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SFってなに?
なんだろう?
ちょっ人にすすめようと思って、考え込んでしまったのである。
僕はバナナが大嫌いだ。
この事実を、僕は自分というキャラクターを演出する道具にさえ使っている。
何が嫌い? といわれると、もうすべてとしか答えられない。
理由は、「嫌いだから」だ。
だから、人が嫌いだといっているものをすすめると言うことが、不可能であることは
僕自身が一番知っているのである。
たとえ栄養価が高かろうが、何だろうが、食べるのはいや。
まあ、食べなきゃ死ぬとかなったら、無理はするだろうけどよ。
娯楽にあふれた現代なんである。
嫌いなものは、避けて生きていけるのだ。
そういう人にSFをすすめようなんてのは、おこがましいのである。
だから、自分が何にひかれているかを、書こうと思う。
やはり最初は、万博だろうか?
大阪万博。僕らはこの世代ではないが、
手に入る本、そして再放送の番組には、そのにおいがした。
大人たちが、70年代の、暗い、反省の番組を作る中、
子供の僕らはそんな高尚なものよりも、単純な来るべき世界、
科学万能主義が描く未来を好んだ。
友だちとなるロボット、空飛ぶ車、腕時計型の電話、
きらきら輝く、塵ひとつない未来都市。
まず子供時代に未来の世界は、おとぎの国のように、
僕の心にしっかり刻みつけられた。
そして、現実との融合がやってくる。
手塚治虫、藤子不二雄、石森章太郎、永井豪、
そして、星新一、筒井康隆、眉村卓。
たぶん年上のお兄さんに洗脳されたであろう、
小学校高学年から中学にかけての友人が、
僕の中の扉を開けたのだ。
これら、同年代の子供が読んでいるものよりちょっと昔の、
だからこそ大人のにおいのする作品たちに、僕はしびれ、のめり込んでいった。
これらの物語のパターンは、比較的簡単だと思う。
ドラえもん、もそうだ。
現代、現在という灰色の(当時はそう思っていた)の時空間に、
いきなり出現した異物。
それだけで、今の生活が変化する驚きにうたれた。
ここでみそなのが、すべてが変わるのではなく、
僕だけが変わると言うことだ。
僕の前に、僕だけの前に突然広がった、異世界への扉。
自分が異世界に行くのではなく、現実世界にいながら、
異界とのつながりを持つ“秘密”と“優越感”の魅力!
まず僕を引きつけたのは、そういう衝動だった。
そこから、興味は広がっていった。
テレポーテーションって何? (フィアデルフィアエクスペリメントとか…)
心霊って何?
宇宙船って何?
そして、これらの人は、どこから着想を得たのか、
原典って何だろう?
大昔から、人は現実のものではないものにあこがれを抱いていた。
神々の、そして超人たちの奇跡、
近代になり、そこに科学を用い、“技術”を使うことでそれが現実になるという、
思想が生まれた。
科学のメスで奇跡を暴くのではなく、奇跡を可能にするのだ。
ここに、新しい文学「科学空想小説(サイエンスフィクション)」が誕生する。
現在の科学知識を使って、そこから飛躍させた物語。
ウェルズの、火星に地球人とは全く姿形の違う“人”がいて、
攻めてくる、んで目には見えないウィルスにやられちゃう、なんて言うのは、
面白い話の中に、最新の科学知識が盛り込まれていて、
読み終わるとちょっと頭がよくなる気分になる。そして、驚きがある。
驚きと、ちょっと広くなる見聞、そして新しい視点を得たことによって、
変容する現実、ここにSFの楽しさがある。
さらに一つの変化を受け入れた社会、という架空の物語もユニークだ。
それは、単純なバラ色の未来像ではなく、その社会ならではの不合理を描いたりして、
きちんと、「現実」の延長、もしくはシミュレーションとしての説得力がある。
たとえば、食糧事情の解決として、イーストを培養してパンだけではなく、
栄養を含ませた人工野菜や、人工肉を得る世界。
配給での「ご馳走」として、本物の肉がでてきたときに、
子供が変なにおいと堅い食感に文句を言う、とか、
こういうセンスに、しびれちゃうのである。
そして僕は、アシモフと出会った。
アイザック・アシモフ科学者であり、作家だった人だ。
制作は、戦前から1992年の没前まで。
中間にブランクがある。
僕が特に好きなのは、ブランク前の作品群である。
そこに描かれるのは、遙かな未来の世界。
閉塞しつつある人類の、新たな希望を描く作品が多い。
高度経済成長を抜け、70年代以降、エコロジーという思想以上の、
過度の反省時期を過ごしていた。
土に帰れとか、自然はすばらしいとか、人類を極端に矮小な存在ととらえ、
目に見えないものに畏怖する風潮。
座して手をうたず、人の行動にけちをつけるだけの思考。
もちろん、科学は万能ではない。
しかし、科学が持つ可能性はまだまだ試行的な意味で、描かれるべきではないのか?
現在の科学は、本当に常人とは縁のないものになりつつある。
成熟したのだろうけど、逆に物語という出口を失い、まさに“魔法”と
同義語になりつつある。
限られた人が使う、訳の分からない何かの力。
そして物語を紡ぐ作家も、より精神的な、パーソナルなものへと
シフトしてしまっている。
人はどこへ行くのか、どう変わっていくのか、
それを提示するものこそSFであると、思う。
今はほぼ絶えてしまった流れではあるが、確実に、そういった物語は
生まれた歴史があったし、これからも生まれるべきだと、思う。
これが、SFにあこがれる理由であるが…
おれ、この理想に近づける小説書けてないなぁ。とほほほ。