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ずいぶん長い間、私にとってバレエとは「レニングラード・バレエ団」であり、ソ連とは「アラベスク」だった。それくらい若かりし私にとって影響力のある作品だったのが、この『アラベスク』である。
久しぶりに読み返してみて強く思ったことは、このマンガが多くの人に愛され、読み継がれている理由は、ひとえに主人公のノンナ・ペトロワのキャラクターによるのだろう、ということだ。
地方の一バレエ教室の生徒が、思いがけない僥倖によってレニングラード・バレエ学校に中途入学し、そこでまたもや大抜擢を受けて、プリマとして大舞台に立つ。
これは、構造的にはまぎれもないサクセスストーリーなのだが、山岸凉子は、ノンナ・ペトロワを、少しコンプレックスを持ち、自分を過少評価し、しかし素直でどこかひたむきな、主役になるよりは愛する男を選ぶという上昇指向の低い主人公に設定することによって、ひとりの少女の<自分探し>の物語として結実させた。
この作品の巧みなところは、ノンナの成功への過程と、ユーリ・ミロノフへの愛に自ら気づいていく過程とをリンクさせたことだと思う。だから読者は、ノンナのユーリへの思いに感情移入しながら、サクセスストーリーを自然に受け入れることができるのだ。
ノンナ・ペトロワの……すれすれのところで卑屈さに堕しない清純さの……なんと美しいことだろう。自分をバレエの世界に導いてくれる恩師であり、恋する相手としてのひとりの男──ユーリ・ミロノフ──の心を、ときにはおずおずと、そしてときには大胆にうかがい、受け入れる姿の、なんと清澄なことだろう。
どんなに才能あふれる美しいライバルが現れようとも、ノンナは、自分の中の澄み切った思いだけを頼りに、ひたむきにユーリの背中を追い、自分を探し続けた。それが、彼女を成功へと導いていくのである。
これは、永遠なる「少女の憧れ」を体現した物語だ。ほんとの幸せとはなにかを考えさせてくれるマンガだ。ぜひ、未来の少女たちにも読んでほしい。
上のセリフは、実家が遠いためにクリスマス休みに帰れなかったノンナを、ユーリが「踊ろうか」と誘ったときのノンナの呟き。いつもとちがう<先生>に異性を感じながら踊る心の揺れがいじらしい。
踊りながらふたりで新年の夜明けを迎えるこのシーンは、第1部の中で最も好きなシーンだ。
しかし、どう読んでもノンナだけを愛しているとしか思えないユーリ・ミロノフの第1部ラストのセリフは、あまりにも……隔靴掻痒の感を抱かざるを得ない。
「気づかないかい? ノンナ。ここにきみを一番ライバル視している人間のいることをさ」って……あんたね、最後に一回ぐらい「好きだ」っていったって、バチはあたらないと思うんですけど。
まあそれは、第2部のお楽しみ、ということで。
でも、こういう男って、現実ではモテないんだろうな。
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う〜む、なんというか。
愛するとは、芸術とは、なんと険しい山を登る行為に似ていることだろう……と思わず嘆息をもらしそうになるほど、パワー全開の作品だ。
なんといっても、苦悩するノンナのなやましいこと! 少女マンガとはいえ(いくぶん幼いキャラクターが好まれる分野でもあるし)、これほど匂い立つような女への羽化を感じるヒロインは、そう多くないのではなかろうか。
ノンナに関わり、彼女の変貌に多大な影響を与える人物はふたり。男性舞踊家のエドゥアルド・ルキン(エーディク)とピアニストのカリン・ルービツだ。
エーディクは、当然のことながら、ユーリの対極に立つ人物として描かれる。<正統>としてのユーリと<異端>としてのエーディク。そして、<モラリスト>と<インモラリスト>……。
くらもちふさこの『おしゃべり階段』のところでも書いたけれど、人が恋を知り、おとなになるために必ず踏み越えなくてはいけないのは、じつは<モラル>ではなく<インモラル>なのである。ユーリの<モラル>の前では<女>になりきれなかったノンナが、エーディクの<インモラル>の前に自らの<女>を自覚し、開花する。異国の空港で、人生を共にしようと心に誓ったエーディクを捨ててユーリを選ぶ瞬間のノンナは、ほのかに<インモラル>を漂わせながらも、切なく、美しい。
しかし、「一生ユーリについていこう」と決めたノンナの前には、さらにもっと大きな壁が立ちはだかる。それは「限界です。女性の叙情性を教えることだけはできません。わたしは……男だから」とついにユーリも匙を投げた、女性舞踊家としてのアイデンティティーの獲得だった。
