游津藤梅記3「白舞陽 樹下に鉄笛の音を聴く。」
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 数日が経った。
水練指導が再開されたが、白軍の中には重い空気がいまだに残っていた。
海賊に対する怒りは強くくすぶっている。
しかし、たかが賊だと思っていた相手のあまりの手際良さに愕然としたのと、あの「赤い景色」が脳裏に焼き付いてしまっていた。
 舞陽自身もまた、あのときの衝撃から完全に立ち直ることができずにいる。
けれど時は彼女の都合などお構い無しに過ぎていき、片付けねばならない仕事も後から後から湧いて出る。
仕事に忙殺されることによってかえって救われている部分も、正直あった。
 「なんだ、明槐は今日も来ていないのか?」
太陽が天頂近くに昇りつめる頃事務所に戻ってきた舞陽は、今やすっかり見慣れているはずの担当官吏の姿が無いことに気づき、眉根を寄せた。
「はい。なんでも、別の仕事も抱えているとかで。顔を出しても半刻(約一時間)ほどで帰ってしまいます。」
同じく先に戻って書類に目を通していた安石が答える。舞陽は小さく嘆息した。
「そろそろ米が尽きそうだと、糧秣係が言ってきた。代金はこちらが出すとしても、手配だけはしてもらわねばならんというのに。」
「では、私が政庁に参りましょう。そこでなら捕まえられるはずですから。」
「……いや、私が行こう。」
安石の申し出を、舞陽はしばしの考えた後断った。
「ついでに二・三用事を片付けてくる。留守を頼むぞ。」
「今からおいでになるのですか?」
「急ぎの用事が混じっているのでな。」
言い残すと、舞陽は書類を何枚か用意して、事務所を後にした。


 舞陽が游津政庁を訪れるのは、三度目だ。 最初は約三ヶ月前、游津に到着してすぐ太守に謁見したとき。二度目はその数日後、いろいろと事務手続き等を行うために訪ねた。それ以来ということになる。
 馬丁に馬を預け、玄関をくぐる。入り口で用件を伝えると、案内が付いていつぞやの待合室に通された。だが、いつまで経っても明槐は来ない。
(客を待たせるとは。それとも、そんなに「別の仕事」とやらが立て込んでいるのか…。)
彼の性格はおおむね把握していたので、ある程度待たされるだろうなとは覚悟していたが。それにしても遅すぎるような気がする。
(そういえば。あの時も散々待たされたんだったな…。)
いいかげんうんざりしかけた頃だった。
 廊下を近づいてくる声がある。声は二種類で、どちらも明槐のものではない。高さと響き具合から、二・三十代の男性二人のようだった。
彼らは室内に誰か居るとは思ってもいないらしく、少しも音量を下げようとしない。
わずかに顔をしかめた舞陽の耳に、聞き慣れた単語が飛び込んできたのは、そのときだった。
 「………しかし、泰寧様もお気の毒だね。いくら長男の出来が良くても、次男があれでは……。絵に描いたような賢兄愚弟だものなぁ。」
「ああ、それについては同感だね。おれは泰寧様を尊敬しているし、慈貝殿にも一目置いているが。
明槐といったか。あいつだけはどうにも好きになれん。」
「父兄があれほどの御仁だというのに。次男坊が一人でお二人の功績を帳消しにしているような気がしてならん。俺はもう泰寧様が気の毒で気の毒で……。」
「でも、次男のほうもさすがに自覚はあるらしいぜ? 登用試験に受かるや否や、すぐに家を出たらしいからな。」
「本当か? 『勘当された』の間違いじゃないのか?」
「さぁねぇ。でも噂に聞いたところによると、庁内の廊下ですれ違っても、挨拶しないらしいぜ、泰寧様は。
愚弟のほうも一応表面上は礼を執るらしいけど、一言も口利かないんだってさ。
この前、鴻楽がたまたまその場に居合わせたらしいんだが。空気がピリピリしていて、その後しばらく泰寧様に話しかけられなかったって言ってたぜ。」
「それでまだここに勤めているのか。面の皮の厚いガキだな。おれだったらさっさと許しを乞うか、あるいは余所に仕官口を探すけどね…。」
「なんたって、口ばかり達者で、生意気なことこの上ない。いつぞやもそれ、上司を丸め込んで橋を掛けさせたっていうじゃないか。
普通するか? 仕官一年そこそこでそんなこと。」
「それこそ、『馬鹿』の証拠だろ?」
「全くだ。…そう言えばあの愚弟、今は中央から来た軍隊の世話役をしてるんだってな。
ドサクサにまぎれて海賊どもが始末してくれりゃあ、泰寧様や慈貝殿も万々歳だろうに……。」
 廊下を曲がって行ってしまったのか、次第に遠ざかる二人からそれ以上の会話を聞き取ることはできなかったが。
 舞陽の心中にはいつもとは違う色の雲がわきあがっていた。
 確かに、明槐は舞陽が苦手とする種類の人間だ。飄々としていて、何を考えているのか解らないときだって珍しくもない。
けれど、決して悪い人間でないことはよく解っていた。
 頼んだことは大抵二・三日、遅くても数日の間には実行してくれているし、約束を反故にしたこともない。
波長は合わないが、少なくともそれなりの評価をしていた。
だから、先ほどの話をにわかには信じられなかったし、また信じようという気も起きなかった。
ただ。知り合って三ヶ月も経つというのに、自分は明槐のことを存外知らないのだ、ということに気づかされた。
知っているのは、官吏になったは十三のときだということと、兄が一人居るだけで弟妹は無いということくらいか。
(そういえば。自分のことはほとんど話さないな……。)
舞陽の妹たちのことは、いいかげん鬱陶しいと思うほど気に掛けてくるというのに。どんな事情を抱えているのか知らないが、水臭い奴だ、と舞陽は思った。
(……『水臭い』? どうして私がそんなふうに思わねばならんのだ?)
