游津藤桃記1「李明槐 大いなる勘違いをする。」
巍国万世拾遺譚 目次へ

 天晃暦三〇四年。
 巍国の南端である邂(かい)州の更に最南の都市、朱堡(しゅほう)。一年ほど前に奪われて以来、南方の異民族の者たちが支配していた都市である。
 だがその朱堡も、今は邂州軍の活躍によってようやく巍の民の手に戻ってきた。
 けれど手放しでは喜べない。
 異民族が支配している間も、朱堡の城壁の中には何万という人々が暮らしていた。支配層と被支配層の壁は、戦時であるほどに徹底されるもの。
 また敵軍は撤退の際、町に火を放った。
 邂州軍本隊が入城したときも、朱堡城市は歓呼の声は思ったより小さく、逆にひっそりとしていたほどだ。
 誰もが皆、疲れきっていた。
 けれど。
 その城壁越しに臨む海と空の青は、俗世のことなどまるで知らぬとでも言うように、今日も美しく澄み渡っていた――。


 風にのって届いた潮の香が鼻腔をくすぐる。
 城壁の一角にもたれかかった姿勢のまま、一人の女性がぼんやりと海の青を眺めていた。
 邂州をはじめ帝国南部の人口の大半を占める沽(こ)族ではない。
透き通るように白い肌と象牙色の髪は、彼女が帝国北部に多く住まう瀏(りゅう)族の出自であることを示していた。
左の前髪だけ刷いたように朱が入っているが、風に遊ぶたびにきらきらと陽光を映す象牙色の髪はきりりと結い上げられ、簪(かんざし)を挿す代わりに浅葱色の布にしっかりと包められている。
すらりとした伸びた肢体は、戦襖と非戦闘時用の軽鎧とにしっかりと包まれていた。
くっきりとした目鼻立ち、整った顔立ち。衣装を換えればそこいらの男どもが決して放っておかないであろうほどの美貌の持ち主であるが。
その手は、二十代女性のものとは思えないほど、剣を握るのに馴染んでいた。
身辺の世話をする小姓は、彼女の身体のあちこちに無数の傷跡があることも承知している。
 名を、白潤(はく・じゅん)、字を舞陽(ぶよう)という。
 本来なら、寸暇を惜しんで町の復興に走りまわっているところだ。こんなところで暇を潰しているなど、彼女の性格からみても考えられない。
けれど今日は午後から軍議が開かれることになっているので、彼女に限らず邂州軍の主だった者たちは皆、外出を控えているのだった。
 帝国最北端の地、馮(ひょう)州の出で瀏族の血を引く彼女にとって、南部のこの日差しは正直言って少々辛い。
けれど、それでも彼女がここに居るのには、もうひとつ理由があった。…自分でも上手く説明できないけれど…。
 「おや、白将軍。こんなところで何を?」
不意に声を掛けられ、舞陽ははじめて誰かがやって来たことに気付いた。いつもなら気配だけで人の出入りくらいは察することができるのだが…。
「こんなところに来る物好きはそういない」という思い込みから、気が緩んでいた証拠なのだろう。
 見覚えのある人物だった。同志と言ってもよい。褐色の肌に黒い瞳は、巍南部に多く住む沽族の特徴。
がっちりした体格のわりに動きのしなやかな男で、「邂州の黒豹」と言えば州軍の一兵卒に至るまで知らぬ者はいない。
「李深灰(り・しんかい)か。あなたこそ、主殿と別行動とは珍しいことだな。」
風になびいて顔にまとわり付いた象牙色の髪を払い除けながら、舞陽は深灰と呼んだ男を迎え入れた。
「黒豹」はともかく、口の悪い者は「主人の背後霊」だの「飼い黒豹」だの終いには「戦う“じい”」だのと陰口を叩いていることも、この男は承知した上で甘受しているのだ。
その深灰の顔に微苦笑が浮かぶ。
 「追い出されました。読書の邪魔だと。」
それでも「護衛」と称して主の部屋の外で待機しているつもりだったが、同じ邂州軍の勇である地元豪族の娘が、彼の主君を訪ねてきた。
その直後に通りかかった同輩の武将に「あること」を耳打ちされて、ようやく得心がいき、部屋の前から離れる気になったのだと彼は言った。
「私も長く主にお仕えしておりますが。どうも『その手』のことには疎い。かえって野暮な真似をするところでした。」
舞陽もまた、微苦笑するしかなかった。
彼らの戦友である女将がこのところなにかと彼の主君のことを気にかけているということは、やはりそちら方面には疎いという自覚がある自分ですら気付いていたというのに。
けれど敢えてそんなことは表に出さず、舞陽は意識して表情を引き締めた。
「誰がどんな感情を抱こうと、私にはそれを律する権利は無い。人の感情までどうにかするなど、神ならぬ身ではかなわぬこと。
だが……まだ全てが終わったわけではない。
朱堡の奪還成功に浮かれた挙句に致命的な事態が起きるようでは、困る。
そのためには深灰殿、あなたには今後も鬼の役目を担ってもらわなければならないだろう。」
「もとより。そのために私は主の傍に居るのですから。」
誓うように言うと、深灰は女将軍から城壁の外の海へと視線を移した。
 「……海は、初めてですか?」
