巍国賢龍伝――(一) 彩晶――
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 冬枯れした野の道を、二つの騎影が疾走していく。
 空は華央のこの季節には珍しくどんよりとした鉛色が一面に広がり、いつ泣き出してもおかしくない。もっとも、降ってくるものは白い色をしているのだろうが。
風は西から東へと吹いており、騎馬の加速を助けている感すらある。
彼らより他に動くものといえば、その風に揺れる冬の枝くらいか。
 馬上にあるのは、男女が一組であった。
 女のほうは、年のころ十代半ば。
 美しく結い上げられた髪には細かな細工の施された簪(かんざし)が挿され、身に付けた装束は絹で織られている。
顔立ちも整っており、若さに裏打ちされた美しさが零れ落ちるよう。
だが紅が注されているはずの唇は、きりと結んでいるはずなのにかすかに震えていた。
 いま一人である男のほうは、女よりは地味ないでたちをしている。連れより二つ三つほど年かさのようだ。
確かに服装も髪型もそれなりに整っているが、女と同等のものかというと首をかしげる。
そこいらの農夫では一生袖を通す縁すら無い代物だが、それでも目が肥えている者ならば、それらが使用人の域を出るものではないということに気づくであろう。
 馬の足がやや鈍ってきた。
それもそうであろう。榎(か)の都「晃京(こうけい)」からおよそ三十里(中華の一里は約四百メートル強)、一度も立ち止まることなく駆け続けてきたのだから。
いくら永楼関(えいろうかん)を抜けるまでは平坦な道が続くとはいえ、これだけの速度を維持してここまで駆けてこられたのは、二頭が体力のある若駒だったおかげである。
だがいくら名馬といえども、いやたとえ一日に千里を駆けるという汗血馬であったとしても、生き物である以上、永遠に走り続けることなどできない。
 「彩晶(さいしょう)様、追手は振り切ったようです。」
 後ろを振り返り、男はそう、隣を疾駆する娘に声をかけた。まっすぐに正面を見つめていた娘が、それにわずかに顔を向ける。
それまで不安一色に彩られていた彩晶の顔に、ほんのわずかだけ安堵の色がさした。
 「それに、もうすぐ日が暮れます。馬も休ませなければ、ほどなく潰れましょう。」
 これだけの距離を移動するのであれば、「添え馬」という乗り換え用の馬を連れて行くのが普通である。
だが当然といおうか、そんなものの姿は見当たらない。用意している間など無かった。
 「休むと言いましても……。」
 連れの言葉に、しかし彩晶の安堵もすぐに曇ってしまった。速度を落としつつ、彼女はまるで迷い子のように周囲に目を走らせた。
 「人家はおろか、人の姿すら見当たらないではありませんか。休む場所など……。」
 彩晶の不安はもっともである。
徐々に迫り来る宵闇に浮かび上がる、風に揺れる冬の枝葉は、占いや精霊信仰の風習がいまだ根強く残っている華央の者には、それだけで恐ろしく映る。
 加えて、衣装からも彼女は良家の子女と見ていい。
 野原の真ん中で休むと言われても、土の上に直接腰を下ろすなど考えたことすらなかった。
そのつもりがあるならば、最初から戎衣(じゅうい)に身を包んで騎乗するはずである。いやそれ以前の問題か。
 「ですが。このまま夜の道を駆けるのは、危険です。
雲が厚く月明かりも頼めない今宵は、追っ手も己が命のほうが惜しいはず、無理を強いて迫ることは無いかと。」
なにより、男は彩晶の体力が心配であった。
 確かに彼女は父君が眉をひそめるのを説き伏せて騎乗の技を身につけはしたが、それでもこんな長時間、こんな遠くまで馬を駆ったのは初めてのことである、と男は認識している。
 「榮(えい)までは遠うございます。馬の足でも早くて数日、通常でも十日はかかるかと。
お休みいただかないと、兄君…伯透(はくとう)様と再会なさることも叶いませんぞ。」
 「ああ、兄様……。」
 伯透の名が出た途端、彩晶は深い深い嘆息と共にうつむいた。
一瞬男は、彩晶がそのまま馬上から滑り落ちてしまうのではないかという不安に捕らわれたが、幸いそれは実現しなかった。
 「今日のこと、私は一体何と、兄様にお話すれば、よいのでしょう……。」
 「彩晶様、」
 手を伸ばして彩晶の馬の手綱を取ると、男は自分の馬ともども止めさせた。両馬とも鼻を大きく開き、呼吸を整えている。
 「…怖れながら、御家の大事を伯透様にお知らせ申し上げられるのは、もはや彩晶様以外にはいらっしゃらないかと存じます。