己の感想に少しばかり嫌気がさしたとき。
 ようやく扉が開いた。が、入ってきたのは先ほどの案内人一人だけで、そこに明槐の姿は無かった。
「…申し訳ありません。李明槐は只今留守でして…。」
「留守?」
舞陽は眉根を寄せた。
仮にも官吏なのだし、庁内に自分専用の事務机を持っているという話を本人から聞いていたので、駐留村に居ないのであれば、てっきりこちらで仕事をしているのだとばかり思っていたのだが。
「いつ戻る?」
「さぁ…。何しろ、出ていくところを見た者もおりませんので。」
正しくは、舞陽が訪ねてくるまで「いないことに気付いた者が一人もいなかった」のだが、とその官吏はしばしの間の後付け加えた。
「……そうか。では、戻ったら駐留村に顔を出すよう伝えてくれ。」
そう言伝ると、舞陽は提出期限が迫っていた書類一枚をその官吏に預け、残りはそのまま持ち帰ることにした。
 窓の外では、蝉たちがその残り短い命を力の限り謳歌していた。


 さて。結局明槐と接触することができなかった舞陽は、もう一つの用事を済ませるべく、商店が軒を連ねる一角へと足を向けた。
 筆まめな舞陽は、ほぼ毎月、故郷北威にある実家の留守を頼んでいる伯父宛てに、近況報告も兼ねた信書(手紙)を送っていた。
仕事でも筆を取る機会が多いのだが、先日ちょっとした不注意で愛用の筆の軸を折ってしまったのである。
他の備品であれば明槐に注文して用意してもらうのだが。
(毎日使うものだからな。)
せっかく町に出たのだから、自身の手に馴染む品を自分の目で探してみよう、という気になったのである。
 文具を商う店はすぐに見つかった。「玉翠堂」と太く力強い文字が踊る看板が目に付く。
役所に近いからか、店構えも品数もなかなかのものだ。
「無いものは無いのではないか」と思えるほど実に豊富な品揃えで、墨、硯、文鎮などといった文具が所狭しと並べられている。
産地が書き添えられた商品も少なくないあたりが、游津が「交易の町」であることを示していた。
 そういえば墨の予備がもう無かったはずだ。
明槐に調達させるにしてもこの調子ではいつ捕まえられるかわからないし、なにより既に最後の一つに手をつけてしまっているから、ついでに一つだけ買っていこう。
そう思い、墨が陳列されている一角に足を向けようとしたとき。
 「坊ちゃん、いつまでこれを取り置き扱いにしておくんです?」
奥のほうで声がした。どうやら店員と店主の家族が話をしているらしい。商品棚の間から、彼らの姿が見えた。
「特にこの、李明槐さんていう人。買い物にはちょくちょくおみえになるのに、どうして二年も取りに来てくださらないのか。
今度みえたら、きちんとお話していただけませんか?」
 …今日はやたらと担当官吏の名を聞く日だ。偶然の出来事に少しばかり驚き、その気は無かったのだが、舞陽は何とはなしに彼らのやり取りに注意を向けた。
 「そんなこと言ったって。手付はもらっているんだから、今更陳列棚に戻すわけにはいかないだろう?」
返した声は、かなり若い男のものだった。おそらく舞陽と大差無い年齢だろう。
「それに、あいつは約束を破るようなことはしない奴だ。」
「とは言いましてもねぇ。値段が値段ですから…。」
…どうやら、二年前に高額商品の手付を払ったきり、まだ取りに来ていないらしい。
残りの金が用意できないのか、はたまた本当に忘れているのか。どちらにしろあの男なら可能性があるな、と舞陽は苦笑した。
「ともかく。今年中に買い取って頂けないようであれば、先に頂いた手付をお返しするなり……あ、いらっしゃいませ。」
 ようやくこちらの存在に気づいてくれたようだ。番頭らしき男が愛想笑いを浮かべている。
だが彼が近づいてくるより先に、もう一人――「坊ちゃん」と呼ばれていたほうだ――がやってきた。
こちらも商人特有の営業用の笑みを浮かべているが、番頭のものよりもずっと自然で嫌味が感じられない。
「いらっしゃいませ。何を差し上げましょう?」
「筆を見せてほしい。あと、墨を。」
「かしこまりました。」
予想通り、歳は十代半ばのようだ。面長で、気持ち垂れ目。決して美男子ではないが、人好きのする面差しである。
ただ、背がやたらと高い。舞陽が背伸びをしても届きそうにない天上近くの棚にさえ軽々と届きそうだ。
顔つきには卵ーの特徴が出ているが、やや褐色がかった肌を見るに、巍国南部に多い沽(こ)族の血も若干混じっているのかもしれない。
 「坊ちゃん」には商才があるように思えた。
珍しく筆にはちょっとばかりこだわりのある舞陽の細かい注文にも丁寧に応じてくれ、まるで彼女のために作られたかのような、すんなり手に馴染む品を見つけてくれた。
しかも、価格も手ごろ。
彼がここの後継ぎであるのなら、この店はきっと今以上に繁盛するだろう。墨のほうも、筆以上にあっさりと手ごろな品を用意してくれた。
 気持ちの良い店だ。よし、今度明槐に文具の補充を注文する際には、この店を指定してやろう。そう思い、ふと先ほど彼らがしていた会話を思い出した。
 「明槐も、ここにはよく来るのか?」
「明槐…官吏の李明槐のことですか?」
番頭が釣銭を用意するのを待っていた「坊ちゃん」が驚いて問い返した。
「そうだが?」
「……ああ、では今あいつが担当している中央の軍人さんというのは……。」
