しとしとと、雨が降り続く。 街道脇の、本来この辺りの百姓が使う小屋は、道行き最中に雨に降られた者たちの集うところでもあった。 入り口付近に、ちょび髭の小男と、くたびれた雰囲気の女。女は以外に色気があり、小男がちらちらと様子を眺めている。 少し入り、囲炉裏の側には先の女よりも遥かに生気に溢れて艶やかな女が居る。手に持っているのは三味線で、挑発的に肩を曝け出してもいた。もっとも、この女から放たれている独特の気配は、並の人間ならば近づけさせない様な迫力を持っていたが。 そして、この中でもっとも奇妙な風体の男が、最も奥にいた。 やけに高い身長に、その体格に程よい肉付き。かと言って筋肉質というわけではなく、全体的にはすらりとした印象をもっている。 そんな体躯を藍色の衣服に包み…そして、その顔には木の仮面が張り付いていた。 『怪しさ』をこれ異常なく体現しているものの、彼の手で水分を拭われている木の人形が、彼が漂泊の民・傀儡子(くぐつ)である事を示している。傾きとまでは行かない妙な姿も、人目を集めるためなのだろう。 「ねェ、あんた」 暫しの時が経ち、男が傀儡を箱にしまうと、それを見計らってか、三味線を抱えた女が声をかけた。 「ちょっといいかい?」 「何だ?」 傀儡子の男が応える。それに気を良くしたのか、それとも懐柔の策か、女はとろける様な笑みを浮かべた。 「いえね。今のご時勢に、江戸の…この辺りで人形回しを見掛けるのがちょいと珍しくてね。興味が湧いたって訳さ」 そう言って、くすくすと笑う。が、男は――仮面で見えない、というのもあるが――表情を変えなかった。 「あたしは桔梗…。あんたは?」 「此谷龍行だ」 「此谷、って…。名字があるのかい」 驚いた風に桔梗が言う。ただ、どうやら驚きよりも興味の方が上らしいが。 「親から継いだ物だが」 「ふぅん、そうかねェ。…実は、いい家の出で、お忍び…とか言わないかい?」 くい、と桔梗が身を乗り出して龍行の顔を覗き込む。 「それは無い」 龍行の口元に、初めて表情――苦笑が浮かんだ。 「そうかい? それは残念だ」 からかってたの、わかったかい、と言いながら桔梗は身を離す。 「江戸では、と言ったが、君は江戸の者なのか?」 桔梗が座りなおすと同時に、今度は龍行から口を開いた。 「そうだよ」 答え、くすりと桔梗は笑う。 「あたしに興味があるのかい?」 「ここでは少しばかりし難い話があるのだが」 「へぇ…」 ちらり、と桔梗は様子を窺った。今の発言で、向こうにいる二人がこちらの話に興味を持ったようだ… 「嬉しいねェ」 薄っぺらい笑みを浮かべて、桔梗は明り取りの窓を見遣った。 「なら、外に行くとしようか? 雨も小降りになってきたし、さ」 さすがに、さしたる理由も無くついて来るほどではなかったらしく、桔梗と龍行は小屋の裏手から広がる竹林で二人きりになっていた。 くるり、と桔梗が振り返る。 「ねェ、聞いてもいいかい? あんた、あたしを何だと思ったのさ? こんな辺鄙なところまで客を探しに来た夜鷹とでも思ったのかい?」 その顔に、表情はない。…いや、軽薄な男を忌み嫌う、複雑な女の顔があった。 「いいや」 龍行が平然と頭を振る。 「じゃあ、何さ」 「君からは《陰》の気配と血の匂いがする」 「!」 一瞬で表情を引き締めると、桔梗は三味線を抱えなおした。 「よく、わかったね」 「昔から鋭くてな」 桔梗が三味線をびぃんと一つ、高く鳴らす。 「そう。…残念だね」 二度、三度。そのうちに、空気すら震え出す。 「気付かない振りをしてれば…江戸に行けただろうにね。あんた、いい男だろうし…」 びりびりと、三味線の弦ではなく空気の震える音が辺りを満たしてゆく。 「でも、感づかれた以上、そうは行かないよ。ここで死んでおくれ」 しかし、龍行は動かない。恐怖で動けない、という風ではなく、あくまで平然としている。そして、背に背負った木箱を悠然と下ろしてもいた。それが桔梗の心を波立たせる。 