槐樹眠歌。
巍国万世拾遺譚 目次へ

 巍国の都、皇帝のおわす街「恒陽」。百万を越える人々が暮らすこの巨大都市は、極東地域の内陸部に存在する。
 その恒陽の街の中心からやや離れたところ、中流階級の市民が住む住宅街の一角に、その家はあった。
 そこそこに古い住宅ではあるが、庭が広いことを気に入って今の住人が住み着いたのは、ほんの二十年ほど前のことだ。
 隅々まで掃除が行き届いた庭の、そのほぼ中央に、永い時をかけて作り出された独特の世界の中にぽつんとひとつ、若木が枝を伸ばしていた。


 「あーあ、どうしてこうなるかなぁ。」
雲と青空とが空を二分している、ある春の日の昼下がり。そう呟きながら庭をふらふらとやってくる人影がひとつあった。
 この家の末っ子で、名を白賢橿(はく・けんこう)という。
黒い髪と瞳の持ち主だが、肌は黄色というより白に近い。かといって青白いというわけでもなく。
まだ九歳だが、歳の離れた姉兄たちにもまれて育ったためか、年齢の割に聡明な少年であった。
 その賢橿であるが。機嫌のほうは少々斜めのようであった。
庭中央の若木の下には、これまた何故か彼の母が簡素なつくりの木製長椅子を据えていた。
そこにどっかりと腰を下ろすと、賢橿少年は、小脇に抱えていた硯箱を足下に放り出した。
「どう考えたって、おかしいじゃないか。」
ぶつぶつ言いつつ、傍らにある若木をがつんと拳で殴ってみる。
単純に怒りの捌け口としてたまたま視界に入ったものに八つ当たりしてみただけなのだが、殴られたほうの木はわさわさと揺れただけで小枝のひとつも折れることなく、少年の怒りを受け止めた。
賢橿はそのままずるずると若木に背を預ける。口を尖らせたまま、彼が腹を立てることになった私塾での経緯を反芻していた。
「あんなの、やってられるかっての。」
賢橿はもう三年も前から市中の私塾に通っていた。
最初のうちこそ何の疑問も持たずにいた賢橿が、しかし不満を抱くようになり始めたのは、ここ半年ほどのことだ。
勿論塾へ行くのは嫌いではない。
姉兄たちは皆歳が離れているし、最近勉学やらが忙しくなったとかで(賢橿にはとてもそんなふうには見えないのだが)なかなか構ってもらえなくなった。
離れには書生が三人住んでいるが、こちらは母屋を訪ねてくることも滅多に無い。年頃の娘が三人もいるので遠慮しているらしい。
そんな具合なので、同年代の子供が居る塾に居たほうがずっと楽しい。男の子ともなればなおさらだ。
けれど、それでもどうしても我慢ができないことだってある。それは。
「国家試験突破できるくらい『できる』先生が、どうして僕に論破されるかな。」
先にも記したとおり、賢橿は非常に聡明な少年であった。
聡明であるが故に学問に対する理解度も早く、九歳にして早くも大人顔負けの知識を身につけていた。
故に、塾長といえども彼に教えられることはもうほとんど無くなっていたのである。
 その塾長に、叱られたのだ。
理由はよくわからないが、やっかみなのではないかと賢橿は思っている。
友人たちが使っている書物はとおの昔に暗記してしまったし、先生の書庫に納められている専門書の類もほとんど読破してしまった。
だから時折先生を訪ねてくる大学生たちとの「高尚な」話題に参加したいと常々思っているのだが、どういうわけか全く相手にされない。
それどころか「友達と外で遊んでおいで」とまるっきり子ども扱いなのだ。
勿論遊び友達と他愛ないおしゃべりに興じるのも悪くは無いが、賢橿にとってはそれよりもむしろずっと、大人たちとの会話に参加することのほうに強い関心があったのだ。
だから今日こそはと思い、話の輪に入れてもらおうと思ったのだが。
あしらわれるどころかとうとう叱られて追い出されてしまった。それでへそを曲げて帰ってきた、というわけである。
 とにかく、虫の居所が悪かった。
家の中はしんと静まり返っている。
母が出かけていることは知っているし、使用人のほうは買い物にでも出たか、何処かの部屋の掃除でもしているのだろう。
二十年ほど前に中古物件だったのを購入したのだと聞いているが、現在住んでいる人間の数と比較しても、この家には無駄に部屋数がある。
若い頃の苦労の証しか両親は共に贅沢を好む人ではなく、よって冬の深夜などは寂しさに冷え切るような感覚を覚えさせるくらい、家の中は閑散としていた。
とにかく、予定外に早く帰ってきた賢橿を迎えてくれるどころか、帰宅したことに気付いた者は誰一人としていなかったわけである。
 微風が、少年の頬を撫でていく。
広い庭に溢れる草木の葉を揺らしていくが、不快を覚えさせるものではない。
大都会の真ん中だというのに彼の家がある一帯は閑静で、時折風に乗って表通りのざわめきがかすかに聞こえる以外は、むしろトカゲが庭草の間を通り抜け、蜘蛛が枝葉の隙間に巣を張る音まで聞こえてきそうな、そんな静けさに包まれている。
 「…………。」
どうしてこう、世間はこんなにも平和なんだろう。僕がこんなに怒っているというのに。
不公平じゃないか。僕が一体何したっていうんだ。僕には充分大人たちの話に混ざれるだけの資格がある。
それをまともに相手しないだなんて、きっと先生は僕のことを妬んでいるんだ。
近いうちに僕の才が先生を追い抜くことを恐れていて、だからこれ以上僕が賢くならないように邪魔をしているんだ。きっとそうだ――。
 賢橿の遥か遥か上空で、一羽のとんびがくるり、と輪を描いた。

          ◆   ◆   ◆

 気がつくと、薄もやの中に賢橿は一人、立っていた。
妙にふわふわしていて実感が無い。
「賢い」賢橿はすぐに、自分が夢を見ているのだと気付いた。どうやら眠ってしまったらしい。
(夢を夢だと実感できるだなんて。変なの。)
そう思いつつも、賢橿は目覚めたいとは思わなかった。
ここで目を覚ましたところで面白いことなんか何も無いことを思い出したからだ。
それならしばらくこの夢の中で遊んでいくのも悪くは無いだろう。
何より自分の夢の中だ、自分に都合の良いように事を進めることができる。そんな打算的な思いも実をいうと多少はあったからなのだが。
 このまま呆と立っていても「物語」は進展しないような気がしたので、取り敢えず賢橿は歩き出すことにした。
右を向いても左を見ても薄もやは延々と続いており、足下にも道らしきものは全くみつからない。
下手をすればまっすぐ歩いているのかどうかさえ疑わしくなってくる。
しかし賢橿は怖いとは少しも思わなかった。迷うという気が一切しなかったからである。
 どれほど歩いただろうか。
「っ!?」
不意に足下の感覚が無くなり、賢橿の身体は下方へと自由落下を始めた。悲鳴を上げる間もない。ぐんぐんと落ちていく。
底無しなのかと思った瞬間、やわらかい水が衝撃を吸収して賢橿の身体を受け止めてくれた。
突如現れた川の中に、賢橿の小さな身体は浮き沈みしていた。そして、流される。
流れは速く、泳術の心得など全く無い賢橿はなすすべも無く急流にもまれていく。
(泳がなくちゃ!)
泳がなくては、溺れてしまう。
水中で必死に手足をばたつかせていると、何かが右手の人差し指に触れた。細い細い紐のようなものが、指に絡まっている。
無我夢中で文字通りそれにすがりつくと、意外なほどすんなりと、賢橿の身体は紐の元のほうへと吸い寄せられていった。
 頭上が割れた。どうやら水中からの脱出に成功したらしい。だがそれだけでは終わらなかった。
紐――というより糸に近いかもしれない――はなおもぐんぐんと賢橿を手繰り寄せ、水上どころかなんと空中にまで持ち上げていく。
そして崖を上りきったところで賢橿は、釣竿を手にしたまま呆然とこちらを見ている一人の少年と目が合ったのだった。