…どうやら、店の馴染み、というだけではなさそうだ。
肯定すると、「坊ちゃん」は先ほどの営業用のものとは異なる「本当の」笑みを浮かべ、陳呈安(ちん・ていあん)と名乗った。明槐とは友人で、もう七・八年の付き合いになるという。
「じつは。用事があって政庁まで出てきたのだが、留守だとかで会えなかった。駐留村のほうにも最近あまり寄りつかん。
何やら別件を抱えているようなのだが。こちらの都合もあるのでなんとか捕まえたい。
貴方なら、どこに行けば会えるかご存知なのではないか?」
「さぁ…。ここ最近お互いに忙しくてなかなか会えない上に、あいつはよほどしつこく訊きでもしない限り、自分のことは話しませんから…。
いや、秘密主義ってわけでもないんでしょうけど。特に話す必要の無いことだとでも思っているのかもしれません。」
腕組みをして呈安は答えた。本当に知らないようだ。
「そうか…。」
親友でも判らないというのなら、本当に仕事であちこち走り回っているのだろう。釣銭を受け取り、舞陽は呈安に別れを告げて踵を返した。
が、すぐに呼び止められた。
 「もしかしたら……あそこかもしれません。あそこは、あいつにとって特別な場所のようですから…。」
「あそこ?」
うなずいた呈安が示したのは、游津の町中からも臨める小高い丘だった。
町の南側、畑地のさらに向こうにある小山には、潮風に強い木々が必死に枝を伸ばして地面を見えなくさせている。
 しばし考えた後、舞陽は呈安に礼を述べると、改めて店を後にした。


 「おかえりなさいませ。」
駐屯村の事務所に戻ってみると、室内には二人の男が居た。片方は安石。そしてもう片方は。
「やぁ。」
……今まで散々探していた顔。
「今までどこに行っていた? 人を政庁にまで出向かせておいて留守とは。」
「え、庁舎に行ってきたの?」
「そうだ。急ぎの用事があったというのに、本職が来ないのでは私が出向くしかあるまい。」
椅子に腰掛けながら、舞陽は嘆息交じりにそう答えた。ふと、明槐の靴と膝あたりに、黒い土がわずかに付いているのが目に入った。
「…畑でも耕していたのか?」
「んー、まぁ似たようなものかな?」
肯定も否定もしない。先ほど聞いた呈安の話が舞陽の脳裏をよぎった。追求したところでいつものようにのらりくらりとかわされることだろう。
「先日の書類は今提出してきた。それと、そろそろ米が尽きそうなので手配をして欲しい。あと、墨ももう無いから買い足しておいてくれ。」
「はいはい。」
片手の指をたたみながらうなずいている明槐は、いつもと変わらないように見える。
「それから。」
ふ、と悪戯心が首をもたげた。
「なに?」
包みを開いてたった今購入してきたばかりの筆と墨を取りだし、しれっと言ってやる。
「玉翠堂に預けっぱにしになっている物を、さっさと引き取ってこい。」
最初は何の事だか判らなかったらしい。
が、次の瞬間明槐が浮かべた表情は、その後数日舞陽の思い出し笑いの種になった。

          ◆   ◆   ◆

 白軍が游津入りしてから、半年が経とうとしていた。
 あれから游津近辺には二度海賊の襲撃があったが、いずれも迎撃の際にそれなりの打撃を与えるのに成功している。
だがやはり海上にまで引かれると追いかけるすべも無く、根本的な解決には至らないでいた。
 それでも、「湊町」として栄えてきた游津の民は「余所者」に対して比較的寛容であるという一面もある。
「中央から来た軍隊」と「游津の民」の関係は、政治的なことが絡まない「個人同士の付き合い」であれば、以前よりもかなり改善されてきているのも事実であった。
 白軍の者たちも、游津の町に溶け込みつつある、そんなある日のこと。


 その日。舞陽と安石そして明槐の三人は、波止場に居た。彼らの目の前には、一隻の船が係留されている。
船体に塗られた朱は何度も塗り直されたのだろうか所によって色合いが微妙に異なっているし、フジツボ(貝の一種)がびっしり貼りついていて、「海にはてんで素人」である舞陽にすら一目でかなりの年代モノと判別できるような代物だった。
「……これが、私たちが使う船なのか?」
『弾む』という表現からは果てしなく程遠い口調で訪ねる舞陽に、明槐は短く「是(そうだ)」と答えた。
 彼の話によると、この船の名は「紅蛟(こうこう)」というらしい。蛟とは竜の下位種である生き物のことだ。
游津太守の許可を得て、白軍に貸し出されることになっていた軍船である。
その軍船がようやく彼らの前に用意された。その船を視察するために、三人は揃って湊を訪れたわけである。
 「…詰め込んでも五十人がせいぜいですな。」
冷静にそうつぶやいたのは、安石だ。
確かに、周囲に誇らしげに係留されている他の軍船に比べれば、年式だけでなく、圧倒的に見劣りする「小ささ」である。
海戦の経験がある男は、静かに船の中央にそびえ立つ帆柱を示した。
「うち、最低でも三人は操舵士や航海士など、非戦闘要員になります。
いくら兵の消耗がなくとも、操船士を失えば船は航行能力を失い、陸(おか)に戻れなくなりますから。」
船を操るためには、それ専門の技術が要求される。
舵取りだけでなく、風や潮の流れを的確に読みさらには星や太陽や月などの位置から現在位置を計る航海士も必要だし、どんな向きの風でも最大限に活用するために航海士の指示に従って帆の向きを細かく調整する人員も要る。