カリンというアル中で深情けの同性愛者が、ノンナにそれを授けるという設定は、非常に示唆に富んでいておもしろい。
バレエにかぎらず、芸術全般というものは──察するに──必ずしも一般的とはいえない感覚を必要とする場合がある。それはいってみれば一種の<体内麻薬>みたいなもので……もちろん、実際にトリップしてしまってはまずいのだけれど……一時的なトリップ状態を人工的に創り出すために、インモラルな精神状態に自分をおかねばならないのである。
ユーリの影響で<モラル>へのこだわりが強く、そうした自己陶酔が苦手なノンナの、いわば<体外麻薬>の役割を果たしているのがカリンである。カリンの持つ<毒>がノンナをより純化していく過程は、サイコ・サスペンス顔負けの迫力で、まさに『アラベスク』の圧巻だ。
カリンの性的でインモラルなキャラクターは、あきらかにこれ以後ひんぱんに山岸作品に登場するキャラクターの原型である。たぶん山岸凉子は、このときなにか、自分の中にある「見えざる神」のような存在をつかんだのだろう。
上のセリフは、大団円の直前、おそらくこの物語でユーリがノンナに向かって告白したと思われる唯一の愛のことば。ほんとに崩れない人だ、ユーリは。しかも最後は、身を挺してノンナを守ってしまう(そして生き残る)のだから、やっぱり男の中の男なのである。
しかし、女性のほとんどは、お茶目で孤独で風のようなエーディクのほうに惹かれるのではないだろうか。少なくとも私はそうかな。
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山岸版『風の又三郎』といった趣の、愛すべき作品。
このマンガの又三郎役=蘇我要もまた、転校生だ。しかも転校先は素朴な小学校ではなく、受験勉強漬けになって、首も頭もコチコチに凝ってしまった老人のような高校生たちが生息する受験校である。
でも彼は、<又三郎>と同じように「自然の精霊」を感じさせるキャラクターを持ちつつ、さらに強烈な影響力で、しかし、決して目には見えない方法で、周囲の友だちの意識を改革し、変容(=metamorphosis
メタモルフォシス)させていく。
山岸凉子が神話に材を取った作品を精力的に量産し始めたころのマンガで、さまざまな啓示や箴言に満ちた教訓話である。彼女はじつにたくさんの教訓話を描いているが、どれも押しつけがましさがなく、とても心地いいのが特徴だ。
しかし、蘇我要が他の友人とちがうことにいち早く気づき、そうやすやすとはメタモルフォシスされることのない新田忍という男生徒を配したことで、ただの正面切った教訓ではなく、人間の中の屈折した思いの存在をもキチンと描いている。
ところで、あなたにも同じような思い出がないだろうか。ある場所や集まりで偶然出会って、けっこう気が合って、好きな本とか音楽の話をしたりして、少なからず影響も受けたりして、でも、その人についてのくわしい事情なんか全然知らなくて、ある日突然、その場所に来なくなってしまったために、それ以後二度と会うことのなかった人……そういう人の思い出が。
では、あれはいったいなんだったんだろう、と考えてみたことは? そう、それは<風の又三郎>であり、<蘇我要>だったんですね。
思い出が生き続けるかぎり、その人は「ずっとあなたといっしょ」にいるのだ。
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私は最近、持っていると思い込んでいた『妖精王』が、自分の本棚にないことに気づいた。「そうか、あれは友だちに借りて読んだんだった」と思い出し、文庫版を買って読み始めたら、読んだという記憶すらまちがいだったことに気づいた。
どこでどう混乱したのだろう。ほんとに、人間の記憶ほどあてにならないものはない。
でも、いまこの年齢になってはじめて『妖精王』を読んだことは、正解だったかもしれない。なぜなら、もっと若いときに読んでいたら、むしろ「妖精学」の衒学的な魅力のほうに引かれて、このマンガのほんとのおもしろさまで到達できなかったかもしれない、と、ふと思ったからだ。
『妖精王』の解説としては、文庫版第1巻の巻末で中沢新一さんが的を得たことを書いていらっしゃるので、それを少し引用させてもらうことにする。
「『妖精王』の舞台には、北海道が選ばれている。これは、作者の個人的な趣味とかの問題をこえて、深い文化的な意味を持っている。
問題は地名なのである。北海道の地名は、いまでは漢字で表記されているけれど、そのほとんどが、もともとはアイヌの伝統的な地名をもとにしている。だから漢字で書かれた地名を、声に出して発音してみると、その音を通して、古いアイヌの地名の音感が、いまでも聞き取られる。