生粋の邂州っ子である深灰にとって、海は至極身近な存在だ。
けれどつい最近まで前線基地であった州都封陽(ほうよう)にまだ居た頃、彼女の故郷馮州は水平線ではなく地平線が見える地だと語っていたのを思い出したのだ。
舞陽もまた、同じように海原へと視線を向けた。
「……目に焼き付けておきたかったので。次はいつ海辺に来られるかわからないから…。」
眩しげに目を細める。その口調にいつもと違ったものを感じ、深灰は顔の向きはそのままに視線だけを隣に向けた。
「どうにも、な。潮の香をかぐと思い出されてならぬ顔がある。もう十年も会っていないというのに…。
よほど強烈な思い出だったのだろうな…。」
そう言って懐から取り出したのは、親指の爪ほどの大きさをした鈴だった。
古いものらしく赤い紐はすっかり手垢にまみれて色褪せてしまっているが、鈴本体のほうは多少傷がついているものの新品と見まごうほどに日の光を素直に映している。
それを見つめる舞陽の面差もまた、邂州に来て初めてではないかと思われるほどに優しいものになっていた。
戦場に出るときには必ずこれを懐に忍ばせているということは、彼女自身以外は誰も知らないはず。
潮風に揺れてちりん、という涼やかな音色が二人の耳に届いた。
(とうとう、信(手紙)はこなかった…。)
封陽、垓門(がいもん)、そして朱堡と、忙しく飛びまわっていたからというのもあるだろう。でも邂州に赴任したという連絡はもう一年も前に信書で知らせてある。
今までだって似たようなものだったから分かってはいたことだが、それでもやはり寂しくないと言ったら嘘になる…かもしれない。
 それ以上の詮索はしない方がいいだろう、と深灰は判断した。誰にだって他人に踏み込んでほしくない領域はあるというものだ。
代わりに思い出したように話題を変えた。
「荷造りのほうは、もう済まれたので?」
「こういう身なのでな、私物はなるべく持たないようにしている。」
「そうですか。」
 絶えることなく吹き続ける潮風が、ふたりの頬を優しく撫でていく。
 明日、白舞陽は邂州を発つことになっていた。
邂州軍の一人として異民族や反乱軍と戦ってきた彼女だったが、厳密に言えば邂州の牧(知事)に仕えているわけではない。
国から「応援」として派遣されてきた身に過ぎないのだ。
だから任期が切れれば中央に帰らなくてはならない。
午後から行なわれる軍議もまた、そのための引継ぎが主な目的だった。
「正直、今の朱堡から離れるのは心苦しい。復興には金も必要だが、なにより人手が要るからな。
引いたとはいえ彼奴らも、完全に諦めたとは思えんし…。」
「確かに。この時期貴女に抜けられるのは、正直言って辛い。
ですが、心配は無用。邂州の民は貴女が思っておられるほど「やわ」ではありませんよ。侮られては困ります。」
そう言って、深灰はにやっと笑ってみせた。よく日焼けした肌に、覗いた白い歯が映えて見えた。
「何とでもしてみせますよ。ここは『私たち』の邂州なのですから。」
「…そうだな、失礼なことを言ってしまったようだ。」
…そういえば、この鈴をくれたあの人物も、似たようなことを言っていた。
いつも飄々としていて掴みどころが無く、けれど人懐こくて、何故か忘れられないあの人物。
あれから十年。今ごろは何をしているのだろう…。
海と空の青と、潮の香を臨みながら、舞陽の思考は次第に思い出の中へと向かっていった――。

          ◆   ◆   ◆

 天晃暦二九二年。
 海賊の横行が激しい甲(こう)州に赴き、治安を回復せよ――。そんな命を受けて白舞陽が帝国東部のその都市を訪れたのは、十六歳のときだった。
 游津(ゆしん)、というのがその都市の名だった。
甲州の東南、南に向かって突き出した半島にある町である。人口は十万弱。舞陽の故郷北威の半分ほどしかない、文字通りの田舎町であった。
 游津に着いた彼女をまず出迎えてくれたのは、つんと鼻につく潮の香だった。
半島にある町なので、海までは目と鼻の距離だから当たり前と言えば当たり前なのだが、内陸出身の彼女には、これはある種の嫌がらせのようにも感じられた。
(こんなところで何ヶ月も働くのか……。)
逃げ出す気は毛頭無かったが、うんざりしたのも事実だ。
 予め連絡がついていたので、城市の入り口で門衛にこちらの素性と用件を伝えると、すんなり取り次いでもらえた。
出迎えとおぼしき官吏が現れる。
だが彼は一目舞陽を見るなり、わずかに眉をひそめた。が、すぐに何事も無かったかのようにうやうやしく挨拶をする。
舞陽も同じように挨拶を返したが、その胸中には早くも灰色の雲が垂れ込みはじめていた。
(…「なんだ、子供か。子供など役に立つのか?」といったところか…。)
予想していた反応ではあるが、正直面白くない。
だがそんなことにはおくびにも出さず、自らが連れてきた兵三百をその場に待機させ、舞陽は無表情を面に貼りつけたまま彼の後に随って游津の城市内へと足を踏み入れた。