 さすが夢の中、といったところか。
あれだけの急流にもまれたにもかかわらず、賢橿の衣は滴のひとつも落としていなかった。夢の中に入ってきたときのまま、乾いている。
そういえば、流されている間も全く息苦しさを覚えなかった。
 「とはいえ。いくらなんでもこの展開はあんまりだ…。」
そう呟き、顔を上げると。
賢橿の顔を覗き込んでいる顔がひとつ、あった。賢橿を「釣り上げた」、あの少年である。
髪も瞳も黒いが、肌は賢橿よりも黄色みが若干強いような気がする。
年のころは賢橿と大差無いように思われたが、身につけている衣装は少しばかり古臭い印象を覚えた。
釣竿を肩に担ぎ、不思議そうに賢橿の顔を見つめている。
「な、何だよ。僕の顔に何か付いているのか?」
あまりにもじっと見つめられて、賢橿は思わず三歩ほど身を引いた。
それでも、この少年が「釣り上げて」くれなかったら自分はまだあの急流を流されていたのかもしれない、と思うと謝辞を述べないわけにはいかなかった。
少なくとも賢橿の母は、そのあたりのしつけはかなり厳しかった。
 「その…助けてくれて、ありがとう……。」
ばつの悪さも手伝って、声はかなり小さい。
「でも! 僕は魚じゃないぞ!」
寝入る前の不機嫌さがまだ尾を引いていたのか。気が付くと賢橿は怒鳴っていた。同じ助けるにしたって、もう少しましな方法があっただろうに。
しかし怒鳴られたほうの少年はというと、やっぱりきょとんとしていたが、次の瞬間……にっこりと笑った。
まるで、賢橿が怒っている理由がさっぱりわからない、といった風情だった。
(……言葉が通じないのかな?)
まあいいや、と賢橿は立ち上がった。通じていなくても礼は言ったのだから、少なくとも義は果たしたことになるのだし。
「さて。どうするかなぁ……。」
先ほど自分が流された川に目を向ける。
まるで紙に一筆線を引いたかのように、相変わらずな薄もやの中に、どこまでもどこまでも、視界の利く限り果てしなく、文字通り一直線に、ただひたすら伸びている。
下流にも目を向けてみたが、やはり同じだった。わずかな起伏すら見当たらない。
本当に何も無い世界に、賢橿と川と、そして釣竿の少年だけが存在していた。
とにかく歩いていくしかないか、と賢橿は川に背を向けた。
歩いていたら川にぶちあたったのだ、そのうち今度は山にでも行き当たることだろう。
「じゃあね」と言うと、賢橿はすたすたと歩き始めた。
 ところが。
 「……何でついてくるんだよ。」
 気配に振り返ると、さっきの少年が賢橿の後ろにいた。
釣竿を肩に、魚篭(びく/獲った魚を入れておくカゴ)を左手に。それも、まるで賢橿についていくのがさも当然、といった顔をしている。
賢橿が眉間に縦しわを刻んでみるが、怯んだ様子は一切無い。それどころか賢橿が言葉を発すると、またにっこりと笑った。が。
「黙ってないで、何か言えよ。」
そう言われて初めて、少年は少し困ったような表情を浮かべた。
「大体、なんなんだよ君は。僕の夢に勝手に出てきて、勝手に後をついてきて。この夢の中を案内してくれるとでもいうのか?」
さらに詰め寄る賢橿。
歳は若いが、その利発さが幸か不幸か、彼に大人と接する機会を普通の子供よりも多くさせていた。
世の中にはいろんな大人がいることを、賢橿はこの歳でよく知っていた。
だから例え子供といえども知らない相手に対する警戒心は、とても強い。
しかしそんな賢橿の心情を察しているのかいないのか。
その言葉を聞いた途端、少年の目がぱっと輝いた。満面の笑みを浮かべ、大きくうなずく。
「案内ったって。実際何も無いじゃないか。だから……。」
賢橿の言葉が終わらないうちに。
少年は肩から釣竿を下ろすと、その先端ではるか薄もやの彼方を示し、すうっと水平に引いた。そのままその場でぐるりと一回回る。すると。
 「……!?」
まるで、少年の動作に合わせるかのように。
あの薄もやが、釣竿が向いた方向から、まるで溶けるように消えていった。
そして晴れたもやの向こうから、山が、森が、平原が、姿を現したのだ。
先ほどの川でさえ、いつの間にか緩やかに蛇行し、沢を抜け谷を抜け、ところによっては滝つぼを作り、そしてはるか彼方にきらきらと青く輝く巨大な海原へと流れ込んでいた。
耳には鳥のさえずりが届き、肌には草原を渡る風が触れた。
 言葉が出てこなかった。
 賢橿は恒陽の街で生まれ、恒陽の街で育った。恒陽は巍の首都であり、最大の都市である。
生まれてこの方恒陽から出たことは一度としてなかったし、その必要に迫られたことも無かった。そして、多分よほどのことがなければこの先も出ることは無いだろう。
 だから、本で読んで知ってはいても、実際にこういった景色を見るのは初めてだった。
「…すごい……。」
かろうじて、そんな言葉が出てきた程度である。
「なあ、ここは一体どこなんだ? …そりゃ、夢の中だってことは判るけど……。」
少年は答えない。相変わらず黙ったままだ。
しかし彼の目は終始、周囲の景色ではなく賢橿のほうに向けられていた。…まるで、賢橿の反応を楽しんでいるかのように。
 きっとこの少年は、この世界の案内人か番人といった役どころなのだろう。賢橿はそう思うことにした。そうでなければこんな芸当などできようはずもない。
 改めて、賢橿は少年に向き直った。
少年は何かを期待するように賢橿の言葉を待っている。黒い瞳は一切の迷い無く、賢橿の姿を映していた。
「君、名前は?」
 案内人であるのなら、呼び名くらいは知っておきたいところだ。
しかし、何か言いかけるように唇を動かしたものの、やはり少年は何も答えなかった。
「もしかして……口が利けないのか?」
完全なあてずっぽうではあったが、少年はしばしの間の後、少し寂しげに苦笑して、大きくうなずいた。
そうか、としか賢橿には言えなかった。
とはいえ、さすがに名無しというわけにもいくまい。だが、幸いここは賢橿の夢の中だ。
「そうだな……君がここを案内してくれるっていうんなら、僕が名前をつけてやってもいいよ。」
少年は目を真ん丸にしたが、満面の笑みを浮かべて大きくうなずいた。今まで見せた笑顔の中でも最も良い表情だった。
 賢橿は少年を阿吽(あうん)と呼ぶことにした。
阿吽とは遠い異国の言葉で「始まりと終わり」を意味する。先日本から仕入れたばかりの新鮮な知識を、さっそく使ってみたかっただけだった。