伯透様に、彩晶様の無事なお姿をご覧頂くのが何より。
しかしながら、もしも彩晶様にまでもしものことがあったら、伯透様はどんなに哀しまれることか。
そのためにも、お願い申し上げます、ここで休息をお取り下さいませ。」
 男に促されて、彩晶は鞍上から降りた。絹の衣の裾に続き、彩晶の体そのものが地面につきそうになる。
そこに手が伸びて、彼女はかろうじて転倒をまぬかれた。
 「桓…。」
 「彩晶様。御身は必ずや、この馬桓(ば・かん)がお守りいたします。必ずや伯透様の元へお連れいたします。この身に換えても…!」
 冬の風が、彩晶の衣と髪を大きく揺らす。それまで維持していた緊張がわずかでも弛んだのか、彩晶の膝が折れ、そのまま馬桓の懐へと崩れていった。


 街道から外れ、彩晶と馬桓は林に踏み込んだ。
 相変わらず人家らしきものどころか、明かりの一つも見当たらない。
 月明かりも頼めない――この曇天ではたとえ望月であったとしても地上の者にその姿を見せることはできないのだが――中、不慣れな地を歩くのは自殺行為に等しい。
 足下は平らですらなく、野の草木が互いを掻き分けるようにして枝葉を伸ばしている。
 ましてや彩晶の着物はゆったりとした線と装飾的な部品が多く、本来なら屋外で身につけるものではない。
一歩進むごとに必ずといっていいほど裾や袖を引っ掛け、間もなく都を出たときのものと同一のそれとは思えないほど、みすぼらしい姿に変わり果ててしまった。
 が、袖や裾を犠牲にしたからこそなのか、幸いにも彩晶自信の肌は微塵も傷つかずにすんだ。
 程なく、先頭を進んでいた馬桓が足を止めた。止めざるをえなくなった。まだ街道を外れてから半里も来ていない。けれど。
 「どうしました桓、私なら…。」
 「いえ、このあたりにいたしましょう。」
 本心はもう少し奥まで進んで、少しでも街道から離れたいのだが…。
 でなければ、暖を取るための焚き火の光を、追手に気づかれる怖れがある。
この冬の曇天の下、焚き火無しで夜を明かすことなど、できない。野宿など想像したことすらない良家の子女なら、なおさらだ。しかし。
 疲れと恐怖の為にいまだ震えが止まらない少女を、これ以上連れて進むことはできない、と馬桓は判断した。
馬のほうも、二頭ともいつ倒れてもおかしくない状態である。
 しばし思案した後、馬桓は視界の中で最も幹の太い木に根元に、周辺から枯れ草を集めできるだけ厚く敷き詰めた。
 しばし戸惑っていた彩晶であったが、枯れ草の上に馬桓が裘(きゅう/動物の毛皮で作った防寒着。皮衣。)を脱いで敷くのを目の当たりにし、驚きのまなざしを向けた。
 「お屋敷の牀(しょう/ベッド)のように軟らかくはありませんが、これでも無いより幾分かましでしょうから。」
 表情を軟らかくすると、馬桓はそう言って少女に座るよう促した。けれどそれでも彩晶は動かない。
 「早く裘を着てください、これではお前が凍えてしまう。」
 「ご心配には及びません、草の上で寝ることには慣れております。」
 嘘だ、と彩晶にはすぐに判った。
 馬桓は彼女の家に仕える家令(使用人)の一人であるが、彼自身だけでなくもう何代も前からずっと仕え続けてきた家系であるから、待遇は決して悪いものでなかった。
何より、彼が身につけている物がそれを物語っている。
 屋敷の敷地内に小さいながらも小屋を一軒与えられ、そこで一家そろって暮らしていた。庶人(被支配階級)のなかでも比較的高い生活水準であったはずである。
 それを置いても、冬の寒空の下で夜を明かした経験など、少なくとも彩晶が知る限り無かったはずである。
 「それに、私にはまだやることがあります。…体を動かしている間は、意外と寒さを忘れるものなのですよ?」
 寒さにこわばりそうになる顔に、馬桓は無理やり笑みを作った。
 彼の性情はよく心得ている。何より意地の張り合いをしていられるほど、彩晶に気力が残っていなかった。
何を言ったところで上着を手にすることはないだろうと察した彼女は、静かに示された場所に腰を下ろした。
 「お前は休まないのですか?」
 疲れているのは馬桓とて同じはずだ。
同じ距離を馬で駆けてきたこともあるが、それより前の段階……楊の屋敷そして晃京を脱出する細工のために、彩晶の知らぬところで縦横に走り回っていたであろうことは明白である。
 明日からの旅程もあるし、何よりこの先馬桓にもしものことがあったら彩晶は、たった一人で荒野の中に放り出されることになってしまう。