 太守(たいしゅ/地方都市の知事。市長クラス。)に挨拶をし、自身がまさしく中央から派遣された者であることを証する書状を提出すると、今度は待合室と思われる一室に通された。
それなりに広さはあるが、どことなくがらんとした印象を受ける部屋だった。その代わり東に面した窓がふたつあり、隙間から外の様子が見える。
(不必要に飾り立てている部屋よりは、まだ好感が持てるかな…。)
太守の反応は可も不可も無かった。もしかしたら失望を表に出さなかっただけなのかもしれないが…。だがその気持ちも解らなくもない。
たかが賊退治とはいえ、これだけの被害が出ていれば「それなりの」戦力を求めたはずだ。指揮官も「それなりの」人物が派遣されると期待していたのだろう。
(…外見で人を判断するなど……いや、若くても名の轟いている武将は大勢居る。現場でものを言うのはやはり「実力」だから。
…私も早く誰からも有無を言わせぬだけの実力を身につけなければ…。)
 ふと目を向けると、薄く日の光差す窓の外は、小奇麗に手入れされた内院(庭)になっていた。
さまざまな花木が植えられており、今は紫色の濃淡が風に揺れる藤架(藤棚)からこぼれる甘い香りが、ほんのりと室内にまで滑り込んでくる。
それがほんの少しだけ、ささくれ立った心を癒してくれた。
 どのくらい待たされただろう。城市の外に部下たちと共に待たせている妹たちのことがそろそろ心配になりだした頃、ようやく扉が開いた。
「お待たせしました。」
ほとんど反射的に舞陽が椅子から立ち上がったのと、彼らが入室して来たのは、ほぼ同時だった。片方は城門まで彼女を迎えにきた男だったが。
「お初にお目にかかります。本日付けで貴軍の担当となりました李藤(り・とう)と申します。明槐(みんかい)とお呼び下さい。」
拱手の礼(胸の高さで利き手を拳にし、反対側の掌で包み込む挨拶の仕方。相手に対して攻撃の意思が無い、即ち親愛の情があることを示す)を執ったもう片方が面を上げる。
はからずも目が合い、舞陽は絶句した。何故なら。
(…子供……!?)
彼女の担当だと告げた官吏は、彼女よりも背が低かった。
黒髪黒瞳黄色い肌は、帝国で最も高い人口比率を誇る卵ーの特徴だ。
面立ちにはまだ幼さが残っていて、とても自分より歳上のようには思えなかった。
(小規模とはいえ、中央から派遣されてきた軍の担当に、子供を据えるのか!?)
先ほど自分が味わったものなど棚に上げて、舞陽はそんな感想を抱いた。馬鹿にされたのだと思い、ふつふつと黒いものが胸中に湧きあがる。
だがそれを意思の力で覆い隠し、彼女もまた礼を返した。
「馮州北威の産にて、白潤、字を舞陽と申す。以後よしなに。」
「では、任せたからな。」
明槐を連れてきた男はそう言い残すと、さっさと部屋を後にしてしまった。
後に聞いた話によると、この日は太守への面会を求めていた者が他にも何組かあり、彼はその対応に追われていたらしい。
 部屋には舞陽と、李明槐と名乗った少年だけが残された。画/トロスキー様
「では。早速ですが、状況をご説明します。」
舞陽が何か言う前に、明槐はさっさと小脇に抱えていたものを部屋に設えられていた机の上に広げた。
游津と近隣の地形を示した地図だった。あちこちに印や書き込みがされている。
「……その前に。」
「はい?」
舞陽の声音が固いことに気付いているのかいないのか。明槐はきょとんとした顔で面を上げた。その表情がまた、幼い。
舞陽の苛立ちがまた少し、膨らんだ。
「…貴方は官職に就かれてどれほどになられるのか?」
まさか初仕事ではあるまいな? そんな疑念が消えない。「うーん」と呟くと、明槐は右手の指を幾つかたたんだ。
「二年、かな? 試験通ったのは十三の時だから。」
…ということは、今は十五ということか。この歳で職歴二年であるならば、頭はかなり良いはずだ。
だが、「頭が良い」だけで渡っていけるほど世の中は甘くないということを身に染みて学べるだけの経験を、舞陽は既に重ねてきていた。
「他には? 質問あります?」
「…いや。」
言いたいことをぐっと胃の腑に落とす。
言葉の通りに取ったのか、明槐はそのまま現在游津とその周辺の漁村が置かれている状況を説明していった。

          ◆   ◆   ◆

 先にも述べたとおり、游津は田舎町だ。
一応整備された街道が通っているが、その特異な立地条件もあって陸上交通の便が非常に悪く、一度隣の莱(らい)に出ないことには、大陸のどの都市へも行くことができない。
 それもあってか、海運のほうは昔から盛んであった。
目と鼻の距離である衍州(えんしゅう)の大商業都市海陵(かいりょう)は、東の海の向こうの異国倭洲(わしゅう)からの荷や人が集まってくる。
その荷を買った商人の船は更に游津・泱州(おうしゅう)の都(せいと)を経て北の對江に入り、そこから都へと向かうのが一般だった。
