1957年マレーシア生まれ。
20歳の時に台湾に渡り、大学卒業後、85年から脚本家として活躍を始める。
テレビドラマの演出などを経験した後、92年『青春神話』を発表、映画監督デビューをはたす。
『青春神話』で国内外の評価を得た後、94年に発表した第2作『愛情萬歳』でベネチア映画祭金獅子賞を受賞。
その後、『河』『洞』と、順調に作品を発表している。
出演者:リー・カーション、チュン・チャオロン、ワン・ユーウェン
私は変に几帳面なところがあって、昨年(1998年)『河』が東京で劇場公開されたとき、「やっぱり『河』を観る前に、未見の『青春神話』と『愛情萬歳』を観ておこう。なにしろツァイ・ミンリャンには全部で4作しかないんだから」と決心した。
ところが、探せど探せど『青春神話』と『愛情萬歳』のビデオが見つからない。そして、『青春神話』はまだビデオ化されてないのだ、という事実を知ったとき、『河』はすでに劇場公開を終えてしまっていた(笑)。
これからは、観られるものから観ておくことにしよう。
今回NHK・BSで放映されたおかげで、昨年の台湾映画祭でも見逃した『青春神話』をやっと観ることができた。なんだか、積年の想い人に巡り会ったような気持ちである。
台湾映画は、「水分が多い」映画が多い。それは「みずみずしい」だったり、「じめじめしてる」と感じたり、「湿気が多い」と思ったり、「溺れそう」になったり、まあ作品によって現われ方も違えば表現のされ方もさまざまなわけだけれど、この『青春神話』もまた、例外ではない。
「水気の多さ」は、そのまま人物の感情への寄り添い方の姿勢でもある。カメラが、ひっそりと、しかしひたひたと、すぐそばに寄り添って見つめている――水のように。そんな感じがする。
ところが、この映画は、「湿度が高い」のに「重くない」のである。それは、監督がマレーシア生まれの<華僑>だったからだろうか。急激なバブルに浮かれる台北で、自分を持て余す若者たちの鬱屈と孤独を描いているのだが、その若者たちを見つめる視線がとてもリアルだ。思い入れるでもなく突き放すでもない。揶揄するでもなく批判するでもない。ただ見つめる。
「ただ見つめる」ことから生じるリアリズムが、こんなに心地よく、こんなに軽やかだとは知らなかった。台北の若者の鬱屈が、東京のオバサンの胸に響くのは、なぜ? それはたぶん、<ニンゲン>とはかくも弱いものだということを、ちゃんと描いているからだろう。
主人公の小康(リー・カーション)は、あきれるほどになにもしない。「目的のためには」だ。「目的」がないのだから。でも、人生の目的なんて、そんなにかんたんに見つかるようなものでもない。たぶん、深く考えれば考えるほど、見つかりにくいだろう。そんな風な、なんだかわからない<混沌>に耐えながら、ニンゲンはちょっとずつ歩いていくのだ。
ラスト、テレクラで鳴り続ける電話を前に、小康はどうしたのだろうか。電話に出たのか、それとも、これまで通りなにもしないで、ただ状況を見つめるだけなのだろうか。
それを見せることなく、映画は終わる。
ゲームセンター、テレクラ、ラブホテルなど、空間のディテールがよく描かれていて、この映画のリアリズムに拍車をかけている。
『愛情萬歳』(1994年)
出演者:リー・カーション、ヤン・メイクイ、チェン・チャオロン
この映画は、いろんな意味で『青春神話』より洗練されているが、スタイルという意味では『青春神話』を継承していて、私的にはさほど「すごいなあ」とは思わないのだけれど(笑)。ちょうど、ウォン・カーウァイでいうところの『恋する惑星』に対する『天使の涙』を思い出させる。
おもしろいと思ったのは、主要な3人の人物のうち、2人の職業。リー・カーションがロッカー式納骨堂のセールスマンで、ヤン・メイクイが不動産会社のOL。これは、生きてるうちも死んでからも、「安息の場所」を求めるのね、<ニンゲン>ってやつは……という暗喩と、私は見た。
この納骨堂のセールスマンと、不動産会社のOLと、露天商の青年という、なんのつながりもない3人が、ふとしたことから、高級マンションの一室(これは、不動産会社のOLが営業を受け持つ商品のひとつだ)ですれ違い、接触する。