 疲労に関しては不満などあろうはずもないのだが、見知らぬ土地で独りぼっちになるかもしれないと考えた途端、この青年と呼ぶには幼さの残る従者とわずかでも離れることを、猛烈に怖いと感じたのである。
 「こいつらに、」
 そう言って馬桓は、彼らと共に晃京から脱出してきた馬たちを示した。
 「何か食べさせなくてはなりません。明日からも頑張ってもらわなければなりませんから。」
 もしかしたらその辺りに食べられる実か何かがあるかもしれません、とも言い残すと、馬桓は馬たちを引いて彩晶が座る木の後ろ側へ行こうとした。
その袖を、彩晶は無意識につかんでいた。
 「必ず、戻ってきてくださいね。」
 あたりは既に夜の闇に包まれつつある。しかし馬桓の目には確かに、不安に揺れる彩晶の瞳が映っていた。
 「どこにも参りません。お声が聞こえぬほど離れはいたしません。彩晶様を置いて行けるところなど、私にはありません。
すぐに戻ります。」
 その言葉に偽りは無い。馬桓の思考には、彩晶を見捨てるという選択肢は欠片も無い。
 けれど、だからといってずっと隣に据わって居てやることはできない。
 馬桓は楊家の家令である。主が滞りなく活動できるようにさまざまな下準備をするのが、彼の最も重要な役目であることを十二分に承知している。
 ましてや今、彼女についているのは自分一人。
一から十まで全て馬桓一人でやらなくてはならない。座っている間も惜しい、というのが本音だった。
 周囲の気配に心を尖らせながら、馬桓は枯れ草を掴めるだけ集めると、ごしごしと馬体をこすった。汗をぬぐっておかないと、夜気で馬の体が冷えてしまう。
 できれば鞍も外してやりたいところなのだが、いつ追手が現れるかもしれないと思うと、さすがにそれはためらわれた。
 ひもじそうに馬たちは地面に首を伸ばしたが、這うような草がわずかに生えているだけで、とても彼らの腹を慰めてくれるほどの量は確保できそうにない。
人間が食べられそうなものなど、なおさらだ。
 (夜が明けたら、まず人家を探さねばならないな。)
 人家を探し、暖を取る。食べられるものを手に入れて、それから横になれる場所を見つけなければ。


 (どうして。どうしてこんなことに。彩晶様がこんな目に遭わなければ、ならないんだ……。)
 結局大したものも見つけられず、馬桓はとぼとぼと引き返さざるをえなかった。
 必死で馬を駆っているときは気づかなかったが、こうしてひと心地つくと、途端に冬の夜の寒気がぞくり…と衣の下にまで忍び寄ってくる。
と同時に、心の中にまで寒気は這ってきた。
 馬桓自身、なにが起きたのかよく解っていない。いや、解りたくないのかもしれない。
そう考えて、彼はその思考を振り払うように頭を大きく振るった。そんなことなどあるものか!
 一日は、いつもと同じように始まった。
いつもと同じように仕事をこなし、いつもと同じように同僚たちと言葉を交わし、いつもと同じように主――楊(よう)家の当主、ネ(たい)――が宮殿へ参内するために屋敷の門を出るのを見送った。
 いつもと違うことが起きたのは、日の光が午後のものへと変わり始めた頃だった。
 風のにおいがいつもと少し違うような気がしたのだが、それは気のせいなのだろうと意識の外に置いていた。
けれどそれは、どうやら気のせいなどではなかった。
 屋敷の敷地を囲う土壁の向こうから、敵意がじんなりと染み込んできていた。
一つや二つではない。敵意などという可愛いものでもなかった。何百という殺気が、楊の屋敷をぐるりと取り囲んでいたのだ。
そのことに楊家の家宰が気づき、上は当主の直臣から下は洗い場の少女にまで指示を出し終えた頃、殺気は具体的な暴力を伴い屋敷の門を破壊して雪崩れ込んできた。
 混乱する屋敷の一室に、馬桓は慌しく家宰と父に呼ばれた。既に敵兵はすぐそこまで迫っている。
 「彩晶様を榮の伯透様の元へお連れせよ」。そう、命じられた。
 問い返す暇すら許されなかった。
 直後。飲み込まれたのであろう、敵兵の気配の中に二人の気配が覆われるのを、遠ざかる背で感じた。
 濁流のごとく押し寄せる敵兵を阻止しようと立ち向かう勇敢な使用人たちの間を抜けて抜けてすり抜けて、誰が用意してくれたのか既に馬装を終えていた騎馬にまたがると、二人は一度たりとも振り返ることなく、追いすがる敵兵を勢いだけで蹴散らし駆けて駆けて駆け抜けて、ここまでやってきたのだった。