なおも北に舳先を向ければ、鉱物資源や薬草が豊富な遼州(りょうしゅう)最大の都市北稜(ほくりょう)へもすぐだ。
ゆえに游津には、小さいながらも北へ南へと行き来する船のための海上交通の中継地という顔があった。
また、沖合いを流れる暖流と半島の西側に広がる内湾のために、水資源にも恵まれている。
 だが。海は游津の民に良いことばかりをもたらしてくれるわけではなかった。
そのひとつが海賊――東の海にある小国「倭洲」訛りの言葉を使用する者が多いことから、倭寇と称される――であった。
 倭寇に悩まされているのは別に游津に限ったことではないし、海賊という存在も昔からあったものだ。
しかし、甲州は巍帝国沿岸部の丁度中央付近に位置していることもあり、多くの荷が行き来する函湊(かんそう)、游津及び莱(らい)を中心とした一帯はここ近年、特に海賊の害を大きく受けていたのである。
 勿論、各都市とも黙って賊の横行を許すわけがない。これ以上治安が悪化するようなら、下手をすれば湊町としての存亡にも関わる。
なんとか撃退しようと何度か試みてはいたのだが、これといった成果は上がらずじまい。それどころか海賊たちの暴れぶりも年を追うごとに増長していくありさま…。
 函湊や莱ほどの兵力を持たない游津の太守はとうとう音を上げた。帝都に対して現状を訴えると、援軍を派遣して欲しいと陳情した。
 帝都側はそれに応じ、函湊・莱・游津それぞれに援軍を派遣すると伝えてきたのが、約一ヶ月前。
 そして今日、白将軍率いる三百の部隊が游津の地を踏んだのであった。

          ◆   ◆   ◆

 潮風にのって、金槌や鋸(のこぎり)の音が聞こえてくる。
 白舞陽将軍が游津に赴任して三日。游津の城壁のすぐ外側、普段游津軍が演習場として使っている東側の一体には、にわか作りの村ができつつあった。
 汗を流しているのは、中央からやって来た兵士たちである。游津に駐留している間に寝泊りする小屋を、自分たちの手で建てているのだ。
 「ええっと。他に要るものってあったかなぁ?」
大急ぎで造られていく建物群の間を歩きながら、明槐はそうひとりごちた。小脇には硯(すずり)箱と何枚かの書類が抱えられている。
「…ま、俺より皆のほうが慣れているみたいだから、お任せでいいのかな?」
担当官吏とは思えないような台詞を口走る。潮風に流されて誰の耳にも届かないだろうとでも思っていたのだろうが、あいにくと今日の風は彼の味方ではなかったようだ。
「なんて無責任な。」
一緒に作業の進行具合を視察していた舞陽の眉間に縦皺が寄る。
「仮にも貴方は、我々が游津に滞在するための世話役であろうが。自分に課せられた責は全うしてもらわねば困る。」
「そう言われてもねぇ。俺、世話役なんて初めてだし。」
ほりほりと筆の尻で額の生え際(やや右寄り)を掻く。
「それに、足りないものを言ってもらったほうが、無駄な出費しなくて済みますしね。」
游津の台所事情は、他の都市の例に漏れず余裕があるとはいえない。要領を心得ていない明槐が勝手に物資を手配しても、要らないと言われてはおしまいなのだ。
 無論、舞陽もそのことはよく判っているつもりだった。そもそも贅沢というか無意味な買い物自体好きではない。
けれど明槐が言った「無駄な出費」の本当の意味を彼女が知ることになるのは、もう少し経ってからのことだ。
 こめかみに青筋を浮かべる寸前の舞陽が、明槐から五歩離れて同道していると。
「やっほー。」
不意に後方から明るい声が飛んできた。半瞬遅れて背中にどんと何かがぶつかる。何事かと思ったが、その声には聞き覚えがあった。
「小耀、ここに来るなと言っておいただろうに。」
背後からくるりと舞陽の正面に廻り込んだのは、軽装に身を包んだ少女だった。
歳の頃は十前後、瞳と髪は舞陽と同じ象牙と鳶の色。くりくりとした瞳の輝きは、しなやかな野生の猫を思わせた。
「だって、退屈なんだもん。」
伸ばした舞陽の手をするりと抜け、小耀と呼ばれた少女――白耀(はく・よう)はにっ、と笑った。
「しかもなんだ、小玉まで連れてきて。小嘉はどうした?」
「嘉姉は町に買い物に行っちゃったよ。『ついでに偵察もしてきますわ』だって。小玉だって、ずっと馬車の中に居たら息が詰まっちゃうよ、なぁ?」
そう言って耀が視線を向けた先には、更にもう一人居た。
 こちらはまだせいぜい二、三歳といったところか。髪の色は舞陽や耀と同じだが、つぶらな瞳は彼女たちよりもやや明るい色をしている。
左手に黄色い布をしっかり握ったまま三人の年長者たちをぽんやりと見つめていたが、明槐と目が合うとほにゃっと笑った。
「だからといって。ここには工具を始め、危険な物がたくさんあるのだ。木っ端が飛んできて小玉に当たりでもしたら、どうする。」
「知り合い?」
明槐がこそっと尋ねる。そんなつもりは無かったが、舞陽は面倒臭げに短く答えた。
