<Formula1>

 

 

  アルヌールさんの彼氏はF1レーサー。

  けれどアルヌールさんが彼のレースを見に行ったのは一度だけ。

  なぜなら。

 

 

生まれて初めてのサーキット。彼からもらったパスを見せると難なくパドックに導かれる。

――いた。彼だ。

レーシングスーツに身を包み、真剣な表情でスタッフとモニターを見ている。

その横顔に、アルヌールさんは何故かどきどきする。

彼が気づいた。とたんにいつもの照れたような笑顔。彼女の方に歩いてくる。

「よくきたね」「音うるさいだろ」「ココ座って」「何か飲む?」

世話焼きな彼のまわりからぶつぶつと声が聞こえてくる。

「紹介」「紹介」「紹介」「紹介」

あ。という顔で、彼はアルヌールさんをみんなに紹介する。

いわく、「友達」。

ちょっぴりがっかりしたアルヌールさんだったが、いつものことなので気を取り直して

みんなに丁寧に挨拶をする。

 

彼がコースへ出ると、アルヌールさんはぽつんと一人きり。

ここは知らない人ばかり。でも、彼には大切な仲間。自分の知らない、彼。

ぼんやりとコースを眺めていたアルヌールさんに、彼の仲間が話しかける。

「彼のあんな顔、初めて見たよ。笑うんだね、あんな風に。やっぱり彼女が来ると違うんだな」

そうなんでしょ?とその人は笑った。アルヌールさんはちょっと驚いて、そして訊ねる。

「ここでの彼はどんなふうなんですか?」

 

決勝が始まる。

アルヌールさんの彼氏はどうも速いらしい。前から2番目にいる。

コースに出る直前、彼はアルヌールさんのそばにすいっと寄ったかと思うと、

「頑張るから」

そう言ってにこっと笑った。

「気をつけて」

応えたときはもう、背を向けてメットを手に取っていた。

ちらっと振り返り、もう一度微笑んで、足早に出ていく。

どきどきどき。アルヌールさんはまた胸が苦しくなってきた。

 

スタート直後に彼はトップに立った。パドックは大騒ぎ。

そのまま周回を重ねてピットイン。バイザー越しの彼の表情は、アルヌールさんにもわからない。

でも多分、静かで、厳しくて、近寄りがたい、そんな顔をしている。少し前まで、彼のそんな顔は、

アルヌールさんには見慣れたものだった。

トップの位置をキープしたままコースに戻って、しばらくして事故は起こった。

周回遅れが固まって走るすぐ後ろに彼がいた。突然1台の車がスリップしたかと思うと、次々に

周りの車を巻き込んで、クラッシュ。後ろにいた彼も避けきれず、恐ろしいスピードで回転しながら

壁に激突した。炎上する車。レッドフラッグが振られる。

 

パドックからは事故現場は見えなかった。慌しく無線で呼びかける者、じっとモニターを見つめる者、

コースに乗り出す者。

一瞬にして騒然となったその場所で、アルヌールさんの姿が、何人かの人目を引いた。

アルヌールさんは瞬きも忘れたように1点を見つめていた。事故があった山の向こう。蒼白な顔、

震える唇。かすかに聞こえる、彼を呼ぶ声。

「聞こえる・・・?! 返事をして!」

尋常ではないアルヌールさんの様子に気づいた一人が、落ち着くようにと声をかけたとき、

突然アルヌールさんの顔がくしゃくしゃになった。

「ああ、良かった・・・・! 無事なのね、良かった・・・・!」

ポロポロと涙をこぼしたアルヌールさんを見て、スタッフは一様に首を傾げた。

現場の状況はまだ伝わってこない。無線は壊れているらしかった。

 

そこへ、ドライバー無事の知らせ。安堵のどよめきが沸き起こる。

やや厳しい顔をして、しっかりした足取りで彼は現れた。取り囲んで彼の無事を喜ぶスタッフに

うなずいておいて、まっすぐアルヌールさんの前にやってくる。

彼は厳しい顔のまま、アルヌールさんに何か言いかけた。

が、大きな瞳に涙をためてじっと見つめるアルヌールさんに、ふっと表情をゆるめて頭を振ると、

ふわりと抱き寄せた。

「勝ちたかったんだけどな・・・君の前で。ごめんよ」

アルヌールさんは何も言わず、ただ慌てて首を振って彼の胸に顔をうずめ、こぼれた涙を隠した。

油と、煙の匂い。

 

 

そんなわけで、アルヌールさんの彼氏は、彼女をサーキットに連れてくるのは剣呑だと

思ったらしい。事故直後のアルヌールさんの不審な言動を何人かのスタッフに聞かされ、

ごまかすのに汗をかいた。今度こういうことが起きたらごまかしきれないかもしれない。

 

一方アルヌールさんも、正直言ってもう懲り懲りだと思っていた。

どんなに「ボクは大丈夫。あれくらいで死んだりしないよ。わかってるだろ?」なんて言われても

あんなのを目の当たりにして平静でいられる自信は、悪いけどない。

思い出すとまだ恐ろしくて体が震える。ああ、どうして彼はこんな仕事をしているんだろう。

もっともっと安全な仕事が、この世界にはたくさんあるだろうに。

 

そして、アルヌールさんはかなり長いこと、彼のレースを見ていない。

彼も無論、納得している。恋人といつも一緒のチームメイトを、横目で眺めながら。

 

 

 

 

              ≪ END ≫                 index