ、 ううん。 そうじゃなくて。 」

かみ合わない会話に 怪訝な顔をしたアルベルトへフランソワ−ズは手にしていたパンフレットを

ぱさり、と振ってみせた。

 

  【 遣唐使と唐の美術 】

 

その簡単な冊子は彼ら、欧州人の目にはただ単にエキゾチックに見える色使いだった。

しかしおそらく、この国の人間ならすぐにその時代を連想するものなのかもしれない。

そして、あの時代は結構現代の日本人にも そんなに無縁のものではないらしい。

たった今、めぐってきた展覧会は さまざまな年代の人々を集めていた。

とりわけ、最近発見され その青年の望郷の念を記された墓誌が人気を呼んでいた。

井真成 ( せいしんせい ) という名のその彼がどこの誰であったのか。 

出自が不明であることも 訪れた人々のこころを掻き立てるのかもしれない。

 

 

本来自分が居るべきところ・・・時代から強引に離されてしまったもののこころは。

望郷の念、などととても一口に言えるものではない。

墓誌に記されていた青年の想いは アルベルトの心に強く響いた。

彼は黙って手元の小冊子に目を落とした。

 

「 こんなに時間 ( とき ) が経っても・・・ その想いを見つけてくれるヒトがいたのよね。

 この墓誌のヒトの想いは ちゃんと残っているんですもの。 」

「 ・・・ そうだな。 時と場所を隔てても 彼の足跡は残った。 」

「 いいわね・・・ 」

ぽつ、と言葉を切って フランソワ−ズはすたすたと歩いてゆく。

その背に豊かに揺れる髪は 本来ならこの時代に輝いているものではない。

 

・・・ああ。 それで この展覧会に ・・・

 

アルベルトはすぐに追いついた。

喪ってしまった時間 ( とき ) への想いは 尽きることはない。

それは 誰よりも彼自身がよくわかっていることだ。

 

「 ここの地に足跡を付けるのも ・・・ また一興だ。 」

肩を並べ、彼はことさら何気ない風に言った。

「 ・・・ そう、 ・・・ そうね。 」

 

二人の足元には まだまだ濃い影がひょろりと伸びている。

都心の空気は 人々の熱気に蒸れてすこし重く澱んでいた。

 

 

 

 

ふわり・・・・ とレ−スのカ−テンがテラス側のフレンチ窓で大きく揺れた。

 

 − ・・・わあ・・・ 綺麗なお月さま・・・

 

どうせならきっちりと引き絞ってしまおうと、窓辺に寄ったフランソワ−ズは目を見張った。

穏やかな海原には銀の鱗が散らばり、白い月が昇ってきていた。

 

「 ねえ、見て? お月さまが・・・ 」

 

窓際から振り返り・・・ 彼女はぷつりと言葉を切った。

 

 ・・・ ああ、そうね・・・

 

ほ・・っと溜息を吐く。

いつも誰かしらの人影があるこの広い部屋に 今、憩うヒトはいない。

煌々と辺りを照らす灯りが 余計に空っぽの部屋の広さを強調しているようだった。

 

 

 ・・・ つまんない ・・・

 

フランソワ−ズは きゅっとカ−テンのひだ飾りを握った。

 

夕食もそこそこに ジョ−は自室にまた篭ってしまった。 

<しゅくだい>との格闘はまだまだ終わりそうもないらしい。

ギルモア博士は 食後の一服を済ませると早々に席を立った。

 

・・・ 明日に備えんとな。 老人は早寝するよ。

 

アルベルトはそんな博士の言葉に、促されるように立ち上がった。

 

じゃあ。 お休み。

 

明日は彼のメンテナンスの予定が組まれていたのだ。

 

「 お休みなさい。 」

 

あっと言う間に フランソワ−ズはぽつんとひとり取り残されてしまった。

 

・・・ねえ? こんな時にも<夜の時間>だなんて、 あり?