忘れてならないのが、その彼らを統括する「船長」。時と場合によっては「漕ぎ手」も必要になる。
漕ぎ手は著しく体力を消耗するので、できることなら戦闘要員とは別に用意するほうが望ましい、と安石は付け加えた。
そしてそういった「人的援助」のほうはというと。
「……確かに、そのあたりのことは書類に書いてなかったなー……。」
乾き笑いとともに明槐が力無く答える。
舞陽に胸倉を掴まれて怒鳴られるかと覚悟をしていたのだが、彼女のほうはそんなことをしても事態が改善されるわけでもないからと理解しているためか、はたまたそんな元気も湧いてこないのか、呆然と深い溜息をひとつ、ついただけだった。
 「ともかく。船は手に入ったのだ。一日でも早く海上訓練を始めたい。
安石は船に乗せる精鋭五十人を選抜し、明槐は操船士を確保してくれ。……雇い賃はこちらが出す。」
帰り道、そんな話をしながら駐留村へ足を向けた三人の目にその光景が飛び込んできたのは、倉庫が立ち並ぶ辻を曲がったところでだった。
 名のある商人が所有しているのか、そのひときわ大きな倉庫の前にはちょっとした広場が作られていた。荷馬車が同時に三台は停められそうな広さが確保されている。
その隅っこにちょっとした人だかりができていて、やんやと騒いでいる。
十人ほど集まっているそのほとんどは筋骨たくましいいわゆる「海の男」たちのようだが、その中にどう見てもその場に似つかわしく無い者の姿を見止めた途端、舞陽は思わず小さな悲鳴を上げていた。
「小耀ぉっ!!」
ぎょっとしたのは安石も明槐も同じだった。男たちの一人に耀の右腕が捕まれていたからである。
反射的に帯びていた剣の柄に手を伸ばした舞陽を、しかし止めたのは安石だった。
「ここで騒ぎを起こすのは、得策ではありません。」
「しかし!」
「ちょっと待って、様子が変だ。」
明槐の言葉に、舞陽と安石はその姿勢のまま耀のほうへと視線を戻した。 ――耀は笑っていた。
「………???」
 耀も、そして男たちも。舞陽たちの存在にはまだ気づいていないらしい。
彼らの中央には荷作り用の大きな木箱がひとつ置かれていて、耀とその腕をつかんでいる男はその箱を挟んで向かい合っているのだが。
 箱の上に載せていた二人の腕が片側にぱたりと倒れると、男たちから歓声が上がった。
「腕相撲……??」
ぽつりと明槐がつぶやく。なるほど、言われてみれば確かにそうだ。しかし、勝ったのは……。
 「おいおい。だらしねぇな、こんな子供に負けるなんてよ!」
「『游津一の怪力』が聞いて呆れるぜ!」
「う、うるせぇ! まぐれだまぐれ! 俺が負けるわけが…!」
「じゃあ、も一回やる?」
騒ぎ立てる大人たちとは対照的に、耀はけろりとした表情で右腕を肩から回してみせた。
「オレは構わないよ?」
「うぐぐぐ……!」
「よーし、じゃあ次は俺が相手だ!」
「いーや、俺だ、俺がやる!」
「誰でもいいよ、さっさとやろう……。」
そう言って腕まくりをしたときだった。耀の表情がひしり、と固まる。背中に感じるのは、殺気にも近い怒気……。
ぎぎぎ…、とまるで蝶番(ちょうつがい)が錆びついた扉のようにぎこちなく首を巡らせた少女の目に飛び込んできたのは。
「や、やぁ。」
浮かべた笑顔もかなりぎこちない。
「こんなところで会うなんて偶然だね、舞陽姉……。」
舞陽は何も言わない。その代わりというわけではないが、妹を見下す眼差しは、巍国一の厳しさを誇る馮州北威の冬よりもはるかに冷たかった。
ただならぬ雰囲気を察したのか、男たちが舞陽を取り囲む。
「なんだ、お前は。」
「この娘の保護者だ。」
短く答える。その有無を言わせぬ迫力は、屈強であるはずの海の男たちの反論を封じてしまったほどだ。
「…小玉はどうした?」
「あ……うん、小玉は嘉姉と一緒に居るよ。藩のおばさんが服を縫ってくれるんだって……。」
「そうか。では後で私もお礼に行かねばならんな。……で、お前は何故こんなところに居るのだ?」
「オレの採寸は昨日のうちに済んじゃっているから……。」
「そういうことではない!」
ぴしゃりと言葉を封じるあたりは、さすが嘉の姉だけのことはある。
と、雷は避けられないと悟った耀は、姉のさらに後方に見知った顔を二つ見つけた。姉の不意を突いて脇をすり抜けると、そのうちの一つの陰に飛びこんだ。
「明兄!」
「ええっ!?」
背後に回りこんだ耀と、こめかみに青筋を浮かべて半眼で睨みつけている舞陽との間に挟まれ、明槐は困惑して交互に二人の顔を見た。
「邪魔をするな、明槐!」
「いや、家庭の問題だし、別に邪魔をする気は無いけどね……。」
こちらもすっかり舞陽の剣幕に圧倒されてしまっている。なだめようと浮かべた笑顔もまた、どことなくぎこちないのがその証拠。
「それよりさ、さっさと帰ろうよ。ここでの用事はもう済んだんだし、やらなきゃいけない仕事もまだ残っているし……な?」
小脇の書類を示しながら言うと、舞陽はようやく怒気を引っ込めた。が、やっぱりまだくすぶっているものがあるらしいことを表情が物語っている。
ともかく当面の嵐はやり過ごすことができたようなので、耀はようやく少年官吏の陰から出てきた。