 阿吽がまず賢橿を連れて行ったのは、林だった。
林にはさまざまな種類の木があり、そのどれもが青々とした葉をいっぱいにつけている。
樹皮も、葉の形も、実にさまざまだ。花や実をつけている木もたくさんある。
と、賢橿はあることに気づいた。桃と梅とアケビと栗が、同時に実を結んでいるのである。
季節の異なる果実が同時に実っているなど、なんとも「夢」らしい現象ではないか。
「僕の発想もずいぶん貧困なんだな。」
どうせならもうちょっと現実味の強いものか、あるいは呆れるくらい突拍子もないもののほうが面白いのに、と賢橿は思った。
そうでなければ、わざわざ夢の中を探検する甲斐が無いというものだ。
 振り返ると、阿吽は釣竿の先を頭上に伸ばし、李(すもも)の実を取ろうとしていた。
李はどれも赤く色ずんでおり、今にも果汁がしたたりそうなほどに熟していた。
まさに食べごろ、見ているだけで口の中に甘酸っぱい果汁と香りがひろがるような、見事な熟れっぷりである。
しかし、釣竿は魚を釣り上げるための道具であって、樹に実っている果実を叩き落すための道具ではない。
当然、釣竿の先端は李の表面を突くことはあっても、叩き落すには程遠かった。
「馬鹿だなぁ、そんなことしたって採れるわけないのに。」
夢の中の住人である阿吽でこれなのだから、これはきっと観賞用なのだろう。そう思い賢橿が静観していると。
 何を思ったか。阿吽はそれまで決して手放さなかった(というより持ち歩いていただけなのだが)釣竿と魚篭を足下に下ろした。
そして李の木の幹にわしっと抱きついたのである。
阿吽が身につけている衣装は古臭くはあっても仕立ての良い物で、逆に言えばあまり運動をするのに適したつくりになっていない。
しかし何をどうやったのか、阿吽は少しばかり苦労したものの、気が付いたときには李の木の太い枝に腰掛けていた。…なんとも便利な夢である。
 木の上から阿吽は賢橿に向かって手を振ってみせた。高さは裕に賢橿の倍はありそうだ。
「へぇ…。」
釣りだけじゃなく木登りもできるのか。
にこにこ笑いながら手を振っている阿吽に手を振り返すべきなのか迷っていると、阿吽はそろそろと枝にまたがったまま前進を始めた。
腹這いになり、細い枝の先になっている美味しそうに熟した李の実に手を伸ばした。大して抵抗無く李は阿吽の手中に収まる。
すると阿吽は、樹下の賢橿に向かって李の実を投げる仕草をしてみせた。受け取れ、ということらしい。
「ええ?」
躊躇している間もあればこそ。次の瞬間、李は阿吽の手を離れていた。
「わ!」
条件反射。あわてて手を伸ばす。
ぽてん、という音をたてて李は無事賢橿の掌中に納まった。途端に李の甘酸っぱい香りが賢橿の鼻腔をくすぐった。
匂いまで再現されているとは、なんとも丁寧な夢である。
 賢橿がきちんと実を受け止めたのを見て、阿吽は大喜びで手を叩いた。そして、次の実に手を伸ばす。
「え? うわ、わああっ!!」
手元の実をどうにかする前に次の実が降ってきた。さらにひとつ、またひとつ。
どこかに置いている余裕も無く、賢橿は足下に李を放り出すと、次々に降ってくる実を受け止めに走った。
その様子が面白かったのか、調子に乗って阿吽が右に左にと投げる方向を変えるものだから、当然賢橿もあちこちへ走らされることになる。
結局三つ受け損なったものの、残りは全て何とか受け止めるのに成功した。
「面白がってるだろ!」
その場に座り込みはぁはぁと肩で息をつきながら、賢橿は樹上でやっぱりにこにこ笑っている阿吽に向かって拳を振り上げた。
辺りは李の香りですっかり満たされている。
「だいたい! こんなにたくさん落してどうするんだよ! 全部食べろってのか!?」
ざっと見ただけでも、阿吽が投げてよこした李の数は三十はあるように思えた。賢橿は李は好きなほうだが、それでも二人で食べきれる量ではない。
怒鳴られて、阿吽はしばしきょとんとしていたが、ようやく賢橿が言っていることに合点がいったようで、さすがにまずかったかな、という表情をした。
それがまた面白くなくて、思わず賢橿は手近にあった李の実をひとつ掴むと、樹上の阿吽に向かって投げつけた。
遠投は得意ではないが、そこは自分自身の夢の中、李の実は阿吽が居る高さまで問題なく届く。
反射的に阿吽は、飛来した李を上体をそらしてかわした。
李は阿吽にも木の幹にも当たることなく、明後日の方向に飛んでいってしまった。
…が、よけたその拍子に阿吽は大きく体の平衡を崩してしまった。ふわり、と阿吽の体が枝から投げ出される。
「あっ!」
と思ったときにはもう、阿吽の体は地面の上にあった。どさり、と重たい音がしたように思う。
大慌てで賢橿は阿吽の元に駆け寄った。
落下した姿勢のまま、阿吽はぴくりとも動かない。
「阿吽! おい、しっかりしろ!!」
声をかけてみても、揺すってみても。阿吽の反応は無い。賢橿の心にひやりとしたものが触れた。
「……おい、冗談だろ……。」
…ここは僕の夢だぞ。夢の中で、僕の夢の中で、人が死ぬだなんて、そんなことあってたまるか……!
「なんか言えよ!」
…阿吽は口が利けないんだったっけか。いや! でもそれにしたって何かしら反応したって!!
「阿吽……。」
手が、震えている。
……あんなこと、しなければ。僕が阿吽に向かって李を投げなければ。阿吽は木から落ちずに済んだかもしれない。
そう思うと、後悔で胸がいっぱいになった。
取り返しの付かないことをしてしまった、その恐怖が、黒い雲となって賢橿の心におおいかぶさってくる。
ぺたん、と賢橿はその場に座り込んだ。じわり、と目頭が熱くなる…。
「僕が…悪かったから、だから……。」
そんな言葉がぽろりとこぼれたときだった。
 まるでそれが合言葉か何かだったかのように、それまでくたりとしたまま動かなかった阿吽のまぶたが、突然何事も無かったかのようにぱちりと開いたのである。
そして、にやっと笑ってみせたのだ。嫌味など欠片も無い、単純な悪戯小僧の笑みだった。
 それに気づいた賢橿の頭が、かっと熱くなった。
何しろ、自他共に認める天才児である。まんまと夢の中の案内人ごときに引っ掛けられたと知って、自尊心が傷つかないわけが無い。いやそれ以前に。
「阿吽! だましたなっ!!」
思わずぶんと振りかざした賢橿の右手の射程距離から、阿吽は一瞬真顔になって文字通り転がり出た。
ここまで賢橿が怒るとは思っていなかったのか、初めて狼狽の色を浮かべている。だが、次の台詞を聞いてそれもゆるんだ。
「心配して損したっ!!」
吐き捨てるように叫ぶと、賢橿はくるりと後ろを向いた。
この僕が、たかだか夢の中の案内人なんかの身を心配しているだって? 馬鹿馬鹿しい、夢の中で人が死ぬなんてこと、あるわけない…。
照れから頬に赤みが差していることも気づかずに、賢橿が胸の中でそんな言い訳をしていると。
 突然、視界の中に阿吽の顔がぬっと現れた。
「わ!?」
不意打ちもいいところである。思わず賢橿は一方後ろに飛び退いていた。心臓がばくばくいっている…。
 阿吽の唇がわずかに動いた。がやはりそれは声にならなかった。
何と言ったのかは判らなかったけれども、それでもさすがにしおらしげにしているところをみると、少しは反省しているみたいである。
しまった読唇術でも学んでおけばよかったかな、と賢橿は後悔した。代わりにさも偉そうに胸の前で腕を組んでみたりする。
「僕を謀ろうなんて、百年早い! ……でもまぁ…今回は不問にしてやる。」
阿吽は一瞬――そして初めて――表情を曇らせた。
が、すぐに気を取り直したかしたらしく、こくんと肯首すると、今度はその場にぺたりと座り込んだ。
そして、先ほど樹から投げ落とした李を手に取り、賢橿のほうに差し出した。どうやら「食べよう」と言っているらしい。
 「……。」
難しい顔をしていた賢橿だったが。鼻腔をくすぐる李の甘酸っぱい香りはとても魅力的で。
何のかんの言いつつも、結局は阿吽の隣に腰を下ろし、李の実にかぶりついたのだった。
 正直言って。阿吽が何を考えているのか、賢橿にはさっぱりわからない。
声が出ない上に大抵はにこにこ笑っているとあっては、暖簾に腕押しというか、ぬかに釘というか。
ただ、時折やけに大人びた表情をほんの一瞬だけ阿吽が見せることには、まだ気付いていなかった。


