大正二年、甲武鉄道で飯田町から新宿まで三十分、三等客室で十四銭、といったらその時代がわかってもらえるだろうか。  ともかく貧乏学生であった私の親から送られてきた仕送りの残金は、その電車賃と化けてしまったのであった。  四谷を過ぎた辺りから急に背の高い建物がなくなり、緑とたんぼが視界を占めるようになっていく。  まだ出発してからそんなに時間もたっていないのに、甲武鉄道の駅、新宿へと近づく景色は、私の郷里の面影さえ感じさせるものだった。 「初めてこっちにきたけど、とても東京の中心から何分の景色とは思えないな。」  ボックス席の私の前に座っている小杉が声をかけたのは、私の横に座っている、岩波にだ。 「まだこちらは都会化の波は押し寄せてないんですよ。ちょっと道が広くて、車が往来するくらいですかね。」 「本当に、これで冬に雪でも積もって、遠くに山が見えたら俺の田舎と見分けがつかないよ。」  大宮のことばに、全員が笑う。どうやら考えることはみな同じらしい。  岩波の前に座っている大宮が大きな体で私たちを押し退け、窓を開けた。草の匂いのする夏の風が私たちにふきつける。岩波が、窓から顔をだした後、私たちをふりかえる。 「もうすぐつきますよ。先輩、自分の家だと思ってくつろいでくださいね。」  そうなのだ。私たち四人、私ー弓島守と大宮健史、小杉源、岩波小五郎はともに第一高等学校の寮生であり、同室の者なのである。 我々のなかで岩波だけが二つ年が下だ。成績優秀な岩波は飛び級により、我々三人と同期になった。  寮の同室ということもあるが、岩波の中の大人びた雰囲気と幼さのアンバランスが妙に我々とうまが合い、親しい仲になっていた。 数日前、我々の話は夏休みに向けて、帰郷の話をしていた。そこで初めて岩波の家が中野という近いところにあることを知った。  私は不思議でならなかった。私たちの学校は向ヶ丘弥生町にある。中野といえば通えない距離ではない。岩波の物腰から感じる家の裕福さからも、寮にいる事自体がおかしい。この寮といえば、我々三人のような、下宿屋も借りられない貧乏学生ばかりだからだ。  どこでどのように話が転がったか覚えていない。ともかく我々三人が帰郷をしないという結論に達した頃だったと思う。 「そうだ。それなら先輩たち、ぼくのうちに遊びにきませんか?少なくともこの寮よりは涼しい夏が過ごせますよ。」  岩波の提案は魅力的だった。夜、蒸し風呂のようになるこの寮から一時でも逃げられるというだけでも十分だったが、名家と噂の岩波の家を見てみたいという好奇心もあった。 形だけの遠慮の後、我々はこうして図々しくも岩波の家に数日間、厄介になることになった。  駅をでた瞬間、駅の前に止まっていた黒い外車を指差し、小杉が歓声をあげた。 「べ、ベンツだ!」 「ベンツってなんだ?」 「独国ご自慢の世界一の名車だよ。二年前にオールドフィールドという外人が、時速二百十一キロ出したという記録がある。馬力もすごいが、もっとすごいのは値段だ。時価一万円以上もする超高級車だ。本物を見るのは初めてだ。」 「小杉がそんなに車に詳しいとは知らなかったよ。」 「たまたまベンツだけ知ってるだけだよ。他の車はみんなタイヤの付いた箱としかわからん。」  小杉の説明で、そんな高級車がここにあるのは驚いたのだが、それ以上に驚いたのは、車の運転手が岩波に向かってうやうやしく頭を下げたことだった。 「紹介しますよ。運転手の喜助です。」  むっつりした顔で我々に頭を下げる運転手。我々は二の句が告げなかった。お互い顔を見合わせたまま、車に乗り込む。お抱えの運転手に、超高級車。どうやら招待先はとんでもない大富豪宅らしい。  ベンツの乗り心素晴らしかった。依然乗った車とは雲泥の差だ。滑るように、進む。道はやがてわだちの目立つ道に変わっていったが、外を見ていなければ気付かなかっただろう。  運転手がクラクションを鳴らすと、珍しがって道にでていた子供が逃げてゆく。辺境ではない、地方都市の景色のような情景が、まるで私の故郷の家路へ急いでいるような、軽い錯覚を覚えさせる。 「橋を渡ります、揺れますよ。」喜助が呟くようにいう。 「この下の川は何だい?」 「神田上水ですよ。この橋は淀橋。」  窓を開け川面を見ていた大宮がいきなり叫んだ。 「みんな見てみろよ!花嫁行列だ!」  私もあわてて窓を開け顔を乗り出す。  派手な行列だ。百メートルほど離れた別の橋で華やかな色合の主役や人々が通り過ぎてゆく。見物人や行列の人たちからにぎやかな嬌声が聞こえてくる。 「でも変だな。周りの道もそれほど大きくないし、行列が通るには窮屈な橋だ。大通り直通のこの淀橋の方がよっぽどいいのに。」 「それには訳があるんですよ。」小五郎が話をしようとしたとき、 「小五郎さま。」低く、しかし圧力をこめて、喜助が岩波の名を呼んだ。  それだけで岩波は黙ってしまい、我々はしばらく無言のまま車に揺られていた。 例によって沈黙を破ったのは大宮だった。「おい、あれ見ろよ!。」  西洋館。赤煉瓦でつくられたモダンな建物が、道の先に立っていた。緑に囲まれた、その建物は青い空と美しい調和を見せていた。「あれが僕の家ですよ。」 「あの大きな西洋館が君の家だって!君の家は元華族か何かかい?」 「家は先祖代々海運業ですよ。祖父の代から海外にまで事業を広げましてね。戦争のおかげの成金みたいなもので。あの西洋館だって最近建てたものなんですよ。」 「それでも”煉瓦館”といえばここらへんじゃちょっとした新名所になっていますよ。」 喜助の声にも誇らしげな響きが感じられる。たしかに自慢の種にもなる建物だ。バルコニーのある二階、大きなガラス窓には白いカーテンがかかっている。整備された庭には夏らしい様様な植物が植えられ、花を咲かしている。その庭を切るようにつくられた道は、巨大なドアの前まで続いている。庭の中心には、なんと噴水まである。  我々三人は何も言えなくなってしまい、ただぽかんとそれら夢の情景としか思えないものを眺めていた。  車がとまり、喜助がドアを空けてくれるまで我々の夢見心地は続いた。 「お帰りなさいませ。小五郎さま。」  使用人だ。はじめてみる小説のような景色。七、八人の男女が横にならび頭を下げている。女性の方はメイド服という奴だろう。カフェの女給を思わせる、紺と白の制服に身を包んでいる。奉公人と表現することは出来ない、洗練された使用人たち。  我々はすっかりあがってしまった。ここは別世界だ。申し合わせてもいないのに、三人揃って顔を見合わせてしまう。  流石というか、むしろ当たり前というべきなのだろうか。小五郎の立ち居振る舞いは自然そのものだった。成金などと自分では言っていたが、使用人たちとの簡単な受け答えやちょっとした仕草。この館に入ったとき、いや新宿駅に降りたときから彼は我々とは別世界の人間だった。 「お帰りなさい、小五郎さん。」 「姉さん!」  次の瞬間私は再び夢の世界の人間となっていた。  女神がそこに立っていた。  思わずため息が出た。白い肌、黒い瞳、艶やかな髪。女神という表現は正しくないかもしれない、菩薩。東洋的な、夢にさえもあらわれそうにない美人が、和服に包まれて、立っていた。 「紹介しますよ。小夜姉さんです。」  私たちに向かって会釈をした。彼女の目が私と合った。  その瞬間、奇妙な感覚が私を襲った。吸い込まれそうな瞳のなかの何かが私の背に電撃を走らせた。これはなんだ?恐怖とも、感動ともつかない意味不明の感情が沸き上がる。こんな気持ちになるのは初めてではない、いつだったか、この瞳には見覚えがある。 「なにもないところだけど、ゆっくりしてくださいね。」  ふっ、と。  白日夢は醒めた。彼女のそういった声は美しかったけれども、その響きは人間のもの、親しみやすい心情のこもった普通の女性の声だった。  気のせいだったのだろうか?部屋に通された私の心からは彼女が消えなかった。ベットのある客室だ。生まれて初めて触るベットに腰掛けて、部屋を見回す。簡素だが金のかかった造り、それに広い。ベットが二つ入ってもまだゆったりとした空間がある。 「おい弓島、おまえもそう思うだろ。」 「え?何が?」  いきなり話を振られ、戸惑う。 「しょうがない奴だな、おまえもいかれちまったのか?」大宮の顔がいたずらっぽい笑みを浮かべている。 「だから何がだよ。」 「小夜さんだよ。小夜さん。」  小杉がこんなに熱っぽく女の人の名を口にしたのを聞いたのは初めてだった。 「きれいな人だったよなぁ・・・・」ため息混じりの大宮の声だ。 「おい大宮、その台詞もう五回目だぜ。」 「小杉はそう思わんのかよ。」   切り返されて小杉の顔が真っ赤になった。いつものふざけた調子がない、どもるような声で、小さく、 「あんなきれいな顔しているのに、親しみやすい雰囲気な人、初めて見たよ。」  この部屋に案内してくれたのは小夜さんだった。その時のほんの数分の会話だけで、彼女の深い学識、それを鼻に掛けない謙虚さ、心遣い、まさに理想的な女性という確信を私たちは感じてしまったのだった。 「そういえば弓島、あの時はどうしたんだよ。」 「え?」 「そうだよ、小夜さんとはじめてあったとき、ぼーっとしてただろ。」 「ああ、そのことか、何だかうまく説明できないんだが、彼女の目に見覚えがあるような気がしたんだ。」  私の言葉を聞くなり、大宮が笑みを浮かべた。にやり、という表現がぴったりな、底意地の悪そうな笑み。 「弓島、お前も読んだのか?”夢想譚”その中の有名な口説き文句だぜ。『夢のなかの少女の瞳に、きみの目はよく似ている。』ってのはよ。」台詞のところだけ妙な造り声で大宮が聞く。 「お前等あんな軟弱な本よんでるのか?」  まるで違う生物を見るような目で私たちをみながらの小杉の台詞に、大宮が太い眉を吊り上げた。 「お前みたいに単純な精神構造している奴に、そんな事言われる筋合いないよ。」  また始まった。大宮と、小杉は趣味の点で徹底的に正反対だ。いつもは気の合う三人組なのに、話題が趣味に行くと二人は親の仇みたいになってしまう。  私の役割はもちろん見物人だ。鬼瓦みたいな顔といかつい体の大宮が愛だ恋だとわめき、やさ男のようなモダンな風貌の小杉が男だ武士の魂だとやり返す不思議な光景は、私に世の中の不条理というものを垣間見ているような気にさせる。  ノックの音に二人は休戦状態に入った。礼儀正しく入ってきた岩波が奇妙な雰囲気に気付き、怪訝な顔を私に向ける。  何でもないよ。と私が笑いながら言うと、岩波は背中に隠していたものを私たちに差し出した。 「何だよ、それ、竿じゃないか。」  「裏の川で魚が釣れるんですよ。」 「本当か?魚釣りなんて久しぶりだ。」  着物の袖をまくり上げて大宮が立ち上がる。私たちは日除けの麦藁帽子を受け取って、外に出た。  煉瓦館の裏には離れが二つあり、その後ろは林になっている。 「あの離れにはどなたがいらっしゃるんだい?」 「伯父ですよ。」 「そういえばお家のかたと挨拶をしていないな、失礼じゃないかな。」 「父は外に出ているし、家族は夕食時まで集まらないんですよ。その時に先輩方に紹介しますよ。」 「緊張しないようにしないとな。」  小杉がやたら神妙な顔でうなずき、私たちは笑いながら、林を横切る小道を歩いた。  木々がきれ、水が見えてきた。まばらに葦が生え、張り出した木の枝の間から光が漏れている。  下流のほうに見える橋は、さっき渡った淀橋だ。 「向こうに岩場があるんです。腰掛けて釣り糸をたれるには絶好の場所ですよ。」 「ここら辺は何がつれるんだい。」 「普通の鮒や、鯰ですが、この前こんな大きな鯉を釣った人がいましたよ。」 「よし、今日は鯉の洗いに、鯉濃をお前等にご馳走してやる。」 「もう釣った気になってるな。」 「釣り名人の大宮健史といえば、田舎じゃちょっとは知れたものだったんだぞ。」 「じゃあ実力拝見だな。ついでに鰻の蒲焼きも頼む。」 「おお!」  釣り名人は場所を選ぶとやらで、大宮は木々をかきわけてどこかにいってしまい、我々は三人で腰を並べて竿を持った。 「釣れたかね?」  いきなり後ろから声を掛けられて、私たちは振り向いた。  男だ。私たちより少し年上に見える。 「桜さん!」  小五郎が立ち上がって、駆け寄る。私たちのほうを振り返り男に私たちを紹介した。 「紹介しますよ。書生の桜源太郎さんです。さっき言った鯉を釣り上げた名人ですよ。」 軽く会釈をする。桜さんも我々のところに腰を下ろして、釣り糸をたれた。  話は弾んだ。桜さんは話題が豊富で、知識の深さを感じさせる人だった。岩波の父とともに渡った船の中の話や、異国の生活、海運業の仕事、おしまいには外国の娼婦館まで話は飛び、岩波の顔が真っ赤になるのを皆で笑った。  そこに仏頂面の大宮が帰ってきた。魚篭が軽いのを確認してから小杉が話し掛けた。 「夕食の戦果はどうだった?名人。」 「初めての川では感じが掴めん。」  まさに残念無念という口調に、我々は笑い転げた。 「夜までとっておく心算だったんだけど、場所も場所だし、全員揃っている。ちょっと面白い話をしましょうか。」 「娼婦館より面白い話なんですか?桜さん。」 「お前等こんなところでそんな話をしてたのか?」  怪訝な顔をする大宮に、小杉は意地悪く、「初心な大宮くんには、驚愕連続の講義だったぞ。」 「うるせえな、この。」  じゃれ合う二人を押し退けて桜さんに話を続けてもらう。 