巍国賢龍伝――(二) 如海――
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 「彩晶(さいしょう)様、まだついてきますよ。」
雑木林を急ぎながら、馬桓(ば・かん)は馬を主のそれに寄せて囁いた。
 あれから二日が経とうとしている。
日は高く、まだ東よりの空にある時間帯である。天候は晃京(こうけい)を発った頃よりは回復しており、雲と晴れ間の割合は同等といったところだが、その分朝夕の冷え込みは厳しくなっていた。
 馬桓が指している相手は、勿論禿頭の偉丈夫のことである。
あちらも騎馬を所有しているのだが、付くでなく離れるでなく、常に一定の距離を保ったまま二人のあとに続いてくるのだ。
薄気味悪さも感じるが、どうやら先日公言したとおり「彩晶ちゃんに同道する」つもりらしい。
そう彩晶が推測を述べると、馬桓は無意識なのだろうがしかしあからさまに憮然とした表情を浮かべた。
「仲間との連絡を待っているのでしょう。そのうち『気が変わって』突然襲ってくることも充分に考えられます。ゆめ、お気を許されませんよう。」
「…確かにその可能性もありますけれど…。」
呟き、彩晶は肩越しに後方を振り返った。
馬桓の言うとおり、二十馬身ほど遅れて如海(じょ・かい)が操る馬がついてくる。
彩晶が反応を示したことに気づき、如海は能天気とも表せるほど突き抜けた笑顔を浮かべ、嬉しそうに手を振ってきた。
「…本当に私たちを捕らえる…いえ私を殺める気があるのでしたら、いままでにも何度もその機会はあったはずです。
私たちが刀剣や矛の類を携行していないということもまた、とうに知っているはずですし。」
「だからこそ、『いつでも手を出せる』と暢気に構えているのかもしれません。油断は禁物です。」
眉間に溝を作ると、馬桓は正面を向いた。
最大の懸案であった永楼関は、先日突破することができた。しかし永楼関の外側は、馬桓ましてや彩晶にとっても、初めての地である。
そうでなくとも追手の影を気にしつつ急ぐ旅路である。
『命に替えても』彩晶を守り通す覚悟を新たにした馬桓の緊張がいや増すのは、仕方のないことといえよう。
そんな従者に苦労して馬を合わせながら、彩晶はしげしげと彼の横顔を見た。
「…桓は、あの方のことが嫌いなのですか?」
「好きとか嫌いとかではありません。
…あの者は、主(しゅ)を討ち楊のお屋敷を襲った輩の、仲間なのです。そのような者を信用など、できましょうか。」
言っていることは至極まっとうだし、正しいとも思う。
しかし言葉の端々に、言葉以上の何かが含まれているような気がして、彩晶はどうにも腑に落ちない。
馬桓は彼女より三歳も年かさだから、もしかしたら自分が思っているよりもいろんなことを経験しているのかも知れず、それが彼にそう言わせているのかもしれないな、と彩晶は自分を納得させることにした。


 永楼関を抜けさえすれば、榮(えい)への道はとても判り易い。
晃京は麗江(れいこう)という河のほとりに造られた都だが、その麗江が合流する對江(たいこう)という大河の下流域にあるのが、榮なのである。
ちなみに榮とは都市の名ではなく、對江下流域を中心とした一帯を領土とする封国のことで、都は(せい)という町に置かれている。
つまり、晃京と榮の都「」は、河の上流と下流という位置関係になるのだ。
 となると、何日も馬を駆るよりも、船で川を下るほうが何倍も早く、しかも楽に着けるのではあるまいか。
「そうしたいのはやまやまなのですが……。」
彩晶のごく当たり前の提案に、しかし馬桓はしばし考えた後、振り切るように首を振った。
「長距離を移動できる大型の船をつけられる場所というのは、そう多くはありません。
湊以外の場所に大型船をつけるのは難しいのだとも、以前お屋敷に出入りしていた賈人(こじん/物の売買をする人のこと。商人)から聞いたことがあります。
ですから湊には既に田氏の手が伸びている可能性が高いかと。仮に先んじることができたとしても、すぐに船を出してもらえるわけでもありませんし。
出航を待っている間に追手にみつかる危険のほうが大きいと、思われます。」
「そう…ですか……。」
河のほとりで小休止し馬に水を飲ませながら、彩晶は川面に視線を向けた。
 ちなみに馬桓が船の利用を選択肢から外したのにはもう一つ理由があった。
何しろ、着の身着のままで晃京を飛び出してきたのである。纏まった路銀を所持していないのだ。