 あの兵が誰の命令で、そして一体何の目的で楊の屋敷を襲撃したのかは、やはりわからない。それを判断するようなものを目で探す余裕など、微塵も無かったのだ。
 襲われる理由も、逃げなければならない理由もわからずに、ただ無心で、ここまで逃げてきた。
 ひとつだけわかっていることがあるとすれば。
 ……ここで晃京へ立ち戻ろうものなら、待っているのは死以外無い、ということか。
それもあの様子だと、女子供とて見逃してもらえるようには思えなかった。使用人などなおさらだろう。
 本当に、何がなんだかわからない。途方に暮れている、というのが正直な心境だった。
だが、この「迷い」を彩晶に気づかせるわけにはいかない、とも思う。
 気づかれればあの心根の優しい少女に、さらに不安を与えることになってしまうから。
 (ともかく、榮にたどり着くことだ。榮まで行けば、伯透様が何かつかんでおられるかもしれない。)
 そう思い直し、面を上げたときだった。
 冬風に乗って、か細い女の悲鳴が聞こえてきた。
 次の瞬間、馬桓は駆け出していた。


 悲鳴を上げるだけの気力は、まだ残っていたようだ。本当に恐怖で身がすくんでしまったのなら、悲鳴を上げることすらできなくなる。
 そういう意味では、楊彩晶という娘は見た目ほど儚い…というわけではなさそうだった。
 「それ」は、本当に突然現れた。
突然、という表現も合わないかもしれない。彼我の距離がほんの数歩に縮まるまで、気配を感じさせなかっただけなのだから。
 ともかく彩晶の正面に、黒い影がぬらりと立ちふさがっていた。
 夜間の曇天である。
それでも自身の身の丈を凌駕する巨躯だということは気配で判ったが、果たして相手が獣なのか…それとも人間なのかすら、彩晶は判断しかねた。
 命を狙われている、という実感は十二分にある。
相手がどういう類の殺意を持っているのかは量れないが、それでも彩晶は「死」というものを今ほど強く意識したことはない。
 (桓……!)
 供の名を呼ぼうとして、しかし今度は声が出なかった。唇が動かない。包まっていた裘の裾を握る手が、注視せずとも判るほど激しく震えていた。
 「悪いな、これも仕事なんでね。」
 不意に「それ」が言葉を吐いた。太く低い声音であった。
 人語を操るということは、やはり人であったか。いや、妖怪の中にも人まねをするものはいるという。
そのことに思い至り、ふとそちらのほうがまだましかもしれない、という思いが彩晶の脳裏をよぎった。
 影がずい、と一歩間を縮めた。また一歩。
あれだけの巨躯が動いているというのに、厚く積もった枯葉が沈んで音を吸収しているのか、足音がほとんどしない。それがますます妖怪じみて感じられた。
 「……死んでくれや。」
 わずかに風が湧き、影から伸びる右腕(と思しきもの)が振り上げられた。そこには何か得物が握られているらしい。
 逃げられぬ。本能的に彩晶はそう感じた。
たとえ振り下ろされるあの腕をかわせたとしても、すぐさま刃は返され再び襲い掛かってくるに違いない。
怖いという感情よりも、何をしてもこの「運命」には抗えないのだという不可視の力のようなものが、彼女の動きを封じているかのようだ。
顔をそむけ目を閉じることもできず、彩晶はまるで彫像にでもなってしまったかのように、巨躯とその手に握られた得物とを呆然と見上げていた。
 刹那。風に流され、雲間からわずかに月が姿を現した。
 満月でこそないが、それでも月はかなりの丸みをおびていた。
雲の向こう側にもこちら側にもさえぎるものは何も無く、静かにも冷たげにもそして優しげにも感じられる月明かりが、柔らかく地上の一部に舞い降りてきた。
 その月明かりが、巨躯越しに彩晶の面貌を照らし出していた。
髪に挿した簪にあしらわれた、鳥の形に細工された金属が、柔らかい光を同じように映している。
 月を背負った形なので、やはり巨躯の面貌は彩晶からは判らない。むしろ輪郭が強調され、その体躯がより大きく感じられた。
覆いかぶさるように迫っていたその大きな影は、しかしいつまでたっても得物を振り下ろしてくる気配が無い。
「…………しい。」
そのことに、彩晶が気づき疑問に感じるよりも早く。影がわずかに言葉を漏らした。
今までのものとはわずかに響きが異なったようだが、あまりにも小さな呟きであった為、彩晶の耳にははっきりと届かなかった。
だが怪物にしか見えない相手の言を問おうという発想に至れるだけの余裕は無い。
