『   移り香  − 春の使者 − 』  

 

 

 

夜も深い時間に

自分の靴音だけを相手に 帰り道を急ぐ。

 

ふと・・・・感じたかすかな甘い香り。

 

 − お前の匂いだ・・・・ 

 

 

 

褐色の やわらかな お前の髪のにおい。

 

いつもは 少しも気付かないそれは 俺の隣りに眠る夜だけ 薫った。

ひそやかに それでいて染み入る甘さ。

 

香水なんて高価でとても手に入らなかったから、いつも不思議に思っていた。

 

「 ・・・ え?  なにも付けていないわよ ? 」

いい匂いがする、という俺の呟きに お前はちょっと怪訝な面持ちだった。

まだ 底冷えのする夜、 起き上がりお前はその輝く裸身を毛布からさらす。

 

肌の白さが 目に染みとおる。   ふと、またあの香りが漂う。

 

「 ・・・? ・・・ ああ、 わかったわ。 」

身を捩るように振り向いて 窓辺に置いたコップをそうっと持ち上げた。

「 ほら。 この香りでしょう? 」

昨日ね、あんまりいい香りがするから、とお前はくす・・・・っと笑った。

「 角のお屋敷の生垣から一枝頂いてきちゃったの。 」

ちいさなコップ挿された 沈丁花の一枝がまた、ふわりとその香りをはなつ。

 

「 いつか、歳を取ったら。 庭先いっぱいのお花に囲まれて暮らしたいわ。

 ・・・ううん、そんな贅沢はいわない。 」

コップをもどし、お前は冷えた身体で俺の傍にもう一度もぐりこんで来た。

「 春にはいつも、 こんな香りの漂う街に住みたいわ。 」

そっと寄り添ってきた、夜気にひえたその身体に俺はしっかりと腕をまわした。

 

 − きっと かなうさ。  そのために。

 

もう 言葉はいらない。

お前も 応えのかわりにしっかりと俺の首に腕をからめた。

 

コップの中の一枝は もう盛りも過ぎかけていて

すこしの振動でも ほろほろとその小さな花の名残をふりまく。

 

それは 絡まり合う身体に

天上からの コンフェッチのように静かにふりそそいだ。

 

ああ・・・・ いい匂いだ・・・・・

 

 

 

 

闇に ほのかに浮かび上がる小さな花は お前のこぼれる微笑にも似ていて

思わず その一枝に手を伸ばした。

 

可憐な 早春の使者に当てられたのは  −  黒革で隠された 金属の指。

 

止めておこう・・・。

お前に、 この指は似合わない。

 

ゆっくりと踵をかえし、 俺はまた自分の靴音だけを相手に道を急いだ。

 

 

( 了 )     Last updated: 2,14,2004.            top

 

***  ひとこと  ***

水仙に梅に、沈丁花。 早春の宵闇は とても饒舌です。