「そこに淀橋が見えるだろ。そこにはちょっとした伝説というか昔話があるんだよ。」 「まさか怪談じゃあないでしょうね?」軽い感じを装って小杉が聞く、普段は武士道だの威勢のいいことを言っているが、幽霊話に滅法弱い。  逃げ腰の小杉に向かって意味ありげに笑い掛けると、桜さんは声をひそめて話しはじめた。 「実は・・・・・・」  昔、紀伊の国から鈴木九郎という浪人が流れ流れて中野の辺りに住み着いた。一匹の痩せ馬と共にこの地についた九郎はあっという間に巨万の富をえて、中野長者と呼ばれるようになった。  この富を得る手順も常識では考えられない。ある時九郎は夢のなかで仏にあった。目が覚めて、夢のなかの仏の言うとおりに隣の部屋の襖をあけると、そこに金銀財宝が山のように積まれていたという。  こんな話だけでも、中野長者はまともな方法で富をえたわけではない怪しい人物のようだが、彼の正体はその財宝を得たときに明らかになった。  彼の頭を悩ませたのは、その財宝の多さだった。中野長者はその財宝をどこかに隠すことにし、深夜に遠くの森まで下男をつれて出掛け、人知れず財宝を埋めていた。  しかし仕事を手伝った下男たちがいつ変心して財宝を盗むかもしれない、人に喋るかもしれない。疑心暗鬼にとらわれた長者は帰りに下男と共に橋を通り掛かるときに、下男の気をそらせた隙に惨殺、死体を川の流れに突き落とした。  こうして何人もの下男が荷物を背負っていくが帰りはだれも帰ってこない。というので近所の人々は誰言う事無くこの橋を「いとま乞いの橋」とか「姿見ずの橋」というようになった。   殺された下男の数は十数人にもおよび、その怨念は、中野長者の娘、小笹に報いた。  いつの頃からか小笹の体に鱗が生じ、その鱗は日に日に数を増やし、ついに蛇身と化してしまったのである。小笹は苦しみの挙げ句、十二社熊野神社の池に入水して命を絶った。それでも怨念に苦しめられるのか、夜になると蛇身の姿で現われて庭をはい回る。九郎夫妻は嘆き悲しみ、各地の行者を招き、相模の国の禅師によってはじめて小笹は成仏し、己れの所業を悔いた長者も禅門に入ったという。  小笹が大蛇となって入水したことで、神田川に沈む下男らの怨念も晴れたに見えたが、まだこの話にかかわる悲劇は変わっていなかった。  自分たちが殺された橋を渡るものに祟った。婚礼の新婦がその橋を通ると必ず転落して行方不明になってしまうのである。花嫁行列はたとえ遠回りしても、他の橋を渡るようになった。  淀橋の橋の名の由来は、徳川家康が鷹狩りの際この橋が「姿見ずの橋」と呼ばれることを不吉だと思い、大阪の淀川を思わせる橋の景色に淀橋と名を付けたため、この橋の名が定まったといわれている。しかし名を変えても、この地方の人々の間でこの恐ろしい話はいまでも語りつがれているのであった。 「で・・その中野長者の秘宝というのはどこへ?」  話しおわるのを待っていた大宮が身を乗り出した。 「さあ・・・見つかったという話は聞かないけれど。」 「じゃあまだここら辺に埋まっているかもしれないんですね。」 「中野長者がいたといわれている時代は応永の頃、室町時代といわれているからねぇ・・・いまから五百年も昔の話だよ。可能性は薄いと思うけど。」  肩を落とす大宮を小杉が笑う。私は話の中心だった橋を見る。五百年もの歴史のなかで、橋は何度も建て直されているだろう。しかし小笹の話を聞いてからの橋の影や川の水の黒さが、何かさっきまでとは別の不気味なものに変わってしまったかのような気がした。 釣りの成績は惨憺たるものであったが、桜さんの博学には驚かされた。私たちの荒唐無稽とも、傍若無人とも言える幼稚な質問に、丁寧に説明しながら答える桜さんの話は面白く、時のたつのも忘れてしまうほどだった。 幸いにして川から這い上がる蛇身の女も、川に落ちる下男にも出会わずに夕日は沈んでいった。  私達は暗くなった林を抜け煉瓦館に帰る。女中たちに用意してもらったバケツに井戸の水を汲み、足を洗い、そのまま風呂へ案内してもらう。 「西洋の風呂というのはどんなかたちをしているんだい。」 「実は煉瓦館には風呂を設計していないんですよ。どうも父がバスというのを好まなかったようで、煉瓦館にくっつくように木で作った浴室があるんです。薪は運転手の喜助が割っているんですよ。」  風呂は広かった。四人で入るようにすすめられて、小五郎だけが怪訝な表情をしなかったのもこれで頷ける。 「おい小五郎。」  湯槽に浸かりながら小杉が小五郎を突く。「何です?」 「お前、小さい頃は家族と一緒にこの風呂に入ったりしたのか?」 「ま、まさか小夜さんと一緒だったりしたんじゃないだろうな?」  つい大声で叫んでしまった大宮は、真っ赤になって湯槽に潜ってしまう。 「お、大宮、子供の時の話にそんなに興奮するなよ。」 「子供の時は僕はこの家には住んでいませんよ。」 小五郎の顔もいくぶん赤くなっている。 「先輩たちに話していませんでしたか?僕はこの岩波家の養子なんです。五年前ここにきたんです。もっとも十歳といえばまだ子供ですから父と入った記憶はありますよ。」  そのあと私たちは何となく気まずくなってしまい、風呂からでるまでしばらく無言でいた。  小五郎がこの家の養子であったことは初耳だった。しかし考えてみれば、私たちのような部外者を三人もこの家に招待してくれた訳、すすめた理由、養子という立場にどちらもが気を使ったとすると少し説明できるのではないだろうか。久しぶりに帰って来た慣れない我が家の生活を少しでも楽しんでもらおう、養子という立場しかも飛び級という環境下でも楽しく勉学に励んでいることを知ってもらおう、もちろん私の想像でしかない。外れててもいい。この想像は私の心を軽くさせた。変な偶然で迷いこんだ異世界だが、楽しんでみよう。もう少し肩の力を抜いて。 と、決心も束の間、私は緊張の真っ只中にいた。  食事なのである。こればかりは風呂のように和式ではなかった。テーブルに座って食事をするのは初めてではない。カフェやミルクホールでテーブルの上の珈琲をすすっているおかげで慣れている。  しみひとつない白い布の掛かった十メートルもの長さのテーブル、意匠を凝らした椅子、金の燭台に、銀の食器、白い陶器の花瓶には花。これらが美しい絵ならば簡単のため息一つでおしまいだ。しかし、私はいまそれらのものに囲まれているのであった。感激よりも、困惑を感じてしまうのは当然ではないだろうか。  しかも私の隣の席には小夜さんの笑顔がある。自分の醜態をこの人に見られたくないという気持ちが、私の全ての動きを封じてしまっていた。 「・・・・あの・・・・箸を使わせてくれませんか?」  消え入りそうな声で小杉が言った。私は心の底から小杉の勇気を尊敬した。 「すいません、気付かなくて、すぐ用意させます。」  小五郎があわてて席を立とうとする。 「待ちなさい。」  落ち着いた声が小五郎を止める。煉瓦館の主人、小五郎たちの父親、岩波鉄之進氏のものだ。 「小杉くん、別に恥をかかせようというつもりはないんだが、一つ練習してみんかね。」「は?」 「たしかにこういった食器を使うのは日本では必要ないかもしれん、しかし君達はまだ若い、そして日本もだ。鎖国の世の中ではない現在、我々は列強の国々、人々と対等に肩を並べなくてはならないのだよ。」 「はあ。」鉄之進氏の熱弁に思わず圧倒されてしまう。我々の様子に鉄之進氏は豪快に笑った。初めてテーブルについたときに感じた氏の威圧感は消えている。我々もつられて微笑んでしまう。 「まあそんなに大上段に構えるものではないんだが、要するに外国人たちと飯を食う機会もあるかもしれないんだ。我々はもてなす立場に立ったとき、どうもあちら流にあわせるのが好きらしいんだな、また向こうもそんなのを好む、鹿鳴館式という奴だな。そんな時のために練習するのも悪くはないんじゃないかな。」  氏の理論に圧倒されながらも頷きながら聞いている私たちをみて小夜さんが吹き出した。私たちは思わず顔を見合わせる。 「そんな神妙な顔をなさらなくてもいいんですよ。ただ珍しい料理を見て驚いてもらおうと思って用意しただけなんです。一応雰囲気にも凝ってみたんですが、実は父や私たちも外国のお客さまが来たときぐらいしか使わないんですよ。」 「話はそれ位にして、そろそろ実習といこうじゃないか。せっかくの料理が冷めてしまうぞ。」  小夜さんと氏のおかげで私たちは慣れない手つきながらも、楽しい雰囲気で料理にむかうことが出来た。  フォークと、ナイフ。どうも刃物を持って食事をするというのは物騒な気がする。切れ味も良くないのか、小夜さんと同じ手つきをしているはずなのに料理が白磁の皿の上ですべる。思わず躍起になって力を入れようとしたとき・・・・・。 「そんなに力を入れなくていいんですよ。」 ふわりと・・・。  不思議な冷たさと、心地よい感触が私の右手に現われた。視界の隅にある私の手に重ねられたもの、  食器のような無機的な白さではない、綺麗な白い指。そしてその上に桜の花びらを散らしたような形の良い爪。  それは小夜さんの手であった。  私の悪戦苦闘ぶりを見かねていつのまにか小夜さんが席を立ち、私の後から手を差し伸べてくれたのだ。 「フォークというのは、独特の持ち方をするんですよ。差す部分を下にして・・・・」  鈴のなるような心地よい小夜さんの声が遠くで響いている。強引さを感じさせない力で私の手をフォークとやらに絡ませてくれている。  天にも昇る心地のなか、私の心は心配事で破裂しそうだった。  こんなに激しく動悸を繰り返す心臓の音は小夜さんに聞こえないだろうか?顔は赤くなってないだろうか?手は震えていないだろうか?私の口元はゆるんでいないだろうか?・・・・。 「ナイフで切る場合は、押すときに力をこめるんです。刃の先のほうに力を入れる感じで。」 「はい。」  私の先ほどの醜態を嘲笑うように、料理はあっさり切れた。もう一度私は同じ動作を繰り返した。うまくいけば、誉めてくれるかもしれない。 「一口ずつ、食べる分だけ切るのが礼儀なんだそうですよ。おかしいですよね、全部切ってからフォークだけで食べたほうがずっと楽だと私も思うんですけど、それは行儀が悪いということになるんだそうです。」  私の顔の横で、小夜さんが微笑んでいた。女性の顔をこんな間近で見たのは十七年間の私の人生のなかで、初めてのことであった。 だされた料理は何を食べてもおいしく感じたが、何を食べたか記憶に残っていなかった。大宮と小杉がすごい目で私をにらんでいたことも、後になって本人たちから聞くまで、気付かなかった。     デザートとかいう習慣だそうだ。食事の後に果物と紅茶がでた。紅茶を一口飲んだとたん。その奇妙な味に喉が焼けたようになった。思わず口をあけて舌をだしてしまう。 「おや、ブランデーが強すぎたかな。」 「さ、酒を茶のなかに入れるんですか?」  小杉の信じられないという口調が、みなの笑いを誘う。  その時突然ドアが開き、みなの視線が集中した。  車椅子だ。前に街で見たことがある。品の良い老年の女性に引かれてうつむいたままの男性がそれに乗っている。ずいぶん高級な感じのする椅子だ。握りや手摺りのところに精緻な彫刻が施されている。 「誠治伯父さんお久しぶりです。今日は具合はよろしいんですか?」  小五郎が車椅子の男に駆け寄る。誠治と呼ばれた男はそれに気付いているのかうつむいたまま動かない。 「今日は誠治さまのお加減もだいぶよろしいんですよ。小五郎坊っちゃん。」 「民も元気そうだね。」  椅子を押していた老女と小五郎が親しげに話している間も男は声一つあげなかった。腰から下には毛布がかかり、足は見えない。小五郎は伯父といっていたが、誠治氏の頭は老人を思わせる白髪頭だ。手の甲や、顔にもしわが目立つ、伯父というからには鉄之進氏の兄弟なのだろうけど、そんなに年が離れているのだろうか。 「紹介しますよ。誠治伯父さんと、女中頭の今井民です。」 「誠治兄さんは若い頃病を患ってね。民さんには、私たちの親つまり小夜や小五郎の祖父の代から仕えてもらっているものだ。」 「すいません、本当は私たちからご挨拶にお伺いしなくちゃいけないのに・・・・。」 「仕方がないさ。兄さんは体の具合が悪いときは離れで寝ていなくてはならないんだ。兄さん、小五郎の友達が遊びにきてくれたんですよ。」  大きな声で鉄之進氏は兄に話しかける。私たち三人は揃って誠治氏に会釈をしたが、誠治氏はそれがわかっているのかいないのか、ただうつむいたままだった。 「お家の方はこれで全員ですか?」 「後は義兄の圭伍さんと、その奥さんの君子さんだが、二人ともいつも外にでていないんだ。」  異国の果物について鉄之進氏が話をする。話は要点がわかりやすく、時々気の利いた冗談を混ぜる。私にはその華やかな雰囲気の部屋のなかで、甲斐甲斐しく果物を誠治氏の口に運ぶ民さんと、機械的に口を動かしている誠治氏が印象的だった。  次の日も私たちは遊びに一日を費やした。煉瓦館で使っている自転車を借り、私たちは荒い道をどこまでも走り、見知らぬ景色が視界を通り過ぎるのを楽しんだ。疲れれば野原に寝転び、水筒に入っている女中の作ってくれたレモネードで喉を潤し、包んでもらった握り飯で野外の食事と洒落こんだ。  たんぼを見ながら握り飯を食うなんて久しぶりだ。もっともこんなに開放的な気分で食べた記憶はない。