彩晶が身につけている装飾品を換金することも考えなくはなかったが、それらには彼女の身分や素性を暗に示す印が彫られているものもあり、やはり不用意に手放すことは危険を伴うように感じられた。
 小さく嘆息すると、彩晶は草の上に腰を下ろした。
もはや直に腰を下ろすことに抵抗を覚えなくなったのか、それともそんなことに構っていられるほどの体力もないのか。
その両方だろうな、と思うと馬桓の心は重くなる一方である。
彼自身、昼夜を問わぬ強行と満足に寝食を摂れないこととで、強い疲労を覚えている。
使用人である自分ですらそうなのだから、蝶よ花よと屋敷の奥で大切に育てられてきた彩晶にとってはいかほどのものか。
枯れ草枯れ木によっていたるところが裂かれ泥と汗とが染み込んだ衣装には、もはや三日前の面影など無い。
急ぐ旅だから充分な休息が取れないのは仕方ないとしても、せめて口に入れるものだけはなんとかして差し上げたいものだ…と考えていると。
 「おい。」
突然背後から肩を叩かれ、馬桓は文字通り飛び上がった。弾かれたように身を返すと。
「…何やってんだ、こんなところで。」
真後ろにいたのは、あの禿頭の男だった。しばらく姿が見えなかったので、上手く撒いたと思っていたのだが……。
「なっ…。」
「こんな風通しの良い、それも河っぺりで、二人並んでぼーっとしてからに。
お前さんが凍えるのは一向に構わんが、女の子の体を冷やそうってのは、男の風上にも置けんぞ。」
腰に手を当てて馬桓を見下ろしながら、如海はつるりと己の頭部を撫でた。そちらのほうがいかにも涼しげだというのに、当人はそうでもないらしい。
それにしても一体いつの間に…。いやそれよりも、ここまで接近されるまで何故気配に気づかなかったのか。
「あ…あなたに心配されるいわれは、ありません!」
己の迂闊さを棚上げする為ではないが、慌てて如海と彩晶の間に体を滑り込ませる馬桓。
しかし如海のほうはというと、もう若き従者など相手にしておらず、その後ろにいる少女に向けてにっこり微笑んでみせた。
…「爽やか」を通り過ぎて下心がたっぷりあるように感じられるのは、馬桓の主観が大いに加味されているからなのだろうか?
「さっきの村でな、弁当を買ったんだ。こんな吹きっさらしの川原でなく、よかったらそこの林で一緒にどうだい?」
「あなたの施しなぞ、彩晶様が受けられるはず無かろう!」
反射的に噛み付いた馬桓だったが。
その彼の後ろからしたかわいらしい音は、大河の流れの音にはかき消しきれなかったようだ。真っ赤になって彩晶はうつむいてしまった。
「……お前、彩晶ちゃんを飢えさせるとは、一体今まで何してやがった!?」
「あなたのせいでしょう、元はといえば! あなたが延々と我々の後ろから着いてこなければ、食糧確保に割く時間だって確保できたんです!!」
「なんだとお前、だいたいなんで俺がいたら食糧確保ができんとかどうとか、それが食い物用意してやった恩人に対する態度か!?」
「誰が恩人ですか! あなたが勝手に用意したものでしょう? 迷惑以外の何者でもない、さっさと立ち去りなさい!!」
「いい加減になさい二人とも!」
細いがしかしぴんと筋の通った声が響いた。
あれほど激しく罵り合っていた二人が、力強さとは縁遠い彩晶の一喝で、ぴたりと口を閉じてしまった。
「……桓。この方に出会ったあの夜既に、私たちの命はこの方の掌中に納まっていたのだと、そうは思いませんか?
その彼が食事を提供してくださるというのなら、甘んじてお受けいたしましょう。」
「彩晶様!」
「掌中って……水臭いなぁ彩晶ちゃん。俺と彩晶ちゃんの仲でないの。」
「いつ、誰が、あなたとそんな仲になった!?」
今度は彩晶、無言のまま馬桓を睨んだ。これは先ほどの一喝よりも効いたらしく、馬桓も渋々口を閉ざす。
「万が一、食事をお受けしたことで更なる窮地に踏み込むことになるのだとしても。それはそれで覚悟できていますから。」
静かにそう説くと彩晶は、今度は如海に向かってまっすぐに視線を上げた。小柄な彩晶には、如海の頭部は文字通り見上げる高さにある。
向けられた表情は、あの夜都に残してきた家人たちの安否を尋ねたときのそれに近い。
あのときほどの神々しさは無いがそれでも凛とした美しさを感じ、不覚にも如海の頬にほんのり朱が差した。
「や…やだなぁ彩晶ちゃん。たかが弁当の一つや二つでそんな大げさな。こいつは正真正銘、さっき通った村で買い求めたものさ。
何せあんたたち、都を出てから一度も買い物をした気配が無かったからなぁ。」
だから心配になって複数買ったのだという。
「いや、買い物だけじゃないな。そもそも集落に近寄ろうとすらしなかったようだが。……そんなに人に見られるのが怖いか?」