 それから、阿吽は賢橿をさまざまな場所に連れて行った。そしてそのほとんどが、賢橿が初めて見るものだった。
中でも海は、いろんな意味で衝撃を覚えた。
 海、というものがどういうものか、賢橿は知らなかった。いや、塩辛い水がどこまでも続く地域、くらいの認識しかなかった。
海の上に船というものを浮かべると荷車や馬車よりもはるかに大量の荷を一度にしかも楽に運べるのだということも、海を隔てた向こうに倭洲という地域がぽつんと存在するのだということも、海には魚が沢山いて海の近くに住む人々は肉よりもむしろそちらを好んで食するのだということも、全て知識として知っていた。
だが、それらは全て本から得た知識であり、賢橿が実際に目の当たりにして学んだことではない。
何しろ賢橿は生まれてから一度も、内陸にある帝都恒陽を出たことがないからだ。一生出なくても充分事足りるほどのものが、この街には常に揃っているのだ。
 だから。
「……。」
海岸に案内されたとき、賢橿は言葉が出てこなかった。
 何しろ、視界の全部が水水水、という世界である。色は濃い青、それが太陽の光を映してきらきらと輝くのが眩しい。
表面は池などと違って激しく揺れていて、その余波が砂浜に絶え間なく押し寄せてくる。
今賢橿が立っているのは目の粗い砂利の上なのだが、押し寄せた波は静かにその砂利の中に吸い込まれていく。
それが、賢橿が見ている間だけでも何十回何百回と繰り返され続けている…。
潮の香が、慣れない鼻にむっとついた。
 勿論それだけでも賢橿には充分に衝撃的だったのだが、それよりもむしろ驚いたのは、今まで知識としてはあっても実際には漠然としたものとしてしか捉えていなかったものが、夢の中とはいえ、自身が思い描いていたものよりももっとずっとはっきりとした輪郭と立体感と音と質感と、とにかくそういったものがあまりにも鮮明なことだった。まるで…。
(誰かの記憶を見ているようだ……。)
そんな感想を抱き、そして自らの突拍子も無い発想にぎょっとなった。
(そんなこと、あるわけないか…あるわけないよな。馬鹿馬鹿しい…。)
軽く頭を振って思考を散らす。そしてふと、隣の気配を思い出した。
 阿吽は、やはりこの夢の案内人だからなのだろうか、賢橿のように海に見とれていたりはしなかった。
代わりに、かがんで足下の砂利をさかんに物色している。
何をしているのかとのぞきに行くと、阿吽はようやく探し物が見つかったのか、立ち上がった。
そして「見ていて」と目で言うと、海のほうに向き直り、大きくふりかぶった。
 阿吽の手を離れた小石が、勢いよく水面すれすれを駆けていく。
だがそれも永久にというわけにはいかない。勿論落下すると賢橿は思った。だが。
 小石が、跳ねた。それも、一度、二度、三度…そしてさすがに失速して水の中へと消えていった。
「…えっ?」
石は水に沈むものだろう? それが何故跳ねる???
よほど間の抜けた顔でもしていたのだろうか、気がつくと阿吽はちょっと誇らしげに笑っていた。
いつもの賢橿ならここで腹を立てて怒鳴っているところだが、それよりもまず知的好奇心のほうに関心がいってしまったのは、やはり賢橿だからなのだろうか?
 賢橿の関心をひきつけられたのがそんなに嬉しいのか、阿吽は再び小石を投げた。
やはり鋭く水面ぎりぎりをかけた小石は、今度は二度跳ねて水中に消えた。
そして阿吽は再び賢橿の顔を見る。挑発されているのだということはすぐに判った。
「ふん、見ていろ。」
乱暴に言うと、賢橿は足下の小石を一つ拾った。見よう見まねで大きく振りかぶる。
遠投は得意ではないが、先ほど投げた李の実はじつに良く飛んだ。
そうだ、ここは僕の夢だ。夢を見ているのは僕だから、僕にできないことはない…! だが。
 賢橿の投げた石は一度も跳ねることなく、あっさりと水中に没した。あっという間の出来事だった。
「な…。」
隣では相変わらず阿吽がにこにこ笑っている。まるでそうなることが最初から判っていたかのように。
これがまた賢橿の負けん気に火をつけたのは言うまでもない。
「〜〜〜〜!!!!」
うなり声を上げると、賢橿は再び小石を拾った。
同じように投げてみるも、やはり跳ねることなく水中に消える。それどころか阿吽のように水面すれすれを走らずに、放物線を描いてしまう。
むきになって更に二投三投してみるが、何度やっても結果は同じだった。
 「な…何で……。」
はぁはぁと肩で息をつく頃には、軽く二十回は投げたのではなかろうか。その頃にはさすがの賢橿も虚勢を張るだけの元気は無くなっていた。
「お前が…投げたら跳ねる…のに、どうして僕の…は、ぜんぜん跳ね…ないんだよ!」
睨まれて、阿吽は苦笑しつつ掌に握っていた小石を賢橿に見せた。
 握られていた三つの小石は全て、薄く平べったい形をしていた。そのうちの一つを賢橿に渡す。
自身も一つを利き手に握ると、阿吽はゆっくりと投げるしぐさをしてみせた。
――振りかぶった腕は頭上を通らず、肩の高さで水平に大きく半円を描いていた。
(あっ…。)
賢橿の頭の中で何かが弾けた。一呼吸ついてから、再び水に向き直る。そして阿吽がしてみせた動作を、こちらは力いっぱい高速で真似た。
 小石は、一度跳ねてから水中に没した。
「跳ねた……!」
そのとき自分がどんな表情をしていたのか、賢橿は全く自覚していなかった。
が、振り向き目が合った阿吽が目を見開いていた。
まるで我が事のように躍り上がって喜ぶ阿吽を見ていると、何だか面映い気持ちになった。
「どーだっ!」
照れ隠しに胸をそらす。
その様子に阿吽は機嫌を損ねるどころかくすくすと笑った。楽しくて仕方が無い、という笑みだった。
 それから二人は、海岸中を歩き回ってそれぞれに小石を確保すると、投げ比べをすることになった。
最も多く跳ねさせたのはやはり阿吽で、五回というのが最高記録だった。
しかし、最初のうちはせいぜい一回跳ねるかどうかだった賢橿の腕も次第に上達し、遂には三回跳ねさせるほどにまでなった。
そして阿吽は、自分が勝ったことよりも、賢橿の腕が目に見えて上達していくことのほうを喜んだ。
 時が経つのも忘れて、少年たちは夢中になって遊んだ。


