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《1》
青白く、欠け始めた月。
時折薄い雲にその姿を隠そうとするが、風が一吹きするとまた冴え冴えとした光を
あたりに振りこぼす。
フランソワーズは濃いワイン色で編まれた毛糸のショールにくるんだ赤ん坊をそっと
胸から離し、月の光をその全身に浴びせるようにする。
「ほら、イワン・・・・お月さま。綺麗ね・・・・・。少し欠けてるけど、今日のお月さまはとても綺麗だわ。
気持ちいいでしょう・・・・?」
囁きながら、膝の上の赤ん坊をそっと揺らす。
月明かりの下のその小さな顔は、ようやく以前のふっくらとした面影を取り戻しつつあった。
「―――そうか。もうじきか・・・良かったな」
コズミ博士の家のリビングには久々に仲間たちが顔を揃えていた。もっともジョーとジェットは
まだもとのギルモア邸のメンテナンスルーム――家は破壊されたが、地下の設備は殆ど
損傷を受けずに残っていた――で、静かに目覚めのときを待っている。
「そっちはどうだ」
メンテ室の二人の仲間の様子を聞いてホッと肩をおろしたピュンマに、アルベルトが尋ねる。
ピュンマとグレート、ジェロニモの3人は、彼らの新しい家を整えるため、ここ数日はずっと
そちらに泊り込んでいた。
「うん、もういつでも住めるよ。細かいところはまだだけどね」
「ハード面は一朝一夕には出来ないからなぁ。とりあえず寝たり食べたりする分には十分だぜ」
ピュンマとグレートの言葉を肯定するように寡黙なジェロニモも頷く。
「台所もちゃんと使えるようにしたかネ」
みんなにお茶を配っていた張々湖がいちばん気になっていたらしいことを訊いた。
「ああ! 今度のキッチンは広いぜ〜。お前も腕の奮いがいがあるだろうよ。よろしく頼むぜ、
料理長さんよ」
「それは楽しみネ〜」
グレートが熱いジャスミン茶を受け取りながら、ふと顔を上げた。
「そういや003は? 向こうにいるのかい?」
ギルモアやコズミ博士と一緒にジョーたちについているのかと訊ねたが、アルベルトは首を振った。
「いや・・・・001を連れて散歩だ」
「起きたのか?! 001」
ピュンマやジェロニモもじっとアルベルトを見つめる。
彼は”あの日”以来、ずっと眠り続けていた。
その間に月は2度、満ち欠けを繰り返している。
「ああ、ちょっと前にな。で、腹は減ってないから外の空気を吸いたいとか言うもんだから003が」
「そうか・・・。変わりなかったかい?001は」
「ああ。いつものお目覚めと全く変わらないね、あいつは」
「それなら良かった。 ・・・・・で、彼女の方は――?」
ためらいがちなピュンマの問いにすぐには答えず、アルベルトは熱いお茶を一口啜った。
―――2ヶ月ぶりに目を覚ました赤ん坊。それに気づいて、彼の名を呼び、壊れ物を扱うようにそっと
抱き上げたフランソワーズ。かけようとした言葉は形にならず、大粒の涙がひとつふたつ、赤ん坊の
胸元に零れ落ちる。
「―――泣いてたよ。何か言おうとはしていたが・・・・・・ただ泣いて、ヤツを抱いていた」
しん、としたリビングの中、アルベルトが続ける。
「――で、001が月夜のデートに誘ったわけだ」
ぶふっ・・とグレートがむせた。
「デートだぁ? ―――なぁ、004・・・あの二人、ほっといて大丈夫なのかねぇ?」
顔をしかめ、首を傾げる。
「大丈夫って? 何を心配してる―――?」
「いや、だってさぁ・・・”あのとき”、003は・・・・なんていうかその・・・・」
「――大丈夫だ。001はわかっている」
グレートの杞憂をジェロニモがきっぱりと否定した。
「003と001は、そんなことで心が離れたりはしない」
いつもこの二人を陰で見守り、庇ってきた彼は微笑んで言う。
アルベルトも頷いた。
「それに・・・・009たちの容体が落ち着いてからはずっと001につきっきりだったからな、
彼女は」
