恒陽白家観察日記
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 「母様。あたし、太学に行きたい。」
突然そんなことを言われて、さすがの母もこのときばかりは言葉を失った。
 桃香(とうか)は今年十七歳になる。男子なら生涯の職が決まり、女子ならば縁談が盛んに持ち込まれる年頃だ。
ましてや彼女はもう九年も前に婚約をしており、いわば永久就職が確定している身なのだ。
それなのにここへきて「高等教育を受けたい」などとは、いったいどういう風の吹き回しか。これが仕官を希望している三女や長男ならともかく…。
 「…太学に行って、何を学びたいのだ?」
気を取り直し、母は尋ねた。
太学は国が母体となって運営する学び舎だ。将来お国に仕える者を育成する施設であるから、学費は国が負担してくれる。
だが、学ぶ機会を求め立身出世を欲している者は、帝国全土にはうなるほどもいる。希望者全てを受け入れることなど不可能だ。
だから、この学び舎の門をくぐるためにはある一定以上の能力があることを示す――入学試験を突破することが必要だった。
また、見事入学を果たせたからといってそのまま仕官できるわけでもなく、入学時より更に難易度が高い試験を受け合格した者だけが、要職への近道を歩むことができる仕組みになっていた。
つまるところ…行きたいからといって行けるというものでもないのだ。
 だが桃香ははっきりと言ってのけたのだ。
「あたし、伯明君のお手伝いがしたいの。」
「お手伝いって……彼は先月太学に入学したばかりだぞ。」
そう、桃香の許婚の君である盧伯明(ろ・はくめい)は、今年ようやく難関を突破して学び舎の一員となったばかりだった。仕官なんてまだまだ先の話である。
尤も、「一人前になるまでは、桃香さんと一緒になることはできません」とやんわりとだが頑なに言われてしまったがために、適齢期になったというのに桃香は嫁ぐことができずにいるのだが。
 母は娘の目を見た。娘の目はまっすぐだった。
…もともと父親似の娘である。やると言ったことは必ずやりおおせるし、一度言い出したら聞かないところは母親似でもある。
そのことを思い出すと、母は静かに嘆息した。
「……好きにしなさい。」
…太学は帝都恒陽の郊外に、小さな城邑を形成する形で存在していた。
恒陽は古い都なので、大規模な学び舎を新たに建設するとなるとどうしても郊外にしか敷地を確保することができなかったのである。
その代わり、文官だけでなく武官を育成する部門も併設されているので、自衛能力は下手な村落よりもはるかに高かった。
勿論武官育成部門の教官たちは、実戦経験の豊富な者ばかりである。
今でも軍部に籍を置き有事の際にはいつでも馳せ参じる用意がある母の、古くからの友人も何人かいた。
何より城邑までの距離はたかが知れていて、何かあったらすぐに連絡が取れる。
だからそういう意味での心配は無かった。
現に桃香の弟妹たちは、その「入学試験」を受けるために半年前から準備を始めている。弟妹たちはよくて桃香は駄目、ということはできなかったのだ。
 それに……試験費用も受かってからの学費も、九割以上を国が負担してくれる。かかるとすれば生活費くらいだが、こちらは亡き夫の遺産でなんとでもなるだろう。
駄目でもともと、通れなくても何も失うものは無いのだし。
「その代わり。私は何も手伝わないからな。」
「もちろんよ! ありがとう、母様!」
にっこりと笑った桃香に亡き夫の面影が重なり。母はそっと諦めの嘆息をしたのだった。
…そういえばあの男は、地方のとはいえ十三歳で登用試験を突破したのだったな……。


 「よっし。母様の許可も取れたことだし。さあっ、勉強よ勉強っ!」
気合を入れると、桃香はその足で裏庭へと向かった。
母屋と、母が面倒を見ている書生たちが住まう別棟との間には、藤の棚がこしらえてある。その脇に、父が遺した書庫があった。
盧伯明は幼い頃からこの書庫に通っており、天気のよい日は棚の下に設えられた縁台に腰掛けて読書にふける姿がしばしば目撃されていた。
