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宝物
「会社なんて辞めてやるうぅぅっ!」
Yは夜の公園で、思いっきり叫ぶ。
もちろん、本心ではない。
夜の公園で、酔って大声を張り上げる、
入社してから5年、気の弱いYのこれがストレス発散方法なのだった。
叫んだ瞬間は気持ちがいいが、次の瞬間たまらなく鬱になる。
ぶつぶつと、会社の愚痴と言い訳を交互につぶやいたりしてしまう。
そんな時、
「嫌だっ、渡さないぞ!」
大きな叫び声と、足音が聞こえた。
Yは振り返る。
男が走ってくる。何だろう?
次の瞬間、Yは喉の奥で悲鳴を上げる。
男は手に「拳銃」を持って、こっちに走ってくるのだ!
Yはあわてて道路脇の茂みに飛び込む。
ヤクザの抗争だろうか? 巻き込まれたらたまったものじゃない。
それでも好奇心が勝り、茂みの中から、ちょっとだけ顔を出してみる。
Yは声を必死に押し殺す。
男は、目の前で立ち止まり、後ろを振り返ったのだ。
まだ若い。自分と同じくらいの年齢だ。安っぽい背広ながらも、
きちんとネクタイを締めたその姿は、拳銃には不似合いな「普通さ」がある。
しかし、男の形相は、明らかに常軌を逸していた。
「嫌だぁぁっっ!」
男は、震える腕を前に突き出す。
銃声が公園に響いた。
Yは思わず閉じた目を再び開ける。
男の表情が一変していた。
真っ青になり、唇を引き結んでいる。
次の瞬間。
男は自分の胸に銃口を押し当て、引き金を引いた。
Yは頭を抱えて、眼をぎゅっと閉じる。
ドサリ
すぐ近くで、音がした。
おそるおそる開いた目の前に、
拳銃が落ちていた。
Yは次の日、会社を休んだ。
布団を頭かぶり、がたがた震えながら、テレビを見ていた。
朝から、ニュース番組だけを。
不思議なことに、昨日の事件は、全く報道されなかった。
Yは時々、押入に目を向け、すぐに逸らす。
しかし、気がつくと、その閉まったままの引き戸に眼が吸い寄せられてしまう。
押入の奧に押し込んだもの、
あのとき、夢中になって拾ってきてしまった、拳銃に。
数日、Yは影に怯え、びくびくしながら日々を過ごした。
何処にもよらず、外食もせず、会社が終わったらそのまま家に帰る。
帰路は何度も背後を振り返り、家の扉には、普段やらないチェーンまで掛けた。
深夜、意を決して、Yは押入を開ける。
夢中になって突っ込んだため、しばらく見つからなかった。
ごそごそ探した後、指先に、冷たい金属の感触が触れる。
しっかりと、銃を握る。ずしりと重い感触。
無骨な鉄の塊が、Yの手にあった。
背筋が、ぶるりと震える。
おそるおそる、しかし、熱に浮かされたように、
Yは両手で拳銃を構えてみる。
引き金に、軽く人差し指を当てる。
Yの口元に、小さく笑みが浮かんだ。
次の日から、Yは変わった。
じょじょにだが、しかし確実に。
上司や同僚にさえどこかおどおどしていた彼の態度が変化していた。
もちろん、ちょっとしたミスや行き違いはある。
上司にきつい物言いをされることも。
そんな時でも、Yは毅然としていた。
物事に、積極的に取り組むようになった。
Yは自分に言い聞かせる。
もちろん、腹が立つこともある。懲らしめてやろうという、気分になることも。
いざとなったら、俺は、本当にそれが出来るのだ。
拳銃。
そう、俺とあの銃の接点は、世間的には全くない。
本当に許せない奴がいたら、撃ち殺してしまえばいいのだ。
目撃者さえいなければ、それが出来る。
自分は今や、「特別な力」を得た、特別な人間なのだ。
そう思うだけで、自信がみなぎってくる。
変化した意識で取り組む仕事は面白く、やりがいも出てきた。
Yの態度の変化は、彼自身の評価も変えていった。
3年後、
Yは異例の出世を遂げていた。
Yは唇に小さな笑みを浮かべながら、夜の公園を歩く。
軽く、胸を手のひらで叩く。
背広を通して無骨な感触が伝わってくる。
拳銃を背広の裏ポケットに入れ、夜の公園を散歩する。
忙しい日々の中で、一週間に一度、必ずやる彼の、儀式だった。
俺は変わった。
普通の人間であった自分は、いまや完全に「特別な人間」になったのだ。
3年前の自分を思いだして、感慨に耽る。
その時。
「返してください」
突然背後から、声を掛けられた。
振り返ったYの前に、異様な風体の男が立っていた。
継ぎ目のない銀色の服に、すっぽりと身を包んだ、
ひょろながい印象の男。
男は、やせた腕をこちらに伸ばしてもう一度繰り返した。
「返してください」
「なんですか?」
Yは男の異様さにたじろぎながらも、問う。
「その拳銃ですよ。データ収集が終わったから、返してください」
Yは驚きのあまり、身動きすることも出来なくなった。
男は、そんなYにお構いなしに、変なイントネーションで言葉を続ける。
「実は私、あなた方の言う未来の世界から来た社会学者でして。
この時代の人間に、ある日いきなり強力な武器をあたえたらどうなるか?
という実験をしてましてね。あの、聞いています?」
Yの体が震え始める。男はなおも言葉を続ける。
「正直、失望しましたよ。あなたは本当に、“普通の人”と変わらない。
全く、寸分違わずに、一般的な反応過ぎる。
データ収集には役に立つのですけどねえ。」
男は、つきだした手を振る。
「そんなわけで、返してください。」
「ふざけるなっっっ!」
Yはあらん限りの声を出し、激情のまま男を突き飛ばす。
男が道にしりもちをつく。
Yはそのままかけ出していた。
「嫌だっ、渡さないぞっ!」
走りながら、Yは大声で叫ぶ。
振り返ると、男が銀色の服を光らせて、追いかけてくるのが見えた。
地上からわずかに浮遊をして、速いスピードでこちらに迫ってくる。
Yは夢中で走った。
「嫌だ嫌だ嫌だぁっ!」
すぐ息が上がる。光が迫ってくる。
Yは男に向かって、両足を広げ、両手を、拳銃を突き出す。
引き金をあらん限りの力で、引く。
「嫌だぁぁっっ!」
銃声。
強いしびれが両手に走る。拳銃の発射音が、鼓膜を揺する。
しかし、発射されたはずの弾丸は、銀色の男の前進を全く阻まなかった。
絶望がYを襲う。
拳銃。俺の自信の源。俺の宝物。
これを失うくらいならば……。
息をひとつ大きく吐いて、銃口を胸に押し当てる。
引き金を引く寸前、草むらに若い男が身をかがませているのが見えた。
銀色の男は、Yの死体を見下ろして、大きくため息をつく。
また蘇生処理だ。こいつは記憶に修正を加えられて、
そのまま日常を送るが、自分はこいつのために、
本当につまらないありふれたデータのために、膨大な始末書を書き、
計理の愚痴につきあわされなくてはならない。
銀色の男は、男の死体と拳銃を回収しようとして、
横の草むらに目をつぶって震えている男を発見する。
銀色の男は、男の目の前に拳銃を放り、一端この場を離れることにした。
違うデータを、心底期待して。