思考が停止してしまった状態のまま、彩晶はやはりあの姿勢のまま動かなくなってしまった影を見上げ続けていた。
「…美しい。」
「……?」
今度は、影の口元が動いたのが見て取れた。
「なんと美しい女子だ。これほど美しい人を、俺は生まれて初めて見た。」
はっきりとした言葉が、彩晶の耳に届いた。独り言ではない。巨躯は間違いなく、彩晶の耳に聞こえるように、発言したのだ。
しかしその事実を彼女が認識するより早く、さらに信じられない出来事が彼女の身に起ころうとは、誰が予想しえたであろうか。
 棒状の金属が枯れた大地の上に投げ出される音が、夜闇にいやに大きく響いた。
かと思った途端、あの巨躯が膝を折り、彩晶ににじり寄ってきた。そして。
「美しき人よ、ぜひとも我が伴侶……。」
 「彩晶様あああぁぁぁぁっ!!」
今まさに、巨躯が彩晶の手をとろうとしたそのとき、唸り声と共に一人の男の体が、彩晶と巨躯との間に飛び込んできた。馬桓である。
「ご無事ですか、彩晶様!」
得体の知れぬ相手から目を離すことなく、馬桓は背後の主に尋ねた。全力で走ってきたのだろう、肩が激しく上下している。
彩晶はというと、いまだ何が起こっているのか把握できていないのか、目も口も見開いたまま巨躯と従者、どちらの言にも反応できずにいた。
「貴様、彩晶様に何をした!?」
そんな彼女の様子に、馬桓の敵意がさらに剥き出しとなって巨躯に叩きつけられる。しかし巨躯のほうは。
「……なんだお前は。」
心底怪訝そうな表情でまじまじと馬桓を見つめ返した。
月は再び雲の向こうに隠れようとしていたが、さすがにこれだけの至近距離ともなれば、相手の顔立ちも判断できる。
目が二つに鼻と口が一つずつ。頭部の両脇に丸みのある耳がひとつずつ付いている。手の指は五本で、ぱっと見た目には爪が尖っているようには見えない。……どうやら人間のようである。
「それはこちらの台詞だ。」
精一杯の勇気を動員して、馬桓は相手を睨み返した。
平時ならば、相手が妖怪の類ではないということが判った時点で多少気も緩むものだが。
彩晶と二人、都を脱出しなければならなくなった経緯を考えると、相手が人間であることのほうがよほど悪い事態といえた。
無意識に馬桓の利き手が帯のあたりに伸びる。普段から作業用の小刀を手挟んでいるのだ。
しかしそれを取り出すよりも先に、なんと巨躯は今度はどっかりと地に腰を下ろしてしまった。
得物は先ほど放り出したままなので、素手である。
丸腰なのかどうかはやはり判らないが、少なくとも問答無用でどうにかしてくる気では無さそうだ、ということは男の座り方で察しがついた。
とはいえ、この体格である。腕力ひとつとっても、彩晶と馬桓の細腕では二人束になってもかないそうにない。
「そんなに怖い顔で睨むなよ。
一応上からの命令なんでここまで追っかけてはきたが。お嬢さんの顔を見て気が変わった。」
そんな馬桓の考えをまるで読んだかのように、巨躯はさらに無防備に後ろ手に手をついた。
華央の者にはあまり馴染みのない、胡坐(あぐら)という座り方をしているのも、馬桓の目には不思議に映った。
「…あんた、お屋敷を襲った者の配下か。」
ようやく取り出した小刀の切っ先を巨躯に向けたまま、用心深く馬桓が尋ねる。
気心の知れた仲間と野宿でもしているかのように筋肉を弛緩させたまま、しかし巨躯はむぅと呟いてわずかに首を傾けた。
「そうだとも言えるし、そうでないとも言えるな。」
「はぐらかすな。」
「はぐらかしてなんかねぇよ。」
巨躯は器用に右の眉だけを軽く上げた。
「上役から『謀反人の縁者が都の外へ逃亡したから捕まえてこい』という指図をされただけさ。
……楊の屋敷を襲ったのは上役の兄弟らしいが、そいつは俺の上役にはあたらない。
だからお前の言う『襲った奴の配下』にはならんのさ。」
「謀反人……。」
と、それまで凍りついたように二人のやりとりを見守っていた彩晶の唇が、ようやく動いた。
ただでさえ状況が全く把握できないうちにここまで逃げてきたというのに、謀反などという大それたことがその理由だと知り、愕然としたようである。
そんな少女の様子に、巨躯は心底気の毒だという表情を浮かべた。
「少なくとも俺は、そう説明された。謀反人は尚書令の楊ネだとな。
何をやったのかまでは知らんが、屋敷に強行突入をかけるくらいだ、よほど……。」
「主(しゅ)が、そんなことをなさるわけがない!」
彩晶に代わって怒鳴ったのは、馬桓だった。構えた小刀の先が怒りで震えている。