「…妹だ。」
「へぇ、どうりで似ていると思った。」
にっこり笑うと明槐はしゃがんで荷物を脇に置き、そのまま小玉――白芝玉(はく・しぎょく)に向かっておいでおいでをした。
その様子を舞陽は渋い表情で見ていたが、特別止めるような事もしなかったので、耀の方もそのまま芝玉の好きにさせてやることにした。
「そういう兄ちゃんこそ、誰さ?」
「小耀。」
「俺? 俺は舞陽殿の仕事の相棒だよ。游津に居る間のね。」
芝玉をあやしながら、明槐はさらりとそう答えた。
「李明槐っていうんだ。不便なことがあったら何なりと言ってくれていいよ。できるだけ対処するから。」
「ふーん…。じゃあ覚えておくよ。」
「ほら、もういいだろう。さっさと戻れ。」
舞陽にうながされて、耀はようやく芝玉の手を取った。
「んじゃーねー☆」
「もうここに小玉を連れてくるんじゃないぞ。」
「はいはい♪」
 子供たちが建物群の向こうに消えてしまうと、舞陽はようやく内心嘆息をついた。
耀も芝玉も人懐こい方だから、下手にこの担当官吏と仲良くなって悪い部分まで感化されるのではないかと心配だったからである。
 …もっとも、今後もその心配は続くわけだが。
(……できるだけ早く賊を滅ぼし、できるだけ早く游津から去ろう。)
そんな決意を改めて固めていた。
 「いいなぁ、妹さんがたくさんいて。」
「…そうか?」
「俺は、兄貴一人しかいないから。弟とか妹とか、ずっと欲しかったんです。」
そう言うと、明槐は硯箱と書類を拾って立ち上がった。
「…必ずしも楽しいことばかりではないがな。」
「でも、家族の仲が良くて、そして慕われているってのは、良いことですよ。」
その横顔がほんの少し寂しそうだったことには、まだ知り合って日の浅い舞陽には読み取ることができなかった。

          ◆   ◆   ◆

 その報が入ったのは、白軍が游津に入ってから約二ヶ月後のことだった。
――「莱付近の海岸に賊が現れたが、中央から派遣された援軍のおかげで、大した被害は出ずに済んだ。
   壊滅させるところまでは追い込めなかったが撃退には成功し、捕虜も数人捕らえた。
   尋問すれば、海賊の根拠地もすぐに判明するだろう。」――
 白舞陽がその連絡を受けたのは、質素な朝食を摂り終え、本部として使っている建物に入ってすぐのことだった。
「そうか…。ご苦労…。」
報告をもたらした兵をねぎらい、退室させる。一人になると、舞陽は我知らずに拳を机に叩きつけていた。
 先を越された。それが正直な感想であった。
 人が多く物も豊かな莱や函湊への出向に志願する者は多くいたが、人も物も乏しい游津に自ら進んで赴任しようとする者はいなかった。
 だから、志願した。一日も早く「一人前の武将」としての実績が欲しかったから。
 今回中央から援軍が派遣されたのは、甲州沿岸部の三都市。都市としての規模は小さいものの游津は海上交通の要衝には違いない。
そこで真っ先に戦功を上げれば、自身の肩書きにも箔が付くというものだ。
 勿論、賊の横行に苦しんでいる游津の民を救わねばならないという気持ちも強くある。
だが「どうせなら真っ先に」という色気がわずかでも存在したことは、否定できなかった。
(いや、まだだ。賊は撃退しただけで、まだ大元を断ったわけではない。
ほとぼりが冷めるまでしばらくはおとなしくしているかもしれんが、そのうち必ず動き出すに決まっている。)
そう思い直し、気を鎮めるために数度深呼吸をして、椅子に着く。初日に明槐からもらった地図を机の上に広げたところに、新たな入室者があった。
 「先を越されましたな。」
入室するなり舞陽の神経を逆撫でするような台詞を吐いたのは、彼女とは祖父と孫ほども歳の離れた男だった。
 名を厳安石(げん・あんせき)といい、役職上は舞陽の直接の部下――副官になっている。
軍役に就いて二十年以上という古強者だが、その間の昇進は一切無かったという変わり者でもあった。
海賊との戦闘経験があるというそれだけの理由で、今回副官に大抜擢されたと聞いている。
余談だがその面相から、兵卒たちの間では影ながら「岩石顔の安石」などと呼ばれていたりするらしい。
「何がだ?」
「莱に派遣された狼(ろう)将軍が、賊を捕らえたそうではありませんか。」
「賊に襲われたことを喜んでどうする。襲われたからこそ戦闘が発生し、捕獲できたのであろうが。」
これは素直な感想。
「それに。我々はここ游津に派遣されたのだ。莱のことなど関係無い。我々に課せられた使命を全うするまでのこと。」
「そうですか。それを聞いて安心しました。白将軍はお若い故、功を焦っておられるのではと愚慮いたしましたが…杞憂だったようですな。」
ちくり、と最も痛い部分を突いてくる。舞陽の心中の雲が、また一段と厚みを増した。
 「用件はそれだけか?」
「先日来游津太守に申請しておりました軍船の使用許可が、ようやく出ました。」