私の実家はそれなりの地主であるが、妙な所があって自分の子供たちは下男と一緒に田植えなどを手伝わせる。しかも親父が後で監視しているために、休憩さえも分刻みだった。あの時のむせながら詰め込んだ冷たい米の味は忘れることが出来ない。「何だ、岩波の次くらいの坊っちゃんだと思っていた弓島に、そんな過去があったとはねぇ。上品な人間はいそいで飯を食ったことがないだろ?」 「いえ、みんなの目を盗んで来客用の舶来のお菓子は急いで食べましたよ。」 「お菓子って、クッキーとか、チョコレートとかって名前のやつか?」 「隠し場所が変わっていないか後で調べてみましょう。」  夕日も沈みはじめ、私たちは談笑しながらゆっくりと帰路に着いていた。道のまわりの林が黒い影絵となり、夕焼けを反射するたんぼからは蛙の声がせわしない。草むらに小さく尾を引いて光るのは蛍だ。自分の家に帰るような錯覚が郷愁を誘う。盆ぐらいには実家にかえってみようか。  夕闇に星が光りはじめ、小高い丘に煉瓦館のシルエットが浮かび上がる。私たちは、道の向こうから大きくなってくる人影をみた。 その影が事件の幕開けを告げる伝令とは、その時私たちは知らずにいた。 「大変だ、小五郎くん。岩波さんが、君のお父さんが・・・・。」  自転車を降りるなり、息も絶え絶えの様子で桜さんは小五郎に話しかける。煉瓦館から休みなしで走り続けたのだろう。着物には汗がにじみ、肩の上下がせわしない。形の良かった髪も乱れている。 「父になにかあったのですか。」 「とにかく急いで帰ろう。」  私たちも訳がわからず、桜さんのただならない様子に押されるように、全速力でペダルを踏んだ。  小五郎は敷地に着くなり自転車から飛び降りた。もつれる足で入り口に急ぐ。明かりのついた煉瓦館から走りよってくる影は、小夜さんのものだ。 「小五郎。」  悲痛な叫び声。あの小夜さんがこんな声をだすのか。それ故にその切迫した様子にただならぬ意味がこめられている気がして、私も思わず自転車を置き去りにして二人に駆け寄る。  「姉さん。父さんの身になにかあったんですか?」  姉の両肩をつかむ力も、問い掛ける声も、いつもの平静さを失っている。 「お父さまが・・・・・。」  後のほうが離れている私には聞き取れない。くずおれる小夜さんに気付かないような勢いで、小五郎は煉瓦館に走っていく。 「お父さん!」  何度も叫ぶ小五郎の声が煉瓦館のなかから小さく響いてくる。私たちは小夜さんに近付いた。  その肩が小さく震えている。顔をおおっている手の間から落ちる雫は涙だ。 「すいませんでした。小夜さん。ぼくはとても彼に言えなかった。」  背後から絞りだしたような苦しげな桜さんの声。 「一体小五郎くんのお父さんに何があったんですか?」  たまりかねたように小杉が問い掛ける。 「亡くなられたんだ。今日の午後。」  うつむいたまま小さく桜さんはそれだけを言った。語尾のほうが嗚咽に変わる。小夜さんが小さく息を飲む音が聞こえた。桜さんの目からも涙が落ちていた。 「大宮!」  大宮が突然小五郎が消えたほうへ走っていく。叫びながら小杉がそれを追う。  私はただそこから一歩も動けなくなってしまい。立ちすくんでいた。  医者を乗せた車が帰っていくと、煉瓦館は重い静寂に沈んでいってしまったようだった。「食事の用意が出来ました。すいませんが食堂へ。」  部屋のドアを開け、小五郎が私たちを呼びにくる。目が赤く晴れて、顔色が青い。 「すまないな、こんな時だってのにおれ達にまで気を使ってもらって。」  私たちは使用人たちが使う食堂に通された。桜さんが先に来ていて、食事をしていた。 言葉少なにあいさつだけして私たちも食事をはじめた。 「小五郎くんは食べないのかい?」  私たちを案内しおわって食堂から出ていこうとする小五郎を桜さんが呼び止めた。 「はい・・・あの・・・食欲がなくって。」「ご飯だけはきちんと食べなくてはいけないよ。これから忙しくなるし、元気がないときは体力もなくなるのが早い。つらいかもしれないけど食べるものだけは食べておくんだ。」  料理が運ばれてきて、うつむきながらも小五郎は茶わんを持ち上げた。箸を握っていたてがふるえ、のっていた米が落ちた。  声をこらえて泣いている小五郎の肩を桜さんはやさしくたたいた。 「つらいけれども、頑張るんだ。君がこんな様子じゃあ小夜さんも何も食べてはいないだろ。料理長にいって握り飯でも後で持っていこう。」  泣きながら小五郎は頷いた。何度も何度も頷き、泣きながら箸を動かした。   「あの・・・・ぼくも手伝えることはないでしょうか?」  小五郎を部屋に送った後、私だけ食堂に戻っていた。私たちに割り当てられていたのは二人用の部屋を二つで、私だけはそれを一人で使っていたのである。  二人に言わなかったのはもちろんちょっとした狡賢い心の動きがあったことは否定できない。もしかしたら小夜さんの部屋へ行き、慰め役になれるかもしれない。  部屋に入ってすぐに桜さんがいなくなっているのに気が付いた。 「桜さんは?」 「書生さんはもうお嬢様の部屋へ行かれましたよ。」  洋装の仕事着を着た料理長はそういいながらも両手を動かして、握り飯を作っている。「じゃあそれはだれのための・・・」 「ああ、これは喜助さん達のためなんですよ。何でも旦那様が倒れたときに、庭師の康介の爺さまが発見なさったとかで、その時一緒に倒れてしまったんです。お医者の言うことには心因性のショックとかなんとかで・・・息子の喜助さんが今も看病してるんです。」  そういう訳で私はいささか不本意ながらも、煉瓦館のもう一つの離れである熊田親子の扉をノックすることになった。  扉が少し開き、運転手の喜助の顔が現われる。心なしか、少し頬がこけているようにも見える。  何となくかける言葉もなく、礼を言って頭を下げる喜助を見ながら帰ろうとしたとき、部屋の奥からうめき声が起こった。 「お父!」  喜助が奥に駆け寄る。私もあわてて跡を追った。 「旦那さま、申し訳ねぇ!許してくだせぇ!申し訳ねぇ!鉄之進様!」  布団の上で喜助の父親、康介が叫んでいる。布団をはねのけ、首や手足を振り回しては海老のように仰け反り、自分の主人へ謝り続けている。 「お父、お父、しっかりしろ。」  喜助が負けないくらい叫び、父親を押さえ付けている。私も喜助を手伝う。すごい力だ。老人のものとは思えない。  男二人の手を押し退けて起き上がる。視線はなにかを一心に見つめている。私はその場所に顔を向ける。何もない。康介の目を見つめる。焦点があっていない。  その顔が急に恐怖の相を浮かべて、歪む。「ば、化物っ!」 「しっかりしてくれ、お父!」  息子の声も聞こえないのか、康介は腰をついたまま後退りをはじめる。化物という声の大きさと恐怖の表情が、強くなっていっている。 「ばっ化け蛸。あの足は蛸、蛸の足だ。だっ旦那様に何をする。離れろ、化け蛸!」  不意に立ち上がり、幻覚に立ち向かうように前に駆け出す。足がもつれ、そのまま倒れてしまう。喜助が父親の体をささえる。父親を呼んでも、気が付かないのか、康介は荒い息を繰り返していた。  しばらくして老人は落ち着き、規則正しい寝息をたてはじめた。 「無理もねぇ・・・・子供の頃から仕えている旦那さまがあんな死に方をなさったんだ。旦那さまが死んだのは自分のせいだと決め付けちまっている。医者は命には問題がないといっていたが、昼からずっとこの調子だ。本当に大丈夫なんだろうか。」 「康介さんは今、うわごとで蛸とかいっていたようですが?」  この瞬間、喜助が表情を変えた。それは間違いなく父親が浮かべていたものと同等の恐怖の表情であった。 「そのことも医者に聞いてみましたが、あまりにつらいこととかにあうとあらぬものを見たりするといっていました。」  幾分慌てたように喜助はうつむいて答える。しかし握られたこぶしの震えが、真実が他にあることを言っている。  それ以上問いただす訳にもいかず、ともかく私は喜助に飯を食べることを、すすめることしか出来なかった。  喜助の礼を聞きながら私は煉瓦館に戻る。その時私の心には引っ掛かるものがあった。あんな死に方、と喜助は言った。鉄之進氏の死因はなんだったのだろう。さすがに今日は聞くべきことではない。しかし私の心の中にはその疑問がいつまでも消えなかった。   次の日の朝、私は目を開けた瞬間大宮の鬼瓦のような顔を見た。 「どうしたんだよ、びっくりするじゃないか」 「どうもこうもあるか。とにかく起きろよ、様子がおかしい。」  部屋の外で待っていた小杉とともに、私たちは玄関のほうへ移動する。  煉瓦館全体が何となく忙しないような気がする。下女達が小走りに私たちとすれ違う。「なんか忙しそうだな。」 「当たり前だ。明日が通夜で明後日は鉄之進さんの葬式だ。」 「普通は昨日、通夜だろう?」 「きちんと形式を整えてやるそうだ。今日一日では準備が出来ないから明日からということになったらしい。」 「その通夜に出るために来た伯父ってのがいま問題を起こしてるんだよ。」  小声で大宮が言う。聞き返そうとしたとき、大宮が玄関を指差す。  人だかりだ。数人の下男、下女にまじって桜さんと小五郎がいる。 「そうだ!義弟は殺されたのだ。これは殺人事件だ。」  いきなり、  人込みの中から発せられた言葉に私たちは立ち止まってしまっていた。 「圭伍さん、どういうことなんですか。」  桜さんが人込みの中で叫んだ男に詰め寄る。その勢いの激しさに、人垣が割れ、私たちにもその人物が見えた。  派手な洋服を着ている。金は掛かっていそうだがあまり趣味の良くない服装に包まれた小男だ。油できっちりと髪の毛を固め、鼻の下の髭にさえも使っているのか、綺麗に刈りそろえられ光っている。桜さんは圭伍と呼んでいた。ということはこの人物と後に立っている派手な女性が、私たちの知る煉瓦館の最後の住人、圭伍夫妻なのだろう。  圭伍氏は桜さんの語調の激しさに幾分後ずさった。顔には怯えの色さえあるようだ。 「こっこれが証拠だ。これは医者の書いた鉄之進の病状記録、カルテだ。」  そういいながら手に持った紙を振り回す。桜さんに受け取らせると紙を指差し、勝ち誇った口調で話す。 「そこに死因となった傷の記録がある。刃物による致命傷だ。自殺ではそんな傷は付けられないと医者も保障をしておる。それなのに、警察には届けないように、医者に金まで送ったそうじゃないか?」 「そんな・・・・僕は知らない!」  小五郎が叫ぶ。私たちも驚いていた。鉄之進氏の死因を訪ねることは昨日ついに出来なかったが、まさか殺人なんて・・・・。 「それが・・・父の遺志だったんです。」  一瞬皆の声が止まった。静かな、決して大きくない声なのに、その声は我々の間に響き渡った。 「姉さん・・・」  小五郎の声に私たちは振り向く。私たち三人の後に小夜さんが立っていた。 「父の遺言なのです。」  あの目だ。小夜さんの顔には血の気がなく、憔悴の影が濃い。しかしそういった印象をすべて拭ってしまう感じが私をとらえていた。どこがどう違うとは説明できない、しかし今彼女の目に浮かんでいるものはいつもの小夜さんとは異なった、初めて彼女を見たときと同じ感じのものだった。  この感じは以前にも感じたことがある。昨日や今日じゃない、遠い昔の・・・。 「殺された男がそんなことをいったのかね。信じられないねぇ。」  私の幻想は、圭伍氏の意地の悪い声で断ち切られた。   「『私の死を不審に思うだろうが、せめてあの日の来るまで、警察には知らせないでくれ、葬式も正式なのはそれ以降だ。』これが旦那様の遺言でした。」  女中頭の民だ。一昨日の晩、誠治氏の車椅子を押していた老婦人は今、小夜さんをささえるように静かに立って、その目はじっと圭伍氏に注がれていた。  圭伍氏は明らかにこの女中頭が苦手のようだった。気圧されたように後ずさる。しかし次の瞬間肩から先に前に出る。後に下がったのを自分の妻に押し戻されたのだ。  その時初めて私は圭伍氏の妻に気が付いた。この女性の着る服は妙に体の線を意識して作られているように感じる。顔にはきつめの化粧をしている様で、作り物めいた肌のうえに、艶かしい目鼻が乗っているという感じだ。年のせいもあるが私には遠い世界の人間のように感じられる。小夜さんとは違う意味でだ。私の視線に気付いたのだろうか、女がこちらを向き、笑った。真っ赤に塗られた唇の両端が吊り上がる、笑み。何となく居心地が悪くなるようで目を反らしてしまう、女の顔が余計に笑ったような気がする。  圭伍氏が後を振り返ってにやりと笑った。一瞬だったがそれは百万もの味方を得たような、卑屈極まりない勝ち誇った笑みだった。「死んだ人の言葉だというのはいくらでも言えるねぇ。ともかく義弟や小夜さんにとってはそんなことより大事なことがあるようだ。あの日までは後一ヵ月、余計なことは起こしたくない気持ちもわかる。」 「圭伍さん、なんてことを言うんですか!」 桜さんの怒気を帯びた調子に怯えながらも、圭伍氏はねちねちとした口調と視線を、小夜さんに向け続けている。  小夜さんは何も言わず、ただうつむいていた。  それをみて圭伍氏はさらに勢いづいたようだった。 「ともかく義弟の死には不審なところが多すぎる。いずれ警察を呼ばねばならないだろうが事情があって駄目だ。そこで儂は探偵を雇うことにしたよ。犯人を突き止めなければいつ私たちが血に飢えた殺人鬼の手にかかるかわからんからねぇ。」 