そうすると、北海道という空間を生きている人々は、いつも二重の世界を、同時に生きているということになるのだ」 (『妖精王』文庫版第1巻 巻末解説より)
アイヌのことばを漢字に置き換えるという行為が、北海道という土地に、<文字>と<音>という二重の世界を与えた。そのこと、つまり「すでにあるものごとを、別のなにかに仮託すると、そこにもうひとつの世界が立ち上がってくること」が、この物語の主人公、爵(ジャック)に、ニンフィディアの扉を開き、パラレルワールドを行き来できる力を与えた、というのだ。
こうしたパラレル性というのは、<言霊>という概念を持つ日本語にはむかしからあった考え方で、近代以降では、泉鏡花の小説などに、ことばを文字にすることで立ち現れる<異次元>への深い共感が見られる。
でも、じつはもっとずっとかんたんなことなのではないだろうか。たとえば幼いころ、なんの変哲もない近所の道に、自分だけの名前をつけなかっただろうか。私には覚えがある。自宅の裏の山は「カンチェンジュンガ」であり、通学路には「ラスコーリニコフの道」があり、すこし遠くの草むらの中には「嵐が丘」の館が建っていて、小学校の屋上からははるかノーフォークの「ウィンダミア湖」が臨まれた。
もちろん全部、仮託にすぎない。でも、そうすることで、私はたぶん、なにか別の世界の扉に手をかけていたのだと思う。
そう考えると、<月影の窓>が<向こう>への入り口になっていることも、すんなりと納得できるだろう。窓に当たった月の光が、向かいの壁にくっきりと映し出す<影>。それは、ごくふつうの窓に与えられた、もうひとつの意味なのだから。
その気になりさえすればいい。妖精の棲む世界は、すぐそこにある。爵(ジャック)とは、かつての私であり、あなたであり、すべての子どもたちなのだ。
すでに引き返しようもなく、現実に生きている<おとな>だからこそ、『妖精王』の特質──それを、中沢新一さんは「少女マンガ」の本質についてのマンガ、メタマンガだと呼んでいる──を理解し、楽しむことができたのだと、私は思っている。
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歴史上の偉人としてではなく、1万円札の人として<聖徳太子>の名を記憶にとどめるのは、わたしの年代以上の人かもしれない。
教師ではなく、母親の口から伝え聞いた「20人の話が一度に聞き分けられた」「8つのことが同時にできた」などという、とても本当とは思えないような逸話で彩られた私の<聖徳太子>像。こうしたとてつもない話に比べれば、彼がじつは同性愛者だった、という設定の、なんと人間らしく、可愛らしいことか。
近親結婚によって濃密ジュースのようになってしまっていただろう、古代の貴人たちの<純血>のなかにあって、むしろ、生殖に直結する男女の交わりを嫌う同性愛者の<聖徳太子>(厩戸王子)像は、私にはさわやかですらあった。
でも、問題は……「どうして彼は天皇にならなかったのだろう」という私の疑問が、『日出処の天子』を読むにしたがって、ますます深まっていったことかもしれない。
厩戸王子(以下、王子と略)は、いったいなにをしたかったんだろう。自分の持てる才能を使ってすべての権力を集め、国を支配したかったようには見えない。王子の父親は用明天皇だったのだから、いずれは彼自身が天皇の位につくことは、そんなに困難なことではなかったはずだ。しかし、自分は帝になることなく、推古女帝を傀儡に立て、裏で実権をにぎる黒幕に徹した。
「実権をにぎる」ことこそ彼の本望だったのかもしれない。天皇は当時、豪族の財力に頼った<繰り人形>と堕していたから、天皇になったところで、実権はにぎれない確率は高かったかもしれない。
しかし、<裏の黒幕>となれるのは自分であって、自分の子孫に同じ将来が約束されるわけではないのだ。なぜなら、<裏の黒幕>は、確固たる<地位>ではないのだから。一生皇位継承権のついてまわる人間が、その地位を自分のものにせず、あくまで<裏の黒幕>であるためには、数多くの人間の心を読み、動かすだけの才覚を要したはずである。
王子本人にはそれができたとしても、彼の子孫にそれができるとはかぎらない。そして結局、歴史上では、厩戸王子の一族は、王子の死後、蘇我氏によって滅ぼされたことになっている。
英知に満ちていたはずの王子が、いずれ一族を滅亡に導くような行動を、自ら進んで取ったとは考えにくい。
この『日出処の天子』でも、王子はつねに冷静に状況を読み、判断を下す人物として描かれていて、蘇我毛人(えみし)への強い愛ゆえに、蘇我氏に有利な政情をつくりあげたという風には描かれていない。ただ、自分の内に巣くうあまりの<業>の深さをコントロールするために、毛人はなくてはならないパートナーだったのだとしているだけだ。