 

苦笑して 彼女はソファの脇にあるク−ファンを覗き込んだ。

銀髪の赤ん坊が 穏やかな寝息をたてている。

あひるの模様がついたヨダレかけの端を フランソワ−ズはちょっと引っ張ってみた。

 

たまにはのんびり、アナタと話がしてみたかったのに。

そうよ、今日の展覧会のこと、いろいろ聞きたかったわ。

 

今は無心にくうくう眠るこのス−パ−・ベビ−なら

あの墓誌を捧げられたヒトについて、なにか知っているかもしれない。

 

・・・ あ〜あ。 つくづくめぐり合わせが悪いわね・・・・

 

 

カラリ、と軽い音をたて、彼女はフレンチ・ドアを開けるとテラスに踏み出した。

月は そろそろ仰ぎ見るほどの高さになっていた。

 

-----ん・・・ と大きく伸びをして フランソワ−ズは冷たい光を放つ月にじっと視線を当てた。

 

 

 

 

「 ・・・ やあ。 ここはお月見には最高だね。 」

不意にうしろから聞きなれた声が響いてきた。

 

・・・ ジョ− ・・・ あれ? ちょっと ちがう??

 

返事の代わりに振り向いた時、 フランソワ−ズは息を呑んで棒立ちになってしまった。

 

 − ・・・ ジョ− ・・・ よね? 

 

そこには。

彼女のよく知っている、ほっこりした微笑を浮かべた茶髪の青年が立っていた。

その笑顔、 その声。

それは 確かに島村 ジョ−、 一つ屋根の下に暮らす仲間、009なだが。

 

茶髪には布でできた帽子のようなものが無造作に乗っていた。

着ているモノはいつものTシャツにちょっとヨレったGパン・・・ではなく。

足元まで覆う、なんとも風変わりなガウンのようなものを彼は纏っていた。

 

 − ・・・ なに ????  ど・・・うしたの。 ・・・あれ、このお衣装・・・昼間、展覧会で見た・・??

 

ただただ目を大きく見張り、声もなく突っ立っているフランソワ−ズに

ジョ−(と思える人物)は まったくいつもと同じ調子で話しかけてきた。

 

「 綺麗だね。 ・・・ ほら、月餅を持ってきた。 一緒に食べよう。 」

にこ、と笑って彼は籐編みの小さな籠にもった菓子を差し出した。

「 こんばんは・・・ 鳩の丈人 ( きゅう の ジョウ )様。 」

なぜか自然にそんな挨拶が 口を突いて出てきた。

驚いている自分と ごく当たり前に振舞っている自分と・・・

フランソワ−ズは奇妙な一体感を味わっていた。

 

腰を屈めてお辞儀をしたときに、自分の裳裾に目が行った。

 

 − ・・・ なに これ。 こんな服、いつ・・・??

 

たった今までの、素足にひっかけていたスリッパなど、どこにもなく。

セミの羽みたいな薄い紗でできた長い上着が足元まで覆っていた。

 

「 ・・・ ジョウ、でいいです。 燦の姫 ( さん の ひめ )さん。 」

「 あら。 わたしも・・・ フランソワ−ズって言ってくださいな。 」

「 ふ・・・らんそ・・・? 難しいな・・・ 」

「 じゃ・・・ フラン 」

「 うん。 はい、どうぞ? フラン? 」

「 ありがとう、 ジョウ。 わあ・・・美味しそう。 」

 

差し出された籠に手を伸ばした時、フランソワ−ズの腕で幾重にも巻かれた翠玉がさらさらと

心地よい音をたてた。

気がつけば、動くたびに耳元でも同じような音がし、いつもは肩に触れている髪も

結い上げられ、そこにもなにか飾りがゆれているようだった。

 

・・・ これは・・・ 夢 ・・・? 

 

そっと振り返れば。

数歩進んできただけのギルモア邸のリビングはまったく消えうせ、

鈍い灯りが点々と散らばっている夜の闇が広がっていた。

足元も・・・ 何時の間にかやわらかな草地にかわっている。

 

 

「 この国では 今日という日にこんなお菓子を食べるんだね。 」

「 ・・・ この国 ? ああ、 ジョ−は海の向こうの東の島から来たのよね? 」

「 うん。 ぼくは単なる随員だけどね。 」

「 ふうん。 ・・・ねえ、聞いてもいい? 」

「 いいよ、なに? 」

ジョ−は ぱくり、と手にしていた月餅をかじった。

「 わたし、祁留萌父さんから聞いたわ。 東の島の人はみんな黒い髪と暗い色の瞳だって。

 あなたのお友達の・・・ 井真成さんも、安倍の大使様も。 みんな烏の濡羽色の髪と

 夜の闇を切り取った濃い瞳だわ。 でも・・・ 」

ふ、と。 フランソワ−ズは言い澱みことばを途切らせた。

 