「探偵ですって?そんな得体の知れないものを。」  民が責めるように言うのを聞いて、圭伍氏は狡猾そうな笑みを浮かべた。 「煉瓦館の主人は亡くなって、義兄の誠治さんはあの様子だ。かといって小五郎くんはまだ若すぎる。儂がこの煉瓦館を守らなくてどうする?」  なるほど、私はこの男の芝居めいた仕草をようやく納得した。この台詞を言うためにこの男はこんな芝居をしているのだ。圭伍氏は、鉄之進氏の死を機会に、煉瓦館の主人が自分であることを皆に認めさせたいのだ。 「伯父さん。それは本当なんですか。」  今まで黙っていた小五郎が、伯父を見つめる。 「何がだね。」 「父さんが殺されたかもしれないということです。」 「少なくとも儂はそう思っている。真実の追求のためには儂はどんなこともおしまんつもりだ。」  小五郎の肩をつかんで話しかける。小五郎のほうは聞いているのか、うつむいて唇を噛んでいる。 「ともかくだ。人が泊まれるように二部屋用意しておいてくれ。昼すぎには探偵が来る。」 「二部屋ですか。探偵さんはお一人ではないんですか?」  質問をした女中に圭伍氏は笑いかけた。 「おもしろい趣向を用意しているんだよ。頼んだよ。二部屋だ。」  そう言ってから荷物を持って二階へ上がっていく。圭伍氏の妻、君子さんが後をついていく。 「全く、人が死んだということをなんだと思っているんだ。」  小杉が私たちにだけ聞こえるような小さな声でいった。  心のなかで私も同意の声を上げていた。たとえ義理でも自分の弟が死んだというのに・・・・。しかしそれ以上の好奇心が私をとらえていた。  自分でも不謹慎だとは思う。殺人!本当にそんな恐ろしいことが、この静かな煉瓦館で起こったのだろうか。疑問を追求したいという想いが頭をもたげている。探偵と猟奇事件など、小説でしか起きないことが今眼前で幕を開けようとしている。  そんな気分を自覚して、私は突然自分に嫌悪を感じた。すまない気分で思わず小夜さんの方を見てしまう。  小夜さんは私たちに近付いて、静かに頭を下げた。  「今日の列車で、申し訳ありませんが、お帰り願えますか。」  私たちは何も言えなかった。煉瓦館で人が、死んだ。これから住人たちは忙しくなる。私たちはただの客にすぎない。  ここにとどまって小夜さんを助けたい。もし殺人犯がいて、もし煉瓦館の住人だったら・・・。危険を私たちが防ぐことが出来たら。しかしそれらは現実のことではない。私たちには十七歳の子供には何も出来ない。かと言ってその事実を無視してここに居座ることが出来るほど、私たちは子供ではなかった。  後ろ髪を引かれる想いで私たちは見送りの小五郎とともに、喜助の運転する車に乗る。 車のなかで私たちは言葉をあまり交わさなかった。小五郎はただうつむいていた。膝におかれた拳が力一杯握られて、震えている。 伯父の言葉を聞いてから小五郎はずっとこの調子だった。今すぐにも駆け出していって、父親を殺した犯人を見付けだしたい。と、その姿が物語っている。  よし、手伝ってやる。と言いたい。小五郎を助けたい。しかし私たちのようなものに何が出来るだろう。大宮や小杉が小五郎の方を心配そうに見る。皆の考えていることは同じなのだ。しかし声をかけることが出来ない。無力だ。小五郎もそれを感じているのだ。  車が止まる。駅に着くにはまだ早い。車の前、淀橋の橋のうえに人が何人か固まって川面をのぞいている為に、車が通れないのだ。 中年の野良着を着た女の人が車に近付いてくる。表情が尋常じゃない。顔が青ざめている。女の人は必死の形相で車の窓ガラスをたたく。 「助けてください、子供が落ちたんです!」 私たちはいそいで外に出ようとする。慣れていない車のドアはうまく開かない。  大宮が人を掻き分けて欄干に足を掛けたとき、大きな水音が響く、喜助が一足早く川に 飛び込んだのだ。  大宮も橋の外に身をおどらせる。私も続くべく欄干に手を掛ける。 「なんだ、あれは?」  人込みのなかの誰かが大声をあげ、水面を指差す。  その指の先にあったものを見た瞬間、私は川に出ることが出来なくなっていた。  眼下には波紋が広がっている。その中心に見える小さな手足は子供のものだ。大宮と喜助が波紋の円の中心に、抜き手をきって近付いている。しかし私が見ていたのはそれではなかった。  あれはなんだ。子供と大宮達の所から十メートルほど上流に、何かが浮かび上がっていた。それを正確に表現することが私には出来なかった。そして理解した。橋の上にいる人たちは、あれのせいで川に飛び込むことが出来ないのだ。あの存在がもたらす正体不明の恐怖が、子供を助けに川に飛び込むことを妨げているのだ。  長くて、黒い、何か。それがもたらす恐ろしさで私は子供を気にしつつも、どうしてもそれから目を離せなくなっていた。それはたしかに動いているのだった。上流の水底で誰かが引っ張っているかのように、一部分を水面に出し、浮き上がった部分がすぐに沈んでいく。水面に出た部分が動いているのがわかった。 「見ろ、蛇みたいに動いているぞ!」  誰かの声で、それが体をくねらせて潜っていることに気付く。これは、生きものなのだ。蛇?人間の腕ほどの太さ、水面に出ているその表面はコールタールを思わせる、粘液質の黒い皮膚。表面は深川の水に浮いた油のように、不気味に光っている。こんな蛇など私は聞いたことがない。  私はそれの動きから目を話すことができないでいた。永遠に続くと思われたそれの動きが急激に早まり、それの末端の部分が水面を一度激しくたたき、そしてすべてが川の中に消えた。その時私は見た。それの裏側を。 それの水中に隠れていたところには、びっしりと突起物がついているのだった。吸盤だ。ぼんやりと私は、思った。  後の方で歓声が上がり、人々が一斉に、橋から川辺に走る。喜助と大宮が、子供を助けだしたのだ。  火のついた様な子供の泣き声。母親の甲高い、喜びの泣き声。助けた二人を褒めたたえ、親子や、二人にかける観衆たちの声。橋の下では様々な声であふれていた。  私たちを認めると、大宮は笑いながら手を振った。私たちも人込みをかきわけ近付く。 近寄ろうとした私の耳に、悲鳴に似た叫びが響いた。 「子供の足に、何かついてるぞ。」  誰かが人込みの中で叫び、全員の目がずぶぬれの着物から出ている子供の小さな足に集中した。  母親の腕のなかで、初めて気が付いたかのように、子供が右足のすねを抱え、泣き声をあげた。 「痛い、痛いよ!」  子供の名を叫ぶように呼び、母親が子供の足を見る。  子供の右足のすねの部分に、まだら模様の黒い帯が出来ていた。子供の足に付着した黒い粘液が、日の光を浴びて不気味な輝きを発したとき、私はその跡を残したものを知った。あれだ。水面下に潜っていったもの。あいつが絡み付いた跡と太さも一致するような気がする。  母親が必死の形相で、川に走り、子供の足を洗った。黒い粘液が川の水に溶けていく。 泣き続ける子供に近付き、私は足の傷を見た。 「薬品による火傷のようですね。そんなに程度はひどくないと思いますが、早く医者につれていって診てもらった方がいいですよ。」「弓島、おまえそんなことわかるのかよ?」 大宮がずぶぬれの顔で聞く。 「医化学者の伯父にかわった傷や火傷の写真を見せてもらった事があるんだ。」  私は着物の袖の部分をちぎり、川の水を浸して、子供の足に巻き付けた。火傷の応急手当だ。  顔を上げたとき、私はその場の雰囲気が変わっていることに気付いた。子供を助けたときの明るい感じが、人々の間に、ない。小杉や大宮も怪訝な顔でまわりを見回している。「あの傷・・・。間違いない、さっきのは・・・。」  人込みの中で囁きのような小さな声が始まりだった。 「長者の・・・・・」 「・・・橋の・・・」 「正平の子供をやったのも・・・・」 「まだ生きて・・・・・」 「・・・呪いだ・・・」 「・・・五年前も・・確か・」  次々と・・・。  人込みが小さな声で話し、一斉に青い顔で水面を見た。息を飲む小さな悲鳴が上がるとともに、人々は先を争うように、しかし足跡をたてるのさえ恐れるかのように静かに、川辺を離れていった。最後に子供を抱えた子供が私たちに深くお辞儀をし、あとには呆然としている私たちが残った。 「おい、気付いたか、弓島。」 「何を?」 「あの人たち、誰一人として淀橋を渡らなかったぞ。向こう岸からも来ていた人もいたはずなのに・・・・。」  私たちは振り返って橋を見る。そしてそのまま、川面に目を移した。神田上水と、淀橋は先程のことなどなかったかのように、静かな美しい情景を見せていた。 「あれ、いったい何だったんだろうな。」 「小杉も見たのか、あの蛇みたいな、長い・・・。」 「蛇というより、蛸の触手みたいだつた。」 その台詞に、私は弾かれたような勢いで喜助を見た。昨夜の喜助の父、康介の叫び声が私の耳によみがえっていた。  喜助はただ水面を見つめていた。その顔は青ざめ、固く引き結ばれている唇の端は、震えていた。 「喜助さん。」私が声をかけると喜助の体が大きく震えた。私を見つめる目のなかに、怯えに似たものがある。 「昨日僕が、あなた方の所におむすびを持っていきましたよね?康介さんはその時”化け蛸”とか叫んでいましたよね。」  喜助の顔がより一層青ざめる。小五郎が喜助に詰め寄る。 「喜助さん、本当ですか。康介さんはお父さんが倒れているところを見たんだ。さっき水面に出てきた何かは、お父さんの死と、何か関係が?」 詰め寄る小五郎から逃れるように、喜助は激しく首を振ってあとずさった。 「お父は幻覚を見たと医者はいっていました。私は何も知りません。知らないんです。」 その態度は明らかに異常を感じさせるものだった。普段はむっつりしている喜助が甲高い、悲鳴に近い声を上げ、子供のように怯えていた。  その姿を見て、小五郎は詰め寄るのをやめた。勢いよく私たちの方へ振り返る。目には涙とともに、決意の光が宿っていた。 「先輩方。お願いです。父を殺した犯人を捕まえるのを手伝ってください!」  それは何とも、子供っぽい叫び声であった。大人びても、小五郎はまだ十五だったのだ。そして私たちも十七、子供だった。私たちは渋る喜助とともに煉瓦館の前まで戻った。  呆れ果てた桜さんを説得したのは、小五郎の涙だった。  私たち三人は、煉瓦館から少し離れた、女中や下男たちが寄宿している建物の空き部屋をこっそり使わせてもらうことになった。 小夜さんには見つからないようにしろと、桜さんは私たちに念を押した。 「小五郎くん、きみの伯父さんはとんでもないことをはじめたよ・・・」  亀田探偵事務所と神代紀信、この二つの私立探偵を知らないものは、帝都に少ない。新聞を賑わしたこともあり、解決した事件は数知れず。噂では警察さえも、事件の解決を依頼するという話だ。  依頼料が法外に高いというのも共通点であるが、亀田探偵事務所と、神代紀信には決定的に違うところがある。前者は、所長の亀田は動かず、複数の構成員が動くのに対し、神代は徹底的な一匹狼ということだ。  圭伍氏は、なんとこの二つの探偵に、同時に依頼をしたのだ。      「どうやら知り合いの新聞記者に話をもちかけたらしい。」  桜さんは頭を軽く振りながら言った。 「小五郎、圭伍さんは鉄之進さんの義兄と言ってたね、ということは、君子さんがきみのお父さんの姉なのかい。」  小五郎に変わって桜さんが答えた。 「君子さんは、後妻なんだ。岩波一族だった前妻、兼代さんは三年前、亡くなっている。圭伍さんは兼代さんの一周忌も待たずに、君子さんと結婚したんだ。」  私は内心呆れ返った。圭伍氏は、そんな希薄な関係しか持っていないのに、今まで煉瓦館に居座り続けていたのだろうか。 「小五郎くんのいる前で、こんなことは言いたくないんだか・・・」桜さんはちらりと小五郎に目を向ける。 「圭伍さんは既成事実がほしいんだ。兄の敵を討つ。こんな大義名分で、世間にアピールし、自分を岩波家の当主として知らしめたいんだと思う。」 「僕がまだ子供だから、伯父さんもそういうことを考えるんですね・・・。」  うなだれる小五郎の肩を強い力で小杉がたたく。 「犯人はおれたちが見付けだす。そうだろ?だったら何も問題ないじゃないか。」  振り向く小五郎に、私たちは頷いた。  まずいちばん最初にやることは、鉄之進氏が倒れていたという場所を調べることだ。  小五郎は一応、小夜さん達の仕事を手伝うという名目で屋敷に帰り、私たち三人と桜さんは康介さんがいっていた川辺へと歩いていた。 「どんな状況だったのかわかっていたんですか?」  一昨日、竿を担いで通った小道を歩きながら、小杉が桜さんに問い掛けた。  桜さんは首を振った。 「それがわからないんだ。何でも使用人たちの話だと、康介さんがひどく取り乱した様子で、血まみれの旦那様をかついできたんだそうだ。」  桜さんが駆け付けたときには、鉄之進氏は寝室に運ばれていくところだった。座り込んでしまった康介さんに、何を聞いても荒い息の後ろで聞こえない、「川のほとりで、旦那様が・・・」という台詞を最後に康介さんは倒れてしまったそうだ。 「康介さんは、まだ?」 「まだ意識は戻っていない。よっぽどショックだったんだろう。今だに何時間おきに弓島くんが見たような発作が起きる。そのあとは疲れてまた眠ってしまうんだ。」 「その、康介さんがいっていた”蛸”のことなんですが、・・」  口調が少し、鈍ってしまう。