その伯明が太学に合格したのである。ならばここの本を使って勉強すれば合格できるはずだ…。とにかくやる気満々で、桃香は書庫の扉を開いた。
 書庫の中は薄暗かった。
 明り取りの窓はあるのだが、所詮人の住む場所ではないので数自体が少ない。本が日焼けしてしまうので、保存という観点からは余り日光を入れるわけにいかないのだ。
しかし、だからといって可燃物ばかりのこの建物に火を持ち込むわけにもいかない。
書庫の中はきちんと整理されていて、幸い何かにつまずいて転ぶという心配は無かったのだが。
「それにしても。本当に多いわね……。」
父はあまり贅沢を好む人ではなかった。
自身の生活は質素だったが、その分他のことに金をかけた。それが書生の面倒をみることであり、またこうして様々な本を収集することであった。
ただ、この収集に関しては別の側面もあったらしいのだが…。
 「さぁて、どれから読もうかしら…。」
呟き、書棚を覗き込んだときだった。つつつつつつついー……っと、何かが桃香の背を上から下に滑っていった。
「あひいいっ!?」
「大姉なら、これなんかいいんじゃない?」
不意に背後で声がした。誰もいないとばかり思っていたのだが、すぐに声の主に心当たり、桃香は振り向くなり相手を睨みつけた。
「もう、賢橿(けんこう)! 何するのよっ!」
「隙だらけなんだよ、大姉の背中は。」
悪びれもせずに右手の人差し指をぴょこぴょこ揺らしながらそう言うと、九歳年下の末弟は姉の脇をすり抜け、目いっぱい背伸びをして一冊の本を棚から取った。
「はい。」
素直に受け取った本に書かれていた題名は。
『東海食材大全』
「たまには彼氏に手料理の一つも作ってやれよな。」
「大きなお世話よっ! …じゃなくてっ!!」
思わず振り上げた拳の下から、賢橿はするりと抜け出した。そうそう何度も大姉の「必殺デコピンあたっく★」を黙って頂戴するほど、忍耐強くはない。
小柄なのを生かして、そのまま書庫の入り口まで逃げた。
「あたしは真面目に勉強したいのっ!」
「世の中何がどう転ぶかわからないぜ? それに大姉の読解力なら、それくらいが丁度いいんじゃないの。」
そう言い捨てると、賢橿は小脇に分厚い本を二冊抱えたままくるりと踵を返し、とっとと行ってしまった。…逃げ足の速さは一体誰に似たのやら。
振り上げたまま行き場を失くした拳を、桃香は仕方なくゆっくり下ろした。
「全く、誰がおしめを替えてあげたと…。」
嘆息して呟き、ふと掌中の本に目をやる。
 それにしても。父様、こんな本も集めていたのかしらん……???


 成り行きとはいえ結果として書庫から追い出される形になった(自業自得という言葉を自身に対して使ったことは無い)賢橿は、読書に向く静かで座り心地のいい場所を探してぶらぶらと庭を歩いていた。
いつもは書庫の中に設えられている小さな文机か、いつも伯明と談笑していた藤棚下の縁台で読んでいるのだが、さすがに今怒らせたばかりの大姉がいる書庫の近辺には腰を落ち着けられない。
さて、ではどこに行こうか。ちなみにこちらが手にしているのは、『西国博物誌・第六巻』『三国図解本草綱目・上巻』である。
「しまったなぁ。こんなことなら部屋を片付けて…。」
 そのときだった。突然母屋のほうから何かが破裂するような音が聞こえてきたのだ。
 しかし賢橿は顔をしかめただけで、取り立てて反応しなかった。何故なら……それはこの家に住まう者にとって、至極日常的な出来事であったからである。
ついでに言うなら、音の発生元もほぼ見当がついていた。
「……今度は何を始めたのかな、二姉…。」
眉間にしわをひとつ寄せて、賢橿は呟いた。駄目だ、彼女が自室にこもっている間は、母屋では落ち着いて読書なんかできるわけがない。
嘆息し、諦めて屋敷の外に読書できる場所を探そうと門に足を向けた。
 と。
 眉間のしわをもう一本増やして、賢橿は鼻をひくつかせた。何だこの臭いは!?
てんで馴染みが無い――思わず吐き気を覚えるようなとんでもない――臭いに、賢橿は本能的に「これはやばいかもしれない」と思った。
慌てて首をめぐらせると…二姉の部屋から薄紫色の煙なんか出ていたりするし!?
