黒い森での釣り
ヘミングウェイ原作 中田耕治訳 河出書房
もっとも、苦情をいう人間がやめる前に諸君の持っているマルクがなくなってしまったら、さしずめ留置場か病院行きだろう。こういうときにそなえて、服のどこかに1ドル紙幣をしのばせておくのはうまい作戦である。諸君を攻撃する人間も、十中八九までは、感謝祭で祝福をさずけられるときのように膝を折るだろうし、いちばん近い、いちばんたっぷりして、いちばん毛糸らしいドイツの手編みの靴下、つまり南ドイツ共通のへそくり銀行にとってはこれまでのへそくりの記憶が全部破られるという事態になる。
こうして魚釣りの許可を得るという方法で、私達は黒い森(シュヴァルツヴァルト)じゅう魚を釣って歩いた。
リックサックに、釣竿といういでたちで、田舎をハイクし、高い分水嶺に出たり丘の斜面を転がったり、ときには深い松の森林地帯を抜け、ときには、開墾地や農家の庭に出てはまた何マイルも人に会わずに進むと、たまに苺をつむひとの鄙びた姿を見るだけが例外だった。
私達は自分がどこにいるのかわからなかった。しかし、いつでも高い土地から渓谷に降りられるし、そこで川の流れにぶつかることがわかっていたから道に迷うことはなかった。遅かれ早かれ、どの流れも川にそそぎこむし、川があることは町があることを意味する。
夜は、小さな宿泊所やガストホーフ.ホテルに足をとめた。そうした宿泊所のいくつかは文明から隔絶していて、宿泊所の管理人はマルクが急速に無価値なものにまっていることを知らないので今でも旧ドイツの値段で料金をとっている。ある場所では、部屋と食事がカナダの紙幣の価値で1日10セントにならなかった。
ある日、私達はトリベルクから出発して長くてゆるやかな斜面になっている丘の道をうねうねと登ってゆくと、やがて高地の頂きに出て、そこからは四方八方に黒い森が広がっているのを見わたすことができた。はるか彼方に、丘の連なりが見えたがその麓に川が流れているのにちがいないと見当をつけた。私達は、木もはえていない高地を横断して、谷をおり、暑い8月の日ざかりの寺院のように冷え冷えとしてほのぐらい木立を歩いた。
やがて、私達が見た丘の麓に出ると谷の一番高い端に出た。
谷には、美しい鱒の川が流れて、あたりには農家もみあたらなかった。私が竿をつないでいるあいだに、ミセス.ヘミングウェイは丘の斜面の木の下にすわって谷の上流、下流に眼を配り、私は本当の鱒を4匹釣った。
それぞれが平均4分の3ポンドはあった。やがて私達は谷に降りて行った。川の流れの幅が広くなって、私がいい釣り場を見つけているあいだに彼女も竿をとった。
妻は1時間に6匹も釣って、そのうち2匹は私がそばに寄って網に入れてやった。彼女が大きいやつを釣って、それが威風堂々と網にかかったあとで眼をあげると農夫の服装をしたドイツ人の老人が道路から私達を見ていた。「やあ」私はいった。
「やあ」彼がいった。「うまく釣れたかね?」
「ああ。とてもすごいんだ」
「よかった」彼がいった。「魚を釣る人がいてよかった」そして道路を歩いて行った。
この老人と対照的だったのは、コーベル.プレフタルの農夫で、私達は魚釣りの許可は全部うけていたのだが、川に下りてきて熊手で私達を川から追い払った。それも私達が他国者だからという理由だった。
1923年
1923年にヘミングウェイが 『ヨーロッパの鱒釣り』 シリーズの中で書いたエッセイです。
ドイツでは巨額の戦争賠償金の支払いで経済が安定せずに、すさまじいインフレ状態、アメリカは連合国に物資を供給して膨大な利益を収めたという時代背景があります。
『ドイツでいちばんむずかしいのは魚漁りの許可を得ることである。釣り場は全部年ぎめで個人が借りる。諸君が魚を釣ろうと思ったら、まず、釣り場を借りた人の許可を得なければならない。それからその土地の役所にもどって許可をもらい。さらに、地主の許可をもらうのである』
こんなことも書いてあります。
本題からそれました。私は『黒い森』が気になっていたのです。この森は150年程前に植林された人工林でライン川に沿って南北に160キロ東西に60キロに」広がるマツやモミ、トウヒの森です。森全体が遠くから見るとくろぐろと見えるからそう言われています。
1960年代から70年代にかけて産業公害で一時森の50%が被害を受けました。いわゆる酸性雨の影響です。そこで『針葉樹だけでは多様性がなくなる広葉樹が必要だ』と言う意見が出てきました。森の保護を訴えるキャンペーンが行われ被害を受けた針葉樹の後に広葉樹を植えるようになりました。
今日のシュバルツバルト周辺の植林は8割が広葉樹です。
少しずつ再生しているようです。と同時に『農家民宿』が盛んで自然の中で長期に滞在するバカンスが盛んになっているのも経済的に後押ししているようです。ドイツの歴史そのものが森林伐採と密接に関係しています。森を育てる事が国家にとってたいへん重要なことは長い間に渡って引き継がれたのでしょう。
ドイツの林学の技術は日本も明治以降多く学んでいます。
さてヘミングウェイさんは今から80年ほど前にこの森で鱒釣りをして奥さんと楽しんでいます。
単純に考えると150年ほど前に植林された森ですから樹齢70年ほどの森の中でということになります。
第一次世界大戦後で森林の被害はなかったのでしょうか。「木も生えていない高地を横断」の表現から影響があったと推測するのが妥当でしょう。広大な森が貴族の私有地で厳格に管理されていたからそんなに森は荒れていなかった。まだまだ重工業化の前で溢れる自然に満ちていた。と考えるべきでしょうか。
それにしても私達人間は古代から世界中に大きなモニュメントを作っていますが、この『黒い森』は世界最大級のモニュメントではないでしょうか。
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