『ひどい状態だった001を今まで放っておいたから・・・・せめて、これからはずっと付いていて
あげたいの。・・・・・・・・許してくれないかもしれないけど』
そう言って哀しげに瞳を伏せた003は、その言葉通りここ数日ジョーたちのもとへ行こうとしな
かった。
『目が覚めるまであいつらの傍にいてやりたいだろう。001だって眠ってるんだ。何も君がずっと
ついていなくても』
無理するなと言ったアルベルトに静かに微笑んで首を振り、フランソワーズはこんこんと眠り続ける
001を抱き続けた。
低く優しい声で繰り返し子守唄を歌う。
毎日お湯をつかわせては今日は何グラム体重が増えたと、嬉しそうにみんなに報告する。
その姿はどこか痛々しくもあったが、それでも以前と変わらぬ母子のような彼女たちの姿を再び
見られることは、あれ以来肉体的にも精神的にも安らぐときのなかった彼らにずいぶん救いを与えて
いた。
「―――001もわかってるさ、彼女の気持ちは。・・・少し二人だけで話をさせた方がいい」
アルベルトの言葉に、ピュンマが手にしたカップから立ちのぼる湯気の向こうを見ながら
低く応じた。
「そうだね・・・。彼女も、001も、今回の件ではいちばん頑張ったからね」
「今夜は月が綺麗だ。きっとすべてを癒してくれる―――」
ジェロニモがゆったりと微笑んで窓の外に静かな視線を向ける。
そんな仲間たちを見て、グレートも納得したように肩を下ろした。
「げに強きは女子供なり・・・・か。ホントすごかったな・・・・あの二人は」
しみじみと頷いて、カップを手にソファに深く身体を預けた。
仲間を失くし、なす術もなくただ波間に揺られていた自分たち。
しかし、彼女とイワンは――――
そのとき、グレートはイワンを見ていた。
―――アルベルトの胸で声を殺して泣くフランソワーズを見ていられなかった。
非情な決断を下したイワンを責める気持ちはない。
それが最善だと彼が判断したなら、それに間違いはないのだ。これまでもそうだった。
口では生意気だの肝心なときに寝ていて役に立たないだのと憎まれ口を叩いていたものの、
グレートも他のみんなと同じように、この赤ん坊には全幅の信頼を置いていた。
だから、責める気持ちではなく、かと言って沈黙を続けるイワンにかける言葉もみつからず、ただ
どうしようもないやりきれなさを胸に、ぼんやりとゆりかごの中の彼を見ていた。
―――と、イワンの体がぴくりと動いた。
固く握り締めた手が小さく震え、半開きになった口元でおしゃぶりが頼りなげに揺れている。
・・・・・? なんだ、一体――――
グレートはそんなイワンの変化に気づき、近寄ってその顔を覗きこんだ。
長い前髪の隙間から、薄青の瞳がぱっちりと開かれているのが見えた。遠く空のかなたを見つめ、
でもどこか迷いの色を見せてかすかに揺れている大きな瞳。
「どうし―――」
グレートの問いかけは、フランソワーズの悲痛な叫びで遮られた。
「ジョー・・・っっ・・・!!!」
聞く者の胸を抉るようなその叫びに、誰もがハッと身を強張らせたとき。
ゆりかごのふちを掴んでいたグレートの手が、ふいに熱気に焦がされた。
「あちっ・・・!」
思わず手を離した彼の目の前に、突如大きな光の玉が現れる。
次の瞬間、光は消え、バシャン・・!という大きな水音とともに何かが海面に落ちた。
すぐに浮かび上がったのは―――焼け焦げた、二つの黒い・・・機械のかたまり。
ひゅっ、と誰かが息を呑む音が聞こえた。
「ジョー・・・・!!」
「見るな!!」
近寄ろうとしたフランソワーズを、アルベルトが咄嗟に自分の胸に引き寄せる。
しかしフランソワーズは、頭を抱え込んだ鋼鉄の手を思いがけない力で振りほどいた。
「どいてっ・・・!!」
低く叫ぶと、無残な姿となった二つの人型に迷うことなく身を寄せる。
食い入るように、彼女は自分のもとへ帰ってきた二人の変わり果てた姿を見つめていた。
その後ろ姿に、グレートもアルベルトも・・・誰一人として声をかけられる者はいない。
グレートはイワンを見下ろした。