さっきの触手のことを話して、桜さんに信じてもらえるだろうか。  大宮が私の方に手を置く。 「おい、見てみろよ。」  川辺には先客がいた。圭伍氏が雇ったという探偵が二人、そこにいた。  桜さんが手を挙げてあいさつをする。  二人が近付いてくる。二人とも白いワイシャツに茶色のズボン、ネクタイを身につけている。若い。年長の方でも二十三、四のようだし、もうひとりの方は私とそれほど年が違わないように見える。 「あなたは書生の桜さんでしたね。後ろのかたたちはどなたですかね?」  慇懃な口調で年長の方の探偵が問い掛ける。年下の方が私たちをなめ回すかのように見る。年下の方はハンチング帽をかぶっていた。年上の方がきっちりと洋服を着ているのに比べ、こちらは少々だらしない。ワイシャツの袖をまくり上げ、衿は開きネクタイは緩められている。よほど暑いのか左手の扇子がせわしなく動いている。 「小五郎くんの友達ですよ。こちらから、小杉くん、弓島くん、大宮くん。」  私たちは軽く頭を下げた。 「こちらが探偵の・・・。」 「亀田探偵事務所、所員の鬼久智です。こっちは助手で見習いの吉野。」 「あ、兄貴、そういう紹介はないと思うな。助手か、見習いかどっちか一つにしてくれたって・・・・。」   不平を言う助手を無視して、私たち一人一人に握手をする。 「そうだ。」  鬼久智が後ろを向いて手を差し出す。 「武、さっきの。」  吉野が、鬼久智にビンを手渡す。青色の液体が太陽に輝く。 「桜さん、このビンに見覚えありますか?」「いいえ、それが、何か?」 「そこの草むらに落ちていたんですよ。」  桜さんは、鬼久智に手渡されたビンを見る。口の部分がくびれていて、蓋の部分にはすりガラスが使われている。医者の伯父の部屋で何度も見た。薬品を入れる特徴的なビンだ。「蝋が剥がれてる。封がしてあったのを外したんだ。」  桜さんの声。蝋で空気と隔絶するということはこの液体は空気に触れると変質しやすい性格ということだ。色と性格・・・・。その薬品の名前が私の頭に浮かんだとき、吉野が容器の蓋を開けて匂いを嗅ごうとしていた。「駄目だ!探偵さん、その薬の匂いを嗅ぐんじゃない!」  私の声に驚いて、吉野が強く息を吸い込む。「武っ!」  ビンが吉野の手から落ち、割れる。ガラスとともに飛び散った液体が地面に吸い込まれていく。  吉野が仰け反って、膝からくずおれる。後ろから慌てて大宮がささえる。  鬼久智が吉野の肩をつかんで名を呼びながらゆさぶる。うめき声が漏れる吉野の頬をたたく。 「武、どうした?しっかりしろ!」 「兄貴・・・気分が・・悪い。」 「オルトクレゾール・・・飲んでなければ死ぬことはないと思います。」 「あんた!この薬の名前がわかるのか?」  鬼久智が驚いたように私を見る。こんな時だったが、鬼久智の態度が私の自尊心をくすぐった。  「私の伯父は医者というより、薬が専門なので前に見せてもらったことがあるんです。小説の中の毒薬に使われたので、覚えているんです。」 「飲んだら死ぬような劇薬が、鉄之進さんの倒れていたところにあったなんて・・。」  私は周囲を見回す。風に草がなびき、水面は静かに風景を写し、遠くのあぜ道を馬を引いた人が歩いてゆく、のどかな川辺の風景が広がっている。  突然、大宮と吉野の後ろの草むらが動く、私が叫び声を上げる前に、鬼久智が二人を突き飛ばす。  草むらからすごい勢いで、二人の男が私たちに向かってくる。振り上げられたものが夏の日に反射する。刃物の光だ。  叫び声を上げながら、男は私たちに刃物を振り回してくる。  私のすぐ横を鎌が通り過ぎる。着物の袖が破れる音がして、私の左腕に火の付いたような痛みが走る。 「うわああああああっ!」  逃げ出そうと動かした足がもつれて、転ぶ。目の前が真っ暗になり、その闇を引き裂くように草の緑や、空の青が回る。  仰向けになって上半身を起こす。体が思ったように動かない。いっぱいに見開いた私の目の前に、鎌を振り上げた男がいた。  その男の首にいきなり手が巻き付いた。小杉だ。首を全体重をかけて引き、膝裏に足を押しつけて、男を引き倒す。 「はあっ!」  起き上がろうとした男の顔面に、きれいに小杉の正拳突きが入る。 「大丈夫か、弓島くん。」  桜さんに手を貸してもらい立ち上がる。鬼久智の方も、もう一人の方の腕をねじり上げていた。  私はようやく、二人の男の姿を冷静に見ることが出来た。二人とも汚れた野良着に、草履。年令は四十近い疲れた顔。ここら辺で当たり前に見られる、ごく普通の農家の姿だ。持っていた刃物も、短刀と手持ちの鎌、ただ異常があるとすれば、その顔だ。緊張に強ばっているが目元に緩みがあり、赤い。酔っ払っているのだ。  鬼久智に手を取られている男が叫んだ。 「さあ、俺を警察に突き出せ!岩波の旦那を刺したのは、俺だっ!」  一瞬、私は男が何を言ったのかわからなかった。鬼久智もそうだったのだろう。取っていた手が外れ、男は地面にしゃがみこんでいた。 「俺達だ。岩波の旦那を殺したのは、こ、この短刀で、岩波の旦那を刺し殺したんだ。」 呆然としている私達に、男は自分が握っている刃物を向ける。  どういうことなんだろう。犯人が、捜し出そうとした瞬間、突然名乗りだしてくる。そんなことがあるんだろうか?  おそらく本物だ。さっき、男達は、刃物で刺したと言った。鉄之進氏が刺されたというのはまだ医者や煉瓦館の住人しか知らないことだ。それを知っているということは、やはりこいつらは、真犯人なのだ。 「嘘だ。お前等は嘘をついているな。」  鬼久智の意外な言葉に私は思わず振り向く。男達も鬼久智の顔を見ている。 「何を言う、俺達がこの刃物で奴を刺し殺したんだ。」 「違う、俺は鉄之進さんの死体を見た。丸い、細長いもの、杭のようなもので心臓を貫かれていたんだ。お前が持っている刃物ではそんな傷はつかない。」  男達が言いよどむ。その姿を見た鬼久智の唇が、笑いの形に釣り上がったのを私は確かに見た。 「引っ掛かったな。鉄之進さんの傷は短刀で刺されたものだ。お前等は鉄之進さんの傷を見ていない。鉄之進さんを殺してはいない。何のためにこんなことをした?」 「し、しかしどうしてこの男達は鉄之進さんが刺し殺されたということを知っているんだ。医者や使用人たちには口止めをしておいたはずだ。」桜さんが口を挟む。 「俺が言いふらしたんだ。」  抗議の声を上げようとした私達を、鬼久智は片手を上げて止めた。 「捜査の基本は念を入れた聞き込みだ。他言無用と話しておけば、あっという間にこの狭い地域に事件の話が広がる。密告を期待してやってみたんだが、予想外の結果がでた。」 うなだれる男達に鬼久智は近付く。 「お前等は、犯人を知っているな。そいつをかばうために、自分たちが犯人のふりをして、俺達を襲ったんだ。犯人はこんな目立つことはしないし、自白する気なら警察にそのまま名乗りだせばすむ。犯人が証拠を消そうとして、調べている人間を襲う。こうすれば犯人になれると考えたんだ。」 「そんなことはねぇ!俺達がやったんだ。」「偽証や、詐称をすればそれだけ罪が重くなる。お前等がよかれと思ってすることが、犯人の首を絞めるんだ。大体本当に、そいつは鉄之進氏を殺したのか?殺されるほどのことを鉄之進氏がしたという事があれば、状況は変わってくるんだ。」 「ほ、本当か?」男の震えた声に、希望の響きが交じる。  二人は少しずつ、訳を話しはじめた。    二人ー籐次と、三郎はこの近くに住む小作人であった。二人には共通の友人、正平という人物がいた。  二人は結婚をしていなかったが、正平には妻と、子供がいた。二人が羨み、憧れるような貧しいながらも、明るく楽しい家族生活だった。  そして五年前・・・・・。  稲の刈り入れが終わり、三人は腰を叩きながら伸びをする。腰の手ぬぐいで顔を拭くと三人が同じように、深く、大きく息をはく。 空を見上げていた三人の耳に、小さな声が届く。顔を向けた三人の顔がゆるむ。長くなった山の陰を背に、淀橋の向こうから、父親を呼ぶ高い声が響く。正平の娘が、妻とともに、彼を迎えにきたのだ。  籐次が手を振ると、正平の娘は小さな手足を一生懸命に振って走りだした。  心配そうに見守る三人の前で、橋の中央で娘が転んだ。母親が娘に優しい声をかけながらしゃがみこむ。  その時、三人は確かに見た。  川の水が柱のように、天に吹き上がるのを、おびただしい水が橋に叩きつけられるのを、黒い、油のように光る何かが二人をつかむのを。  正平が川に飛び込んだ。籐次は橋の上を走り回った。三郎は何度も正平の娘と、妻の名を呼んだ。  三人は何も見付けられず、その後来た警察も、何もこたえを出せず、五年がすぎた。  正平は何もせず、空ばかり見上げることがおおくなった。食べるためにする仕事も満足に出来ず、籐次と三郎は色々な面で正平を助けた。  娘と妻を失ったその日から正平の顔に、怖いものが潜むようになった。何かが抜けてしまったような正平に、突然それがあらわれるのだ。 「俺は見たんだ。確かに見た。あの時、俺が川に飛び込んだとき、岩波の旦那が川辺に立っていた。まちがいねぇ、奴が俺の娘と妻を化物を使ってさらったんだ。」  引きつった顔と声で、繰り返す。証拠など何もなく、正平はただそれを信じることだけで生きているように見えた。酒を飲んで感情がたかぶったときなど、刃物を持ち出して、家の外に駆け出そうとした事もあった。  籐次と三郎は、そんな正平を必死になだめる。彼の失ったものへの悲しみを知っているだけに、二人は正平を見捨てることは出来なかった。  そして三日前、二人は恐ろしいものを見たのである。  仕事が一段落し、二人は西瓜を持って正平の家を訪ねた。草をかきわける。五年前、正平の自慢だった庭は見る影もなく、背の高い雑草の間に、二人によって作られた獣道のような家への道があるだけだ。  家も同様だ。あちこちが傷み、雨戸は外れたままの形で、家に立て掛けてある。藁葺きの屋根は、その形を崩し、そのうえに生えた草だけが、きれいな緑を生み、よどんだ家の色と対象をなしていた。  二人が家に近付いたときに耳にしたのは、土を掘る音だった。二人は顔を見合わした。ひょっとしたら、正平が、もとに戻って、庭の手入れをはじめたのかもしれない。わずかな期待に、二人は早足で、音のするほうへ近付いた。  そこにあった光景に、二人の足は凍り付いたように、動かなくなった。  正平は、掘った穴のなかに、何かをうめていた。新しく掘り返された土の形は、ちょうど人間の背丈のほどの細長いものだった。 そして、上に土をかける正平の顔、怖い光をともしながら、喜びに満ちたその顔は、二人の知る温和な正平のものではありえない、何かだった。   声をかける前に、正平が二人に気付いた。その時上げられた顔に、正平が何をしたのかを二人は確信したのだ。歓喜、興奮、そして恐怖。 「三郎、籐次、俺はついに、あいつを殺したんだ。仇をとったんだ!」  青くなる二人の前に、熱に浮かれたようにはしゃぎながら正平は続ける。 「あいつは、俺が常に見張っていたことも知らずに、川辺にいたんだ。俺は後ろから近付いて、鉈で切り付けた。この日を夢見て、研いできた刃だ。胴体の半ばまで食い込みやがった・・・・・。」  正平の興奮で張り詰めていた意識が不意に途切れた。慌ててささえた籐次の腕の中で、正平はやった、やったと繰り返していた。  二人は好奇心に堪えきれず、穴を掘り返した。血に染まった布が、土の半ばからあらわれて、それが鮮血にまみれた鉈を包んでいるのをみて、二人は正平が殺人を犯したのを、事実と確信した。  自首を勧めようと、寝床に移した正平の顔を見る。その表情は五年間彼らが見たことのない、平安を得た男のものだった。その瞬間、二人は正平の罪をかぶる事を決心したのだった。こいつはもう何年も苦しんできた。法は、この哀れな男を救えなかった。せめて俺達が、少しでもこの男に楽な人生を歩ませたい・・・。  煉瓦館の人々は、この事件を警察に通報せず、探偵を呼んだ。彼らでさえ聞いたことのある有名な探偵だ。いずれ本当のことを見付けてしまう前に、自分たちに目を向けることが出来るだろう・・・・・。  こうして二人は刃物を持って、草むらに潜んでいたのである。  二人の話を聞いてから、我々は二人の案内で、正平の家に行くことになった。とにかく、正平が埋めたという凶器を確かめなければならない。  吉野は気分が悪いというので、桜さんに付き添われて、煉瓦館に帰っていった。私達三人が正平の家に行くのを、最初桜さんは反対した。 「いいじゃねぇか。こっちの人数が四人もいれば、人殺しが暴れても、何とかなるだろうよ。」  鬼久智の意見に桜さんは、くれぐれも気をつけろ、と私達に言ってから、吉野に肩を貸して帰った。  実を言えば、私の心の中には、好奇心より、恐怖の方が強い。私達が会いにいくのは、殺人犯かもしれない男なのだ。引き返そうになる気持ちを押さえ付けるのは、小夜さんの悲しそうな姿だった。そうだ。真犯人を私達で捕まえて、圭伍氏の鼻をあかさなければ、煉瓦館の姉弟を救うことが出来ないのだ! 「正平、いるか?」  三郎が緊張した声を上げる。息を殺して待っていても、家の中からの反応はない。 「留守か、仕方ない、埋めたところとやらを掘り返そう。」  鬼久智の声に、私はひそかに胸を撫で下ろしていた。  家の前を通る。