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689年、フランク王国内アウストラシア分国の宮宰ピピンに息子カールが誕生した。714年にピピンが死亡したあと宮宰に就いたカールは、ネウストリア、ブルグンドなど他の分国との勢力争いに勝ち、720年に全フランクの宮宰に就任した。国内をまとめられず、王族間の争いで勢力を失ったメロヴィング朝の王達を問題としない権力を手に入れたのだ。 622年を紀元とするイスラム教が成立してからのアラブ人の伸張は目覚しかった。661年に成立したウマイヤ朝は、アラビア半島を征服し、西ローマ帝国滅亡後唯一のローマ帝国の後継者となっていた東ローマ(ビザンツ)帝国領である西アジアに侵入し、北アフリカの東ローマ領を征服し、ヨーロッパであるイベリア半島に侵入して、711年にゲルマン民族の西ゴート王国を滅亡させた。 そしてピレネー山脈を越えたイスラム軍は、732年、カール率いるフランク軍とトゥール・ポアティエ間で戦うことになる。アウストラシアの貴族を中心に編成されたフランク軍は歩兵を主力とし、イスラム騎兵隊を撃退した。この戦いでカールは金槌のように敵をなぎ倒したという伝説から、カール・マルテル(金槌)と呼ばれた。
ガリアの地に秩序をもたらしたカール・マルテルだが、旧来のゲルマンの習慣を変えることはできなかった。それは財産の分割相続である。741年にカールが死んだ後、権力はカールマン、ピピン、グリッポンの三人に分け与えられた。しかし末弟グリッポンは兄弟仲の悪さから殺害された。残るカールマンとピピンが王国の統治に当たったが、敬虔なカトリック教徒だったカールマンは修道院に入るため、747年に引退した。残るピピンがフランク王国の宮宰となった。 実質の支配者はピピンであったとして、王権は未だにメロヴィング朝ヒルデリヒ3世が持っている。名実共にフランク王国の権力者となりたかったピピンは、西ヨーロッパの最高権威であるローマ法王の協力を得ることにした。当時のローマ法王ザカリアスも、教義上の理由で東ローマ皇帝と対立していたし、北イタリアのゲルマンの強国ランゴバルト王国の圧力を感じていたので、味方を欲していた。751年にピピンが送った使節に対し、同年開かれたソアソンの諸侯会議において「真に国王たるにふさわしい能力の持ち主が、国王たるべきである」と返答し、認めた。 ここにカロリング朝初代国王ピピンが誕生した。サン・ドニの即位式では大司教ボニファティウスから塗油を受け、フランク人の王にしてローマの貴族の位を得た。メロヴィング朝最後の国王ヒルデリヒ3世は追放され、僧院で余生を送った。
ランゴバルト王アイストゥルフはラヴェンナを落とし、法王庁に迫ってきた。ピピンは即位への交換条件となっていた教会への手助けのために動くことになる。アルプス山脈を越えて北イタリアに攻め込んだピピンの軍は、パヴィアでランゴバルト軍を破り、アイストゥルフは落馬して死亡した。756年には占領した中北部イタリアの領土のうち、ラヴェンナとエミリア太守領22都市を法王に寄進し、ローマ教皇領の基礎をもたらした。 さらにドイツのザクセン人を破り、バイエルンのタッシロ公を臣下に加えた。南フランスのナルボンヌをイスラム教徒から奪い、同じく南フランスのアクィタニア、セプティマニア(後のラグドック地方)を平定した。そして教会がピピンを支持する見返りとして、十分の一税を導入した。
その後ピピンは768年、アキテーヌで病没した。
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十分の一税 |
土地所有者は、土地から上がる収益のうち十分の一を修道院、尼僧院に支払わなくてはならないという税制度。 |
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