…どちらにしろ家に帰れば説教が待っているのだろうが、そこはそれ、それまでに何らかの対策を立てればいいのだし。
明槐のほうも、「とばっちり」は回避できたようなので、舞陽に悟られないように心中でそっと嘆息した。
 「では、参りましょうか、白将軍。」
薄情にも(?)それまで不干渉を決め込んでいた安石に促されて、少年少女たちは帰途についたのだった。
――自分たちに向けられている視線の中に、異質なものが混じっていることに気づかずに。


 なお、このときの思い出がその後の耀の人生に大きく影響を与えることになるわけだが。
 それはまた別のお話である。

          ◆   ◆   ◆

 夏の暑さも山を越え、夜間だけ聞こえる虫の音の種類が変わっても、明槐が行方をくらませることはなくならなかった。
 「それで、今日もお仕事が進まなかったんですの?」
大姉の湯呑に熱い茶を淹れながら、白嘉は柳眉を器用に歪ませた。
 窓の外はかなり前に夜の帳が下りており、三妹と四妹は既に隣室の布団の中で安らかな寝息をたてている。
二妹である彼女だけが大姉の帰宅を寝ずに待っていたのだが、毎晩これではそのうち嘉のほうが病で倒れてしまうかもしれない。
それを心配して舞陽は「先に休んでいていいのだぞ」と言っているのだが、その都度「好きで起きているのですから」と一向に取り合おうとしないから、最近では舞陽のほうがすっかり諦めてしまっている。
賢い妹のことだ、本当に体調に不安を覚えたらさっさと対策を講じることだろう、という信頼もあるからなのだが。
 「ああ。ある程度は私でもなんとかなるが、さすがに専門知識が無いとどうにもならないものもあるからな。」
「全く。世話役が聞いて呆れますわね。
いつおいでになるのか判らないのなら、いっそのこと町中を歩いている人間を直にお雇いになったほうが、早いかもしれませんわよ?」
「まぁ、そう言うな。あれでそれなりに使えるのだから。」
そう言って舞陽は淹れたての茶をすすった。
たまに顔を出したときに溜まっている分を一度にやらせるのだが、その処理速度は毎日顔を出しているときと大して変わらなかったりするのである。
それだけの能力がありながら、明槐は「それなりに」日々の仕事をこなしているのだ。…なるほど、人によって評価が違うはずだな、と最近思うようになっていた。
 「それでも。お役人であれ武人であれ、「肝心なとき」にいらっしゃらなければ意味がありませんわ。
それに、いくら「別件」があるとはいえ、お姉様の補佐をするのが第一のお仕事でしょうに。なのにお姉様を「二の次」にするなんて……。」
自らの湯呑にも茶を淹れ、嘉は舞陽の向かいの席に腰掛けた。
彼女にとって大姉は絶対的な存在であり、またこの世で最も大切なもののひとつでもあるわけだから、それがないがしろにされている(と嘉は思っている)のがどうにも許せないらしい。
「お姉様もその「別件」とやらが何か、ご存知無いのでしょう? 一体どこで何をなさっているんでしょうね…。」
「ふむ……。」
それは、舞陽にとっても疑問であった。今はまだ支障らしきものは出ていないが、また海賊が現れたときにはそういうわけにもいかない。
(そういえば。明槐のやつ、このところ服が汚れていることが多いな……。)
お偉方の集まる政庁内は、礼儀作法が細かく問われたりする。汚れた服のまま政庁に上っているとは考えにくい。
では一体、いつもどこで何をしているのか。
しかし「あの」明槐のことだ、問うたところでやはりのらりくらりとはぐらかされる可能性が高い。
(……一度調べてみる必要がありそうだな。)
疑っているわけではないけれども、と心の中で付け加えながら、舞陽は湯呑の中身を空けたのだった。


 「……で、これとこれに関しては一応話が通してある。それから、こっちは返事待ち。二、三日で来るとは思うけどな。」
そう言いながら明槐は、机に広げた書類を一枚ずつ示していく。
軍隊としては小規模だが、三百という数は「人の集まり」と考えると結構侮れないものである。
白家直参の私兵の中には主家と同じように家族で游津に赴任してきた者もいるので、実数はもっと多い。
ところがそんな彼らに関する細々とした雑用関係はほぼ明槐一人でまかなっていると言っても過言ではないので、仕事量そのものは決して少なくないのだ。
(十五でこれだけ仕事ができれば、充分有能なはずなのだがなぁ……。)
「あと、この前言っていた医者のことだけど……どしたの?」
反応が無いことに気づいて、明槐の説明が止まる。「ちゃんと聞いているから続けろ」と舞陽は身振りで示した。
「…疲れてるんじゃない?」
「いや?」
「ならいいけど……。」
妙なところで鋭かったりするから、侮れない。
 「それじゃあ、俺、これからちょっと行くところがあるから。」
一通り話が終わると、明槐は「いつものように」手早く書類を片付け始めた。
「例の「別件」とかいうやつか?」
「うん、まぁそんなとこ。」
「もうすぐ昼餉(ひるげ/昼食)だぞ。飯くらい食っていったらどうだ。」
開けたままになっている窓からは、今日の賄い当番が作る料理のよい香りがほんわか漂ってきている。
しかし明槐はそれすら断って、結局さっさと事務所を後にしてしまった。
 「…………。」
釈然としないながらも舞陽もまた彼が置いていった資料を整理し始めた頃、賄い当番が食事の支度ができたことを告げに来た。