廃屋と聞いてもだれも疑わないだろう。  思わず私達は立ち止まってしまう。中からいびきが聞こえてきたのだ。正平は家の中にいるのだ!  声をかけようとした三郎を鬼久智は止めた。「まず先に、証拠を掴む。」  私達はそのまま、裏に回る。どうしても心配そうに、入り口や窓を覗き込んでしまう。籐次や三郎も、しきりと辺りに目を向けている。落ち着いているのは鬼久智だけだった。 立て掛けてあった道具と置いてあった板で、鬼久智と小杉が土を掘り返す。 「あったぞ。」  鬼久智がしゃがみこみ、手で砂をかきわける。  赤い。二人の話によれば、埋められてから三日はたっているはずだ。にもかかわらず、凶器を包む布は鮮血をにじませているかのように、生々しい赤をその表面に浮かび上がらせている。血液というのは、三日もこんな色を保てるのだろうか?  こたえは、否だ。たとえ土のなかにあろうとも、外気に触れた血液は短時間で凝固する。それに布の表面は土に触れ、絶対に変色するはずだ。この血は、いや包まれているものに付着する液体は、どこかがおかしい。 この布に付いている液体はなんなのだろう?  鬼久智が布の包みを掘り出し、地面の上で広げる。  「ずいぶんぼろぼろの布だな。」  大宮のつぶやきに、私もうなずく。血痕のついてない布の部分はまだ新しいように見える。それなのに、鬼久智が布を解こうとすると、腐食したかのように、ぼろぼろとはがれていってしまうのだ。 「穴の奥に、何かある。まだ何か埋まっているみたいだぞ。」 「本当か?」  穴を覗き込んでいた小杉の声に、鬼久智は立ち上がり、再び二人で穴を掘る。 「うわあっ!」  小杉が穴の淵に引っ繰り返り、板を投げ出す。 「どうしたんだ小杉!」  私の声に小杉が答える。 「何かやわらかいものが、板に当たった感触がしたんだ。」  気味の悪そうな小杉の声、私達も穴を覗き込むが、土に包まれていて、細部がはっきりしない。私の心に恐怖が連想を呼び込む。やわらかいものというのは肉ではないだろうか?正平は誰かを本当に殺して埋めたのではないだろうか? 「とにかく掘り出そう。」  鬼久智が促すと、小杉もうなずいて作業を再開する。私は小杉の度胸の良さにひそかに感心する。死体を掘り起こすなど私にはとても、出来ない。  人の背丈ほどもある、細長い穴が出来上がる。  その穴のなかに、奇妙な輪郭が浮かび上がっていた。表面は土にまみれていて全く何かわからない。 「蛇かな?」  籐次の声。たしかに一方が細く小さくなっていて、もう一方は人間の腕の太さになって、終わりまでつづいている。蛇だとしたら、これは首のない大蛇だ。これは、死体ではない。  とにかく持ち上げよう。ということになり、私達は穴の淵にたった。小杉が持ち上げるそれを穴の淵で受け取るのだ。  小杉がそれに手を差し込んだ瞬間、焼けるような音と共に、小杉がそれに手を触れた所から白煙が吹き出した。 「うわあああああああああっ!」  小杉の絶叫。それに差し込んでいた手を引きぬき、狂ったような勢いで、手の先を振りはじめる。 「おい、こいつはどうしちまったんだ?」  戸惑う鬼久智を突き飛ばすように大宮が穴に下りる。私もあわてて穴の淵に駆け寄る。「大丈夫か!小杉っ!」  うめき声を上げる小杉の手のひらから白煙があがっている。白煙をすかして、べったりとした黒いものが小杉の手のひらをおおっていた。  大宮がそれを見て私に目を向ける。顔が青ざめている。 「弓島、この傷は!」  私も大急ぎで小杉に掛けより、大宮が穴から小杉を引っ張るのを手伝う。 「淀橋の下の子供と、同じ症状だ。いそいで水で洗い流すんだ。」  何が起きたか分からないでぼんやりしている籐次と三郎を急かして案内させ、私達は井戸に急ぐ。駆け出す瞬間、私は思わず後ろをふりかえってしまう。 穴のなかにある物の、ちょうど小杉の手を当てた部分だけ、土が剥がれて、それの表面をあらわにしていた。 蛸のような吸盤、油のような光沢をもつ不気味な黒い表皮。それは間違いなく、淀橋の下にあらわれた、あの蛇のようなものの、死骸だった。  正平が殺したのは、妻や娘をさらった触手そのものだったのだ。  正平への嫌疑は晴れた。籐次と三郎は、その早とちりの犯行を悔い、鬼久智が二人の凶行については、許すと提案し、我々は賛成した。二人はを何度も頭を下げた。  これでこの出来事は、煉瓦館の事件とのつながりをなくしてしまった。  失望は無論あったが、煉瓦館に帰る私の心の中を覆うのは、恐怖だった。あの触手は三日前、切断されたものだ。しかし、私は今日の朝方、あれが川に沈むのを目撃している。ということは、あの不気味な生物は神田上水の暗い水のなかに、もう一匹潜んでいるのだ。いや、一匹だけなのだろうか?心のなかに川の淵いっぱいに無数の触手が、鰻のように身をこすり合わせる情景が浮かび、私の背中に冷たいものが走る。私は慌てて、その景色を頭のなかから追い払った。  それに、正平の家に埋まっていたあれは、切り取られていた。いったい、あの生き物の全身はどうなっているのだろう?  結局、小杉の悲鳴が上がった中でさえ、正平は目をさまさなかった。後で医者を呼ぶべきだ、と私が提案すると、籐次は走って行ってしまい、三郎は慌てて正平の家の中に入っていった。  小夜さんや岩波家の人に私達がいるのがばれないように、私達は煉瓦館の裏手から、こっそりと物陰を回り使用人たちが使う建物に入る。  私達は今夜、使用人たちが使っている建物の空いている部屋を使わせてもらうことになったのだ。その部屋を大宮と小杉が使い、私は桜さんの部屋に寝る事になったのである。 桜さんに頼み、火傷用の薬を持ってきてもらう。小杉の手のひらには、ただれた後が小さいながらも残っている。淀橋の子供の足と同じように、酸をかけたときの皮膚とよく似ている。  小杉の手に薬を塗り、包帯を巻きながら、桜さんとお互いの情報を交換する。  吉野は河辺で倒れてから、しばらくすると元気を取り戻し、熱心に使用人たちと話をはじめたそうだ。  反対に不気味なのは、対抗しているもう一人の探偵、神代だった。昼に姿を一度見せたきり、使用人のだれも彼を見ていないのだ。何をしているのかまるでわからない、奇妙な探偵だ。  圭伍氏と君子さんは、葬式の用意を手伝うわけでもなく、ぶらぶらとまわりを歩いては、部屋に戻るというのを繰り返していた。使用人たちの話によると、部屋の中からときどき口論のような声が聞こえたそうだ。それも声を高めているのは君子さんで、圭伍氏は謝ったり、取り繕ったりしているらしい。 「何でも『一体、探偵を雇うのに、いくらかかった・・・・』とか、『話が違う、私の出費はきちんと、倍になって返ってくるのか・・・・・』とか、とにかくすごい剣幕だったらしい。」 「それ、立ち聞きしてたんですか?」 「女中の話では、たまたま聞こえたそうだが、結構ドアから声は漏れていた。あの夫婦、隠し事は苦手な性格なんだろう。」  結局、鬼久智と吉野ー亀田探偵事務所の方は我々とほとんど同じような情報しか得てないらしい。神代の方は不気味極まりないが、神様でもなし、そう簡単に犯人を見付けられるとは思えない。圭伍夫妻はまだ有利な立場に立ってはいないだろう。  触手の話は、桜さんを驚かせた。顔色が変わったのがわかるほどだ。しかし具体的なことは、私達に何も教えてくれなかった。自分は三年前から書生としているので、土地の古いことはわからないという。桜さんの表情はそれ以上のことがあることを物語っているように感じたのだが・・・・・。  夕食も、桜さんたちに運んできてもらった。使用人の人たちはみな親切で、私達は頭を下げどおしであった。  色々な人に迷惑をかけてしまうが、どうしても私は、鉄之進氏の死の真相を突き止めたい。小夜さんを助けるのだ。  夕食後、桜さんの部屋に小五郎が来た。  頬が上気している。走ってきたのも原因の一つだろうが、興奮しているのがよくわかる表情だ。 「どうした、小五郎?」  思わず心配な響きが交じってしまう。まさか、探偵たちが犯人をすでに見つけてしまったのだろうか・・・。  私の問いに、小五郎の答えは笑顔だった。「先輩方、桜さん、聞いてください、誠治伯父さんが・・・・・。」  それは夕食のことだった。昨日は色々なことがあったが、今日は久しぶりに圭伍氏が帰ってきたこともあって、岩波家の一族と、招かれた探偵たちは、大テーブルのある部屋で食事をする事になった。  主人が座る席には民さんに付き添われて誠治氏が座った。最初、圭伍氏はそのことが不満らしかったが、酒が入るにつれ上機嫌になり、向かいの探偵たちに話しかけはじめた。 鬼久智と吉野は明らかに洋式の食事に慣れておらず、居心地が悪そうだった。  圭伍氏に話しかけられると、答えようとする吉野を押さえて、 「ええ、まあまあですよ。」鬼久智が答える。「まあまあというのはどのくらいなんだ?犯人の目星はついたのか?」口に物をつめたまま横柄な口調で圭伍氏は追求する。  吉野が不満そうな視線を向けたが、鬼久智はあくまでにこやかだった。 「一日ではそんなことまで分からないですよ。しかし我々は迅速、正確が売り物ですからね。もう少し、待ってください。」  こう言われては圭伍氏も何も言えず、もう一人の探偵に話を向ける。 「まだ、正確な情報が足りないですな。」  神代の答えはそっけない。会話を打ち切るような冷たい声だ。  場を取り繕おうと圭伍氏は口を開きかけ、止まってしまう。妻の君子が、激しい怒りをこめて自分を見ていることに気付いたのだ。「民・・・・今日は気分が・・・良い・・・・自分で・・・食べら・・れる。」  その場のすべての人たちの視線が声の主に集中した。フォークはかすかに震えているが、なめらかな動作で料理を口に運ぶ誠治氏に。小五郎は驚いていた。誠治氏が言葉を話すのを彼は初めて聞いたのだった。何も言えないまま小夜さんを見る。小夜さんは全てがわかっているかのように優しく微笑み、小さく頷いた。  圭伍夫妻の表情は小五郎の心のなかに笑みを浮かべるのに十分なものだった。夫妻にとって誠治氏が正常であるというのは明らかに予測していなかった事態であったのだ。 「・・圭伍・・・さん・・・。」  かすれた声が名を呼ぶと、圭伍氏はかすかに青くなった顔のまま誠治氏の方へ首を曲げた。 「なんですか、誠治さん?」 「圭伍さん・・・今回は・・・色々と・・私達を助けていただいて・・・これからも・・・岩波家の一員として、小五郎を立派な当主とするよう・・・お願いします・・。」  圭伍氏の手から、フォークが落ちた。鉄之進氏の死による彼の岩波家乗っ取りの計画を、誠治氏は否定したのである。  本来、誠治氏の体が正常だったのなら岩波家当主は鉄之進氏ではなく、誠治氏であった。病の苦しげな吐息交じりながらも、その誠治氏から岩波家の次期当主を宣言されては、圭伍氏に勝ち目はない。  突然起きた物音に、緊張した空気はかき消された。 「君子!」  力のない圭伍氏の声を背中に浴びて、圭伍の妻、君子は唐突に席を立ち、部屋から出ていった。しばらく席を立ったまま迷っていた圭伍氏も慌てて彼女を追いかける。 「・・小・・五郎・・。」  奇妙な食事が終わり、探偵たちが部屋を出ていくと、小五郎は生まれて初めて自分の名を伯父に呼ばれた。 「小五郎・・・おまえは養子だが・・・・何も引け目を感じることはない・・・おまえは鉄之進の息子・・・立派な岩波家の・・当主だ。」 「はい!」元気な小五郎の返事に、誠治氏の口元に微笑が浮かんだ。 「小五郎。」姉が肩に手を置く、小夜さんの目は涙で潤んでいる。悲しみではない、誇らしげな、歓喜の涙が小夜さんの頬を伝わる。 小五郎は力強く、姉にうなずいた。   「誠治伯父さんは、以前から父の相談役をしていたんだそうです。ただこの五年くらいはお体を壊されて、話すだけでもお体に障るために、ああいった感じになってしまって・・・・。」 「ぼくも知らなかったよ。申し訳ないんだが、誠治さんはもう話すことも出来ないとばかり・・。実際、鉄之進さんのお手伝いを三年もしていたのに、分からなかった。」  桜さんも頭をかく。小五郎は養子にもらわれて、すぐに私達の寮に住むようになっている。圭伍氏は兼代さんと結婚してしばらくいたのだが、前妻が亡くなってからは、色々な所に旅行に行って、煉瓦館に長い間いたことがない。誠治氏の正確な体の状態は、姪の小夜さん、女中頭の民、弟の鉄之進氏しか知らなかったわけだ。 「でも、誠治さんが後ろ盾になってくれるんだったら、圭伍氏が企んでいたことはご破算になるんだろ?煉瓦館新当主、岩波小五郎ってわけだ。」  大宮が軽口を飛ばし、私と小杉は同意の笑い声を上げる。笑いながらも、しかし、私の心は複雑であった。これで今回の事件で圭伍氏が岩波家を乗っ取る可能性はなくなった。つまり私達のいる理由が、小夜さんの側にいる理由がなくなってしまうのだ。それは喜ばしい状況とは他の、私にとって憂うべき事態だった。 「やめてください!」  思ってもみない、強い調子の小五郎の声に私達の笑い声はかき消された。 「すいません・・・・大きな声をだしてしまって・・・・・。でも、ぼくが岩波家を継ぐなんて、二の次なんです。問題は父の死因です。ぼくは伯父さんが企んでいたことなんかより、父の死の真相を調べたいんです。」  小五郎がうつむいたまま、絞りだすように声をだす。膝のうえにのっている拳の上に、涙が落ちる。  私の心に恥ずかしさが込み上げる。