「どこにあなたの仲間がいるか、わかったものではないからな。」
いなかったとしても、村人が聞き込みに来た追手に話をする可能性がある。
都から逃れてきた者と、それを追う者。都の外に住む庶人にしてみれば、面倒事に巻き込まれたくなければどちらを支持するかなど、論じるまでもないだろう。
「ははぁ、なるほど。確かにそりゃ道理だ。」
ふむ、と如海は鼻を鳴らした。すっとぼけているのではなく、素直に感心しているようだ。
「だがなぁ、あいつらに見つかったら面倒だと思っているのは、実は俺も同じなんだな。」
「なるほど、それで合点がいった。手柄を独り占めするために、それで仲間と離れて単独で彩晶様を追ってきたのだな。」
「…お前な。人の言を聞き入れる素直ーな人間にならんと、将来大成せんぞ?」
「それこそ余計な世話だ。私の将来とあなたと、一体何の関係が…。」
再びにらみ合いが始まりかけたところに。
「…………。」
再び、可愛い音が響いた。彩晶は顔を覆ってしゃがみこんでいる。
顔を見合わせると、馬桓と如海はしばらくの間休戦することを取り決めたのであった。


 弁当、といっても大したものではない。
街道沿いにある小さな村の、一軒しかない商店が旅人相手に商っているものだから、米ではなく雑穀を炊いた質素なものである。
冬だから青菜など当然無く、干したり漬け込んだりした根菜を戻したものがわずかに添えられているのみ。
だがそれでも、都を脱出して以来ようやく「食事」と呼べるようなものを口にした二人にとっては、一生忘れることができない馳走となった。
 「食事というものがこんなに嬉しいことだとは、今まで思いもしませんでした。」
馬桓から受け取った水の入った器を空けると、彩晶はその言葉どおりの表情を浮かべた。
途端に如海の表情も、まるでそこだけ一足早く春がやってきたかのように輝く。
「彩晶ちゃんがこんなに喜んでくれるとは、いやー俺も感激だよ。
よぉし、ここから先の食事はずぇえんぶ、この広瀚(こうかん/如海の字)様が奢って差し上げよう、そうしようそうしよう!!」
一人で勝手に盛り上がり、がはははははと笑声を上げる。そこから飯粒がひとつ飛び出して、馬桓の頬にくっ付いた。
……如海とは対照的に、馬桓の表情はひたすら渋い。このときの彼の似顔絵を描くとしたら、全て直線で表現できることだろう。
「何が『そうしよう』だ。今回はたまたま彩晶様の御厚意があっただけのこと、勘違いされては困る。
大体彩晶様に向かって『奢って差し上げる』などという物言いからして、無礼千万……。」
「そのわりにはしっかりお前も食ってたじゃないか、え? 豎子。」
「一人で四人前をきれいに平らげたあなたに言われたくはありませんね!」
再び始まった従者と押しかけ同道者の掛け合いに、さすがの彩晶ももう嘆息をこぼすだけであった。
…何度止めたところですぐに再開するのだから、これはもういっそ両人が飽きるまでやらせておいたほうがいいのかもしれない。
しかしあれだけ罵りあいながらも、双方とも手を出そうとはしないあたりが、彼らの思想や性格を現しているわけだが…さすがにそこまで齢十五・六の娘に察しろというのは無理な話なのだろう。
ともかく、このまま放置しておいても流血沙汰になるおそれは無いと判断し、彩晶は無意識に林の外に目を向けた。
 それほど奥まったところまで踏み入ったわけでもないので、冬枯れした丈の高い草の向こうに、荷を積んだ車が楽にすれ違えるほどの幅を有した道が見えた。
風も無く穏やかな日の光が差し込んでおり、状況が状況でなければ、しばらくのんびりと周辺を散策したいような日和である。
さすがに集落からは離れているので、人通りは無いけれど……。
そこでふと、彩晶は何故か妙な違和感を覚えた。
思わず視線を連れに向けると、驚いたことに如海もまた、彼女が見ていたのと同じ方に目を向けていた。
「話はまだ終わって…。」
なおも噛み付こうとする馬桓を手で制する。そこで初めて、馬桓は自分たちを取り巻く気配に気づいた。
「桓…。」
彩晶の小柄な体が、そっと従者に寄り添う。それ見たことか、といわんばかりに馬桓は彼女と如海の間に体を割り込ませた。
「やはりあなたが…。」
「豎子(じゅし/「青二才」程度の意味)、今のうちに馬の用意をしておけ。ああ、勿論俺のもだぞ。」
視線を林の外に向けたまま、今までとは打って変わりやや緊張した声音で、如海が背後に囁く。二人を背後に回す位置を保ちながら、片手で己の荷を引き寄せた。
「なっ、あなたの指図など受けぬと…!」