「では、我々も参りましょうか。」
安石が席を立つ。促されて同じように立ちあがろうとして、しかし舞陽は何を思ったのか再び椅子に収まってしまった。
「…いや、急ぎの用事があったのを忘れていた。先に済ませておいてくれ。」
「…そうですか。ではお先に失礼します。」
 うなずくと、安石は一人事務所から出た。食堂へと向かう彼に賄い兵が声をかける。
「将軍はいつも一人でお食事をされてるんスか? 少なくともオレが当番のときは大抵別に摂ってみえるみたいっスけど?」
「……内陸の人間は魚よりも肉のほうが好きなんだろうよ。」
「…そんなぁ。将軍だけじゃありませんよ。毎日毎日魚だの海草だのばかりでうんざりきてるのは皆も同じっス。
でもここは甲州なんだから仕方無いじゃないっスか。オレだってたまには羊の肉を嫌ってほど食べたいっスよ〜〜。」
無駄だと知りつつもぼやいてみる。しかし甲州同様長い海岸線を有する斗州(としゅう)の出身である安石の耳には、あまり切実な響きとして届かなかったようであった。


 安石と賄い兵が出ていってしまうと、舞陽はふぅ、と大きく息をついた。
椅子から立ち、簡単に身支度を整える。人目が無いことを確認して、そっと駐留村の敷地から出た。
 「今日という今日こそは。」
明槐がいつもどこで何をしているのか。それは昨夜嘉に指摘されるよりずっと前から舞陽自身気になっていたことだった。
だが彼は「游津の」官吏である。自分の部下でない以上、彼の行動を制限する権利は無い。
しかしだからといって、今のような状態が一体いつまで続くのかということすら判らないようでは、こちらとしても困るのだ。
昨夜の妹の言葉が、良くも悪くもきっかけとなってくれた。
 ひとつだけ心当たりがある。少し迷ったものの、舞陽は游津の城市には入らずに、そのまま壁に沿って南に足を向けた。
 游津は半島にある町だから、そこから先の道は特別整備されているわけでもない。荷車がようやくすれ違える程度の幅しかない道が、漁村同士や游津の町とを繋いでいる。
漁村と漁村の間は長年の風雨に耐えてきた岸壁やらあるいは砂利が一面に広がるちょっとした浜、それほど高くはないものの起伏の激しい山などによって隔てられている。
 官吏というのは、難度の高い試験をくぐり抜けて行政に携わる権利を得た者のことで、平たく言えば公務員である。
識字率の低い時代であるから、読み書きができるというそれだけで尊敬の目で見られる社会だ。強いて分けるなら支配者層に類されるだろうか。
その「支配者層」に末端とはいえ属する者に、游津城市内で服が汚れるような仕事を与えるなどとは思えない。
肉体労働などに回すのははっきり言って「もったいない」のだ。そんなことをするくらいなら、舞陽だって市民から人手を集める。
(だから、明槐は城市の外にいるはずだ。)
 しばし考えた後、舞陽は取り敢えず農門に行ってみることにした。いつだったか、農門の番をしている兵の中に知り合いがいる、と明槐が話していたのを思い出したからである。
 農門の門番に明槐のことを尋ねると、運良く今日の当番がその「知り合い」であった。しかし明槐の「別件」について尋ねてみると、彼もまたあごに手をあてて首をひねった。
「さぁねぇ。あいつはいろんなことを知っているくせに、自分のことはあんまり話しませんから……。」
いつぞや明槐の友人である陳呈安から聞いたのとほとんど同じ返答に、舞陽は静かに嘆息した。
……気心の知れた友人知人たちすら知らないのであれば、たかだか半年程度の、しかも仕事上の付き合いである自分が知ることなどできないだろう。
そう思ったとき、ふと、舞陽の脳裏に呈安の言葉が蘇った。
『あそこは、あいつにとって特別な場所のようですから…。』
思わず振り返る。目で探したのは、あの日呈安が示した小山。
(…………。)
海からの風が、ふわりと舞陽の色違いの前髪をかきあげていった。


 大した山ではない。斜面は比較的なだらかで、春先には山菜を、秋にはキノコを採りに人々が分け入るという。
だがそれ以外の季節は特に訪れる者も無く、人一人が通れるほどの山道は、鬱蒼と生い茂った夏草によって半分以上が隠されてしまっていた。
注意していないと道から外れてしまいそうだ。
 登り続けること一刻弱。普段から体を鍛えているとはいえ、慣れない山道に息も切れ切れになった舞陽の目の前が不意に開けた。足を止め、呼吸を整える。
 そこはちょっとした広場になっていた。やはり夏草が生い茂っているが、ここだけは手入れが行き届いているらしく、広場の中ほどはきれいに刈り取ってある。
正面には年代ものと思われる小さな建物が、ともすれば景色の中に埋没してしまいそうなほどひっそりと佇んでいた。
「こんなところに雷龍廟があったなんて……。」
 知っていたら、賊退治の祈願を含めて詣でていたのに。
 廟の周囲はきれいに手入れされていて、まめに掃除されているのか人気の無い時期なのにもかかわらず埃も積もっていなかった。
廟に近づき、祈りを捧げる。厳かな気分になった舞陽の耳に、晩夏の蝉の合唱に混じってその音が届いたのは、そんなときだった。
(……笛?)
廟の裏手にある林の向こうから、風に乗ってかすかに笛の音が聞こえてくる。誰か居るのだろうか?