自分の父親が死んだという小五郎に私はなんと無頓着だったのだろう。不謹慎だ。こんな状況にありながら、小夜さんに近付くことを計算していたなんて・・・・・。私は自分のあまりに利己的な姿への嫌悪に、うつむく小五郎にかける言葉を失っていた。 「そうだよな、何のために俺達がおまえを手伝っているんだか・・・すまん、小五郎。」 大宮の気持ちの良いはっきりした謝り方が、私の心の罪悪感も軽くしてくれた。  私達は、夜遅くまで情報を出しあい、話し合った。   今までで分かったことは、 一・鉄之進氏は刃物のような凶器で胸を刺され、それが致命傷になった。即死ではなく、そのことを隠すように医者や小夜さんに伝えている。原因は不明だし、凶器も見つかっていない。 二・鉄之進氏が倒れていたのを発見したのは庭師の康介さんである。事件のショックか、康介さんの意識は未だ戻らず話を聞くことが出来ない。また、その場所に落ちていた薬も正体が分からない。劇薬と思われるのだが、吉野が割ってしまい、調べることが出来なかったのだ。 三・神田上水の中、もしくは淀橋の近くにはなにかがいる。正平が切ったのは、川のなかに二匹以上いるあれのうちの一匹か、巨大な生物の一部か確かめるすべもない。康介さんの言う”蛸”なのか、付近の住民が言う中野長者との関係は本当にがあるのか、鉄之進氏とはどうなのだろう。  結論は出ず、犯人に関することは未だ何も分からなかった。小五郎はこっそりと煉瓦館に帰り、小杉と大宮も自分たちの部屋に帰った。私が布団に入り桜さんは電灯を消した。  寝返りをうつと横になった桜さんが暗やみのなか、かすかに見える。  あの触手と中野長者の話のとき、桜さんの仕草がちょっと気になった。態度が不自然に思えたのだ。なにかを隠しているかのようだった。他の話題に比べ、桜さんが早く話を切り上げようとしていた。正平が見たという、鉄之進氏と、触手の話の時などはっきりと顔色が変わっていた。ひょっとしたら、身内の小五郎には知らせたくないなにかを知っているのかもしれない。 「あの・・・・桜さん?」  私が声をかけたとき、桜さんがむくりと起き上がった。 「弓島くん、聞こえるかい?ドアの向こうに誰かが・・・いる。」  私は驚いて耳を澄ませた。いる。ドアの向こうからかすかな押さえたすすり泣きが漏れていた。 「だれかいるのかい?その声は・・・文ちゃんかい?」  桜さんの声に、すすり泣いていた人物は動揺したようだった。慌て気味に立ち去ろうとするのを、桜さんは素早くドアを開け、止める。  そこに立っていた文という名の女の子に私も見覚えがあった。確か煉瓦館で働いている人たちのなかで一番若い人だ。若いというより、十四歳。私や小五郎より年下なのだから幼いというのがぴったりくる。昼間は結ってあった髪をいまは降ろしていて、簡素な寝巻を来ているのがもっと小さな女の子のように見せている。  文の目には涙があふれ、真っ赤になっている。桜さんの部屋の前にくる以前から泣き続けていたのだろう。      「どうしたんだい、こんなに遅くに?」  桜さんを見上げていた文の顔がくしゃくしゃになって、涙が落ちる。座り込んで声を上げて泣きはじめてしまう。 「ちょっと、文ちゃん?ともかく部屋のなかに入りなさい。」  優しく桜さんは文を立たせ、肩をささえて部屋へ入れる。 「桜さん、あたし・・あたし・・・・」 「どうしたんだい、文ちゃん。なにかあったの?」 「あたしが、旦那様を殺してしまったの、旦那さまが死んでしまったのはあたしのせいだったのよ!」  突然、文が立ち上がり叫びだす。桜さんは慌てて文の口をふさぐ。 「そんなに大きな声をだしたら他の人を起こしてしまうよ。ともかく僕達に何があったのかだけ話してくれ。」  文はしばらく激しく動き、桜さんの手から逃れようとしていた。桜さんは何度も彼女の名を呼んだ。 「文ちゃん、落ち着いて。きみは旦那さまが死んだことの何かを知っているんだね。文ちゃんが旦那様を殺したというのはちょっと分からない。何があったか話してくれ。」  文が桜さんの目を見つめ、桜さんがうなずくと、文は体を落ち着かせた。桜さんが静かに文の口から手を放す。 「あたしが民さんに言われて、誠治さまの所からお食事をすまされた食器をを運んでいたときでした・・・。」  それは三日前、私達三人が初めて煉瓦館に訪れた日の晩のこと。  文が誠治氏の食事をすませた食器を乗せた盆を運んでいるときであった。  煉瓦館には所々の廊下に電灯がついている最新建築だったが、どうしても長い廊下の奥には暗いところが出来る。電灯のまわりが明るいだけ、そういったところはまるで黒い雲が湧き出ているような不気味な闇になってしまうように見える。離れへの入り口には電灯がついていたが、その先にはしばらくない。 文は早足になりかける足を必死になだめ、闇にむかう。  と、その時であった。  文の耳に小さな、押し殺した声が聞こえてきたのだ。 「おやめください・・・お父・・さま。」  文は思わず立ち止まってしまった。ちょうど廊下の丁字になっている所から漏れてくる声は、間違いなく男と女のものであった。暗闇のなかから漏れる、声を殺した男女の声。文の好奇心はいやが上でも高まり、結果として曲がり角に隠れることになってしまった。 心臓の音が自分の耳に聞こえる。呼吸を細くして、背中を壁に押しつける。 「父などと・・・私はおまえの父ではない。小夜・・・二人きりの時でさえ、おまえは私を父と呼ぶのか。」 「そんな・・・・。」  二人の人間が動く気配に、文は角から少し顔をだす。  そこには、自分の娘の手を握り、引き寄せようとする主人の姿があった。  驚きに動いた盆が、壁にあたって音を立ててしまう。 「誰かいるのか。」  鉄之進氏が歩いてくる気配に、文は思わずしゃがみこんでしまう。盆が床に落ち、派手な音を立てる。 「申し訳ございません!」  怖くて文は鉄之進氏の顔を見ることが出来ない。廊下に這いつくばって頭を下げる。 「顔を上げて、文。」  鉄之進氏の言葉は、予想に反して優しげな感情がこもっていた。 「すまないな、驚かせてしまったようだ。食器のことは料理長の亀山にいっておこう。」「はっはい!すいません。」 「怯えさせてしまったな・・・・別に気にすることはないんだよ。私にだって隠しておきたいことはあるんだ。しかし文、すまないがいま見たことは、内緒にしておいてくれないか?」  鉄之進氏は文が割れた食器を片付けるのを手伝ってくれた。文は深く頭を下げ小走りに厨房へむかう。文には一度も鉄之進氏の顔をまともに見ることが出来なかった。 「まっまさか・・・・・」  思わず口から言葉が漏れる。小夜さんと、鉄之進氏が・・・密会だって?頭が混乱してくる。そんな・・・・。  質問をぶつけようと身を乗り出したところを、桜さんに肩を押さえられる。文が私を怯えの目で見ているのに気付き、自制する。 「文ちゃんは、旦那様がそのことを見られたから、他の人たちに知られるのが怖いから自殺した・・・というんだね。」  文は小さくうなずいた。 「昼に話をしていた吉野という探偵が言っていました、自殺の可能性もあるって。」  語尾に嗚咽が交じる。桜さんはしばらく考えていたが、文の肩をたたき、微笑んだ。 「文ちゃん。それは考えすぎだよ。たしかに旦那様は優しい方だけど、文ちゃんとの関係はあくまで使用人と主人だ。自殺を考えるほどの醜聞だと判断したのなら、文ちゃんをやめさせてしまうだろう。鉄之進さんは優しいけれど愚かじゃない。そんな理由で、自殺をするような人じゃない。」  文の涙に濡れた顔が上がる。その顔に力強く桜さんはうなずく。文は桜さんに童女のようにしがみつき、泣きじゃくった。  しばらくすると、文の嗚咽はいつしか小さな寝息に変わっていた。桜さんは、少女の体を抱え上げ、彼女の部屋に運んでいった。私も手伝い、蝋燭を持って廊下を歩く。 「弓島くん。文ちゃんの話、どう思う?」  歩きながら桜さんは私に問い掛ける。  私は答えを咄嗟にだせず、困ってしまう。「文ちゃんの話に出てきた。『私はおまえの父ではない』というのはどういうことなんだろう。」  文の話を聞いて、そこが引っ掛かっていたところだったのだ。小五郎は養子だ、しかし小夜さんは正真正銘の娘のはずだ。 「かといってこの事を誰かに聞いて確かめるということは出来ない。文ちゃんにも迷惑がかかるしね。しばらくは僕も弓島くんも他言無用としておこう。」  秘密を持ってしまったということだ。今歩いている三人が持っていると考えれば心の負担はそんなに重いものではない。しかし、桜さんの腕のなかで寝息を立てている私よりも年下の少女は、二日間も誰にも言えず一人でこの秘密を持っていたのだ。  文は今、安らかな顔で眠っている。秘密を打ち明けて、心の重みがとれたのだろう。手はしっかりと、桜さんの着物の端を掴んでいた。その赤みのさした頬が桜さんへの信頼を表しているようだ。秘密が絶え切れず桜さんだけに打ち明けた少女の思いを桜さんは分かっているんだろうか。  文を送り届けた後は、二人ともあまり言葉をかわさず、布団に潜った。私はなかなか眠ることが出来なかった。  浅い眠りが生む夢の中で、真っ黒な男と口付けをする小夜さんの幻影が私を苦しめた。  悪夢はいつか終わっていた。  今の夢は素晴らしい、美しい夢だった。  暖かな光が、空気を光らせている。その中心には、光をにじませ、ひときわ輝く小夜さんの顔があった。まるで西洋の宗教画の聖母のように、光をまとい、優しく輝いていた。 ふっとそれが遠くなる。私は必死の思いで小夜さんに手をのばす。届かない、体が水のなかにいるようにもどかしい。力一杯起き上がる。 「弓島、起きろよ。弓島!」  幻影が消え、視界が晴れる。しかし手をのばした先の小夜さんは消えなかった。  現状が把握できずまわりを見回す。桜さんの部屋だ。間違いない。どうして小夜さんがいるんだ? 「弓島!いい加減に目を覚ませよ。」  声の方を見る。小夜さんの後に、小五郎と、大宮、小杉、桜さんがいる。  小夜さんの肩が震えている。笑いをこらえているのだ。顔を隠した袖からのぞく小夜さんの視線の先にあるものは、のばしたままの私の手だ。  私は慌てて手を布団のなかに引っ込める。顔が赤くなるのが自分でも分かる。それを見て小夜さんがおかしそうに目を伏せる。さらに顔の温度が上がった。悪循環だ。 「すいません、先輩方。つい口が滑っちゃって・・・・。」 「小五郎。」すまなそうに言葉を漏らした小五郎に、小夜さんは強い調子でその名を呼ぶ。しかしどうしても笑いの余波で語尾が震えてしまう。  小夜さんは咳払いをひとつして、私達に目を向ける。私もベットから立ち、直立不動の姿勢をしている四人に加わってしまう。 「どうもすいませんでした!」  突然大宮が、頭を下げる。 「小夜さんをだますつもりはなかったんです。ただ、どうしても鉄之進さんの死が、圭伍さんの言ったような事かを確かめたかったんです。僕達は子供ですし、部外者です。こんなことをお願いするのは図々しいことは分かります。しかし、お願いします。もう少しだけ煉瓦館にいさせてください。下働きでもなんでもします!」  小五郎を含め、私達は大宮にならって頭を下げる。小夜さんの顔に困惑の表情が浮かび私の心に小さな罪悪感が生まれた。しかし、今は頭を下げるしかない。真実を知りたいと願う小五郎に、私は今やどんなことがあっても協力したかったのだ。  小夜さんが何かを言おうとした時、 「きゃあああああああああっ!」  私達の耳に、女性の悲鳴が飛び込んできたのだった。 「煉瓦館の方だ!」  桜さんが走りだす。私は慌てて皆の後を追った。  煉瓦館の入り口のところで、私達は走ってくる文に会った。 「文ちゃん、一体どうしたんだい?」 「桜さん、君子さまが倒れたんです。」 「圭伍さんの奥さんが?さっきの悲鳴も君子さんのものかい?」 「はい。今は探偵さんと圭伍さまでお部屋の方へ運んでいます。私はこれからお医者さまを呼びに。」  煉瓦館の庭の方でクラクションが鳴る。喜助がベンツに乗って待っているのだ。  文が小走りに車へ急ぐ、私達は煉瓦館の二階にある圭伍夫妻の部屋へ行く。 「君子、君子っ!」  ひきっつた圭伍氏の声。  階段の向かいにある凝った意匠の入り口の扉から、広い洋間の続きに、二人の寝室があるようだった。声は、そこから流れてくる。 鬼久智と吉野が寝室の入り口に立っていた。大きいベットだ。圭伍夫妻が使っているベッドは大人が四人寝れるほどの広いベットだった。ベッドをささえる四本の木の柱には精巧な彫刻が施されている。 「弓島とか言ったよな?医者の甥。君子さんの様態、分かるかい?」  鬼久智の言葉に圭伍氏が私を見る。妻の腕を取っていた手を離し、私の方ににじり寄ってくる。鬼気迫る迫力で、怖い。 「ほ、本当か?妻は、君子は助かるんだろうな、え、おい!」  とにかく君子さんの手を取り、脈をみる。首の動脈に触れ、確認する。口に手を当てて、呼吸も調べる。 「気絶しているみたいですね。一体どうしたんですか。」 「倒れていたんだ・・・・・誠治さんの離れに続くところで。部屋の外の君子さんの悲鳴に、驚いて民さんが離れの入り口を開けると、そこに白目をむいて倒れていたらしい。それからすぐに俺と吉野の二人で、この部屋に運んだんだ。」  私を含めた全員の目が圭伍氏に向く。君子さんが一人で誠治さんの部屋にいくなどということがあるんだろうか?