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795年、カールと協力関係にあったローマ教皇ハドリアヌス1世が死んだ。その後教皇になったレオ3世はローマでの政争に巻き込まれ、799年にはハドリアヌス1世の親族に幽閉されるという事件まで起こった。レオは側近のアルビヌスによって救出され、スポレト公ヴィニギスの下にかくまわれた。レオにはカールの手を借りる以外の方法が見つからなかった。
そのころカールは、またしても勃発したザクセン人の反乱に手を焼いていた。そして息子であるアキテーヌ王ルイと共にザクセンで戦っているとき、レオの事件を知る事となる。その時カールは、宮廷の柱である、ノーザンブリア王国出身の助祭アルクィンに書簡を送り、アルクィンから次のような内容の返事を受け取っている。その内容とは、キリスト教世界における中心人物はローマ教皇、東ローマ皇帝、フランク王の三人がいるが、教皇は事件に巻き込まれたばかりだし、東ローマ皇帝コンスタンティノス6世は母イレーネにより廃位され帝国は混迷している。よってキリスト教世界の安定は、フランク王であるカールに委ねられるしかないというものだった。
フランク特使をレオに随行させ、特使とレオはローマに帰還した。だが、カール自身はザクセンから王都アーヘンに帰還した後、ローマに行く気配は見せなかった。
800年、トゥールにてアルクィンやアキテーヌ王ルイと会い、さらにもう一人信頼するオルレアン司教テオドゥルフとも相談したカールは、8月、ついにローマへと出発した。そして11月下旬、近くの町メンターナまで迎えに来ていたレオと共に、ローマに入城した。12月下旬までレオ幽閉事件の調査を行い解決させた。
そして12月23日に行なわれたローマの会議によって、カールに皇帝の位を授ける事に決まった。これは、教皇やローマの貴族達がカールの力を背景に、本家ローマ皇帝の継承者であるがコンスタンティノープルにいて対立関係にある東ローマ皇帝に代わり、キリスト教世界への権威を確たるものにしようという目的があった。一方カールにも、アルクィンが唱えたキリスト教世界に安定をもたらす者になるという野望があった。
12月25日のクリスマス。サン・ピエトロ大聖堂にて、カールの皇帝戴冠式が行なわれた。これによりキリスト教世界に、東方教会の盟主でもある東ローマ帝国に匹敵するカトリック教会の盟主が誕生したのだった。
801年にアーヘンに帰還すると、802年にカールは大規模な帝国会議を開催し、多岐にわたる勅令を発布した。
803年に和平が結ばれた東ローマ帝国と一時は交戦状態になったが、東ローマはブルガール人という強敵を抱えていたため、812年には再び和平を結ぶ事となった。
804年にデーン人(ノルマン人、ヴァイキング)王ゴドフレートと戦うことになった。だがこの強敵との戦いは810年にゴドフレートが家臣に殺害される事で終結した。以後デーン人で大規模な内乱が起こり、834年までデーン人と戦うことはなかった。
だが、帝国の将来設計においては予定が狂い始めていた。811年、後継者と考えていた息子カールが病死てしまったのだ。前年にはイタリア王ピピンも死亡していたため、813年、残った王子ルイを共同皇帝に就け、自らの死後の体制を明確にした。
翌814年の1月、カールは高熱を発して寝込み、一週間後にこの世を去った。享年65歳。アーヘンに埋葬された。
後、ルイ敬虔帝の治世となる。 |
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