 「あっ、二姉っ!?」
分厚い本二冊を小脇に抱えたまま、賢橿は大急ぎで母屋に飛び込んだ。ぱたぱたと廊下を駆け抜け、部屋の扉を勢いよく開ける。
しかし次の瞬間、賢橿はぽかんと口を開けたまま、その場に固まってしまった。
 「変ねぇ、理論上はこれでいいはずなんだけど…。まだ純度が低かったのかしら?」
「……二姉……。」
「それとも、さっきはこれにあれを入れたけど、もしかしたらあれにこれを入れるべきだったのかしら?」
「…………。」
部屋の中には、恐らく賢橿の部屋以上に雑多な物がうず高く積まれている。
その中に無理やり谷をこしらえたかのように「でん」と居座っている頑丈で大きな机の上にはこれまた、下手にぶつかって揺らそうものなら確実に将棋倒しが起きて全滅ですよあなたってなくらい、一見用途不明かつ何となくヤバげだと直感できてしまう物が、所狭しと置いてあったりする。
そんな物物物な世界の中に一つだけ動いているのが、二姉こと翡蓮(ひれん)だった。
 しかしその翡蓮もさすがに先ほどの爆発の中で無傷というわけにはいかなかったらしく、髪は乱れ、西国渡来の眼鏡は微妙に鼻からずり落ちていたりした。
……それでもお構いなしに瓶やら怪しげな薬品やら乳鉢やらを前にして腕を組み真剣に考え込んでいるところを見ると、少なくとも今すぐ命に関わるという状態ではないようだ。
それに…前述の通り、これは彼女にとって非常に「日常的」なことなのである。これでいちいち騒ぎ立てていては、彼女の弟など到底やっていられない。
それに、下手すれば「実験の助手をやれ」とか言い出しかねない。
ここは逃げ……じゃない、戦略的撤退をするのがより利口というものだ。賢橿だって我が身は惜しいのである。
 半眼のまま無言で扉を閉めると、賢橿は何事もなかったかのように母屋を後にした。…二姉が母に雷を落とされるのを期待しつつ。


 ところが同じ弟でも、世間並みに騒いでくれる者はいたようで。
「翡蓮姉さんっ! 全くいい加減にしてくれよ! そのうち家ごと吹っ飛ばす気か!?」
賢橿と入れ替わりに、相変わらず窓からもくもくと立ち昇る薄紫色の煙に血相を変えて飛び込んできたのは、大翼(たいよく)だった。
白家の長男、つまり次期当主となる男なのだが、いかんせん上に三人も姉がいると主導権を握るのはかなり難しくなるようで。
案の定怒鳴られたにもかかわらず、翡蓮はいたってけろりとしていた。それどころか。
「あらヒヨコちゃん、丁度いいところに。ちょっとこれ持っててくれないかしら。」
「その呼び方はやめろーっ!」
「じゃあ、仔犬ちゃんのほうがいい? 私はどっちでもいいけど。」
「だからぁ!!」
頭を抱えてうなる大翼。
本名が鴻(こう/大きな水鳥の意味)で小字(幼少時の愛称)が小雛だったのだが、とおに加冠の儀(成人式)を済ませたというのにこの姉は、いまだに彼を「ヒヨコちゃん」と呼ぶのだ。
大翼が嫌がるのを承知した上で…いやむしろそれが彼女なりの愛情表現だと「当人は」思い込んでいるのだから、タチが悪い。
 「そうじゃなくて! いい加減、部屋で怪しげな実験するのはやめてくれないか!?
それも毎日毎日、昼夜問わず…。
この壁を挟んだ向こう側は俺の寝室だって、知ってるんだろう?」
「あれ? そーだったかしら?」
「“そーだったかしら?”じゃない!