「 あは、そんなこと・・・。 いや、笑ってゴメン。 ぼくの父さんは外国 ( とつくに )の

 人だったらしい。 この茶色の髪と目は・・・ オヤジのぼくへのたったひとつの贈り物だと思ってる。 」

「 ・・・ ごめんなさい。 」

「 なんで謝るの? そりゃ・・・子供の頃は気にしてたけど。 結構苛められたりしたし・・・ 」 

でも、とジョ−は隣に腰をおろしたフランソワ−ズを振り返った。

「 父さんの国、外国( とつくに )が見たいって思って ・・・ ここまできたよ。

 母さんはぼくが子供の時分に死んでしまったけど

 この国と商売をしてる張小父さんが僕を引き取ってくれて学問もさせてくれたんだ。 」

「 ・・・ そうなの。 」

「 大変な旅だったけど、こうしてこの都に来ることもできたし。 

 いろいろな人たちと 知り合いになれた。  ・・・ きみとも、 ね。 」

「 ・・・ ジョウ ・・・・ 」

 

肩を並べて、二人は空を見上げた。

「 ・・・ きれいな お月さま ・・・ 」

「 ・・・ああ ! ほんとうに綺麗な月だね ・・・! 昼間みたいに明るいし。 」

「 こんな夜に 相応しいかしら・・・ 」

中天の月を振り仰いだまま、フランソワ−ズは細い声で歌を歌い始めた。

それは この国の唄ではなく、勿論ジョウの国のものともちがっていた。

 

冷たい白い光が降るなか、少女の細い声が流れてゆく・・・

耳慣れない不思議な旋律  初めて聞く魅惑の言葉・・・・

 

耳を澄ましていたジョウは ふと、目の前にひろがる白い道を見た・・・ような気がした。

この都大路を尽き抜け 遠く国境のながいながい石壁を越え 目路はるかその道は続いてゆく。

 

・・・ 風が・・・?

 

歌声にのって 風が・・・ 乾いた白い風が吹いてくる。

西の彼方から 乾いた風が 軽やかな鈴の音が 聞こえる

 

それは 冴え冴えとした月と少女の透き通った声が描く幻の風景・・・

ジョウは、目を閉じて細いその声に自分のこころを委ねた。

 

意味はわからなくても、その声に秘められた彼女の気持ちは

ひたひたとジョウの心に染みとおってくる。

 

 ・・・ 帰りたい 帰りたい 帰りたい。

 

魂の叫びを秘め、少女の唄は澄み渡った月夜の空に吸い込まれてゆく。

 

 

「 ・・・ 綺麗な声だね。 素敵な唄だ・・・  」

「 ありがとう。 これはわたしの故郷の唄なの。 」

振り向いたフランソワ−ズの瞳は 耳元に揺れる碧玉よりも艶やかに煌いていた。

白磁の頬には ・・・ 幾筋もの涙の跡が尾をひいている。

 

「 故郷? ・・・ きみは・・・、いや、きみも? 」

ジョウの掠れた声が 搾り出すように聞こえた。

「 きみは・・・ 鴻濾館( こうろかん ) の、祁留萌( ぎるもあ )老の・・・娘さん、ではないの? 」

結い上げた亜麻色の髪に差した櫛の翡翠が ちかり、と光った。

 

 − ・・・ 蛍火のようだ・・・

 

ジョウは彼女の顔から 視線を逸らすことができない。

まじまじと見つめられているのに気付き、フランソワ−ズは頬を淡く染めた。

「 わたしは 祁留萌父さんの養女なの。 」

「 養女・・・ 」

「 ええ。 わたしの家の先祖は波斯 ( ぺるしや )からきたのですって。 」

「 波斯 ( ぺるしや ) ? あの・・・回鶻 ( ういぐる )や 吐蕃 ( とばん )の

 彼方の・・・西の国 ・・・? 」

「 そうよ。 はるか・・・ ずっと西の果ての国。 そこにはわたしみたいな

 薄い色の髪で空色の眼の人が沢山いるそうよ。 」

「 ・・・ そうなんだ・・・ すごいね。 仏たちが来た道、そのまた彼方から・・・ 」

「 わたしね。 子供の頃に人買いに浚われて・・・ 売られてこの都まできたのよ。 」

「 ・・・ 人買い ? 」

ジョウは眉を顰め、淡々とかたるフランソワ−ズをもう一度じっと見つめた。

 