「悪ぃが、お前とじゃれている余裕は無さそうだ。
彩晶ちゃんを守るのが、お前の使命なんだろう? なら、四の五の言わずにやるべきことをやれ。」
なおもまだ反論しかけた馬桓であったが。それでも彼は頭が悪いほうではない。
「彩晶様、こちらへ。」
手招きすると、馬桓は数歩離れたところで枯れ草をまずそうに食んでいた馬の元へ向かった。
最初からすぐに出発する予定だったので、馬装は解いていない。
彩晶に鞍に上るよう促したところで、先ほどまで彼らが居た場所のほうで変化が起きていた。
 「何だ、あんたたちだったのか。」
ようやく姿を現して近寄ってきた相手に、如海は心底つまらなさそうに呟いた。
人数は五人。いずれも如海と同じような、動き易くはあるが温かそうないでたちをした男たちである。
体格はさまざまだが、小柄とか華奢とかいう形容が当てはまりそうな者は見当たらない。
もうひとつ共通していることを上げると、五人全員がそれぞれに何らかの得物を手にしていることだった。
「…お前は……禅沢の班にいた者だな。名は確か…。」
「いや、別にいいだろ俺の名なんざ。任務には何の関係も無いんだから。」
「思い出した、如広瀚だ。その禿頭には見覚えがある。」
左端にいた男が如海の顔をしみじみと見つめながら呟いた。いやはや美男子は何もしなくても人目を引いてしまうものというが本当だなぁ、とうそぶく禿頭。
「…そうか。楊の小娘の連れが、都を出てから一人増えたらしいと聞いて変だと思っていたが。まさか貴様のことだったとはな。」
「おいおい、何のことだ。確かに俺は一昨日班の連中とはぐれちまって、それきり合流できずにいたんだが。
知らん間に妙な濡れ衣着せられるってのは、さすがにたまらんぜ。」
「ぬかせ。濡れ衣だというのなら、何故さっさとその小娘を始末せん? 先ほどまで一緒に飯を食っていたのを、わしらが知らんと思うてか。」
鼻の左側に大きなほくろがある男が、歯をむき出して唸る。
随分と気が短いらしく今にも飛び掛ってきかねない勢いだが、それを制したのは今まで黙って腕を組んでいた、最後方の男だった。
「相手にするな。こいつはうすらとぼけてはいるが、相手にするとなると少々厄介だ。
それよりも小娘を始末するほうが先だ。また逃げられるぞ。」
行け、と促されて男たちが如海の脇を駆け抜け……ようとして、巨体に阻まれた。
「正体を現したな、裏切り者め。」
「か弱い女の子一人に、大の大人が数人がかりで袋にしようってのが気にくわねぇのさ。
……なかなかいねぇぜ、あんな良い娘はよぅ。勿体無いとは思わんか? ええ、秦桟(しん・さん)さんよ。」
「構うな!」
秦桟と呼ばれた体長格の男が叫ぶと、再び四人が駆け出す。
舌打ちすると、如海はそれまで後ろ手に隠していたものを振りかざした。
 鈍い音がした。
走り抜けようとした男の一人が弾き飛ばされ、枯れ草の上に横たわってうめいている。
二人がそれに気づき、怯んだのか反射的に足を止めた。そこに。
「行かせるかよっ!」
ぶぉん、と小さく空気が唸る。真横から飛んできた「それ」に、さらにもう一人が吹き飛ばされた。
「…双錘(そうすい)使いの如海、か…。」
秦桟の眉間に皺が刻まれる。彼の正面では、瓜のような形の塊を先端につけた三尺弱の棒を両手に一本ずつ構えた如海が、不敵な笑みを浮かべていた。
「金も身分も無いくせに、得物だけは立派なもんだな、おい。」
「立派なのは得物だけじゃないぜ?」
軽口を叩いた次の瞬間、如海の錘が火花を散らした。
秦桟が握っている物、剣だとばかり思っていたそれにはよく見ると刃が無く、がっちりとした直径がある。
こちらも長さ三尺あまりで握りのあるその金棒は、鞭(べん)と呼ばれる武器である。
鞭も如海の錘も、共に斬ったり突いたりする武器ではない。振り回して相手を殴り倒す鈍器である。
ただ、如海の使用する錘は柄の部分が木製であるのに対し、相手の鞭は文字通り鉄の塊であった。
「…やるじゃねぇか。」
如海の片眉がぴくりと跳ね上がる。
「打兵(打撃兵器)使いは貴様だけではないということよ。」
「なるほど。」
如海の巨体が半旋回する。
風を切って襲来したもうひとつの錘を、しかし秦桟は、今度はまともに受けず軽く身を引いてかわした。
重量はそのまま破壊力に直結するから、まともに撃ち合いになった場合、より重量のある鞭のほうが有利である。
しかし彼の得物はひとつしかないので、交互に襲ってくる錘を全て受け止めるのは不可能なのだ。だが。
「確かに裏切り者は目障りだが。貴様の足を止められれば、それで充分なんでな。」