 そろそろ日が暮れ始めてもいい頃だよな。賢橿がふとそう思った途端、急速に周囲は黄昏色を伴い始めた。
しまった、ここは僕の夢なんだから僕がそう思ったら日が暮れるんだ、と気づいたときにはもう遅い。
 海岸から少し引っ込んだ岩場の上で、賢橿と阿吽は休息を取っているところだった。
阿吽の魚篭の中には何故か魚ではなく先ほど大量に採った李が入っていて、二人はそれを仲良くかじっていた。
 この海岸は西に面しているらしく、真っ赤な夕日が海に向かってゆっくりと沈んでいくのが見えた。
水面は青から橙へとその色を変えていたが、やはりきらきらと輝いていた。
「こんなに綺麗な夕日を見るのは初めてだ。」
ぽつんと呟いた賢橿の言葉は、他意の全く無い純粋な感想だった。
そのとき阿吽は賢橿の斜め後ろにいたので、そのときも彼が笑っていたのかどうかは判らない。
ただ、後ろでなにやらごそごそとやっている気配がしたのは知っていた。
 静かな音色が賢橿の耳についたのは、やや間があってからだった。
首を巡らせると、いつの間にどこから取り出したのか、阿吽の口元には銀色の棒のようなものが添えられていた。
鮮やかな紫色をした飾り紐が結わえられているそれが笛であると判るのには、そう苦労しなかった。
 正直言って驚いた。
 というのも、阿吽は口が利けないどころか声そのものが出ないらしく、どんなに笑ってもその喉から音が出てくることは一切無かったからだ。
それゆえに阿吽のしぐさはいちいち大げさで、何とか賢橿に意思を伝えようと、体全体を使って表現しようとするのである。
それが時に滑稽で、賢橿の笑いや怒りを誘ったりしていたのだが。
 笛の音はとても穏やかで優しくて、まるで柔らかな毛織物で全身を優しく包まれるような感覚を賢橿は覚えた。
今までの阿吽が動ならば、この音色はさしずめ静といったところか。
初めて賢橿は阿吽の「感情」らしきものに触れたような気がした。いや、それだけではない「何か」を感じていた。
それをどう表現すればいいのかは、知識はあっても人生経験の乏しい賢橿には残念ながらわからなかったのだが。
ともかく演奏の邪魔をしては悪いと思い、賢橿は何も言わずに黙ってその旋律に耳を傾けていた。
それがまたこの美しい夕焼け空と見事に調和していて、何故かはわからないけれど、賢橿は涙が浮かんでくるのを抑えられなかった。
でもそれを阿吽に気づかれるのは嫌だったので、賢橿は真正面を向いていた。
 (そういえば…。)
ずっと気にかかっていたのだが。阿吽とはどうにも初めて会ったような気がしないのである。
勿論ここは賢橿の夢の中なのだから、賢橿が無意識に作り出した存在なのだろうが。
ずっとずっと昔、この顔をどこかで見たような気がしてならないのだ。それがどうしても思い出せなくて。
もしかしたら賢橿が阿吽に対して抱えている「もどかしさ」の一端は、そこにあるのかもしれない。
 笛の音は、どこまでもどこまでも、優しかった。
 夕日が水平線に触れた。
 家の格式に関わらず、日が暮れれば人は家路に就くものである。
だから、夕日を見ていた賢橿が家のことを思い出したのは全く自然のことだ。
どんなに頭が良くて、どんなに気が強くても、やはり賢橿は九歳の少年である。途端に家が恋しくなった。
帰る方法は判っている。でもそれは……。
 気がつくと、笛の音が止んでいた。
振り返ると、阿吽は賢橿ではなく、遠い遠い夕日をじっと見つめていた。
 静かな横顔だった。
背格好は賢橿と大して変わらない阿吽が浮かべていた表情は、どこかしら達観している印象を覚えた。
急に大人びた面を見せた阿吽に、賢橿はなぜかしら胸の奥に疼きを覚えた。
そうだ、この顔だ。でもどこの誰? 喉元まで出掛かっているのに、それが誰なのか、いまいち確信が持てない。
でも僕は知っている。この顔を知っている。ああ、でも…!
 ふと、阿吽がこちらを向いた。じっと賢橿の顔を見つめている。
静かにたたえた微笑は、一緒に遊んでいたときとは明らかに違うものだった。慈しみに満ちた、微笑だった。
 夕日は既に半分ほども水平線の向こうに消えている。寄せては返す波の音。
阿吽の背後の空はもう夜の色に染まっており、一番星が輝いているのが賢橿の目にも見えた。
 ゆっくりと阿吽は立ち上がった。そして、賢橿がいるのと同じ高さまで岩場を下りてくると、向き合った。
「阿吽…?」
何か言わなければ。理由はわからないけれど、賢橿はそんな焦りを覚えていた。
でも、何を言えばいい? なんて言えばいい? わからないまま、太陽はどんどん沈んでいく。
 そのときだった。賢橿の真正面に立っていた阿吽の姿が突然、霧のようにぼやけたのだ。
消えてしまう!と思った瞬間。
それまで阿吽が立っていた場所に代わりに現れたのは、壮年の男性だった。
ずんと背が高くがっしりとした体躯をしているのに、賢橿は直感でそれもまた阿吽なのだと悟った。
大人になった阿吽が、そこにいた。
いや違う、あの人の名は「阿吽」じゃない…! あの人は……!
 「彼」もそれを察したようだった。そっと賢橿に歩み寄ると、膝をついて賢橿と目の高さを合わせた。二人の目が合う。
「あ……。」
言わなきゃ、何か言わなきゃ! でも、喉が干からびてしまって、言葉が出てこない。
しかし「彼」は一つ静かにうなずいただけだった。まるで「解っているよ」とでも言うように。
 ふわり、と「彼」の手が伸びた。優しく、そして強く強く、抱きしめる。賢橿の感触を体に刻み込もうとするかのように。
賢橿の頬を涙が伝っていった。
「おと…………!」
太陽が完全に水平線の向こうに消えてしまうのと、「彼」の姿が光の粒子となって夢の向こうへ消えていくのと、賢橿が夢の世界からはじき出されたのは、ほぼ同時だった――。