海賊というだけあって、相手は海の向こうからやってきて、海の向こうへと去っていく。
軍隊が待ち構えていると判ったなら、そこを回避して海岸線に沿って移動し、別の漁村を襲うまでのこと…。
 それでは何のための援軍なのかわからない。上陸前に拿捕して取り締まるためにも、退却する海賊船を追跡するためにも、軍船は必要不可欠だった。
 けれど帝都からやってきた白軍には当然そんな設備など無い。海軍を持つ游津軍から借りるしかなかったのだ。
 安石が退室し、ひととおり事務作業を終えると、舞陽もまた表へと出た。賊退治の責任者として赴任してきた以上、室内でばかり過ごしているわけにもいかない。
(聖上(皇帝)からお預かりした兵は皆、陸地での戦いしか知らない。軍船を借りれたところで、海戦の仕方を知らなければ無意味だ。しかし…。)
舞陽の故郷は、馮州だ。そもそも海自体、游津に赴任してきて初めて見た。当然、海戦の仕方どころか泳ぎ方すらも知らない。
そんな自分が、一体どうやって兵を指揮できるというのだろう……。
今更ながら「大変なことを引き受けてしまった」と思ったが、今更引く事はできない。いや、引こうなどという発想自体無かった。
ただ、目の前にぶら下がった難題のあまりの大きさに、つい嘆息したくなった。
 「やぁ、おはよう。」
今日も朝から心中に暗雲が広がりつつある舞陽の耳に、初夏の快晴のような声が飛び込んできたのは、まさにそんな時だった。
振り返るまでも無く、舞陽のこめかみに青筋が浮かび上がりかける。
「……おはよう。」
挨拶された以上は返すのが礼だ。仕方無く二十斤(約十二キログラム)近い錘(おもり)が付いているかのような声音で返す。
案の定そこには、やはり初夏の快晴のようなすがすがしい表情の担当官吏が居た。何か担いでいる。
「? 何だそれは。」
「ああ、これ?」
肩に担いでいる細長い棒のようなものをちらと見やって、明槐は意味ありげな笑みを浮かべた。
「秘密兵器。」
「…海賊退治のか?」
『秘密兵器』という言葉につられて、舞陽はその細長い物をしげしげと見やった。確かに何かの兵器のように見えなくもない。
作りそのものは単純そうだが、兵器というものは構造が単純であるほど威力が大きかったりするので、あながち無視もできない。
帝国は広いから、まだ若輩である自分が知らない兵器もきっとあるのだろう。
「んー…まぁ…そんなとこ?」
予想以上に舞陽が関心を示したことに少々驚きつつも、明槐はうなずいた。
「そうか。」
「白将軍。」
「なんだ。」
「ちょいと御足労願えませんか? 大事なお話があるのですが。」
『秘密兵器』を持参して『大事な話』ときた。
やらねばならない仕事、やっておきたい仕事はいくつかあるが、話に耳を貸すくらいの時間は用意できるだろう。
何より自身が煮詰まっていたのと、「何か有益な情報を入手できるかもしれない」という淡い期待もあって、舞陽は明槐の後についていくことにした。


 「……一体、どこまで連れて行くつもりだ!」
忍耐も限界にきていた。慣れない岩場を延々と歩かされて、舞陽はとうとう怒鳴り声を先行く少年の背に叩きつけた。
「何? もう音を上げちゃったの?」
…腹立たしいことに、こちらはいたってけろりとしている。地元民の強さというやつだろうか。
「なっ、誰が音なんぞ……!」
「もう少しだから。」
そう言うと、明槐はさっさと先に行ってしまう。
置いてきた兵のことも心配だが、たどってきた道のりを考えるとここまで来て引き返すというのも癪だし、何より「こんな奴」に負けたとあっては部下、そして妹たちに対する権威が失墜するというものだ。
だから半ば意地になって舞陽は歩を進めた。
 不意に視界が開けた。
 眼界を埋め尽くすように広がっているのはきらきらと輝く紺青の海。
降り注ぐのはぬくもりに満ちた金色に輝く太陽の光。
暖かい潮風が舞陽の髪の、色違いの一房を解きほぐすようにかきあげていった。
「……!」
絶景、という言葉がこの景色を表すのに最も相応しいように思えた。
潮の香にはようやく慣れたが、演習場として游津の町にほど近い砂浜を使っているのに、これほどまでに正面から海と向き合ったのは今日が初めてだった。
 ふと我に返ると、明槐の姿が無い。
慌てて周囲に視線を巡らせると、目の前の坂を下っていく後ろ姿が目に入った。
坂と言ってもやはり岩場だから、足元は不安定なことこの上ない。だがまるで自宅の階段でも行くような危なげない足取りでどんどんと下っていく。
突端近くのやや広くて平らな場所にまで降りきると、明槐はようやく振り返った。
「おーい、早く降りてこいよ!」
「…そんなこと、言われても……。」
明槐に聞こえないよう、小さく本音を呟く。ここまで来るのにだってあんなに苦労したのに、どう見たってこれは最大の難所だ。しかし。
(こんな奴に弱みを握られては、白舞陽一生の恥!)