「なにぃい!?」
にやりと不敵な笑みを浮かべたのは、今度は秦桟のほうだった。
如海の後方でようやく鞍に上った若者と少女に、二人の追手が殺到する。
「彩晶様!」
慌てて馬桓が馬を寄せ追手の前に立ちふさがった。その間に彩晶の馬が走り出す。
ただならぬ雰囲気に馬たちも興奮気味だが、それでも励まして注意を引き戻すと、彩晶は林の奥へと馬首を向けた。
「逃がさん!」
確かに徒歩では馬の機動力にかなわないが、それでもここは林の中である。障害物がたくさんある、それも不案内な地で、十二分にその能力を発揮することはできない。
その点徒歩である追手たちのほうが、小回りが利く分有利であった。
あっという間に馬桓が乗る馬の横をすり抜けると、手に手に物騒なものを携えて彩晶を追う。
「彩晶様っ!」
負けじと馬桓も馬腹を蹴る。とにかく追いつかないことには話にならない。
起伏と障害物だらけの間を進めと命じられ困惑する馬を励ましながら、彼はただひたすらに主の後を追った。
「この…!」
厚く敷き積もった枯れ草の上は、人も馬も足を取られて走り難い。
それでもようやく距離を詰めると、馬桓は正面を睨みつけたまま鞍にくくりつけられていた袋に手を伸ばした。何かが手に触れる。
それが何かを確かめる間もあらばこそ、躊躇なく追手めがけて投げつけた。
 …命中して初めて気づいた。掌ほどの大きさをした木製の箱である。
中は空だったのか、ここまで聞こえてくるほど大きな音を立てて後頭部に命中させられた追手は、さすがに効いたのか平衡を失い、走りながらもんどりうって、そのまま派手に転倒した。
「彩晶様ぁっ!」
しかし残る一人が、彩晶の衣の裾に触れそうな位置まで迫っていた。伸ばした手が鞍についていた房飾りをつかむ。
すかさず空いているほうの手を伸ばし、今度は慌てるあまりあぶみにしっかり乗っていなかった彩晶の足を服の上からむんずとつかんだ。
「あっ!」
悲鳴を上げるのが先だったか、追手が足を引っ張るのが早かったか。
ともかくただでさえきちんと騎座できていなかった彩晶は、面白いほどあっけなく平衡を崩し、冬枯れした草むらへと転落してしまった。
「へっ、手間かけさせやがって。」
共々に転倒したもののそれでもつかんだ足をしっかり握って放さないのは、あのほくろ男である。
肩で息をしながら空いたほうの手で腰に手挟んでいた匕首(ひしゅ/あいくち)を抜くと、無様に地面に這いつくばっている貴族の娘ににじり寄った。
「安心しな、俺だって無慈悲じゃねぇ。苦しくないよう一瞬で楽にしてやるからよ。」
ひっ、と彩晶の口から悲鳴が漏れる。
聞こえていないのかそれとも意図的に感情を殺しているのか、ほくろ男は無表情のまま、匕首を振りかざした。
 これが三日前の彩晶であったなら、切っ先を向けられた時点で頭の中が真っ白になり、無抵抗のまま刺されていたことだろう。
しかし良くも悪くもこの逃避行は、彼女にある種の強さを育んでいた。
あれを突き立てられたら自分は死ぬのだ、という判断が脳内を走った次の瞬間、彼女の体は反射的に動いていた。
まだ自由が利く反対側の足が、男の顔面にきれいに吸い込まれていた。
「!!…っ」
良家の娘にそんな度胸など無い、という思い込みでもあったのだろうか。無様にもまともに履(くつ)裏を顔面で受けた男がのけぞる。
さすがに匕首は取り落とさなかったが、足をつかんでいた手がわずかにゆるんだ。だがそれでも戒めは充分に効いている。
「くっ。」
彩晶も必死だ。生死がかかっているのに、なりふりなど構っていられない。
もう一度履が男の顔面に叩きつけられる。一度、二度…しかし三度目にはさすがに男がかざした腕に阻まれてしまった。
「こんの…!」
鼻から赤いものを滴らせ、ほくろ男は彩晶をすさまじい形相で睨みつけた。力任せにつかんでいた足をねじる。
体がさらに横転して、少女は痛みに顔をゆがめた。再び振りかざされる匕首。
「おとなしく…!」
匕首が少女の柔肌めがけて振り下ろされようとした、まさにそのとき。
真後ろから何かが衝突してきて、ほくろ男は再び体勢を崩した。
 「貴様ぁっ!」
後ろから伸びてきた腕が、がっちりとほくろ男の首に回される。そしてそのまま力いっぱい締め上げた。
「!」
ほくろ男も黙って締められるいわれはない。任務よりも己の命のほうが大事なのだ。
注意は自然と背後の男――馬桓――に向けられ、何とか振りほどこうと身をよじった。匕首の切っ先が、彩晶から馬桓へと向きを変える。
意識が後ろへと向いた瞬間、彩晶の足を戒めていた力が再びゆるんだ。
