正倉院の蘭奢待

1996,12,14 朝日新聞抜粋

1200年前の香り残っていた
織田信長らの切り取った跡が残る奈良・正倉院所蔵の香木「蘭奢待(らんじゃたい)」が、東南アジア産の沈香(じんこう)という高級香木で、約1200年たった今も香りが残っていることが宮内庁正倉院事務所の科学調査で明らかになった。

正倉院には九世紀に納められたとする説があり、蘭・薯・待の各文字に、東・大・寺の文字が潜んだ香名で知られる。古くからこの香に魅せられた人が多く、室町時代以後、足利義政や織田信長、明治天皇が蘭著待の一部を切り取ったとされ、紙を張ってそれぞれの切り取り跡を示している。

沈香
ジンチョウゲ科の常緑樹で、特にベトナム産が珍重され、高級なものを伽羅と呼ぶ。土中に埋まった部分が香木になり、1gが1万円いう高価なものもある。しっとりした香りで精神を安定させる作用があり、高級木工品の材料にもなる。正倉院には沈香の一木片をはめ込んだモザイク模様の木箱が残る。


清水 秀男(熱川バナナワニ園研究室)

「栴檀(せんだん)は双葉より芳し」と言って、優秀な入材が子供の時から非凡であることの例えに使いますが、この場合の栴檀は、お線香の主原料となるビャクダン科の白檀(びゃくだん)を意味しています。

ところが実際に育ててみると、高さが3m、4mになっても一向に香りを生じないのです。本当は、何10年もかかって生育した大木の堅い心材にのみ、あの素晴らしい香りがあるのです。

ちなみに白檀は半寄生の植物で、発芽後、早いうちに他の植物に寄生させないと衰えて枯れてしまいます。本来の寄主はインドセンダン、オオハマボウなどですが、白檀の苗の根元にトウガラシの種をまいておいても、その根に寄生して元気よく育ちます。

もう一つ、白檀と並び称さ"れる香木にジンチョウゲ科の沈香(じんこう)があります。香木と呼ばれるだけあって、いかにも良い香めがするみたいですが、沈香の材は軽くスカスカで何も香りません。

本物の沈香ば、古木が倒れて埋もれた土地から、腐らずに残っか樹脂部分を鉱物のように掘り出した物です。質の良い沈香ほど比重が重く水に沈むため、沈水香の呼び名もあります。

当園にも、ビャクダンとジンコウが植わっています。鼻を近付ける入もいますが、香らないし、ハープのようにちょっと枝を折って香りを楽しむということもできません。何か物足りなさの残る話だとは思いませんか。



すごいですね。
蘭奢待は長さ156センチ、重さ11,6キロあります。
「9世紀に正倉院に納められた」。なんだか溜息がでます。
理由は3つほどあります。
先ず貴重品と認識する眼力に敬服いたします、当時の社会に仏教が中心にあったことが推しはかれます。
次に日本に自生がないのですから外国から輸入したのでしょう。
東南アジアが原産ですからわざわざベトナムなどに行ったのでしょうか、
それとも中国経由で輸入されたのでしょうか
さらにこんなに重いものをどうやって運んだのでしょう。
日本の歴史に関わった有名な人々が登場します。
あと1000年ぐらいそ〜っとしてあげたいものです。

やっぱり出てきました。科学の力はすごい。
タイムマシンで現場に行って検証するしか実際は分からないでしょう。
公開されるんでしょうか?
ちょっとだけ見てみたい気もします。


「蘭奢待」切り取り、信長らだけでなかった 正倉院香木

朝日コム記事
2006年01月15日13時16分

 奈良・東大寺にある正倉院所蔵の伝説的香木「蘭奢待(らんじゃたい)」は、織田信長らが一部を切り取ったといわれる。その宝物に38カ所もの切り取り跡があることが、大阪大の米田該典(かいすけ)・助教授(薬史学)の調査で明らかになった。「切り取り犯」はこれまで歴史上名高い数人の権力者とされてきたが、無名の人々も含めて数十人にのぼるのではないかという。

 香木は香炉などでたいて香りを出すもので、仏教の儀式の際や香りを楽しむのに使われた。蘭奢待の正式名は「黄熟香(おうじゅくこう)」だが、それぞれの文字の中に「東・大・寺」の文字が隠された別名の蘭奢待の方が有名だ。長さ156センチ、最大径43センチ、重さ11.6キロ。ベトナム産のジンチョウゲ科の樹木に樹脂や精油が付着したもので、鎌倉時代以前に入ってきたとみられる。

 正倉院の所蔵物は天皇家の宝物とされ、切り取りは最高権力者のみに許したと考えられてきた。いつ張られたかは不明だが、付箋(ふせん)で切り取り跡が示されているのが室町幕府の8代将軍足利義政、信長、明治天皇の3人。東大寺の記録によると、信長は1寸四方2個を切り取ったという。3代将軍義満、6代将軍義教も切り取ったとみられ、徳川家康が切り取ったとする説もある。

 長年、正倉院所蔵の薬物を調査してきた米田さんは、この蘭奢待に2〜6センチ程度の切り取り跡38カ所を確認した。のこぎりや刀、のみなどが使われたらしく、たたき割られたようなところもあった。「同じ個所を繰り返し切ることもあるので、実際には50回くらい切り取られたと考えられる」と話す。さらに切り口の色の濃淡は様々で、切られた年代にはかなりの幅があるとみられるという。

 他の「切り取り犯」は誰なのか。権力者の場合は何らかの記録が残るはずで、むしろそれ以外のケースの方が多かったのではないかという。「現地や日本への移送時に手にした人たちや、何らかの関係者ではないか」とみている。

さらにこんなに重いものをどうやって運んだのでしょう。?2009.10.15

参考
敦煌 砂漠の大画廊 井上靖 NHK取材班 日本放送出版会

P221引用
・・・・・・・壁画をはじめてして、そのほとんどがもろい土でできているこれらの壊れやすい出土品を、かくも大量に収集し、揺れ動くラクダの背に乗せて運び出した情熱とエネルギーには、まったく驚かせる。
中略・・・・・
あきらかにキリストの顔である。・・・・・・・・・・
引用終わり

敦煌地区から100年前(1900年前後)に世界の探検家が財宝(遺産)を人力と馬力で持ち帰りました。
砂漠の中で移動手段は「ラクダ」しかありません。大変な使命感です。探検をする方はいわゆる文明国家で実際に汗をかいて働いた人々はその国に人々でしょう。探検家の本心は純粋に真理に対する好奇心だと思いますが、当時の西洋社会の経済ルールでは時には高値として取引されたとか?探検の費用に流用されたと思います。国家に対する義務感もでしょうが、やっぱりそのことが「好き」・・・・
そこに行き着くような気がします。
現在はデータはネットで世界中を飛び回りますが、物資は物理的に動力と汗がどうしても必要です。



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