          ◆   ◆   ◆

 「……うさんっ!!」
自分の声に驚いて、賢橿は目を覚ました。目の前にあったのは。
「……そんなところで寝ていると、風邪を引くぞ。家に入りなさい。」
少々驚いたものの、肝の据わった母の顔だった。
「…あれ?」
慌てて周囲を見回す。
 どうやら、ご機嫌斜めで帰宅して、庭の真ん中でぶつぶつ文句を言っているうちに眠りこけてしまい、そのままだったらしい。
周囲はすっかり薄暗くなり、室内には灯火が灯されている。
母屋から伝わってくる人の気配が多いのに気づき、ああ皆帰宅したんだなと思う。
「…その前に、顔を洗ってきたほうがいいだろう。悪い夢でも見たのか?」
言われて、賢橿は初めて、己の顔に涙の痕があることに気づいた。
寝ながら泣いていたなんて歳の離れた姉たちに知られたら、またからかわれるに決まっている。
「悪い夢なのかな…よくわからない。」
言いながら身を起こすと、胸元から何かがはらりと滑り落ちた。
賢橿がもたれていた樹――この庭の中央にある若い槐の樹――の葉だった。
しかし賢橿はそれに気づかず、そのまま庭の隅にある池に向かった。
この池の水は伏流水を直接引いてあるので、飲料に用いれるほど澄んでいるのだ。
その水で顔を洗おうとほとりに膝をつき、池を覗き込んで…賢橿は息を飲んだ。
 阿吽がいた。
 いや、そこに映っているのは間違いなく自分の顔である。だがそれは阿吽の顔にも酷似していた。
当然である。なぜなら賢橿は阿吽の……。
 「賢橿、終わったらすぐに家に入りなさい。大事な話があるから。」
再び母の声がした。
若い頃は一将軍として各地を転戦していたという彼女の「命令形」には、有無を言わさない響きがある。
「はぁい!」と返事をすると、賢橿は大急ぎで顔を洗った。
 末っ子が母屋の中に消えてしまうと、母はそっと地面に落ちた槐の葉を拾い上げた。
今は落葉の季節ではない。葉には虫食いの痕など一切なく、初夏の深緑の色をしていた。
母はふっと表情を緩めると、そっと槐の若木に額を押しあてた。
「…あの子のことが心配だったのか?」
さわさわと、微風に枝葉が揺れた。まるで…微笑むかのように。


 室内に入ると、賢橿の姉兄たちが全員揃って席に就いていた。
各々とは顔を合わせる機会があっても、こうして一同――多忙でほとんど留守にしている母を含めて――が一つ部屋に集って…というのは随分久振りのような気がする。
一体何が始まるんだろう?と思いながら賢橿は末席に着いた。
雰囲気といい、母の「大事な話」という台詞といい。その気は無くても何となく身構えてしまう。
 「賢橿、また変なこと言って母様を困らせていないでしょうね?」
まっ先に口を開いたのは、やはり長女である。
恋人にくっついていたいという不純な(?)動機で猛勉強し入学を果たしたというとんでもない人である。
学問が忙しくなったので、最近は学内併設の宿泊施設を利用することも多いのだが、やっぱり家のことは気になるらしい。
「ご心配なく。母さんに逆らおうなんて度胸があるのは、大姉くらいだもの。」
すかさず切り返す。これについては当の大姉以外が揃って深くうなずいたので、大姉は二の句がつなげなくなってしまった。
 そこに、母が戻ってきた。薄い箱を携えている。姉弟たちは揃って背筋を伸ばした。
 「それぞれに忙しいだろうに、呼び立ててすまんな。」
いまだに軍人口調が抜けない母である。
家格からいっても改めたほうが良いのだが、それでもそのまま通しているのは、古くからの友人知人が「無理して改めなくてもいい」と言ってくれるからだった。
「たまにはいいんじゃない? こういう機会でもないと、なかなか全員集まらないもの。」
そう言ってにっこり笑ったのは、二姉。他の者もそれに同調する。
「…今日、お前たちに集まってもらった理由は、解るか?」
「…父様の命日だから……でしょう?」
「そうだ。」
三姉の言葉に母はしっかりうなずいた。途端に、妙な沈黙が室内を満たした。
 この家の主――つまり姉弟の父――は十年前の今日、亡くなった。不治の病――後の世で癌と呼ばれるもの――に侵されたのが原因だった。
 もともと体があまり丈夫な人ではなかったらしい。
根気強く体質改善をして人並みの健康を手に入れたものの、無理が祟ったのかそれともぎりぎりまで必死で隠していたのか、周囲の者が彼の異変に気づいたときにはもう、手遅れのところまで進行していたという。享年三十九歳だったそうだ。
 家族全員が神妙な面持ちをしているのは、そのときのことを思い出しているからなのだろう。
 しかし賢橿だけは、その中に入ることができなかった。入りたくても入れないのだ。
なぜなら彼は、父親に会ったことがないからである。
 賢橿が生まれてくることが判ったのは、父が亡くなって間もなくのことだった。
故に、賢橿は「不義の子」と陰口を叩かれることが今でもある。父親がいないのに子供が生まれるわけがない、だから…というわけである。
だが、両親をよく知る者たちは全員が全員、その噂を一笑に付した。曰く、「あのじゃじゃ馬が鞍を許すのは、後にも先にも一人だけだ」――。
何より彼の父親が誰であるのかを証明したのは、賢橿自身だった。
 母方の叔父の一人が父の幼なじみなのだが、その叔父が初めて賢橿に会ったとき、一目見るなり目を見開いてたっぷり十数える間絶句した後、「あいつが生き返ったのかと思った……」と呟いたのだ。
 とにかく賢橿は、母の夫の幼い頃によく似ているらしい。生き写しだと言う人もいる。
だが性格のほうはそうでもないらしく、「鼻っ柱の強さは間違いなく母親似だ」ということで意見が一致している。
 しかし賢橿自身は、そんな周囲の見解なんか別にどうでもよかった。
それよりも、何かと故人と比較されることのほうが我慢ならなかった。
相手は自分が生まれてくることすら知らずに逝ってしまったというのだから、なおさらだ。
だから賢橿は、自分の父親だという人物のことは嫌いだった。
父は父、自分は自分、で何故いけない?
人より秀でた才があるだけに、その反発心は歳をおうごとに強くなっていった。
 五人の子供たちを前にして、母はおもむろに持ち出してきた箱を卓の上に置き、蓋を開けた。
そして中から取り出したものを一つ一つ、子供たちの前に置いていった。
きちんと折りたたまれ、封蝋までしてあるという念の入れようだ。
「これは…?」
それまで黙っていた四兄が尋ねる。その問いを待っていたのか、母は静かに答えた。
「父様からお前たちへの信書(手紙)だ。十年後の命日に渡すよう、言付かっていた。」
途端にざわめきが起きた。こんなものの存在など誰一人として知らされていなかったのだから。
目配せをしあうと、姉弟は先を争うように自分宛の信書の封を解いた。
 誰もが目を輝かせ、そして懐かしさに顔をほころばせる。
二姉と三姉は双子なのだが、三姉のほうが三行長いといって二姉が文句をつけている。
その横で、最も長い信を受け取った四兄は頑としてその内容を姉たちに見せようとしなかった。よってそこに何が書かれていたのかは不明である。
とにかく、ちょっとした騒ぎになった。
 そんな姉兄たちの騒ぎをよそに、賢橿はひとりじっと卓の一点を睨みつけていた。
賢橿の前には何も置かれていない。
当たり前だ。父は賢橿が生まれてくることすら知らずに逝ってしまったのだから、彼宛の信書など遺っているわけがない。そんなことは百も承知だ。
腹が立つのは、そんなことを判りきっていながら母は、賢橿もこの場に呼んだということ。
胸中に暗灰色の感情が渦巻いていくのを、賢橿は抑えられなかった。
膝の上に乗せた拳を、固く固く握り締める。悔しさで目頭が熱くなるのを、必死でこらえていた。
「賢橿。」
だから母に名を呼ばれても、賢橿は返事も面を上げることも、しなかった。
 そんな賢橿の視界の中に、母はすっと何かを置いた。
 信書でないのは一目で判った。
細長いものを布でしっかりと包んでいるようである。長さは大人の拳五つ分ほどか。
「…判っていると思うが。お前宛ての信は、残念ながら、無い。」
そんなこと、わざわざ念を押されなくたって解ってる……。
「だから、代わりというわけではないが、お前にはこれをやろう。開けてごらん。」
それでもやっぱり黙ってその包みを睨みつけていた賢橿だったが。
再度促されて渋々手に取った。中から出てきたのは…。
(あっ…。)
 それは、古い金属製の筒だった。
胴には幾つか孔が開けられており、すっかり色褪せてしまった紫色の飾り紐が結わえられている。
全体的に手垢で黒ずんでしまっているが、あちこちに穿たれている傷跡は一度につけられたものでない証拠に、場所によって黒ずみ具合が異なっている。
初めて見るものだが、しかし賢橿はこれが何を意味するどんなものか、すぐに判った。だがそのとき。
 「母様、賢橿だけずるいっ…!」
一番遠い席に着いていた大姉が、末弟が受け取った品に気づいて思わずそう叫んだのが耳に届いた。
途端に、賢橿の頭にかっと血が上った。
「僕が子供だからって、物で誤魔化そうっていうのかっ!! 馬鹿にするなぁっ!!」
反射的だった。思ってもいなかった言葉が賢橿の口から飛び出した。
そして勢いよく立ち上がると、賢橿は後も見ずに庭に飛び出していった…。
「あっ…。」
慌てて大姉が自らの口をふさぐが、もう遅い。室内に気まずい沈黙が広がった。
卓の上には、古ぼけた鉄笛がぽつんと残されている。
母は飛び出していく末っ子を目で追いはしたものの、追いかけて庭に出ようとはしなかった。
そこに大姉がやってくる。珍しく寂しげな表情を浮かべた母と、すっかり暗くなった庭とを交互に見やった。
「母様、いいの?」
「何が?」
「だってこれは、母様にとってもとても大切なものなんじゃ……。」
そして、古い鉄笛をそっと手に取る。
何年も使われていないもののはずなのに、触れるとかすかなぬくもりを彼女は覚えた。
「大切なものだからこそ。」
踵を返すと、母は自分の椅子に腰を下ろした。
「それに。私はもう、父様から宝を五つも貰っている。」
「宝?」
「お前たちという、素晴らしい宝を、な。」