俺は来年、太学の武官部門を受けるんだよ! 武官部門は、武術の腕だけじゃなくて学問の才も必要なの! 受験勉強もしたいの!!」
だんだん頭に血が昇ってきたのか、大翼の顔は真っ赤である。
しかし先ほどから怒鳴られっぱなしなのにもかかわらず、翡蓮はというと「怒っている理由が解らない」とでも言うようにいたってけろりとしていた。
「なら大丈夫なんじゃない? ヒヨコちゃんはどっちも中途半端だから。もし通れなくても、立派な言い訳にできるわ。」
「……それが実の姉の台詞か……?」
今度は大翼、がっくりとうなだれた。
やはり彼女を制御できるのは、一族の現頭領にして一家の大黒柱でもある母か、大して頭脳も腕力も無いくせに何故か変な意味での迫力だけはある大姉桃香くらいなのだろうか。
 近い将来、家督を継いで名実共に一族を率いていくことになる自分に、この「常識が通じそうで通じない」二姉を上手く操縦していくことができるのかどうか……。
果てしない不安を覚えずにはいられない大翼だった。
(せめて。離れを建てて、実験だけはそこでやってくれないかなぁ……。)
 「何をぶつぶつ言ってるのよ。ねぇ、それを持っててってば。」
翡蓮が示したのは、器具に取り付けてある小さな素焼きの壷だった。口からほわほわとした煙が間断無くこぼれ、床へと這っていく。
「持つっ…て…?」
「そこにこれを入れるの。揺れてこぼれると面倒なのよ。」
翡蓮の手には、やはり同じような素焼きの壷がある。が、反対の手は自身の鼻をつまんでいた。
こちらからからは「数種類の薬草をすり潰し、かつ何か変な液体も加えましたよー」という臭いがぷんぷんするのである。大翼の顔があっという間にこわばった。
「あ、いや、俺先約があるから……。」
冷や汗を浮かべ、じりじりと後退し。廊下へ出るや否や、大翼は駆け出したいのを必死で抑えながらそれでも翡蓮の部屋から大急ぎで離れたのだった。
戦場でならともかく、こんなところで命に関わるような愚を敢えて冒せるほど、彼は命知らずではない。…大翼だって我が身は惜しいのである。
 そんな弟の様子を見て。翡蓮は二つの液体を混ぜ合わせ、壷を口元に運ぶとそのまま中身をこくこくと飲んだのであった。
「……美味しいし、健康にもいいのに。」


 …注意をするどころか結局敢え無く敗退をきっし、なんだかやりきれない心情のまま、大翼は母屋を出た。
一度は自室に戻ろうかとも思ったのだが、そのためには翡蓮の部屋の前をまた通らなければならない。
仕方なく彼が足を向けたのは、庭の隅にある道場だった。
 亡くなった父は官吏だったが、母は軍人であった。そして白家の姉弟たちは一人の例外も無く、母から護身術を仕込まれている。
その中でも武術に目覚め武の道に進むことを決めたのが、彼大翼と。
 「あれ? 翠蘭(すいらん)姉さん、居たの。」
六丈(一丈は約三メートル)四方ほどの板張りの道場の中央に戦襖(せんおう/鎧の下に着込む服。ここでは運動着のこと)姿の人影を見つけ、大翼は声をかけた。
「居たの、とはご挨拶ね。朝からずっとここで鍛錬していたわ。」
手にしていた稽古用の棍をくるりと旋回させると、彼女は肩をすくめてみせた。
 翠蘭は大翼の姉の一人で、上から三番目にあたる。が、双子であるにもかかわらず、翡蓮とは万事において正反対という人だった。
親戚の中には、むしろ母の若い頃にそっくりだという者もいる。母と同じに双剣を得意とするのだから、そんなことを言われるんだろう。
 「丁度よかったわ、大翼。相手してくれない?」
「今から?」
などと言いつつも、大翼はすでに道場に上がっていた。翡蓮にからかわれて妙な気分になっていたところだ、一汗流してすっきりするのもいいだろう。
何より、翠蘭と手合わせしてようよう五分に渡り合えるのは、自分くらいのものだ。
武官部門の試験には、武術の実技も試されるという噂を耳にしているし、鍛錬しておくにしくはない。
道場の隅で戦襖に着替え軽く体をほぐすと、大翼は壁に立てかけてあった自分用の棍を手にとった。
「試合方法は?」
「特になし。どちらかがのびるか、降参するまで。」
「うわ、厳しい。」
「ごちゃごちゃ言わない。戦場じゃ、疲れたからといって敵は待ってなんかくれないわよ!」
言い終わるや否や。翠蘭の足が動いていた。さすがに無駄な動きが無い。だが大翼も慌てず、軽く棍先で相手の得物を弾いた。
普段は感情表現が豊な大翼だが、何故か窮地に追い込まれれば追い込まれるほど冷静になるという、不思議な性格をしていた。(それが判っているから、周囲は遠慮なく彼をからかうのだが。)
とにかく、繰り出される攻撃の一手一手を、大翼は丁寧に確実に、さばいていった。
「ほら、いつまで守りに徹するつもり? 攻めない限り、あなたに勝ちは無いわよ。」
「解ってるよ、そんなこと。」
口ではそんなことを言っているが。やはり翠蘭の腕はかなりのものだ。
予定が合わなかったのでここ数日手合わせをする機会が無かったのだが。たったそれだけの間に姉の棍さばきにはますます磨きがかかったようだ。
また差が開いてしまったのかなぁ、と大翼は内心で嘆息した。
翠蘭が攻撃疲れで動きが鈍くなるまで待つという方法もあるが。そんな姑息な思惑などこの人はとっくに見抜いているんだろうし。
よし、駄目で元々、攻め込んでみるか…。
「やああっ!」
気合一閃。ぐんっと伸びた棍先が翠蘭の胸元に迫る。だが。
「甘いっ!」
乾いた音がして、弾かれた棍先の軌道が変わった。
けれど、それも計算のうち。加えられた横への動きに逆らうことなく、大翼はそのまま棍を一旋させた。
先ほどまで手元側だった先端が、今度は横から翠蘭に迫る!