思い直し、意を決して舞陽は坂へと足を踏み出した。
 明槐の三倍も時間がかかったが、その間担当官吏は他事をするでなくじっと待っていてくれた。
 「で、話とは何だ?」
乱れた呼吸を整える間も無く。舞陽は件の物を肩に担いだ姿勢のまま待っていた明槐に向かって問いかけた。
わざわざ町から離れたこんなところにまで連れ出したのだ、よほど重大なことに違いない。
しかし明槐は。
「まぁ、そう慌てなくても。」
そう言って荷を降ろすと、自身もその場にどっかりと腰を下ろしてしまった。
多少戸惑ったが、慣れない道を延々と歩かされて既にへとへとになっていたので、舞陽もまたそれに倣った。
 明槐が持ってきたのは、件の「長い物」だけではなかった。
首の部分に持ち手となる紐を結わえ付けた壷のようなものもある。ただし普通の壷とは異なり非常に軽い素材でできていた。
前者の方は明槐の身長よりも長く、片方の先から更にその何倍もの長さがある細い細い紐が結わえられていた。更にその先には小さな石と金属性の尖った物が付いている。
明槐は懐から小箱を取り出し、ふたを開けるとその中から何かを一つ、つまみ出した。うねうねと動くそれを鉤型に曲げた金属性の尖った物――針に刺す。
 「?????」
「ほら。」
差し出されて舞陽は、わけがわからないまでも取り敢えずそれを受け取った。これで一体、どうやって賊を退治するというのか……??
「こうやって持って。で、こう!」
おぼつかない手つきの舞陽が持つそれに手を添えて、明槐は勢いをつけて、舞陽の頭ごしに振りかぶる。
ひゅっ、という空気を裂く音をたてて、針は紐ごと海原へと旅立っていった。
「あとは、待つだけ。」
「…………いいかげんにしろ。私は暇では…!」
「…一度さ、ゆっくり話がしたいと思ってたんだ。」
針が無事着水したのを確認してから、明槐は静かにそう言った。ただし、いつも話をするときはこちらの目を見て口を開くのに、今日は目線を海面に向けたままだ。
足元の小さな崖の下では、寄せては砕ける波が白い泡をたてていた。
 「話なら、町ででもできるだろうに。」
「…貴方、游津に来てからまだ一度も休みを取ってないでしょ? 少なくとも俺が知る限りでは、不休だ。」
「……何を言い出すかと思えば……。」
二人の頭上を、一羽の海鳥が通り過ぎて行った。
「游津に派遣されたのは、聖上の兵だ。その聖上の兵をお預かりした私が、我が身可愛さで休暇などどうして取れるものか。」
何故そんな当たり前のことすら、この少年は解らないのか。しかしやはり海上に目を向けたまま、明槐は微妙な表情を浮かべた。
「…この前ね、町で小耀に会ったんだ。その……貴方のことをとても心配していた。」
「…あれほど不用意に出歩くなと言っておいたのに。」
「寝る間も惜しんで資料を整理したりしているそうじゃないか。そういうことは俺の仕事だから、遠慮なく言いつけてくれればいいのに。」
「…自分の手でやらなければ、気付かないこともある。」
「ああ、いや…その……なんていうかさ…………。」
もどかしげに明槐は前髪をかき上げた。
「……海賊ってさ、いつ現れるか判らないんだよね。」
「だろうな。不意打ちでなければ略奪は成功しない。」
「だから、現れる周期もまちまち。何ヶ月も静かにしているかと思ったら、十日の間に三ヶ所も襲う時だってある。それに、どうも派閥も幾つかあるらしくてね。
それが互いに手を組んだり裏切ったりしているらしい。…全く、ややこしいったらありゃしない。」
その話は舞陽も知っていてる。昨日目を通した書類にもそのような記述があった。
「だからこそだ。
私が休暇を取っている最中に賊が現れてみろ、対応が後手後手になってみすみす奴らの思い通りに事を運ばせてしまうことになりかねん。
常に臨戦態勢でのぞまねば……。」
「…その『臨戦態勢』を、半年も一年も保っていられるとでも?」
「やるしかなかろう。」
盛大な嘆息が舞陽の耳に届いた。
「無理だね。絶対無理。」
「…何故そう決めつける?」
語尾が少しきつくなったような気がしたが、舞陽は気付かない振りをした。この少年官吏が言わんとしていることがさっぱり判らない。
「人間、何事も成せばなるものだ。やりもしないうちから諦めるなど…。」
「…貴方はそれでいいかもしれないけどね。」
沈黙。ただ波の音だけが二人の耳に届く。二人の影はここに到着した時よりも短くなっていた。
 「…俺、兄貴が居るんだけどね。四つ離れた。小さい頃から頭が良くてさ、周りから「天才だ」って騒がれていた。俺の自慢の兄貴さ。尊敬してる。
親父も母さんも、何はともあれなんでも兄貴のことを優先させていた。」
…話があまりにあちこちに飛ぶ。
「…別に貴方の家族の話など聞きたくはない。仕事さえきっちりやってもらえればそれで…。」
「…その兄貴が官吏の登用試験を受けたのは、十二の時だった。
その時俺はまだ八つで、その試験がどんなに大事で大変なことなのかなんて、半分も解っちゃいなかった。けど…。
…試験の前日、通りすがりに覗いた扉の向こうの真っ暗な部屋の中で、兄貴が一人がたがた震えていたのだけは、今でもはっきり覚えている。