 気がつくと、賢橿は庭の真ん中までやってきていた。槐の若木と、木製の長椅子。その長椅子に、賢橿はぺたんと腰掛けた。
周囲はすっかり暗くなっていて、室内に灯された明かりによってぼんやりと浮かび上がっている母屋とは対照的に、目を凝らしても足下の小石が見えるかどうか。
頭上を仰げば銀漢(天の川)の長い帯が、視界の端から端まで横断していた。
 あんなこと言うつもりは無かった。
父と同じ時間を生きていない以上、自分がどんなにわがままを言ったところで、無いものは出せないし、不可能なのだということはよく理解している。
けれど、それでも、どんなに賢い頭をもってしても、胸の中にあるやりきれない気持ちを慰撫することは、できなかったのだ。
いない人間のことなど、さっさと忘れてしまえばいいのに。覚えていたところで何かが変わるというわけでもないのに。
皆が思い出したり懐かしんだりしなければ、僕はこんなに苦しまなくても済むのに……!
 「賢橿。」
夜闇の向こうで声がした。誰かが近付いてくる気配には気づいていたので驚きはしなかったが、まさか大姉が来るとは思っていなかった。
明かりの下じゃなくてよかった、と賢橿は思った。衣の袖でぐいと目元を拭う。
「はい、これ。」
何かが膝の上に載せられる。それがあの笛だということはすぐに判った。
「あんた、それが何だか、解る?」
「笛だろ。それも古ぼけた。」
返す言葉もぶっきらぼうになる。しかし大姉が機嫌を損ねた気配は無かった。そっと賢橿の隣に腰を下ろす。
「まぁそうね。あんたから見たらそういうことになるわね。」
そこで一呼吸つき、大姉は視線を頭上へと移した。
「…でも。母様がどんな気持ちで、それを出してきたか。
あんたは頭も良いけど、感受性も強いから。それくらいのことはもう、気付いているんでしょう?」
「…………。」
世に数多ある楽器の中でも、笛というものは特別な意味合いを持つものである。
普通楽器というものは手を使って演奏するものだが、笛は手の他に奏者が呼気を送り込むことによって音を奏でる。奏者の「気」も、呼気を通して直接送り込まれることになる。
故に古来より、古い笛には持ち主の魂が宿ると云われている。そんな話は賢橿も知っていた…知識として。
 この笛にどんな曰くがあるのか、賢橿は知らない。だが、亡き父の遺品だということくらいは察しがつく。
 「…大姉。」
「?」
「その……どんな人だったの? 父さんって…。」
目を丸くしたような気配がしたが、返ってきた大姉の声音は穏やかだった。
「……あんたから父様のことを訊いてくるなんて、珍しいわね。」
「この状況で気にならないほうが、変だと思う…。」
口を尖らせながら言うと、大姉は「それもそうね」と笑った。
「どんな人って言われてもねぇ……。
あたしの性格と、あんたの容姿を足したら、そのまま父様になるって。いつだった星輝叔母様がそんなことおっしゃってたわね。」
つまり、『大姉の男版』ということなのだろうか?
「それって…“世も末”って言わない…?」
「…あんた、そんなこと言ったって母様に知れたら、お尻十回叩きじゃ済まされないわよ、きっと。」
う、と賢橿は口をつぐんだ。
母は礼儀にやたらとうるさい人なのだ。陰で父親の悪口を言っていたなんてことが知れたら、柳眉を吊り上げるに決まっている。
それ以前に、九歳にもなって尻叩きの刑など賢橿は御免だった。
「…それはともかく。
真面目な話、あたしもよく覚えてないのよね。なんたって、父様が亡くなったとき、あたしはまだあんたくらいだったから。」
闘病中の父の姿があまりにも衝撃的過ぎて、健康だった頃の記憶が薄れてしまっているのだという。
「でも、いっぱい遊んでもらったことは覚えている。
あんたも知っていると思うけど、母様ってば結婚しても仕事を続けていたでしょ? しかも下には三人もいたし。だからなかなか構ってもらえなくて。
その分父様が暇を見つけては構ってくれたわ…。」
そのときの父親との記憶は、笑顔しかない。穏やかで、それでいて茶目っ気があって、そして何故かしら母には頭が上がらなかった、父。
だがその分、珍しく怒ったときは魂にずしんとくるほど怖かった。
「父様は母様にべた惚れだったんだって。これは叔父様から聞いた話。
父様も母様もあまりそういうことを口に出して言う人じゃなかったけれど。
でもそんなことしなくてもお互いに深く愛し合っているってことは、娘のあたしの目にもよーく解ったわ。」
「…四人も子供作るくらいだからね。」
賢橿の額にデコピンが飛んできた。
「五人、でしょ。今度そんなこと言ったら、父様母様の代わりにあたしが許さないから!」
大姉のデコピンは、母の尻叩きと同じくらい、遠慮したいものだった。「許婚の君」もそれで操縦しているのだろうか? 未来の義兄の忍耐力を、賢橿は心中で素直に賞賛した。
 そこで一息つくと、おもむろに大姉は長椅子から立ち上がった。槐の若木の前に立ち、そっと幹に触れる。
「…ねぇ。この樹のことを皆が何て呼んでいるか、知ってる?」
賢橿は首を横に振った。
「…父様の樹。」
 父が亡くなった次の春。真新しい墓のすぐ傍に、この樹は芽を出していたのだという。
「父様ね、亡くなる前にこう言っていたわ。『生まれ変わったら樹になりたい』って…。
母様、それを覚えていたのね。家に持って帰るって言い出したとき、叔母様たちも誰も、止めなかったわ。
その間、あたしが生まれたばかりのあんたを抱っこしていたのよ?」
「僕もそこに居たの?」
それは知らなかった。
「だからねぇ、この樹はあんたと同い年って事になるのね。」
そうか。それでこの古い庭の真ん中に、こんな若い樹がぽつんとあったのか。
そういえば、暖かい日和の午後には、この長椅子に腰掛けて読書をする母の姿を見かけたことが何度かあった。
「父様は今もここに居てくれる。そう思えたから、あたし達は寂しくなかったわ。
悔しいこと哀しいことがあったら、ここに来て愚痴を言って、泣いて。その全部を、『父様』は黙って聞いてくれた。
そしてあたしたちはまた、元気を貰ったのよ。」
この場所から、雨の日も風の日も夏の炎天の日も真冬の張り詰めた寒さの日も。静かに母屋に住まう者たちを見守ってくれていた。
 「あんたが拗ねているのは、」
「べっ、別に拗ねてなんか…!」
「…父様との思い出が一つも無いから、なんでしょう?」
ずばりと言い当てられ、賢橿は反論の言葉を失った。もごもごと口をつぐむ。
「…あたしたちもちょっと無神経だったわね。それは謝るわ。でもね、こうは思わない?」
『賢橿との思い出が無いのは、父様も同じ』。そう大姉は言った。
「そんなことあるわけないだろ。死んじゃったら、思い出も何も関係無いじゃないか…。」
「わかんないわよ? 今頃泉下(あの世)で悔しがっているんじゃないかしら。『こんなことならもう少し長生きすればよかった』とか言って。」
父の子煩悩ぶりは周囲でも有名だった、らしい。だからきっとそうよ、と大姉は笑った。
「あんたが父様を恨むのは勝手。でも、恨めば恨むほど、自分も惨めな気持ちにならない?
あたしは、父様の悪口を言われることよりも、あんたが自分で自分を卑下することのほうがもっと辛いわ…。
そして、それは父様も同じだと思うの。」
「…………。」
「だから。あたしはあんたにそれ…父様の形見の笛を、持っていて欲しい。あたしよりも母様よりも、あんたに、父様を身近に感じて欲しいから。
自信を持ちなさい。父様は間違いなく、あんたが誇れるような人だったから。
そしてあんたはその人の血を受け継いでいるのよ。」
 言いたいことだけ言うと、大姉はうーんと伸びをした。視線を空に移す。
零れ落ちそうな銀漢のきらめきは、その一粒一粒がまるで一生分の喜びや悲しみを結晶化したもののようだった。
 「じゃあね、あたしもう戻らなきゃ。」
「え? どこに行くのさ?」
「明日一番の授業に出ないと、ちょっとまずいのよ。だから、元々今日は太学の方に泊まる予定だったの。じゃあね。」
そして本当に、彼女は振り返ることなく母屋へと戻っていってしまった。
宵なので、用心のため学び舎まで四兄に送らせるというのだから、ちゃっかりしている。
 大姉の姿が母屋の中に消えてしまうと、賢橿は膝の上の古い鉄笛にそっと触れた。
暗くて詳細は判らないが、手触りは金属製とは思えないほど優しかった。飾り紐のほうも手垢ですっかりくたくたになっている。
 この笛で、父は一体どれほどの曲を奏でたのだろう。一体誰に、その音を聞かせたのだろう。
 無意識に、賢橿は槐の樹のほうに視線を移していた。夢の中でこれと同じものを奏でていた「彼」は、一体僕に何を伝えたかったのだろう?
 吹いてみたら、解る…のかな…?
 夢のなかのでのことを思い出しながら、賢橿は何とかそれっぽく笛を構えてみた。が。
 ぷきいいいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ…………。
 出てきたのはあの美しい音色とは似ても似つかない、妙ちきりんな音だった。あまりの奇音に、思わず笛を取り落としそうになる賢橿。
それまで大抵のことは器用にこなしてきていた『天才児』賢橿にとって、久々の挫折だった。
「…………。」
眉間に縦じわを刻みながら、賢橿は長椅子から立ち上がった。
そして槐の樹のほうを向き、びしっと鉄笛の先を突きつけた。飾り紐が微風に揺れる。
「おぼえてろ。」
そう言い捨て、賢橿は踵を返し、母屋へと帰っていった。
 こぼれるような星空の下で、槐の若木は静かに少年の背を見送っていた。