「 父さんと母さんと ・・・ 兄さんと。  砂の海に浮かぶ大きな大きな緑の国で暮らしてた・・・

 高い祈りの塔がたくさんあって。 遠くの白い神々の峰を越えて沢山の隊商が行き来していたわ。 」

「 ・・・ 幸せだった・・・? 」

「 当たり前だと思っていたわ。 今日と同じ・・・ううん、もっと素敵な明日が続くって信じてた  」

「 今日と ・・・ 同じ ・・・ 」

「 そうよ。 明日も明日も明日も・・・ 楽しいことだけが待ってるって・・・ 」

細い肩がふるえて 玻璃のしずくがほろほろと散った。

「 ・・・ フラン ・・・ 」

ジョウはそっとその華奢な肩に腕を回した。

「 往来で・・・突然黒装束の人攫い達に襲われたの。 気がついたときには・・・

 故郷を遠く離れてゆく隊商の中だったわ・・・ 」

「 ・・・ つらい、長い道を辿って・・・ この都に来たんだね。 」

「 ここに来て、娼家に売られるところだったの。  ・・・たまたま身の回りの世話をする

 はしためを捜していた祁留萌父さんの目に留まって。 」

「 ・・・ よかった・・・。 本当に・・・よかったね。 」

「 ・・・ ジョウ ・・・・ 」

力強い手が 自分の背をそっと撫でてくれる・・・

それは 遠い幼い日に泣いている自分を慰めてくれた兄の手の感触にも似て。

フランソワ−ズは そっと睫毛に溜まった水玉をはらった。

「 旅の途中で聞いた言葉を自然に覚えていたのね。

 祁留萌父さんのお世話をしながら・・・ 今では鴻濾館で通詞もしているの。 」

「 そうなんだ・・・ それで。 」

「 ・・・ それで? 」

「 それで。 ぼくはきみとめぐり逢うことができたんだね・・・。 」

「 ・・・ ジョウ。 」

そうっと・・・遠慮がちに寄りかかったジョウの肩は がっしりと逞しくて。

フランソワ−ズは 彼の体温と一緒にあたたかな想いも感じ取ることができた。

 

「 祁留萌父さんには感謝しているわ。 ・・・ ここでの暮らしに満足よ・・・ 」

でも・・・ と彼女の声は涙で再びくぐもった。

「 帰りたい ・・・ 帰りたい、 帰りたい・・・! 兄さんに・・・会いたい・・・ 」

ジョウの腕が やわらかく彼女の肩を抱いた。

 

「 ・・・ねえ? いま、ぼくが仕えているご主人がね。 こんな詩を詠んだんだ。

 今晩みたいな綺麗な月夜にぴったりなんだよ。 そう、 この国に言葉にするとね ・・・ 」

「 ・・・ええ、 聞かせて。 」

「 綺麗な月を自分は異国 ( とつくに ) で眺めてるけれど、 この月はあの懐かしい故郷の

 山の端に昇っていたのと同じなんだなあ・・って。 」

「 その方には ・・・ きっと故郷に想いをかけた方が 待っていらっしゃるのよ。 」

「 ・・・ そう・・・ そう、かもしれない ・・・ 」

「 きっと そうよ。 そして ・・・ 二人で肩を寄せ合って月を愛でた思い出がおありなんだわ。 」

「 ・・・ うん ・・・ きっと。 」

冴え冴えとした月の光のもと、ジョウの視線は何を追っているのだろう。

フランソワ−ズは ことん、と頭を彼の肩に預けた。

「 ・・・ こんな風に。 一緒に ・・・ 」

「 ・・・ フラン ・・・ 」

ジョウの大きな手が 寄り添う細い身体をしっかりと抱き寄せた。

 

「 ジョウ。 ・・・あなたにも。 あなたを待っている可愛いヒトが・・・いるの? 