「くっ。」
これは予想していなかったらしい。それでもかろうじて棍身で受けたのは、やはり彼女が天武の才に恵まれているからなのだろう。
乾いた音が室内に響き、続いてすかさず反撃が来る。それを半歩引いてかわし。
 そんな攻防――というより傍目にはやはり一方的に攻められているようにしか見えない――がしばらく続き。
さすがに二人の息も上がってきた。それでもやはり体力を温存していたからなのかそれとも元々持久力があるのか、大翼のほうが若干の余裕があった。
(とは言っても。当たり前に攻めてもかわされるだけだろうし。かといって変わったことをやってもぼろが出るだけだし。)
さてどうしようかなぁ、などと暢気に頭の隅で考えていると。
「隙ありっ!」
視界の中央に迫る棍の先端が、円になっていた。大翼の顔が引きつる。棍は、大翼の鼻先指一本分のところでぴたりと止まっていた。
 「……ま、参りました……。」
その言葉が大翼の口からようやく漏れたのは、たっぷり十数える間をおいてからだった。翠蘭の棍が引かれ、大翼が膝からへたり込む。
「心臓に悪いよ、姉さん……。」
あそこで寸止めされなかったら、間違いなく鼻の骨が折れていただろう。もっとも、それができるほどの腕を翠蘭は備えているのだが。
疲れと緊張から開放されたのとですっかり表情が弛緩してしまった弟を、翠蘭はやはり肩で息をしつつもこちらはすっくと立ったまま見下ろしていた。
 「……どうしたらあなたを本気にさせることができるのかしらね。」
棍で軽く肩を叩き、翠蘭は嘆息した。彼女は、弟の実力はこんなものじゃないと思っている。
だが、大翼は姉の心情など知ってか知らずか、こんな言葉を返した。
「本気にならなきゃいけないような事態には、なって欲しくないなぁ…。」
「どういう意味? それ。」
いささかむっとして、翠蘭は返した。武人を志す者とは到底思えない台詞である。だが大翼は自身の棍を手がかりに立ち上がると、大きく息を吐き出した。
「だって。死に物狂いで戦わなくちゃいけないっていうことは、もう逃げ場が無くなっている、ということだろう?