馬桓の知る楊家の当主ネは、おとなしいが実直な人柄で、贅沢を好まなかった。
仕事熱心で時に家庭が疎かになりかけることもあったが、それでも嫡子には「榎」という国そして皇室に対して忠実であれ、と常に説いていたことも知っている。
その楊ネが、謀反を起こしたなどとは到底信じられるものではない。
「だから。俺にはそう説明されたと言っている。
…もっとも、俺みたいな下っ端に事実の全てが伝わってくるとも限らんがな。
もしかしたら、俺に指示した上役も正確なことは知らされていないのかもしれん。下っ端ってのはそういうものよ。」
拍子抜けするほどあっけらかんと、巨躯は答えた。どうやら本当に、彼が言っているとおりのようである。
どちらにしろ、真偽を確かめる術など二人にははなから無いのだが。
「……私たちを、どうするつもりですか?」
馬桓の影からおずおずと彩晶が尋ねた。衝撃は残っているものの、どうやらこの男の存在に対しては多少慣れてきたようである。
その様子に、巨躯は追手とは思えないほど優しげな表情を浮かべた。
いつの間にか月が再び雲間から顔を出している。
「どうにもしませんよ。
先も申し上げたが、不肖如広瀚(じょ・こうかん)、麗しくもか弱き淑女を、不幸になると判っていながらむさ苦しいおっさんにくれてやるほど、腐ってはおりません。」
居住まいを正すと、広瀚と名乗った男――姓を如、名を海(かい)というらしい――は、馬桓越しに彩晶に向けて深々と頭を下げた。
さすがにこれには馬桓も面食らった。判断に困り、思わず背後の少女に目を向ける。
そこで如海に対して隙を見せてしまったことに気づき慌てて正面に向き直ったが、如海のほうは「気が変わった」という言のとおり、ぴたりと膝をそろえたまま微動だにしていなかった。
彼の得物は一足では届かない後方に転がったままである。
「では、私たちを見逃してくださる、と…?」
「まぁ、そういうことになりますわなぁ。」
けろりとした表情で如海の指がこめかみに伸びる。
そこで二人は初めて、彼には頭髪が無く、むき出しになった皮膚が滑稽なほど見事に月光を映していることに気づいた。これほどの特徴に何故まっ先に目が行かなかったのだろう?
それほどこの如海という男が持っている雰囲気は、不思議であった。
立ち居振る舞いや話し方、何より顔立ちから、この如海という男は意外と若い――三十前後と思われる――ことは容易に判る。
なので意図的に剃り上げたのだろうが、男も女も(上流階級の者ならなおさら)髪は伸ばしてきれいに結うものだという習慣のある「榎」ではやはり、禿頭は非常に目立つ。
そういえば「榎」王朝が成立するよりももっともっとはるか大昔、まだ奴隷という身分が社会から認められていた時代には、一般の人々と区別する為に老若男女問わず頭髪を短く刈り込んでいたと、何かの文献に記されているのを見たことがある。
奴隷制は既に何百年も前に崩壊しているから、勿論この男はそんなものに当てはまるはずもなく、となると「榎」の外から流れてきた異民族の出なのだろうか。
 「とはいえ、ここで俺が見逃したところで、捕吏は他にも大勢放たれております。おそらく百人は下らんでしょう。
このままではすぐに他の奴らに見つかってしまう。」
如海の言はもっともである。と、今度は如海、(少なくとも馬桓にとっては)とんでもないことを口走った。
「そこで、俺もあんたたちに同行させてはもらえまいか。
少なくともその、いかにも頼り無さそうな従者よりは、何倍も役に立つと思うが。」
「たわけたことを言うな! お前のような得体の知れぬ者の同道など、彩晶様が許されるわけなかろう!?」
彩晶が口を開く前に、馬桓の口から怒声が飛び出していた。
直感…としか説明のしようがないのだが、このとき彼は確かにこの如海という男に対して、「敵の追手」とはまた違う意味で危険なものを感じたのかもしれない。
それは半分当たっていて半分は外れていたのだが、そのことに思い至るのは、このときより少なくとも五年は経過してからのことである。
そんな馬桓の心中を見透かしたのかどうかは判らないが、如海のほうも、釣り上げたまなじりを下げようとしない馬桓にちらと視線を向けた。
「…俺はお嬢さん…おっと彩晶ちゃんというのか、彼女に訊いているんだ。お前さんには訊いてない。」
しっしっ、とまるで猫でも追い払うような仕草までする始末。彩晶に向ける眼差しとは天と地ほども差があるのは、気のせいだろうか…?