まるで吸い寄せられるかのように、無意識のうちに舞陽の足は林へと向かっていた。その間も、風に切れ切れになりなりながらも笛の音は続いている。
 木々の向こうが明るい。林を抜けるのだろうか。笛の音はいよいよはっきり大きく聞こえるようになり、旋律だけでなく強弱や息遣いまでうかがえるほどだ。
 林を抜けると、再びちょっとした広場に出くわした。がその先にはもう何も無い。
途切れた地面の向こうには青い空と青い海とがあり、潮風がその景色が絵に描いたものでないことを教えてくれる。
広場の真中にはまるでそこだけ林を切り取ったかのように一本の槐の樹がすっくと立っており、その下にはこんもりとした不自然な土山と、それを取り囲むように色とりどりの花々が咲き競っていた。
 その土山が誰かの墓であろうことは、一目で判った。こちらも雷龍廟と同じくよく手入れされており、雑草の一本も根をおろしていない。
海からの風が槐の葉を揺らすたびに、花々もまた笑うように揺れた。
(この花畑は、この墓のために誰かがわざわざ作ったものだ。)
そこに笛の音が重なって、幻想的な雰囲気を成しつつある。しばしの間、舞陽はその光景の美しさに心を奪われていた。
笛の主の姿はどこだろうと視線を巡らせ、舞陽は思わずあっ、と言いそうになった。慌てて自らの口を押さえる。
 槐の樹の幹は、大人でも一抱えして届くかどうかという太さがあるのだが。
その一番下(といっても、舞陽の背よりも少し高い位置だ)の一番太い枝が分かれている部分に、誰かがちょこんと腰掛けている。そしてその後ろ姿は、舞陽にとって至極馴染みのあるものだった。
(居た! こんなところに!!)
途端にふつふつと怒気が湧き上がってきた。
 「別件を抱えている」と聞いていた。
游津の民のためにわざわざ遠征してきた白軍の世話役でありながら、そちらを二の次にしなければならないほど大事な用事を抱えているのだからと、そう思って今まで黙認してきたのだが。
 だが何故、「別件の仕事をしている」はずの李明槐は、こんなところでのんびり笛なぞ奏でているのか!
(今度という今度は…!)
怒鳴りつけてやろうと、一歩踏み出しかけたとき。舞陽はふと、あることに気づいた。
 明槐の服が汚れている。昼に事務所を後にしたときには汚れてなどいなかったのに。彼の腰掛けている槐の樹の根元には、土いじりをするための農具と鎌が立てかけられていた。
まだ真新しい黒い土が付いていて、それは明槐の服を汚しているものと、そして花畑の新しくならした部分と合致していた。
 では、林の向こう側にあった雷龍廟の手入れをしていたのは……。
(…まさか、な……。)
わずかな戸惑いが、彼女の足を止めた。
巍では、雲を呼び雨を降らせ嵐を起こす雷龍を、「天帝の遣い」もしくは天帝自身が化身した姿として崇拝している。 そうでなくても巍の人口比率中過半数を占める卵ーは、有史以前から華央に住んでいた農耕民族である。
大地と天の神への信仰は農耕民族である巍の人々の生活に深く根ざしており、またとても密接な存在である。
そして巍の建国帝は、夢枕に雷龍が舞い降りお告げを受けたことにより華央を統一する決心をした…という伝説が今日までまことしやかに伝わっている。
狩猟と牧畜によって生計を立ててきた瀏族の出はあるものの、帝室に忠誠を誓う舞陽にとってもまた、雷龍を奉った廟はやはり特別なものであったのだ。
 不意に、笛の音の調子が変わった。
それまでの旋律が風になびく槐の枝葉の囁きであったならば、今は大空を駆け獲物を追い空を切る隼か鷹のような鋭さと力強さとを感じさせる。
かと思えば、今度は胸を締め付けられるほどに切なくも情熱を覚えさせるものへと変化した。
旋律は絶えず変幻し、どうも何かの曲というわけではなく、全てが即興、心の趣くままに奏でている、といった様子であった。
 いつのまにか、舞陽は笛の旋律にじっと耳を傾けていた。
彼女自身は、人に語れるほど音楽について詳しくはない。
けれども、音楽というものには演奏者の「心の豊かさ」が如実に出るものなのだという話は、以前二妹である嘉から聞いたことがあった。
明槐は、いつも飄々としていて、人の世話を焼くことが好きで、そのくせ自分のことは話さない。彼女の前で怒ったことも片手で数えられるほどしかなかった。
(……けれども。あいつの心の中は、こんなに感情が猛り、うねり、渦を巻いていたのだ。)
誰も知らないところで、誰にも悟られることなく。周りからどんなに怒鳴られ、悪感情をぶつけら、蔑まれても、まるで「気づいていないように」振舞ってきたのだろう。
(それを「面の皮が厚い」というのか、「達観している」というのかは、ともかくとして。)
 それにしても。旋律の妙はさておき、純粋な演奏技術だけでも、かなりの腕であるには違いないようだ。
そもそも、彼にこんな特技があるということ自体、舞陽は知らなかった。それもまた、明槐にとっては「わざわざ話すようなことでもない事」だったのだろう。
 ともかく、明槐の首根っこを掴んで駐留村に連れ帰る気は、とおに失せていた。そのまま踵を返す。演奏の邪魔をしないうちに帰るつもりだったのだが。
 注意が散漫になっていたのか。
舞陽のつま先が足元の小石を蹴飛ばしてしまい勢いよく槐の樹の幹にぶつけてしまったのと、明槐の笛の音がぴたりと止むのに、それほどの間は無かった。
「誰?」