そういう事態にならないようにするのが、優れた将というものなんじゃないかと、俺は思うんだ。
自分だけならともかく、周りの人まで巻き込むわけには、いかないじゃないか…。」
「……そういう後ろ向きなことを言っているから、いつまで経っても私に勝てないのよ。」
呆れた眼差しを向けつつも。翠蘭は心中で、弟の言うことも一理あるなと思っていた。
だが、それでも弟の闘争心がいまいち弱いのが、翠蘭にはもどかしかった。
…大翼という「競争相手」がいたからこそ、翠蘭も鍛錬に打ち込む気概を得てこられたのだから。
「…『守る強さ』ってものもあるのよ。そういう偉そうな口を叩くのは、私を負かしてからにしなさい?」
そう言い置くと、翠蘭はくるりと踵を返した。
 「どこに行くの?」
「疲れたし、今日はもうやめにする。汗をかいたから着替えてくるわ。」
その台詞を聞き。大翼の脳裏にちょっとばかり意地悪な案が浮かんだ。去りゆく姉の背に聞こえるように、呟いてみる。
「風呂に行くのなら、翡蓮姉さんにも教えてやろうか?」
刹那。ぴたり、と翠蘭の足が止まった。ぎぎぎ…とぎこちなく首がこちらを向く。
「……それだけはやめておねがいだから…。」
心底嫌そうに言われて、思わず大翼は肯首していた。…どうやら「ささやかな仕返し」は、ちょっとばかり効きすぎたようである。
先ほどまでの切れのよい動きとは裏腹におぼつかない足取りで母屋へと戻っていく翠蘭の背を見送りながら、大翼はちょっとばかり後悔を覚えたのであった。


 母屋へ戻ると、翠蘭はそっと角から廊下に顔だけを出した。……どうやら翡蓮の気配は無いようである。
安堵すると翠蘭は、客間の掃除をしていた召使の莉涼(りりょう)を捕まえて風呂の支度を頼み、自身は整うまで居間にいることにした。
 決して翡蓮が嫌いというわけではない。双子の姉妹だ、絆は他の姉弟よりも強いといっていい。
だがそれでも翠蘭が翡蓮の動向を気にするのは、双子の姉の異常とも思える愛情表現のせいだった。とにかく……半端でないのである。
昔はそれほどでもなかったし、自身も「ひれんちゃん」と後ろをついて歩いていたから、特に何とも思わなかったのだが…。
こういう状態になったのは、いったいいつからなんだろう?
武官を目指すために太学への入学を希望したとき、翡蓮は「翠蘭ちゃんが行くなら私も行く!」とか言い出した。
それだけならまだいい。理由を尋ねたら、眼鏡をきらりと光らせて「翠蘭ちゃんに悪い虫がつかないよう、守ってあげるね★」ときたもんだ。
ありがたいやら呆れるやら。それもあってか、最近ではとみに翡蓮からの独立を願うようになっていた。
(少なくとも、この家にいる限りそれは不可能だわ……。)
思わず深々と嘆息し、居間の扉を開けると。
 「稽古は、もう終いか?」
卓に筆記具一式を広げていた母が、面を上げた。どうやら、誰かへの信(手紙)を書いていたらしい。
書斎もあるにはあるのだが、そこは父が生きていた頃のままにしてある。
「…知ってたの?」
「ここまで聞こえてきたからな。」
そう言って、母は笑いながら半分開いた窓を示した。
「熱心なのはいいことだが、傾倒しすぎて他の事までおろそかにしてはいかんぞ。」
「わかってるわ。…私も勉強しないといけないのよねぇ…。」
実戦経験こそほとんど無いが、翠蘭の武術の腕は既に相当な粋に達していた。実技試験でも難なく通るだろうというのが母の見解である。
だが学問のほうはというと…ちょっとばかり自信が無い。どんなに頑張っても字が汚いからという劣等心もまた、原因のひとつなのかもしれないが…。
「伯明に指導してもらったらどうだ。根気強いし、彼は教えるのが上手いぞ。」
「冗談。二人きりになったと知れた途端、姉様にデコピンをもらいそうだもの。」
「それと、翡蓮もな。」
「母様……。」
すまんすまん、と母は苦笑した。よほど嫌な顔をしていたらしい。
 「それはそうと。賢橿の姿が見当たらないようだが…。」
「また書庫じゃないの? あの子、暇があるとあそこに入り浸っているから。」
「それならいいんだが…。今日は珍しく全員家に居るからな。誰かの邪魔をしていなければいいのだが…。」
筆記具を片付けながら、母は小さく嘆息した。
他の子供たちと同じように育てたつもりなのだが、やはり末っ子ということで知らず知らずのうちに甘やかしてしまった部分もあったのだろう。
とにかく普段から態度が大きいので、将来社会に出てから苦労しなければよいのだが…。
「邪魔されるのを嫌がるのはむしろあの子のほうだから。翡蓮につかまらない限りは大丈夫じゃないかしら?」
「翡蓮といえば。さっきまた大きな音がしていたようだが…。」
「……母様、いまさら気にしたら駄目よ…。」
「そ、そうか…?」
 そこに、莉涼がやってきた。風呂の支度が出来たらしい。「じゃあ、入ってくるわね」と言うと、翠蘭は居間から姿を消した。
 母は静かに息を吐き出し、そっと庭に目を向けた。
庭の真ん中にはまだ若い槐の樹が、日の光を浴びて気持ち良さげに枝葉を伸ばしていた。


 白家は今日も平和である。

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