「あんたも、鬼の贄になっておくれ!」 びん! と一際強い音が響くと… それが引き金になってか、龍行を囲むように、三体の異形のモノの姿が現れた。 「山氣鬼か」 「…よく知ってるね。…それじゃ、さよなら」 鬼が、その太い腕を振り上げる。 しかし。 振り下ろされるより早く、龍行がとん、と大地を蹴った。 「はッ!」 気合の掛け声と共に、一体の胸に手を押し当てる。 ――と。 ぱんッ! と小気味良い音を立てて、その鬼が消し飛んだ。 「な…!?」 桔梗がうろたえた声をあげる。 とっ、と軽く着地すると、すぐさま龍行はもう一体に向けて跳躍した。 空中で体を捻る。 ひゅい、と風を切る音と共に、今度は蹴りが鬼を一体かき消した。 「嘘…」 僅かな呼吸の間に、彼の正面にいた二体が倒され、呆然と桔梗は呟いた。 衝撃を緩和するため、膝を屈しながら着地した龍行に、最後の一体がようやく爪を振り下ろす。 と、龍行は振り返りもせずに左手を振り上げた。 鬼の爪が、止まる。 いや。 きらり、と光ったものがある。 ――糸。 龍行の左手の指と、地面に置かれた木箱との間に、糸が張ってあった。四本。龍行の小指以外と結ばれている。 それが、鬼の爪を食い止めている。ただの糸では… 「《氣》を込めた糸…?」 気付いて、桔梗はつぶやく。 (何者だい、この男!?) 桔梗のうろたえなど意に介さず、龍行は左手を大きく振って体の向きを変える。 糸に爪が食い込み、抜く事も切る事も出来ずにもがいていた鬼が、それに引っ張られて体勢を崩した。 龍行はすばやく懐にもぐりこむと、再び手を押し当てる。 再び小気味良い音が響き、鬼は消えていった。 「まだ何か用意があるのか?」 龍行にそう声をかけられて、ようやく桔梗は我に帰った。 「…あんた、何者なのさ」 「漂泊の民だ」 「なら、その力は何なのさ!」 「漂泊の民の起源を知らないのか?」 「知らない…訳じゃ…ないけどさ…」 歯切れ悪く、桔梗は答えた。 漂泊の民、つまり、『ひとところに留まれぬ者たち』は、その多くが時の権力者に嫌われた者をその始まりとしている。――ならば、その嫌われた理由とは? それは、人ならぬ業(わざ)や《力》を持っていた故である。芦屋道満以前以後の法師陰陽師しかり、本来神職・巫女であった白拍子の静御前しかり… 傀儡子は、客人神(まろうどがみ)としての性質を持つ存在として、そうした者とは違う扱いをされる場合もあるが。 「代々継いできたものを持っているだけだ」 「じゃあ…じゃあさ」 桔梗の顔に、血色が戻る。 漂泊の民は、その由緒が為に、権力機構に憎しみを抱いている場合も多い。 しかし、それ以上に。 「虐げられた者を救うのに、興味は無いかい?」 ぴくリ、と龍行の肩が震えた。 己たちがそうであったが為に、『はじき出されてしまった者たち』に優しいのだ。その為にこそ、知られざる事とは言え、漂白の民の人数は増えてきているのだから。 「どういう意味だ?」 「おっと。これ以上聞くなら、来てもらうしかなくなるよ」 くす、と己を取り戻して桔梗は笑った。 「……」 龍行が沈黙する。さすがに、警戒しているようだ。 ――と。 「ふむ。なかなかの腕のようだ」 第三者の声が割って入った。 龍行が竹林の奥を見遣る。桔梗は、誰なのか判っていた。 「天戒様!」 くるりと振り返り、いつの間にか現れた赤毛の男に桔梗は駆け寄った。 「どうして…どうしてこちらに?」 「何、氣の大きな変動を感じてな。…あの男か?」 「は、はい」 す、と天戒の視線が動く。 天戒と龍行の視線が絡み合う。 「名は」 「此谷龍行」 「此谷…?」 天戒の目が、見開かれる。 「では、お前が“そう”なのか?」 「て、天戒様?」 突然の言葉に、桔梗が再びうろたえる。 「ならば」 しかし、問い掛けられた龍行は平然と聞き返していた。 「君が九角の当主か?」 「その通りだ」 天戒がそう答えた瞬間、二人の間の空気が和らぐ。 桔梗を置いてけぼりにして、二人の男は頷きあった。 |