赤ん坊は、力を使い果たしたかのように瞳を閉じてぐったりしている。
―――001。お前の言ったとおりだったな。
お前の力でも・・・・やはり間に合わなかったか。
込み上げてきたものをグッと飲み込もうとしたとき、かすかな声が聞こえた。
「・・・・・・・てる・・」
「・・・・・・え?」
いちばん近くにいたピュンマが眉を顰めた。
背を向けたままのフランソワーズの肩が小刻みに震えている。
「・・・動い、てる・・・・心臓・・・循環器・・・人工脳も・・・・・・」
ざわめきが水面を走った。
フランソワーズが顔を上げる。
「生きてる・・・・・二人とも、生きてるわ・・・・!!」
「なんだって?!」
フランソワーズはくるりと振り返ると、浮かんでいる二人に近づこうとした仲間たちを掻き分け、
イワンのゆりかごに突進した。
「起きて――001、起きてっ!!」
目をつぶりぐったりしたままのイワンを乱暴に揺さぶる。
「001っ、001・・・・!!」
髪を振り乱し小さな赤ん坊の身体をガクガクと揺するその姿は―――そこにいたすべての者の
背筋を凍らせるに十分だった。
「起きて・・・・起きなさいっ、001――!!」
悲鳴のような叫びとともに、2回3回と、頬を張る乾いた音が響く。
「おいっ・・?! 止めろ、003・・・!!」
驚いたグレートがフランソワーズの肩を掴んだとき。
全員の意識が飛んだ。
気づいたとき、彼らは見慣れたギルモア邸地下のメンテナンスルームにいた。
呆然と立ちすくんでいた彼らの中で、真先に動いたのは003だった。
床に無造作に投げ出されていた二人を005に指示して治療台に乗せ、自分は次々に
必要な機材の電源を入れていく。そしてようやく我に返ったギルモアとともに、自らの目も
フルに使って二人の状態をチェックし始めた。
誰もが目を背けたくなるような変わり果てた二人の姿を、彼女はためらうことなく見つ
めていた。
蒼白な顔の中で、二つの瞳だけが爛々と光を発している。
ギルモアとフランソワーズの姿を見てようやく動き出した男たちは、ふとゆりかごの
中のイワンの異常に気づいた。
「うわっ・・! 001?! おい、001が・・・・・!!」
本来持つ能力の限界を超えたせいだろうか、身体が防護服の中で一回り小さくなった
ように見える。あれほどふくよかだった頬もぺたりとこけ、顔色がない中で、打たれた
左の頬だけが赤いのが妙に禍々しく皆の目に映った。
「こいつは・・・・・」
イワンのあまりの衰弱ぶりに、グレートが額に流れた冷たい汗を無意識に拭う。
「おお・・・001! 001・・・!!」
駆け寄っておろおろと抱き上げようとしたギルモアの背後に、フランソワーズがゆらりと
立った。
イワンを見つめる瞳は今にも張り裂けんばかりで、その顔は紙のように白い。
傍にいたアルベルトは、彼女がそのまま倒れてしまうのではないかと思わず手を伸ばし
かけた。
―――が、彼女は噛み締めていた唇を押し開き、震える声で、しかしきっぱりとギルモ
アに告げた。
「博士・・・・001は大丈夫です。呼吸も脈もちゃんと聞こえてますから。それよりも
こっちを――!」
「003、しかし・・・・」
「007、001をそこの保育器に入れて! さぁ、博士、早く!」
有無を言わせぬフランソワーズの口調に、ギルモアは苦渋の表情を浮かべながらも
瀕死の二人のもとに戻る。それに続き、フランソワーズもまたくるりと背を向けると治療
台の二人に集中し始める。
それからの彼女は、もう001の方は見ようともしなかった。
さきほどまでいた海上の、取り乱した様子は微塵もない。
時折ギルモアと交わす言葉は低く短く、仲間たちに向けた横顔は白く凍りついたようで、
凄惨な美しさすら感じられる。
そんな彼女を声も出せず遠巻きに見つめていた仲間たちが、次々に出される指示のもと
必要な部品や機材の手配に地下室を飛び出していく。
ここまできて、あの二人を死なせるわけにはいかない。
みんなの想いは同じだった。