共感するでもなく、反発するでもない、ただ、肉体的なつながりでなにかを確かめようとするのが、さらにお互いの「孤独感」を高めてしまうという彼らのつながり方は、ある意味でとても貧しい。「こんなしけた映画はイヤだ。映画はやっぱり、人間の感情だって豊かであってほしい」という方には、耐えられない映画かもしれない(笑)。
でもね、この貧しさに、私はやっぱり今の時代に「映画」が伝えうる「なにか」を感じるのだ。現代の抱える貧しさを認識しないと、豊かさは見えてこない。作られたゴージャス、うそっぱちの共感は、なんだかもういいや、と思うのである。
セリフも音楽もほとんどない、とぎすまされた空気感は『青春神話』以上で、思わず息を呑む。
ただ、最後にOLが号泣するシーンは、ちょっとうそっぽい。「号泣する」ことはいうまでもなく<演技性>の高い行為で、ニンゲンは泣きながら自分に酔い、その酔いが醒めたとき、いったいどうやって泣きやもうかと涙の陰で考えてしまう生き物だ。この映画のラストでOLが感じている<空疎>は、「演技性」とは対極のもの――じつに「生々しく冷めた」感情だと私は思うのだけれど、そういうとき、はたしてニンゲンは号泣するだろうか。さめざめと……しみじみと……じくじくと……そういう涙なら、まだあるかもしれないけれど。
次はいよいよ『河』だ。中華圏映画に詳しい友人いわく「耐えがたきリアリズム」(笑)とは、いったいどういうものなんだろうか……でもその前に、『河』はちゃんとビデオ化されるのかしらん。
こんな心配をしなくてはならないのが、ちょっと哀しい(もとはといえば、劇場公開時に観なかった私が悪いのだけれど)。
出演者:ヤン・クイメイ、リー・カンション、ミャオ・ティエン
「オ!カリプソ...オ!カリプソ」と50年代の大スター、グレース・チャンが歌う『カリプソ』に乗って、ヤン・クイメイがセクシーに踊る。これは楽しいミュージカルか、と思いきや、やっぱり蔡明亮映画だった、という不思議な映画。
「水」が重要なファクターである蔡明亮映画の中でも、たぶん、これ以上水浸しにしようとしたら、あとはもう洪水映画しかなかろう、と思われるほど、水、水、水、である。
大体、雨漏りそのものをモチーフにして映画を作るなんてことが信じられないのに、大雨に閉じこめられたマンションの床にある日「穴があく」という非現実を、リアルな映画空間の中で起こしてしまう発想もすごい。この映画は、感情移入がまったくできない状況を創り上げながら、その中で人間がとる行動にはどこか奇妙な説得力がある。もし床に穴があいたら、私だってきっと穴の中に足を突っ込んでみると思う。ひどい雨漏りで壁紙が汚れてしまったら、たぶんヒステリーを起こして部屋中の壁紙を引っ剥がしにかかると思う。そうそう、切らしてしまった調味料があったら、どんなにひどい雨でも、風雨をついて市場に買い物に出かけると思う。自分でもうまく説明のできないことを、自分でも気づかないうちにしていることなど、しょっちゅうある。
それだから、今まで壁紙をはがしていたクイメイが突然深いスリットの入ったドレスで唄い始めても、穴の中にゲロを吐いていたリー・カンションが突然リーゼントで踊り始めても、ある日突然、人間がゴキブリになる奇病が流行っても、全然不自然だと思わない。
これは、現実と非現実の垣根など、映画にとっても人生にとっても、初めから関係ないんだよん、という映画なのだ。所詮、ふたつの違いなんて、マンションの床にあいた「穴」のようなもの……足を突っ込んでしまえば「こっちのもの」なのだ。
この映画の台湾語原題は『洞』なのだが、「穴」というよりは「洞」の方が、よりリアルなイメージを与えてくれる。なにが潜んでいるのだかよくわからないけれど、覗かずにいられない「洞」の中。私たちは、毎日なんらかの「洞」を覗きながら、ときには手を突っ込んだり、ときには足を差し入れたりしながら生きているのだ。そして、いつか「洞」から手が延びてきて自分をここから連れだしてくれることを、想像したりなんかしていたりして。
これほど素直でわかりやすい映画があるだろうか。とりあえず、蔡映画の楽しい転換点として、いろんな方にお勧めできる作品であることがうれしい。
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