振り返った明槐の顔は、普段は見せない狼狽の色がはっきりと出ていた。
こんなところには誰も来ない、という油断からあれほどに伸び伸びと「感情をあらわに」していたのだろう。
それを誰かに見られたとあったら、慌てるのも当然だ。しかも。
「うわあぁっ!?」
舞陽が釈明の言葉を口にする前に、彼女の目の前で明槐は体の平衡を崩して、大枝から後ろ向きに墜落してしまった。…かなりいい音がした。
 「明槐っ!?」
「痛たたたたたた……。」
頭を押さえて、涙目になりながらも、明槐は上半身を起こした。
どうやら大した怪我はしていなさそうだ。…あれだけいい音がしたのだから、コブくらいはできているだろうが。
「…なんでこんなところに居るの……???」
コブよりもそちらのほうがずっと重要事らしい。驚き慌てて駆け寄ってきた舞陽に、開口一番そんな言葉を口にした。
「それはこっちの科白(せりふ)だ! いやそれよりも。ちょっと見せてみろ。」
有無を言わさず明槐の頭に手をやる。案の定コブができている。触れた途端に明槐が小さな悲鳴を上げた。
「冷やしたほうがいいな。このあたりに水源はあるか?」
 夏の日の魚よろしく口をぱくぱくさせている明槐をそのままに、舞陽は今来た道を大急ぎで戻った。
言われたとおり、雷龍廟の広場から少し山道を下って右手に外れたところに、岩場から染み出している清水を発見する。
迷わず肩にかけてあった布を外すと、たっぷり水を含ませて槐の広場に戻った。


 「それにしても。こんなところに雷龍廟があったとは。知らなかったな。」
「…こんな時期外れに、こんなところまで登ってくる人がいるなんて、思わなかったよ。」
水を含んだ布を頭に載せたまま、観念したのか明槐は嘆息混じりにそう漏らした。
海からの風に、槐の葉がさわさわと優しく囁く。蝉の音は初夏のものから晩夏のものへと種類を変えていたが、それでも昼間は木陰のほうがずっと居心地が良い。
「私も、お前がまさかこんなところで笛を吹いているとは、思わなかった。」
「山道が、夏草でほとんど判らなくなっていただろう? 昼間とはいえ、地元の奴でさえ道から外れたら簡単に迷えるんだぜ?」
全く無茶するんだから、といつもの癖で頭に手をやりそうになり、明槐はまた顔をしかめた。
まさか「お前を探していたのだ」とも言えるわけもなく。舞陽はしばし返答に迷った。
「……いつだったか。ここからなら湊も町も見渡せると言っていただろう? 一度自分の目で見ておきたかったのだ。」
口から出任せであったが、完全に嘘というわけでもない。そのうちに手が空いたら、ここを訪れてみるつもりだった。
そこがたまたま明槐の隠れ場所(?)だっただけのことである。
(そういえば。ここを紹介してくれたのも、こいつだったな。)
誰も訪れる者などいないだろうと油断しきっているような場所を、何故わざわざ自分から教えるようなまねをしたのか。
あのときは海賊出現の報を聞いて気が急いており、代わりに斥候をここに送りこんだのだが。
(待てよ…。)
あのとき放った斥候は、帰還したとき靴に黒い土をつけていた。それに思い至った次の瞬間、舞陽は花畑のほうに目を向けてたいた。
…そういえば、明槐が頻繁に姿を消すようになったのも、あの海賊騒ぎが起こって間も無くだった……。
 「? どうしたの?」
「あ、いや、なんでもない。」
…隠し事が下手な性分だという自覚はある。が、ぎこちなくなることは判っていても、無理に表情を作った。
「…あの墓と花畑は、お前が管理しているのか?」
「管理っていうほどのものじゃないけど。時々来て面倒見たりはしている。」
完全に諦めたという表情で、明槐は素直に認めた。
「…そんなに酷く荒されたか。毎日こっそり通って修繕せねばならないほどに。」
「酷かったんだぜ。確かにそのへんから集めてきた野の草花ばかりだけどさ。滅茶苦茶に踏み荒らしてあって。おかげで一からやり直すことに……。」
そこまで口にして、明槐はあっと口に手を当てた。一転して気まずげな表情。それを見て、舞陽の顔に対照的な勝利の笑みが浮かんだ。
「やっと吐いたか。」
「……それが理由で黙っていたわけじゃないんだけど……。」
ダメだ、ぶつけた場所が悪かったのかもしれない、と明槐はぼやいた。あっさりと舞陽の誘導尋問に引っかかってしまったのがそんなに悔しいのか。
「墓も、花畑も。まだ新しいからな。……ご家族の?」
「いや、李家の墓地はちゃんと別にあるんだよ。」
確かに、ここは「墓地」ではない。ざっと見渡してみても墓はひとつきりしか見当たらなかった。
「……海と花が、好きな人だったから。」
ぽつりとそれだけ言うと、明槐は立ちあがった。服についている汚れを払い落とす。
「まぁ、どうだっていいじゃない、そんなこと。それより、帰って何か食おう。俺、昼飯まだだから腹減っちゃって。」
「明槐。」
先ほど奏でていた、藤色の房飾りの付いた珍しい鉄製の笛を大事そうに懐にしまう少年を見やりながら、少女もまた腰を浮かす。
「…私も、時々ここを訪れてもいいか?」
「…いいけど……。」
「何故?」と顔に書いてある。
「私だって、たまには一人になりたいときもあるのだ。それに……海辺よりも林のほうがまだ馴染みがあるからな。」
そう言って、内陸育ちの将軍は、担当官吏の背中をぽんと強く叩いたのだった。

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