 東の果ての島で ・・・ 」

「 ・・・ウン。 」

 

・・・ああ、やっぱり。 

 

そんな呟きが吐息となってフランソワ−ズの唇から 漏れた。

 

「 ・・・ そう ・・・ 」

「 ほら・・・ ここに。 」

「 ・・・ え ・・・? 」

 

驚いて目を見張った次の瞬間、目の前にジョウの茶色の瞳があった。

月の光を背負っているので 表情ははっきりとはわからなかったが

暖かい色の瞳は 穏やかな光を湛えて彼女を見つめていた。

 

「 ねえ、ほら。

 きみの瞳の中に・・・ 空が見える。 奈良の地に広がっていた青い青い空が・・・

 ああ・・・雲雀( ひばり )が鳴いているよ。

 もうすぐ、春が来る・・・。 

 都大路を 桜と柳がはなやかに埋め尽くすんだ・・・ 

 その下を 降りこぼれてくる花びらと稚いみどりの葉をまとって 一緒に歩こう。 」

「 ・・・ ジョウ ・・・! 」

「 ぼくは ・・・ きみとめぐり逢うために、 この地に来たんだ。 」

 

ジョウのもえる手が フランソワ−ズの頬にふれた。

 

「 ・・・ ジョウ ・・・。 」

フランソワ−ズは手を回して 彼の髪をその白い指で梳いた。

「 ・・・ほら、ここにも・・・。

 あなたの眼に髪に。 砂にけぶる都が見えるわ。

 そら・・・鈴の音が聞こえる・・・ あれははるか西の地からやってきた駱駝の隊商。

 都の中央を抜ける道を通って 遠い遠い東の果ての都まで行くのよ。 」

 

ぱふん・・・とジョウはフランソワ−ズの髪に顔を埋めた。

 

「 ・・・ああ。 風が ・・・ お日様のにおい、乾いた風のにおいがする・・・ 」

「 西からの風にのって・・・ わたしはここに来たわ。 ・・・あなたと出会うために。 」

「 一緒に 想いを分かち合い手を取り合うために、ここに来たんだね。 」

「 ・・・ そう、ね。 ・・・ 一緒に あの月を眺めるために ・・・ 」

 

あつい唇があわさって ひとつにもつれ合った影が草地に倒れた。

 

長いしなやかな指が たおやかな身体をゆるやかにさぐり・たどり 

・・・ 白磁の肌を桃色に染めあげてゆく。

白い光を浴びて 彼女の裸身は 胸のふたつの宝玉は なお一層燃え立った。

・・・ やがて

つめたいはずの月の光は 熱い迸りに姿を変えて彼女の一番奥に真っ直ぐに注がれた・・・。

 

 

やわらかな夜風が 草地に伏す二人の火照った肌をそっと愛撫してゆく。

 

「 ・・・・ ねえ、 ジョウ。 

 さっきの詩 ・・・ あなたの国の言葉で 聞かせて。 」

隣に伏す青年の茶色の髪を指で弄び、異国の少女はひくく呟いた。 

 

ひといき、深々とその厚い胸に吸い込むと、 青年は短い詩を朗々と唱えた。

 

 

・・・ やわらかな言葉が やさしい音が 白い月夜に浮かんで ・・・・ 消えていった。

 

素敵な詩ね・・・

ああ ・・・ わたしにも聞こえるわ

 

  ―  帰りたい ・・・ 帰りたい 帰りたい 

 

魂は こころは 風乗って その故郷まで行き着くことができるのかしら・・・

 

 

一瞬、木立を鳴らして夜風が吹きぬけた。

被いていた領巾 ( ひれ ) が煽られフランソワーズは目を閉じ 手を掲げて風を防いだ。

 

 

ほんの一瞬、瞬きをする間だった・・・はずだ。

 

 

再び目を開いたとき、今までと少しも変わらない白金の月が中天にあり、

その光を惜しみなく振りまいていた。

 

・・・ あれ。 

 

 

ぴたりと隣に寄り添っていたはずの人は ・・・ 忽然と消えていた。

まだ、首筋に頬に ・・・ 身体の内奥に その熱さの感覚が残っているのだが。 

いま、自分はただひとり冴え冴えとした光を浴びている。

 

 

・・・ 夢 ・・・・? 

