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意志なき力


押井守作品には、現体制を武力で排除しようとする
集団が描かれることがある。
「雪」を味付けに使うことも多いから、226なのかな?
しかし、そこには思想的なものが語られることはなく、
本当に純粋に、「武力蜂起のための武力蜂起」が描かれるのだ。
ここに疑問をもてる、というのは、
作品に「リアル」が持ち込めているからだ。

本来、こういう「盗人にも3分の利」なんてものは、娯楽作品には必要ない。
単純に、「僕らの生活を乱す悪い人たち」だからだ。
純粋で単純な悪い人がでてきて、ヒーローにうち倒される。
ここで、ヒーローがうち倒すその爽快感に客は喝采を浴びせるわけであって、
悪なんてのは、理由がないものである。
たぶん、押井作品では、「何ら政治的要求もなく」みたいなセリフは、
客にとって、かけらも重要ではない。聞き流している人も多いと思う。
ホントに、純粋に、脚本家の良心、もしくは言い訳にすぎないだろう。

司馬遼太郎の「龍馬がゆく」でも、龍馬以外、若き革命家たちの頭の中には、
明白な「新しい世界」はなかったと、作者は見ている。
たぶん、戦争する兵士、ひょっとしたら指揮官の多くは、
理想や思想など、 ないんじゃないだろうか?
現体制、もしくは敵国は単純に悪い奴らで、僕らの生活を脅かす。
地上から撃滅させれば、すばらしい世界が待っている。
その、すばらしい世界に何ら具体例を見せず、単純に信じ込むことで、
強大な力をふるう、それが、僕らが繰り返し、そしてあこがれてきた
「戦い」の物語だ。

一番簡単な「戦う理由」として、生活を「守る」というのがある。
まず、現状が乱され、乱す存在が特定され、それを殲滅する。
ヒーローものは、ほとんどこれだ。
「侵略者を撃て」パターン。
これはホントに、書くのが楽だ。
だって単純な悪者でいいんだもの。
ある意味、こういう悪役は、“実在”してるのが面白い。
現状を憎み、破壊することで、すばらしい世界が来るという人たち。
テロリストとか、無政府主義者とかだ。
だけど、決して彼らの思想が、「特別」な訳ではないよ。
現状に対して、不平不満ばっかり言っている、
僕やあなただって、たぶん、根底に流れているものは、
同じようなものだ。
違うのは、破壊衝動にたががかけられている、
もしくは、単純に爆発する方法を真剣に探してないだけなのかもしれない。

現実で、今僕らは閉塞感を感じている。
そして、テレビは批判のための批判、
何ら建設的な思考を生まない、ものすごく小さな破壊衝動を満足させる
批判を日夜垂れ流している。
それにわずかに閉塞感をごまかしながら、生きている。

しかし、ここで建設的な、たとえば「ユートピア論」をきちんと
具体的に語ることができるのか?
答えは、できない。僕にはできない。
そもそも具体的な「ユートピア」を僕は想像することができない。
と、いうか、この漫画と小説に囲まれた、ネットのある
6畳一間は僕のユートピアなのかもしれない。
そう、

「人間というのは、社会共同体として、本当に具体的に、
ユートピアを作ることができるのか、というのは永遠の命題であるべきだ」

と、少なからず思っている僕は、他人から見たら否定されるべき小さな空間で、
現実拒否のユートピアづくりに没頭しているのだ。
ここに矛盾がある。しかし、僕は確かにオタクではあるが、
さらに病んでいることに、閉じたオタクである、ということができない。

この雑文もそうだけど、
僕は、人に世に、何かを問いかけたいという欲求を持っている人間だ。
そして「物語」という形で、
現状肯定、もしくは一歩進んだ、「何か」を提示したいと思っている。

奇怪な兵器がリアルな兵器とドンパチする物語を繰り返し描くのがただ単純に大好き
というファンに向けて作品を発表し続ける押井監督は、わずかなキーワードを
盛り込むことで、その物語の虚構性と、「結局何をしたいの?」という
視聴者の中にその問いを生ませることを行っている。
もちろん、そんな問いは、スパイス程度でいい。
現実に戦争している人たちに、「じゃあ具体的な今後の展開を考えてよ」
なんて言うのは、ただの戦争の邪魔にすぎないからだ。
戦っている人にとっては、現状打破だけが大事な問題であって、
その後の具体的なビジョンは必要ない。
力をふるうのに、思想は必要ない、というのが、現実の兵士であり
、 政治家たちの理想だ。
だけど、せめて、机の上で架空の戦争をひねくり回す僕たちには、
ほんのスパイス程度でも、「何をしたいか?」という思考は、必要なんだと、思う。

ゲリラ兵は、尊皇の志士たちは、語ることを好んだ。
「意志ある力」というのは、本来、人間の理想であり、あこがれなんだ。
しかし、そういった思想は、狂的な、一方的なものにすぎない場合ばかりだ。
せめてお話では、読者に「感情移入」させたい。
説得したり、受け入れてもらう必要はない。
ああ、こういう考えで、彼らはやったのね、みたいな。
ダイハードの悪役が、実はテロリストでも何でもなくて、
ただの金塊強奪だったような、そういうリアリティ(矮小だけどね)。

戦争ごっこはオッケーだし、それを娯楽として書くことは、正しい。
だけど、物書きとして、そこにほんのちょっとした、
自覚した思考操作が必要だ。
成功している作品は、天然じゃなく、そういう恣意的な部分が見え隠れしているよね。