次の機会は無い。無我夢中で彩晶は、枯れ草の上を這って男の戒めから逃げ出した。
それに気づいた男が手を伸ばすが、つかんだのは虚空のみ。
「彩晶様! 早く、逃げて…!」
さらに強く締め上げながら、馬桓が叫ぶ。
「ですが…!」
あなたはどうするのです、と問いかけた彩晶の表情が、固まった。
逃してはなるまい、今すぐこの腕を振り解かねば、と焦った男が匕首を馬桓に向けて振るったのだ。
切っ先が馬桓の右太ももを裂き、下衣の裂け目がじくじくと赤く染まりだした。
「私になど構わず、お逃げください! 早く!」
痛みに耐えながら、それでも締め上げる力を一向にゆるめることなく、馬桓は再度叫んだ。
ほくろ男のほうも何とか逃げ出そうと暴れもがき続けている。
振るった肘が、踏みつけた足が、強靭な筋肉が、そして何より匕首が、幾度と無く馬桓に襲い掛かる。
何しろ下っ端とはいえ、れっきとした捕吏である。一介の使用人とは体の鍛え方が違うのだ。持久戦になればほくろ男のほうが断然有利である。
しかしそれは馬桓のほうも承知している。だから自分がほくろ男を押さえつけている間に、少しでも遠くまで彩晶を逃れさせたい。
そのことにようやく得心すると彩晶は、それでもなお後ろめたさを覚えつつ踵を返し、戻ってきた馬の手綱を取った。
先ほど男に転がされたとき、足首をひねったようだ。痛みを覚えながらも、彩晶は苦労して鞍に上った。
「桓!」
「必ず、追いつきますゆえ!」
その言葉を信じ、彩晶が脚を入れようとした、そのとき。
 「よーし、ごくろうだったな、豎子。」
馬桓のさらに後ろから、つい最近耳に馴染んだあの声がとんできた。


 横合いからぬっと現れた巨体が、匕首を握り締める腕をむんずとつかみ上げる。
首を締め上げる馬桓ごとほくろ男を宙吊りにすると、如海はその顔に自分の面を触れそうなほどぐっと近づけた。
「おい…まさかたぁ思うが…俺の大事な彩晶ちゃんに、傷のひとつも付けちゃいねぇだろうな、ええ?」
いつものへらっとした調子で尋ねる。が、その目は全く笑っていない。昨日今日の面識しかない馬桓の目にも、それははっきりと見て取れた。
けれどほくろ男のほうはその馬桓に首を締め上げられているので、肯定も否定もしようがない。それどころかそろそろ意識が飛びかけている。
「どうなんだ?」
 一緒に宙吊りにされたままではかなわないので、馬桓はようやく男の首から腕を放した。
彼にとっては男など二の次で、ともかく彩晶が無事であればそれでいいのだから、彼女さえ逃げおおせてしまえばこれ以上男を押さえつけている意味は無いのだ。
すとん、とそのまま両足で着地したつもりだったが。
「うっ……。」
太ももに痛みを覚え、不覚にもその場で尻餅をついてしまった。先ほど匕首で斬られた場所だ。
深手を負った感触はなかったが、それでも迅速な行動を妨げるには充分な痛みである。
 「返事くらいしろや、おい!」
相手が失神しかけていることを知りながら、如海はわざと耳元で怒鳴った。そしてそのまま男を投げ落とす。
当然受身など取れるわけがなく、男は蛙が潰れたようなうめきを上げると、そのまま本当に意識を失って地面に伸びてしまった。男の手から匕首が転がり落ちる。
そこに血のりが付いているのを見て取り、如海の表情が険しくなった。
「野郎…!」
「違う、それは私のだ。彩晶様はご無事だ。」
慌てて馬桓が口を挟む。今にも暴れだしそうな如海だったが、その言葉にようやく冷静さを取り戻したらしく、目を向けた。
「そいつぁ良かった。…何だ、やられたのか。」
「私のことなどいい。あなたのほうこそ、あの男はどうしました?」
ああ、あれか、と呟き、如海は得意げに鼻の下を人差し指でぬぐった。
「足の骨を折ってやった。当分はまともに歩くこともできんだろう。他の連中も似たり寄ったりだ。
殺したほうが良かったのかもしれんが、奴らもただの下っ端だ、自分の意思で動いていたわけじゃないからな。
ま、運が良ければ凍え死ぬ前に里人にでも見つけてもらえるだろうよ。
…もっとも彩晶ちゃんが殺ったほうがいいって言うんなら、勿論話は別だがよ。」
「あの方が、そんなことをお命じになるはずなかろう。」
憮然として呟くと、馬桓は多少よろめきつつも構わず立ち上がった。結果的にとはいえ、自分も如海に救われた形になってしまった。それが腹立たしい。
「…おいおい、その状態で動き回る奴があるか。せめて血が止まってからにしろ。つーか、傷口を見せろ。」
「あなたの助けは借りないと、」
「桓!」
声に、馬桓と如海は一斉に同じ方向を見た。軽く足を引きずりながら、彩晶がこちらに向かってくるのが見えた。