「それに、だ。あんたたち、榮に行くにしても道を知っているのか?」
ぎょっとして主従は顔を見合わせた。何故この男は自分たちの目的地を知っているのか!?
その様子に、如海は諦めたように長嘆息した。
「あーあー、やっぱりそうか。
悪いがあんたたちの頭の中は、俺みたいな下っ端にだって容易に読めるぜ。
何しろ楊ネの嫡子が榮に留学中だってことは、宮中でも有名な話だったらしくてな。」
楊家の本拠は「榎」の都でもある晃京だ。本家に連なる族も晃京の周辺に散らばっている。
しかし都を脱出した彩晶とその従者はそのいずれにも向かわず、馬首を東に向けたという。
となると彼らが頼ると思わしきは、彩晶の双子の兄である楊伯透の留学先「榮」しか考えらないのだ、と如海は説明した。
「上役から指示されて、捕吏は皆榮へ向かう街道を取ったわけだが。
それで本当にこの俺がここであんたたちに出くわした、という寸法さ。
あんまり素直すぎるんで、俺のほうが驚いちまったくらいだ。」
「…ということは、近くにお前の仲間がいるんだな。」
素早く周囲に視線を走らせた馬桓に、如海は少々大げさなくらいに首を振った。
「それがなぁ、途中ではぐれちまって。探してうろうろしていたら、仲間じゃなくあんたたちに出くわしちまったのさ。
近くに居る可能性は高いがこの天気だ、どこかで夜が明けるのを待つつもりなのかもしれん。」
 相変わらず切っ先を向けたまま、馬桓は眉間にしわを寄せた。果たして如海の言うことは本当なのだろうか? 信じる根拠は何一つ無い。
「…まぁ、信じる信じないは勝手だが。ともかく俺は、彩晶ちゃんに同行させてもらうぜ。なんたって、」
そこで如海、心底嬉しそうな顔をした。
「俺の未来の嫁さんなんだからな。」
「ばばばばばばばばば馬鹿を言うなああああっ!!」
……直感は正しかったようである。
やはりこの如海という男、彩晶様に指一本触れさせるわけにはいかない!…と思うよりも早く、馬桓の体は如海に向かって突進していた。
再び雲間に隠れようとしている月のわずかな光を映して、掌中の小刀がわずかにきらめく。
凍るような寒気を薙ぎかすかな音を立てたそれは、しかし膝をそろえて座っているはずの如海の衣にすらかすらなかった。
「…おっと、短気はいけねぇなぁ。こっちにその気は無いって、さっきから言っているだろうに。」
振るったはずの馬桓の利き腕、手首よりわずかに下あたりを、如海は左手だけでつかんでいた。そのまま軽くねじ上げる。
わずかなうめき声を上げて、馬桓は小刀を取り落としてしまった。…予想はしていたが、これほどにまで歯が立たないとは…。
「放せ!」
「言われなくても放してやるよ。男といちゃつく趣味は無い。」
無造作につかんでいた手を離す。たたらを踏み、馬桓は改めて如海を見た。巨躯はやはり、膝をずらした形跡すらない。
 「さて、彩晶ちゃん。どうする? やはりこのまま榮に向かうのかい?」
唸り声をあげるのを必死に抑えている馬桓を尻目に、如海は改めて彩晶に向き直った。
「さっきも言ったとおり、追ってきた者は全員、あんたたちが榮への道を採ると読んでまっすぐに追跡してきている。
馬の良し悪しもあるが、何しろ距離が距離だ。追いつかれるのは時間の問題だろう。…それでも、榮に行くのかい?」
「……その前に、教えていただきたいことがあります。」
驚き止めようとした馬桓を目で制し、彩晶は如海に向かって静かに口を開いた。
「なんなりと。」
「……父は、それから屋敷の者たちは、どうなりましたか…?」
もはや、彩晶の体は震えていない。
如海という男の存在に慣れてしまったのもあるのだろうが、何より自らの思考が動き出したことにより、冬の夜の寒さに関心を払うことを忘れてしまったのだ。
それほどに彼女はようやく、自らが置かれた状況を冷静に理解・判断しようと努め始めていた。
その証拠に、目に灯った生気の輝きが強くなりつつある。
「……お屋敷のほうのことは、さっきも申し上げたとおり俺は参加していないんで、細かいことは解らんのだが。
小耳に挟んだところだと……その…皆殺しになったらしい。」
馬桓の頭の奥が、かっと熱くなった。
彼の両親と兄弟は、楊の屋敷に住み込みで仕えていた。屋敷にいた者は皆殺しになったということはつまり……。