 母屋に戻ってみると、居間はすっかりがらんとしてしまっていた。
四兄は本当に大姉を送っていったらしい。
二姉と三姉はもう、以前自室としてあてがわれていた部屋へと引き上げてしまったのだそうだ。
いつものように不必要にだだっ広い居間に、母だけが一人腰掛けて待っていた。
「母さん、まだ居たの?」
父の遺産だけでは五人もの子供を養っていけない。
もともと母は、断続的に産休を取りつつも、仕事を続けていたのだが。
賢橿に手が掛からなくなると、母は新兵を教育する教官として本格的に軍部に復帰していた。
その後もなんやかんやでちゃっかり出世したらしい、とかいう話は聞いたが、賢橿は興味が無かったので詳しいことは知らない。
とにかくそんな人なので、一般のお役人同様に彼女も朝が早いはずだが。
「おまえを残して先に休むわけには、いかんからな。」
穏やかに、母は返した。
職場では男性顔負けの仕事振りと言われている彼女も、賢橿の前ではやはり『親』でしかない。
その母を愛し、射止めた、父。
母が人生を共にすることをよしとした男とは、どんな人物だったのだろう。
「? どうした?」
賢橿がじっと顔を見ているのに気づき、母がいぶかしげに問う。
なんだか気恥ずかしくなって、賢橿は視線を少し右に移した。
「ねぇ、母さん。」
「うん?」
両手の中で、古い鉄笛を握り締める。
「その……誰のところに行ったら、笛の吹き方を…教えてもらえるのかな……?」

          ◆   ◆   ◆

 阿吽。
 貴方の終わり。僕の始まり。
 貴方の命を受け継いで、僕は生まれてきたのです――。

[終劇]