…頭も、度胸も、体だって丈夫で、どこにも文句の付けようがない『絵に描いたような優等生』の兄貴が、だぜ?」
口調そのものは静かだが、その言葉の一つ一つには何故か、ずしりとした重みがあった。
たかだか十五しか齢を重ねていない、新米に毛が生えた程度の官吏でしかないのに。
知らず知らずのうちに舞陽は、明槐の話を「聞いて」いた。
「…その時は単純に「試験って怖いものだ」って思っただけだったんだけど。
今思うと、あれは試験そのものが怖かったんじゃなくて……周りからの重圧……親父や、母さんや、塾の師匠に近所の人たち、それからもっといろんな人たちの…あまりに大き過ぎる『期待』に押し潰されかけていたんだろうなぁって…。
でも誰にもそんなこと言えなくて、だから誰にも気付かれないように真っ暗な部屋の中で一人で泣いてたんだなぁって……。」
…なんとなく、解るような気がする。長子というのはとかく親から特別な『期待』をかけられることが多い。…決して望んで「長子」として生まれてきたわけではないのに…。
「結局、兄貴は俺にも何も言わなかったけど。あの時の兄貴の背中が『助けてくれ!』って叫んでいるように見えたんだ。
そして…貴方を見ていると、あの時の兄貴と重なって見える時があるんだよね……。」
「…………私が、『助けてくれ』と、言っているように見えると?」
無意識に声音が変わっている…。
「そこまでは言わないけど。でも…小耀の気持ち、俺には解る。必要以上に気を張り詰めていて、いつか倒れるんじゃないかって、小耀は本当に心配している。
…他所の家のことに首を突っ込みたくはないし、俺たち游津の民のために真剣に海賊を退治してくれようとしている貴方には本当に感謝している。
でも、妹さんたちの気持ちも考えてやれよ。…貴方はあの子たちの『兄貴』なんだから。」
 …その瞬間、舞陽の中で「何か」が音を立てて切れた。怒りが頂点に達し、顔から血の気が引いていくのが自分でも判った……。
「……そうか…『兄貴』か……。」
(決めたはずなのに。)
「だって……。」
そこでようやく明槐は振り返り、舞陽の様子がおかしいことに気づいた。ぎくりとして開きかけていた口を閉じる。
「…………。」
「『兄』ならばなおのこと、妹たちの手本でなければならぬ……。」
極力平静を装ったつもりだったが、かすかに声が震えた。気付かれただろうか?
「……でなければ、字に『陽』などとわざわざ入れたりするものか……。」
(女としての幸せなど、もう望めぬと、覚悟を決めたはずなのに。)
支えているのはただひとつ、自尊心のみ。
「そうだ。」
しかし、明槐はきっぱりとそう言った。そして真正面から舞陽の目をじっと見つめる。身長は舞陽のほうが気持ち勝っているが、何故か見下ろされているような気がした。
「貴方は、誰だ?」
しっかり、はっきり、噛んで含めるように一語ずつはっきりと、明槐は舞陽に言葉を投げかけた。
「何をいきなり……。」
「貴方は、誰だ?」
「誰って……私は中央から游津に派遣された、賊退治の……、」
「…『賊退治の将軍』の代わりなら、それこそごまんと居る。
でも、「白舞陽」の代わりは、あの子たちの兄貴の代わりは、帝国中、いや世界中探したって、居やしない。…それを忘れるな。」
明槐の瞳は揺るぎ無く舞陽をとらえている。そのあまりの力強さに、舞陽は思わず目線を逸らしてしまった。……やましいところなど、何ひとつとして無いのに。
 「…知ったふうな口を利くな。」
そう言うのが精一杯だった。明槐から渡された「長いもの」をその場に放り出し、くるりと踵を返す。そして舞陽はそのまま一度として振り返ることなく、岩場を後にした。
 舞陽の姿が岩場の向こうに消えてしまうと、明槐は肺の中の空気をゆっくりと吐き出した。どっと全身から力が抜ける。
微妙な表情を浮かべて前髪をかき上げると、そのまま岩場に大の字に寝転がった。
「……嫌われてるのかなぁ、俺……。」
海賊が退治されるまで、舞陽は游津に居ることになるだろう。そしてその間は明槐がずっと世話役を続けることになるはずだ。
どうせ長の付き合いになるのなら、気持ち良く仕事をしたい。
そのためにはまず腹を割って話をするべきだと思ったのだが。
(順番間違えたかなぁ……。)
空は抜けるように青く、ところどころにぽっかり浮かんでいる雲は採れたての真綿を連想させる。
潮風は暖かく、降り注ぐ陽光の心地良さもあって、明槐が次第にまぶたの重みを覚え始めた頃。
 …何かが引きずられるような音が彼の耳に届いた。不審に思い、ゆっくりまぶたを開く。音の方向に首をめぐらせた次の瞬間、一気に眠気が吹き飛んだ。
「!」
跳ね起きて手を伸ばすが、一歩及ばず。先ほど舞陽が放り出したままになっていた「それ」は、明槐の目の前で岩場の下――海中へと姿を消した。
「ああああっ、俺の釣り竿〜〜〜〜っ!!!!」
 呆然と沫砕ける海面を見下ろす明槐は、実はかなり前に「あたり」が来ていたことも、そして舞陽が帰っていった道筋に転々と残っていた水滴の痕が陽光の温もりによって消えつつあることも、結局気付かず終いだったのである……。

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