「彩晶様。」
「彩晶ちゃん!」
途端に表情を輝かせると、如海は両手を広げて彼女に走り寄った。
「どうしたんだいその足!」
が、彩晶は眼中に入っていないのかその脇をするりと抜けると、そのまま従者のもとに駆け寄った。
「ああ、ひどい怪我! …私のために…。」
「大したことありませんよ、こんなもの。しばらくおとなしくしていれば…。」
「大したことあります! 袴(こ/ズボン)がこんなに赤くなっているではありませんか!」
「さぁいしょぉうちゃああぁぁぁぁん……。」
軽く無視された如海がとぼとぼと戻ってきた。先ほどほくろ男を軽く伸してしまった男と同一人物とは、とても思えない体たらくである。
が、次の瞬間、びしりと背筋を伸ばした。というのも。
「広瀚殿。」
真剣な面持ちで、彩晶が見上げていたからだ。あの「凛々しい美しさ」がそこにあった。
「…お恥ずかしい事ながら、私は怪我の手当てというものをしたことがありません。どうすればいいのかわからないのです。ですから……。」
「あー、皆まで言わなくても結構。」
切々と訴える少女を手で制すと、如海はわざとらしく咳払いをした。
「俺に豎子の手当てをしろ、と言うんでしょ?
そんなことわざわざ口にしなくても、彩晶ちゃんの心の内は手に取るように解ります。なんたって俺たちは以心伝心の間柄……。」
「誰と誰が以心伝心と!?」
反射的に怒鳴った馬桓だったが、ずきりと走った痛みに思わず顔をしかめる。…大声をあげるというのは、傷に響くものらしい。
「お願い、出来ますか…?」
「俺が彩晶ちゃんのお願いを、断ったことがありましたかい?」
にっこり笑って答える如海。…断るも何も、頼みごとをされたのは初めてなのだが。
それでも彩晶がわずかに嬉しそうな表情をすると、如海は照れ隠しも含めて、先ほどほくろ男が取り落とした匕首を拾い上げた。
「見たところ、毒とか面倒なものが仕込まれていた様子も無いですし。ま、慌てたもんでもないでしょ。」
そのままぽいっと茂みに匕首を投げ捨てる。
「だがなぁ。彩晶ちゃんの怪我のほうがよっぽど大事なんだな。
彩晶ちゃんの手当てが済むまで、こいつは頑として受け付けないと思うがね。そうだろう豎子?」
馬桓は軽く睨み返しただけである。
自分が考えていることをあっさり読み取られてしまったことが癪なのだが、全くそのとおりなので反論しようもない。それがまた腹立たしい。
何より、手当てと称して如海が彩晶の柔肌に直接触れるなど、彼としては断じて、そう断じて許せなかったのだ。
「それこそ、私のほうこそ大したことありません。少しひねっただけです。このとおり歩くこともできますし、何より血など出ていませんもの。ですから…。」
「ああ、なんて優しいんだ彩晶ちゃん。それでこそ俺が惚れこんだ女性だ。」
「だから! 彩晶様にその無礼な物言いをやめろと何度言えば!!」
…と、いつものやりとりが戻ってきたところで。
 如海、今度は口うるさい従者をひょいと担ぎ上げた。面食らったのは馬桓である。
「なっ、何をする!?」
「何って…河の水で傷口を洗うんだよ。
止血も大事だがな、きっちり洗って薬つけるなり何なりしておかないと、傷口から腐ってきやがりでもしたらもっと面倒だろうが。」
「それなら自分で歩く、下ろせ!」
「俺も男なんざ担ぎたかねぇやい。けど自力で河まで歩けるのか? 待ってたら日が暮れちまわぁ。」
一刻も早く都から離れ、彩晶の兄・伯透がいる榮へ向かわねばならないのだ。
如海によると、追手は秦桟の班の他にもまだいるらしい。こんなことで足止めされているわけにはいかないのだ。
それは他の誰よりも馬桓自身がわかっている。悔しいが反論のしようがないので、不本意ながら馬桓はしぶしぶ暴れるのをやめた。
「おっ、やっと素直に俺の言うことを聞く気になったか、豎子。」
「…豎子ではないわ。人が黙っていれば図に乗って連呼しおって。」
「ほほう? 俺はまたてっきり、そのとおりだから黙っているんだと思ってたんだが。」
「どこの世に豎子などという名の者がいるか! 失礼な!!」
「いちいちうるさい奴だな。では何と呼べばいい? 言っておくが、変更は一度きりだからな。まめに変えられても、覚えんぞ。」
口を尖らせる如海。その少し後ろを、軽く足を引きずった彩晶が追ってくる。
心なしか表情がほころんでいるように見えるのは、従者と押しかけ同道者のやり取りがいつものように漫才じみてきたので、和んだからであろう。
しかしそんな二人の期待に反し、何故かそこで馬桓は口を閉ざしてしまった。
「……どうした?」
