ケヤキ(欅)

ニレ科(ケヤキ属)


2002.06月 横浜南区
立派なケヤキの大木です。
樹齢100年近く経っていると思います。
幼木を街路樹として植えたのでしょう。
等間隔に5〜6本大きく育っています。
当時はまだ道路の舗装もされず、植栽環境としては申し分なかったのでしょう。
すくすくと育った様子がわかります。
この場所にきてどれぐらい経ったのでしょうか。ケヤキはかなりの高木でも移植可能ですから、ここがふるさとではないでしょう。

同上
大きくなりなんだか窮屈になってきました。
動物でしたら移動すれば良いのですが木は自分で場所を変えることができません。根を土の中に張り伸ばしてからだを支えるしかありません。その代わり実や種をたくさんつけて子孫を残してゆきます。枝を挿し木にして自分の分身を作るそんな魔法も持っています。
直径30センチほどです。
南区の団地敷地内に植栽されていましたが、大きくなりすぎた事でいろいろ不都合が発生しました。
植生環境が良かったので、満遍なくすくすくと育った様子がわかります。
街路樹です。なんだか切ないです。
官庁街です。もう既に枯れているかも。

漢字で欅・槻・樫
本州、四国、九州に分布する落葉高木、雌雄同株で箒状に枝が展開する。公園、神社、学校、街路いたる所で大きな木があります。盆栽は逆に小さいですが有名です。材も有用で建築、器具、家具いろいろ使われます。昔の大工さんはケヤキとツキは使い分けをしたそうです。 ケヤキの最高級銘木の値段は「」のようで、板3枚が1台のロールスロイスの値段にもなります。
神社仏閣で有名なところ→大和の当麻寺(西塔)、東京深大寺の本堂、浦和市調神社の社殿と稲荷社。

清水の舞台土台ケヤキにシロアリ(20110622記事)
舞台を支える柱はケヤキでした。78本のうち12本がシロアリ被害。




空高く千枝にひろがる欅の木冬の夕べはとまる鳥なし                 岡 麓
万葉集
0210 うつせみと 思ひし時に たづさへて 吾(あ)が二人見し走出(わしりで)の 堤に立てる 槻(つき)の木のこちごちの枝(え)の春の葉の 茂きがごとく 思へりし 妹にはあれど頼めりし 子らにはあれど 世間(よのなか)を 背きしえねば蜻火(かぎろひ)の 燃ゆる荒野に 白布(しろたへ)の天領巾(あまひれ)隠(かく)り鳥じもの朝発(た)ち行(いま)して 入日なす 隠りにしかば我妹子が 形見に置ける 若き児の 乞ひ泣くごとに取り与ふ物しなければ 男(をとこ)じもの 脇ばさみ持ち我妹子と 二人吾(あ)が寝し 枕付く 妻屋のうちに昼はも うらさび暮らし 夜はも 息づき明かし嘆けども せむすべ知らに 恋ふれども 逢ふよしをなみ大鳥(おほとり)の 羽易(はかひ)の山に 吾(あ)が恋ふる 妹はいますと人の言へば 岩根さくみて なづみ来(こ)し よけくもぞなきうつせみと 思ひし妹が 玉蜻(かぎろひ)の 髣髴(ほのか)にだにも 見えぬ思へば
0213 うつそみと 思ひし時に 手たづさひ 吾(あ)が二人見し出立(いでたち)の 百枝(ももえ)槻の木 こちごちに 枝させるごと春の葉の 茂きがごとく 思へりし 妹にはあれど恃(たの)めりし 妹にはあれど 世の中を 背きしえねばかぎろひの 燃ゆる荒野に 白布の 天領巾隠り鳥じもの 朝発ちい行きて 入日なす 隠りにしかば我妹子が 形見に置ける 緑児(みどりこ)の 乞ひ泣くごとに取り委(まか)す 物しなければ 男じもの 脇ばさみ持ち吾妹子と 二人吾(あ)が寝し 枕付く 妻屋のうちに昼は うらさび暮らし 夜は 息づき明かし嘆けども せむすべ知らに 恋ふれども 逢ふよしをなみ大鳥の 羽易(はかひ)の山に 汝(な)が恋ふる 妹はいますと人の言へば 岩根さくみて なづみ来し よけくもぞなきうつそみと 思ひし妹が 灰而座者
0277 早来ても見てましものを山背(やましろ)の高槻の村散りにけるかも
1276 池の辺(べ)の小槻(をつき)がもとの小竹(しぬ)な刈りそねそれをだに君が形見に見つつ偲はむ
2353 泊瀬の斎槻(ゆつき)がもとに吾(あ)が隠せる妻あかねさし照れる月夜(つくよ)に人見てむかも
2656 天飛ぶや軽の社の斎槻(いはひつき)幾代まであらむ隠(こも)り妻そも
3223 天霧(あまぎ)らひ 渡る日隠し 九月(ながつき)の 時雨の降れば雁がねも 乏(とも)しく来鳴く 神奈備の 清き御田屋(みたや)の垣つ田の 池の堤の 百(もも)足らず 斎槻(いつき)が枝に瑞枝(みづえ)さす 秋のもみち葉 まき持たる 小鈴(をすず)もゆらに手弱女(たわやめ)に 吾(あれ)はあれども 引き攀ぢて 枝もとををに打ち手折り 吾(あ)は持ちてゆく 君が挿頭(かざし)に
3324 かけまくも あやに畏(かしこ)し 藤原の 都しみみに人はしも 満ちてあれども 君はしも 多くいませど往き易(かは)る 年の緒長く 仕へ来し 君の御門を天のごと 仰ぎて見つつ 畏けど 思ひ頼みていつしかも 我が大王の 天の下 しろしいまして望月の 満(たたは)しけむと 吾(あ)が思(も)へる 皇子の尊は春されば 植槻(うゑつき)が上の 遠つ人 松の下道(したぢ)ゆ登らして 国見遊ばし 九月(ながつき)の しぐれの秋は大殿の 砌(みぎり)しみみに 露負ひて 靡ける萩を玉たすき 懸けて偲はし み雪降る 冬の朝(あした)は刺し柳 根張り梓を 大御手に 取らし賜ひて遊ばしし 我が大王を 煙(けぶり)立つ 春の日暮らし真澄鏡(まそかがみ) 見れど飽かねば 万代に かくしもがもと大船の 頼める時に 吾(あ)が涙 目かも惑はす大殿を 振り放け見れば 白たへに 飾りまつりて内日さす 宮の舎人は 栲(たへ)の秀(ほ)の 麻衣(あさきぬ)着(け)るは夢かも 現前(うつつ)かもと 曇り夜の 惑へるほとに麻裳よし 城上(きのへ)の道ゆ つぬさはふ 磐余(いはれ)を見つつ神葬(かむはふ)り 葬りまつれば 行く道の たづきを知らに思へども 験(しるし)を無み 嘆けども 奥処(おくか)を無み御袖もち 触(ふ)りてし松を 言問はぬ 木にはあれどもあら玉の 立つ月ごとに 天の原 振り放け見つつ玉たすき 懸けて偲はな 畏かれども

植槻(うゑつき)→地名?
※槻が欅と呼ぶようになったのは、室町時代の明応5年(1496年)に出た
   「節用集」という辞書が最初の説あり。
20110611更新

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