 

 

 

「 ・・どうしたの? ほら。 夜はもう冷えるから・・・」

不意に後ろからついさっきまで隣で聞いていた声が響いてきた。

ほとんど同時に ふわり、と彼女の肩に衣類がかけられた。

 

・・・ これ。 さっきまでの領巾とはちがうわ・・・

 

「 なに? どうか・・・した? 」

大きな瞳をことさら見開き、まじまじと自分を見詰めているフランソワーズを、

ジョーは不思議そうに見詰めている。

その 彼は。 

今朝着ていたTシャツに少々ヨレったGパン、コンクリートのテラスを踏む足には

・・・いつものスリッパをひっかけている。

 

「 鳩の丈人さま・・・ じゃないわね・・・・ 」

「 え?え?・・・なに? 」

「 ・・・ なんでもな・・い。 」

「 どうかしたの、フラン? 」

心配そうに覗き込むセピアの瞳は ほんの数分前に異国の丘でであったものと寸分の変わりも・・・ない。

 

「 ・・・わたし。 夢を・・・ みていたのかしら・・・」

「 あんまり月が綺麗だから、天女でも見た? ・・・あ。ごめん・・・ きみのほうが ずっと ・・・ 」

あわてるジョーの様子が可笑しくて。

フランソワーズはくすり、と笑った。

いつのまにか冷えていた肩に カーディガンが暖かい。

 

「 アルベルトが月でも見てみろってわざわざ言いに来たし。 

 なんだかイワンがちょっとぐずってたし。 あわててリビングにきたら

 きみはテラスでぼ〜〜っとしてるしさ・・・」

「 イワンが・・? 」

「 うん、ちょっとだけだよ。 ぼくが覗いたときには もうくうくう眠ってた。 」

「 みんな あのお月さまのひかりに目が眩んだのかも・・・しれないわ・・・

 ねぇ、<しゅくだい>は おわったの? 」

「 うん・・・ なんとか。  あの・・・ ごめんね ・・・ 」

「 あら、なにが。 」

わざとつんとして見せると ジョ−は一人で赤くなりもじもじとしている。

「 その・・・あのう・・・。 あ・・・ ほら。 もう夜は冷えるよ? 」

ずり落ちかけていたカ−ディガンを ジョ−はそっとフランソワ−ズの肩に引っ張り上げた。

「 ・・・あの・・・ 一緒にお月見をしようよ? 」

 

「 ・・・ そうね。 ・・・ありがとう、ジョ− ・・・ 」

 

え?と目を見張る青年に 彼女はぴったりと寄り添った。

「 あなたと お月さまを見たかったのよ。 」

「 ・・・ うん、 ぼくも ・・・ 」

彼の大きな手がおずおずと ・・・ やがてしっかりと 彼女のすこし冷たくなっていた手を握る。

 

 

   − きれいな お月さま ・・・

 

 

ジョ−の手が その温かさが 静かに・穏やかに身体に染みとおってゆく。

なぜか ほろり、と玻璃の粒が零れ落ちた。

 

でも、それは。

悲しみのしずくではなくて・・・・。

 

 

・・・ イワン ・・・ アルベルト ・・・・

ありがとう。

素敵な夢と 素敵な時間を ありがとう。

 

兄さん・・・ わたし。 幸せです・・・。

 

 

やがて白い月は 重なる二つの影をゆっくりと照らし ・・・ 傾いていった。

 

 

 

 

               あまのはら ふりさけ見れば春日なる

                                    みかさの山に いでし月かも

 

 

 

 

*****    Fin.    *****

 

Last updated:  09,20,2005.                            index

 

 

 

 

***   言い訳  ***

今年の十五夜さまがあんまり綺麗でしたので ・・・ 妄想の極致?であります。

【 遣唐使と唐の美術 】 展は 是非見たかったのですが・・・(;_;)

なお、作中の 鴻濾館 は本来は日本での外国の貴賓をもてなす施設です。

かな〜り てきと〜に 史実を捻じ曲げて流用しています、これも ぱろでぃ と

どうぞ寛大にお目を瞑ってくださいませ。 <(_ _)>