いつもならすぐさま噛み付き返してくる馬桓からの反応が無いことに、さすがの如海も少しいぶかしく思ったようだ。足を止め、背負った男を肩越しに見やる。
「…傷が痛むのか?」
「姓は、馬という。」
「……字(あざな)は?」
「…………無い。」
心底悔しげに、馬桓は呟いた。担がれているので直接顔を見られなかっただけでもましだろう。
ははぁそれで今まで名乗りたくても名乗れなかったのだな、と如海は得心した。
得心したが、だからといってこれ以上つつくのをやめようとは思わないのが、彼の稚気といったところか。
 華央には、血縁者もしくは師や主君といった、その人にとって内々の間柄もしくは目上の存在からでしか名で呼ばれることを潔くしない、といった風習が古来よりある。
本名は内々の者の間でのみ呼び交わすもので、社会で用いることはまず無い。社会に出てから本名の代わりに用いる「呼び名」が字なのである。
逆を言えば、そう親しくも無いのにいきなり相手を名で呼びつけるというのは、相当無礼な行為に当たる。気の荒い人物ならば、その場で殴りつけることもあるくらいである。
(もっとも、このあたりは二百年ほども経つとこの華央の地では次第にあやふやになっていくのであるが…。)
 ともかく馬桓にとって、父や主家の者(この場では彩晶)以外に名で呼ばれるのは、それなりに苦痛を伴うことなのだ。
ましてや相手が如海となると…。
 「…お前、十五はとっくに過ぎているんだろう? 彩晶ちゃんとこの使用人みたいだが、姓があるのならただの庶人(一般人)というわけでもあるまい?
なのに何で字が無いんだ??」
「それは……。」
字というのは、社会に出る「一人前」と認められた者が用いるものである。
しかし楊家で働く人々――私臣といってもいい――の働き振りを日々目の当たりにしてきた彼には、自分などまだまだ半人前に過ぎないという意識が強い。
今だってそうだ。自分ひとりだけであったなら、はたして秦桟たちから彩晶を護りきることができたかどうか。
そんな自分が字など……。
 とはいえ、勿論如海には馬桓のそんな個人の事情など知る由も無い。それより何より、先日より彩晶が彼の名を連呼しているので、厳密に言えば全く知らないというわけでもないのだ。
…やはりからかっているだけなのかもしれない。
 「まぁ言いたくないってんなら別に構わんが。だが名は明かさん、字も無いとなると…やっぱり豎子としか呼びようが無いはなぁ?」
「だからそれはやめろと言っている。十九にもなって豎子呼ばわりされるのはたまらん!」
 そんなやりとりをしているうちに、三人は河べりにたどり着いた。川面をかすめる冬風が、三人の衣を容赦なく揺らしていく。
三日間の逃避行できっちり結われていた彩晶の髪も型崩れし始めており、ほつれた後れ毛が冷たい風にゆらゆらと始終踊っていた。
「ちぇっ、面倒臭ぇ。」
軽く鼻を鳴らすと如海、わりと無造作に馬桓を投げ出した。彼にしてみれば、彩晶ならいざ知らず、男である馬桓なんぞをいつまでも背負っていたところで嬉しくもなんともないのだ。
そしてそれは馬桓にとっても望むところなので、多少乱雑に扱われたことよりもむしろ巨漢から解放されたことを歓迎していた。
「俺ぁは別にどっちでも構わんのだぜ。不服だってんなら、せいぜいじっくりと立派な字を考えてみるんだな。期限があるもんでもないしよ。」
言葉とは裏腹に好意的なまなざしが、馬桓に向けられていた。
「さて。ではとっとと袴を脱げや。」
…前言撤回。好意的というよりは、悪戯心全開にやにや笑いと表現したほうがいいかもしれない。
途端に彩晶と馬桓の面が真っ赤になった。
「ななななななな何をっ!!??」
「阿呆、傷口を洗う為に決まってるだろうが。何のためにわざわざここまで担いできたと思っている?
…言っておくが、俺は男の袴を下げる趣味は無いからな。自分で脱ぐんだぞー。」
彩晶、失神寸前である。
「あっあの私、離れていますからっ。」
辛うじてそれだけ言うとそそくさと、文字通り逃げるように彩晶は草むらの向こうへと消えていった。
馬桓のほうはというと……その前にかっきり固まったまま、思考が真っ白になっていた。

◆     ◆     ◆

 これが、馬公穆と如広瀚の出会いであった。
彼らは後に「賢龍の七傑」と呼ばれる英雄たちのうちに数えられることになるわけだが。
歴史に名を残す者の出会いとは、得てしてこういうものなのかも、知れない。

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