彩晶を託し「逃げろ」と叫んで背中を押してくれた、楊家の家宰と父の姿がまぶたにうかぶ。知らず彼の頬を涙が伝っていた。
「楊ネ……お父上のほうはもっと前、宮殿広場でやる朝議が終わったあとに斬られた、と聞いている。
…帝の命で衛尉(えいい/警察庁長官といったところか)の田徳明(でん・とくめい)がやった。」
田徳明――諱は恢(かい)――と聞き、「それは何かの間違いでは?」と呟いたのは彩晶である。
何故なら田恢は楊ネとは古くから親交があり、何度も互いの家を行き来し合うほどの仲だったからである。
最近はある事柄に関して意見の相違があり距離を開けていたようだが、それでもいくら帝の命とはいえ、家臣どころか使用人に至るまで皆殺しにするなど、到底信じられる話ではない。
 しかし如海は無情にも、首を振った。
「間違いなんかじゃねぇよ。何しろ……俺の上役の上役の、主人の父親がその、田徳明なんだからな。
そして…彩晶ちゃん、あんたたちを追えという命令も、その順番で下りてきたわけだ。」
裘の裾を握る彩晶の指が、表面に刻んでいたしわを深く寄せた。気丈にもまっすぐ如海を見つめているが、再び体が小刻みに震えている。
「何故」という言葉が頭の中でぐるぐると回り続けているのは馬桓も同じだったが、それでも禿頭の男に対する警戒を緩めることは無かった。
「それで。その命令どおり彩晶様を田徳明のところに連れて行くつもりか。」
「だから、気が変わったと言っただろうに。」
この若造はいわゆる忠犬というやつだな、と如海は思った。勿論言葉にも表情にも出さないが。
その類の性質の輩には大抵嫌悪を覚えるのが如海という男であったが、この従者にだけは何故かむしろ好感を覚えた。
主同様まっすぐ向けられている目にいささかも迷いの色が無いのが、強いて言えば理由だったのかもしれない。
「まぁな、待遇も悪くなかったし、金払いもよかった。休みは多くなかったが、腹が立つほどでもなかった。
…だがな、それも自分の仕事に納得できてりゃの話だ。
さすがに今回の仕事は下っ端の俺ですら腑に落ちねぇし、納得もできん。後味が悪すぎる。
正直言って、これ以上田氏に関わるのは、俺の気分が悪いんだ。」
「…だから、見逃してくださると?」
彩晶の問いに、如海は大真面目な顔をして頷首した。
「それに…あんたみたいな美しいお嬢さんを、楊ネの娘だからという理由で問答無用に殺しちまうってのは、一番納得できんからな。
……そういうわけで、どうせ抜けるのならきれいなお嬢さんの側に居たい、と。それだけさ。」
「……あなたのおっしゃりたいことは解りました。」
「彩晶様!」
如海の顔が輝き、馬桓の表情がさらに険しくなる。
二人同時に彩晶に視線を向けたが、その先にある彼女の顔は、まだ少しこわばっているようであった。
「…ですが、私もいまだ混乱しています。正直申し上げて、あなたも、あなたが教えてくださったことも、どこまで信じればいいのか、わかりません。
ですから……しばらく時間をください。」
言い終えると、彩晶は立ち上がった。寒さでこわばった足がもたつき転倒しかけたところを、如海と馬桓が同時に手を伸ばし、結局馬桓が支える。
 「…まぁ常識のある奴なら、疑ってかかるのが普通だわな。」
背を向けおぼつかない足取りで歩き始めた彩晶に、馬桓も続く。
そんな二人の後ろ姿を相変わらず座ったまま見送りながら、如海は軽くこめかみを掻いた。
「おい豎子(じゅし/未成年や身分の低い者に対する蔑称。「こわっぱ」「青二才」程度の意味)、くれぐれも彩晶ちゃんに風邪とか引かせるんじゃないぞ!」
「あなたに心配される筋合いは、ありません!」
肩越しに睨み返し、馬桓が応じる。
木立の向こうに消えてしまった二人と二頭を見送ってから、如海は楽しげな笑みを浮かべてようやく腰を上げた。
彩晶も馬桓も、警戒している相手であるはずの如海に対して、背を向けて去っていった。
それが何を意味するのかを当の本人たちが解っていないらしいことを、少しばかり面白く感じたのである。

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