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好き嫌い
特に仕事をするようになってからの、僕の苦しみなのだが、
「何で僕はこんなに人に嫌われるのだろう?」
と言う疑問があった。
僕を嫌う人の、歪みまくり、型にはめた、「僕という像」
それを作ってしまう感覚、その上から僕を判断するその姿勢が大嫌いで、
僕はその人の見識の狭さに、悩んでいたことも多かった。
フリーになって仕事をしている矜持は、そこの部分にもある。
その人は、会社だからと言う理由で仕方なしに僕に関わってきているのだから、
そうじゃない人と、余り感情的なささくれのない部分で、
僕のことを無理に曲解しない人とつきあうには、
フリーという、かなりドライな関係が好ましいと思っているからだ。
しかし今回、そういった、「何で僕が嫌われているんだろう?」
と言う疑問に、改めてひとつの明確な答えが分かった部分がある。
非常に簡単なことだ。
僕が、僕自身が、単純に人間に対して、好き嫌いがある人間だったんである。
これに気がつかず、相手のせいばかりにしていた部分には、
かなり恥ずかしいところがあり、反省する部分もあるのだが、
それはそれとして、ですね、
僕を含めた、「広報」という哲学に対して、語ってみたいと思う。
僕たちメディアは、伝えるのが仕事だが、それは非常に多岐に渡る。
会社の広報がそのまま社会に伝えるのではなく、
「伝える専門」として、ある権威を持って、自分たちのフィルターを通じて、
情報を発信していくのだ。
バランスは難しい。
会社の情報そのままでは、それは存在理由そのものがないし、
自分のエゴを出しすぎてしまえば、その記者そのものに価値はない。
さじ加減、と言う問題でもない。
記者自身が、ユーザーの興味を考えた上で、
情報を吟味し、咀嚼して開陳するのだ。
このとき、仕事も含めた上で、「気持ち」が必要となる場合がある。
メディアと広報の手腕、というものが問われる場合があるのだ。
広報という仕事は、大変な仕事だ。
ノルマがある、成績表がある、圧迫がある。
しかし、実はそれだけではない。
僕たちメディアにとっては、その広報さんが、いかに
「プロであるか」と言う部分も、大事な要素なのである。
ゲームに関しての情報の窓口は、広報さんである。
質問をすることが、多々ある。
そのとき、広報さんがゲームに興味がない場合は、如実に感覚で分かる。
ヘタをすると、作品そのものを紹介する意欲すら、減退する。
もちろん、この場合は大体、僕らは逆に“燃える”場合も多い。
「このくらいは知っておけ!」と、挑戦状的な原稿を書く場合がある。
しかし、それとは別に、今回と、E3で感じたのだが、
非常に大変な思いをすることがあった。
そこで、僕の中に、人に対する好き嫌いがはっきりしていることに気がつかされたのだ。
こちらのことを考えてくれない、というのは、大変寂しい。
ひょっとしたら、僕は女性にそれを求めちゃっているから、
うまくつきあえないのだとも思うのだけど、
強い壁を感じて、そこに絶望する場合がある。
相手がそれを作っているだけではなく、僕も作っている、
と言うことも自覚した上で、やはりそれは、つらい経験だ。
積極的に広報活動をしてくる方がいるのだが、
どこかがずれている感触がある。
あくまで皮膚感なんだけど、その方の視点は、あくまで会社のみに向けられているのだ。
非常に、「都合」を押しつけてくる感じなのである。
僕たちはメディアであるが、提灯持ちの側面も強い。
僕に限って言えば、ゲーム業界に寄生している存在だ。
業界に一石を投ずる、とか、メディアの良心とか、
ヘタをすると読者への取り組みすら薄くて、反省させられることは多々ある。
だからこそ、志と矜持を持っている人と仕事が出来るのがうれしく、
学んでいる人達と仕事が出来る高揚感を感じることが出来る。
だからこそ、続けていこうと思うんである。
しかし、だからこそえり好みも贅沢になる。
自分が扱っている商品を、この人だから宣伝できるから、
それだからこそ、売っていきたい。
そう思ってもらいたくなるのだ。
僕がそれほど価値があるとは思えない、しかし、僕が寄生している、
限られたゲームマスコミで“走っている”人達は、
その価値が充分あると僕は思っているのだ。
自分の商品を売る場合に、協力して欲しい。
どうアピールすれば売れるか? ユーザーに訴求できるか?
そこを明確にして、メディアに働きかけて欲しい。
そうすれば、僕たちも頑張れる部分がある、
結果として、良い物が出来ると思っている。
そうでない人と仕事をするのは、非常に疲れる。と言うことを、今回痛感したのだ。
どう思っているか分からないが、とにかく、自分が伝えることに精一杯なのである。
結果、僕らへの扱いはぞんざいになる。
基本的な礼は通してはいるだろう、しかし、そのほんのちょっとした意識の流れは、
確実に僕らにフィードバックするのである。
僕らは、そのゲーム会社の社員じゃない。
確かに情報をくれるのはうれしいし、出している努力は買おう。
僕らは、ユーザーではない、しかも、その情報で飯を食わせてもらっている存在だ。
しかし、しかしである。
これは単純に僕がプロじゃないからかもしれないが、それだけでは寂しいのだ。
僕たちは、得た情報を、読者が楽しめるために伝えるのが仕事だ。
ゲームという商品だってそうだろう。
そこには、医薬品や救援物資とは違い、遊びの部分がある。
もっと厳密に言えば、なくたって全然困らないモノだ。
そこに価値を見いだすためには、どこか、「稚気」といったものが必要となる。
例えば、お話をさせていただいているいくつかの広報さんとは、
ゲームの話で盛り上がれるのである。
それは、僕たちが見つけたゲームの楽しさについて、
広報さんが、自分も共感できると、笑みを浮かべたり、
新しい側面に、驚いてくれるからだ。
僕たちはビジネスで仕事をしているが、そこには、ちょっとした幻想空間と、
仲間意識があって、僕たちは、アル意味、サポーターでもある。
仕事でしているけど、仕事じゃない部分だってちゃんとあるのだ。
しかし、そういったコミュニケーションが撮れない人と話をするのは、非常に寂しい。
簡単な話だ。
相手は決まっているんだから、この前紹介してありがとうとか、
他の仕事大変かとか、「自分もあなたに興味を持っている」と言うことを、示せばいい。
それだけで、大概の人は舞い上がるし、好意的になるだろう。
そして、そこの部分がない人は、やはり、
プロ意識が欠如しているとしか言いようがない。
責めるつもりは毛頭ないし、その人は僕とは全く関係なしに
高みを上っていくだろうし、関係なしに生きていくだろう。
しかし、仕事で関係して関わっていくときには、非常に疲れることは、事実なんだ。
「私の言った情報を取り上げろ」は、はっきり言って広報の仕事なんかじゃない。
メディアと、出来るだけ多様な方式で、出来るだけお互いが気持ちよく
面白い情報を作ろう。
そういう志がない人とは、楽しく仕事が出来ないし、
「プロ」という視点から立てば、どうしても批判をしてしまう。
偉そうなことを言ってしまったが、あくまで僕の感情論に過ぎない。
しかし、改めて、広報や営業というものの仕事、
もっと枠を広げていけば、仕事というものの大変さに、改めて気づかされたのだ。
仕事って、難しいね。