この<業>の深さこそが、山岸凉子の描きたかったことなのだろうと私は思う。そして、複雑な構造を持つ<朝廷>という組織が、その<業>をさらに増大させた悪霊の温床のようなものだったのではないか、と。
浅慮の人物なら、抱え持つ<業>も浅かっただろう。しかし、王子は大変な才能と英知の持ち主だった。バカなやつらにまかせておいては、おそらく、国そのものの存亡すらあぶないことに、王子はいつも心を痛めていたのではないのだろうか。そうでなければ、とっくのむかしに自ら天皇となり、凡百のひとりとしての人生を送ったにちがいない。
上のセリフは、父、用明天皇が天に召される瞬間を見守る王子のセリフ。父が元気で位にいてくれさえすれば、自分は黒子に徹して存分に能力を発揮し、手を血で汚さずにすむものを。
天才の壮絶な人生を暗示するこのセリフに、王子の<業>の深さが読み取れる。
授かった<英知>が、一族の繁栄を妨げる。もしかしたら王子は、そのことをだれよりもよく知っていたのかもしれない。それをふまえると、「日出処の天子」が自分の血を残すことをおそれる同性愛者であったことも、もの狂いの女に自分の子を産ませることで、ある種血を汚したがったことも、大変な説得力をもってくる。
……と、そんな読み方も可能なのが、『日出処の天子』なのである。
が、そうしたすべての思惑をどこかへ捨ててしまったとしても、なおこの作品はおもしろい。それは、このマンガが、<歴史>に、というよりは、<人間>へのつきせぬ興味と愛情にあふれているからだろう。
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山岸凉子ほど、劇的に変化しつつ強烈な作家生命を保ってきた少女マンガ家は、ほかにはいないのではないだろか。
わたしは、ほぼデビューと同時に彼女のファンになり、『アラベスク』を経て『日出処の天子』を見届け、その後彼女から離れた。それは、『日出処……』以後の、神話や古典やおとぎ話に材をとった数多くの短編作品が、まるで熟練した短編小説家の作品のような枯淡の味わいをさえ感じさせて、劇的変化を見続けてきた私の目には「もういいだろう」と思わせる安定期を迎えたかように思えたからだ。
ところが先日、なんとなく目に入ってきた『ツタンカーメン』の表紙から目が放せなくなって買い込み、ン十年ぶりに彼女の作品を読んで、完全に山岸熱が復活してしまった。
現在、入手できるかぎりの彼女の単行本を求めて書店漁りを始めさせるほど、『ツタンカーメン』はおもしろかったのだ。
ふっくらした顔、星の入った瞳……典型的な<少女もの>マンガでスタートした山岸凉子は、やがて、自分の中の幻想資質・恐怖資質に気づいたかのごとく、その<絵>を劇的に変えていく。70年代の街角でふと立ち読みした「りぼん」……そこに『雨とコスモス』(注1)を発見したときのショックを、わたしはいまも忘れることができない。
当時としては少女マンガの未到の世界だったサイコ・サスペンスを描くために、山岸凉子は、短期間のうちに、それまでとはまったくちがう画風を手に入れていた。描線は鋭く、硬く、人物の顔には、猛々しい獣のような、異様なほどの深い影があった。
その後、同性愛ものや恐怖マンガに挑戦するとともに、クラシックバレエというひとつの世界を紹介しながら、主人公の<自分探し>の道程を描いた『アラベスク』で、その作風はとりあえずひとつの完成を見たけれど、山岸凉子の変容は、描線の柔らかさを獲得し、魂の入らない瞳を描くことによって、独自の恐怖世界を構築しつつさらに続くことになる。
『ツタンカーメン』は、その描線の硬さはいうまでもなく、ひとつの世界への深い探求心、未到のものへの憧れや畏れ、そして主人公の<自分探し>というテーマにおいて、まさに『アラベスク』の再来だといっていいと思う。
ツタンカーメンの王墓発掘にかかわり、人生を左右された人々の生の<営み>を追う骨太のストーリーテリング。その中で主人公が見せるつつしみ深い愛情と、自分を信じようとする強い気持ち。
これはまさに、ユーリ・ミロノフの側から描いた『アラベスク』だ。
もしかしたら私は、繊細で先端的な感性によって作品が生み出される現在の少女マンガ界では、逆に異端かもしれないこの場所に、山岸凉子が再び戻ってきたこと……そのことに感動してしまったのかもしれない。
山岸凉子は、長い旅を経て、その始まりに回帰した。わたしにはそう思えてならない。
★注1……『雨とコスモス』(1971年)は、単行本未収録の名作。集英社による文庫化を切に望む。
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