圭伍氏はその時何をしていたんだ?その疑問が視線になってしまうのだ。 「わ、私は何も知らん。朝早くに妻は部屋を出ていったんだ。」 「出ていったというのはおかしいですね。君子さんはどちらかお出かけでもなさるつもりだったんですか?」  大宮の何気ない質問に、圭伍氏の顔色が激昂へと変わった。 「医者が来るまでそうしているつもりか?心配してくれるのは有り難いんだが、出ていってくれ!妻の行動の理由が、この症状の原因だというのでもあるまいし、君達には関係のないことだろう!」  圭伍氏の剣幕に押されるかのように私達は部屋の外へ出る。  奇妙だ。大宮の一言に関する反応や、いつもは妻に支えられるようにしていた圭伍氏が君子さんが倒れていた理由を知らないなんて、どこかがおかしい。  君子さんの一件で、小夜さんが私達を叱る時期を逃してしまったのは幸運だった。ともかく朝食をとるということになり、私達は階段を下りる。  背中を何かにひっぱられる。振り向いた私に鬼久智は微笑を向けると、ついてこい、というように親指を立てて手を振った。  眉が寄り、怪訝な表情になりながらも私は鬼久智についてゆく。  煉瓦館の客室は二階に四つある。圭伍夫妻の隣の部屋とその向かいが私達が昨日まで使わせてもらった部屋だ。その奥の部屋の扉に鬼久智は入っていく。現在の探偵用の自室というわけだ。私も続いて部屋に入る。 「圭伍さんがあんな態度を取った理由。知りたくないか?」  部屋に入って問い掛けようとした瞬間、鬼久智が悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。 「し、知ってるんですか?」 「圭伍氏と君子さんは朝早くに口論をしてたんだ。その声で思わず目が覚めちまうくらいの、口喧嘩だ。まあ内容は『探偵を雇ったが、ちっともあんたの言うとおりに煉瓦館の財産がこっちに転がるように見えない』とか、『探偵を二人も雇って一日にいくらかかる』とか、一方的に奥さんが金切り声を上げていて、旦那の方は弁解ばかりを繰り返していた。俺はおもしろくなってずうっと聞いていたんだが、しばらくすると君子さんの声の調子が変わりはじめた。何と言ったと思う?」  いきなりの質問に、返答に窮している私ににやりと鬼久智は笑いかける。 「あの奥さん、いきなり『そういえば煉瓦館には男は一人じゃなかった・・・』と言いはじめて、『このままあんたについているよりも、誠治さんが正常だと分かった今、乗り換えるのも悪くない』信じられるかい?旦那の目の前でだぜ。とんでもない女だよ。君子さんはよ。」 「そ、それが誠治さんの離れの前で倒れていた理由ですか?」  いくぶん気の抜けたような声になるの押さえられない。 「いささか短絡的だが、たぶん。旦那への面当てもあっただろうが・・・。そういう理由があったとすれば、大宮の台詞にあそこまで旦那が怒ったのも説明がつく。まあ旦那は旦那であの看病ぶり、ベタ惚れというやつだな。あの夫にしてあの妻ありだ。」  鬼久智は心底おかしいように、声を低めながらも全身で笑う。どうしてそんなことを私に教えてくれるのだろう?私の視線に気付いたのか笑うのをやめて鬼久智が言う。 「どうしてあんたにこんなことを言ったのか不思議そうだな。昨日、武に注意して薬の名前を教えてくれただろう、もしあんたが教えなかったら俺か武が舐めていたかもしれん。その礼だと思ってくれればいい。仕事は別として、あんたたちに肩入れをしてやりたいという気持ちもないわけじゃない。亀田の親父さんに教わった中には依頼人は絶対というのは入っていなかったしな。」 「君子さんはどうして倒れてしまったんでしょうか?」 「今はまだわからねぇ。しかし運んでいたとき顔を覗き込んでみたが、ありゃあ何か物凄く怖いものを見て失神したという顔だな。前にもあんな表情を浮かべて倒れていた奴を知っているよ。」  鬼久智の言葉で私の頭のなかに、康介さんの狂態が浮かんだ。しかしそのことを鬼久智には話さなかった。私は礼をいい鬼久智達の部屋から皆の待つ食堂へ歩く。薬の礼、と鬼久智は言った。これでお互いに借りはない。私の情報を鬼久智が知っていなければ、私達が犯人を見付けるのに少し有利なはずだ。   朝食が終わり、小夜さんの言葉で私達は再び、煉瓦館の客として、鉄之進氏の葬儀が終わるまでいさせてもらうことになった。  大宮の提案で、私達は鉄之進氏の通夜の準備を手伝うことになった。昨日使用人たちと交じって寝食をともにしていたことで、私達と使用人の間に気兼ねが少なくなっていて、ぎくしゃくせずに仕事を頼まれ、こなしていくことが出来たのは幸運だった。  驚いたのは、煉瓦館に日本間があるということだった。 「固い軍人さんや、珍し物好きの外人の客のために使っているそうだ。あの料理長普段はコック帽などかぶっているが、日本の本格的な料理の方もなかなかだということだよ。」 使用人たちに聞いた話を自信満々に、早速大宮は披露する。  日本間は広い部屋だった。煉瓦館の裏手になっていて、川へ続く道からは、誠治氏の離れに隠れて見えないところにある。煉瓦館にくっついた異世界だ。夏の陽光は、匂うような青さの竹にさえぎられ、冷たい美しさとなって、開け放たれた障子の向こうに広がっている。  縁側の木の黒く塗られ、敷き詰められた玉砂利と対比して互いを際立たせている。茶会を開いて自慢しそうな庭園風に造られた庭。小さな池には鯉まで泳いでいる。  白い布が敷かれ、白木の棺桶が主人を待って置かれている。静かな日本間が、その雰囲気を残したまま通夜の場所へと変わっていくのだ。まわりに飾られた色とりどりの花も、かえって淋しい印象を強めるばかりだ。  私は以前、曾祖父の葬式に立ち合ったことがある。幼かったことなのでかすかにしか記憶はないが、会葬者の数に驚いて騒いだのを母にたしなめられたことを覚えている。  地主の隠居だった曾祖父の会葬者でさえかなりの数だったのだから、煉瓦館の主人の場合など、どれだけの人が集まるのだろうか? しかしそれにしてはおかしい。使用人たちはあたふたと動き回っているし、私達も色々なものを運んでいるのだが、出来ていく所はあまりに小さく、静かなものなのだ。会葬者たちが座る場所も用意されていない。  私達の仕事が一段落し、私と大宮、弓島はその間に昼食を取ることになった。先に食事をしている数人の中から桜さんを見付け、私は疑問を桜さんに尋ねてみた。 「このお葬式は世間にはまだ発表しない、身内のものだけの、仮のものなんだ。鉄之進さんの遺言でね。あの日までは正式なものはやらないということなんだそうだ。」 「あの日?そういえば昨日圭伍さんもそんなことを言っていましたね。一体あの日というのは何なんですか。」  大宮の質問が、食堂の雰囲気を一瞬にしてかえてしまったようだった。  食器の触れ合う音、食堂にいる人たちの会話、料理人たちが立てていた音までが一瞬にして止んでしまったのだ。  私や大宮、小杉は驚いて周りを見回す。私達と桜さんが話していた時には気にならなかった周囲の音。食堂にいる人たち全員が今は息をひそめ、こちらを見ている。この人たちは何気ないふうを装いながらも私達に注意を向けていたのだ。  私と目があった使用人の何人かは慌てて目を離し、止まった動作を再開する。注意は明らかにこちらに向けたままの、不自然な行動だ。  重苦しい静寂がしばらく続くにつれ、私は周囲の人たちの視線が微妙に私達をずれていることに気付く。沈黙をもたらした大宮も突き抜けて、使用人たちの視線は桜さんに注目していたのだった。  桜さんがスプーンを皿に置く音が、やけに大きく食堂に響いた。  スプーンを離した桜さんの手は固く拳を握り、よほど力を入れているのか細かく震えている。顔はうつむいたまま、どんな表情を浮かべているのか私には見えなかった。 「小夜さんの結婚式が一ヵ月後にあるんだ・・・・。」  食いしばった歯から苦しげに、その言葉は桜さんの口から吐き出された。  小夜さんが結婚?私の頭に桜さんの言葉が何度も反響する。恋する男の直感だろうか、桜さんの言葉の中に私は初めて桜さんのなかの小夜さんの想いに気が付いた。その想いに私の心に嫉妬の感情が頭を持ち上げたが、それ以上に今は、桜さんの語った内容が私の心を打ちのめしていた。 「結婚式?そんな・・・それが鉄之進さんのお葬式をのばす理由なんですか?」  堅物の小杉が、心底意外そうな声で問う。「岩波家にとって絶対に必要なものだと、ご主人は言っていた。旧い占いで決められたその日を動かすわけにはいかないんだ。親族の葬式があってから一ヵ月後に結婚式をするのは相手の家と岩波家の体裁が悪い。しかし、逆なら。結婚式の後に葬式をすれば、旦那様が亡くなったことにすれば問題はない。それで今は、身内だけで仮の葬式をしてしまうんだ。」  つらそうに、本当につらそうに桜さんは言い終えた。  結婚はおそらく、桜さんだけではなく、使用人たちや、小夜さんにさえも不本意なものなのだ。そして使用人たちが望み、桜さんが望んでいるのは・・・・・。使用人たちの桜さんを見る目に浮かんだ同情がすべてを物語っていた。  私のなかに狂おしい衝動が渦巻いていた。今すぐにも、小夜さんの所にいって真実を問いただしたい。そして、小夜さんは本当に望んで結婚するのかを聞きたい。そして、そして・・・・・・。  そしてどうなるというのだろう。私には何も出来なかった。走りだすことも、席を立つことすら・・・。小夜さんに真実を聞くことは出来るだろう。勇気を奮い起こせば自分の小夜さんへの想いさえも彼女にぶつけることだってやってみせる。しかし、それでどうなるというのだろう?駈け落ち?彼女がそんなことを望むのだろうか。桜さんにさえだせない答えが私に与えられるはずがない。  小夜さんの結婚と桜さんの想いを知ってしまってから、私の桜さんを見る目にはわずかな敵意がこもるようになった。勝ち目のない嫉妬と、更にどうしようもない状況を認識していても、その感情は消えなかった。    それ以上食事に箸をつけることも出来ず、私は自分の部屋に戻った。何気なく小夜さんの結婚の話ができる大宮と小杉、食堂の雰囲気、桜さんが出ていってしまった後の空席、すべてが私の心を刺激していたたまれなくなってしまい、逃げるように出てきたのだ。  ベットに腰掛けると思わずため息が出る。ノックの音に顔を上げる。ドアを開けた私の前には小五郎が立っていた。 「弓島さん、聞いてください。大変な事が分かったんですよ!」  小五郎の息は早く、頬が赤い。興奮のあまり、私の状態が目に入っていないようだ。  一人にしておいてもらいたいのが本音だったのだが、そうもいかず、私は一瞬ためらった。  小五郎はそれを了解と取ったらしい。 「父の日記なんですよ。父さんは毎日日記を書いていたらしいんです。皮の装丁に、羽ペンで書いていたようですが、それがなくなっているんだそうです。」 「本当かい?」  小五郎の発見は私のふさぎ込んだ私の心のわずかに残った好奇心を刺激した。鉄之進さんの日記がなくなっている?。 「それは、いつごろからなくなっているんだい。」 「女中の一人から聞いた話なんですよ。彼女はいつも父の書斎を掃除しているんですが、今日父の書斎の日記だけがなくなっていることに気付いたそうなんです。昨日のことは彼 女は分からないといっていました。色々あったので彼女は昨日は父の書斎には入っていないということでした。」  私はいったん小五郎に話をやめさせて、小杉と大宮を呼び、四人でこの問題を話し合った。小夜さんの結婚の話で、私が落ち込んでいるのを皆に悟らせたくなかったのだ。 「でもちょっと待てよ、その日記を持っていったのは探偵ということも考えられるぜ。」 大宮の言葉に私は初めてその可能性があることに気が付いた。 「探偵に聞いて確かめてみるのがいいだろう。それで探偵にも日記がなくなっている事実が知られてしまうのはしょうがない。」  小杉が提案し、私達は納得をした。しかし、私には探偵が日記を持ちだした確率は低いような気がしていた。探偵ではないとしたら隠された日記には、鉄之進氏の死に関する何かが書かれているという事になる。日記の場所を知っているなどというのは部外者ではありえない。つまりこの煉瓦館のなかに、鉄之進氏を殺した犯人か、共犯者がいることになるのだ。 「ともかく桜さんにも、相談してみます。」 部屋から出る時に何気なく言った小五郎の一言が私の心に小さな痛みを生じさせた。  小五郎たちが立ち去ってから、しばらくして使用人の一人が私を呼びにきた。その頃には私のふさぎ込んでいた心もようやく上を向いてきていた。こうしている間にも、探偵たちは事件の解明のために動き回っている。小五郎や小杉達もだ。私一人が動かずみんなに非難されれば、小夜さんに軽蔑されてしまうかもしれない。桜さんに勝てないというわけだ。  使用人の話だと、布団を敷くのを手伝ってほしいということだ。  そのことを聞いた私は奇妙な感覚を覚えた。煉瓦館に布団があるのだろうか。住人のベットは言うに及ばず、客間や、使用人たちが寝る部屋にさえ、ベットを使っているのである。 「喜助さん親子や、民さんはお布団でお休みになっていますよ。」     そういえば、康介さんは布団で寝ていた。 私はベットの寝心地というのは珍しく、面白いと感じたが、やはり毎日寝るならば布団がいい。  一緒に働いている使用人も最初は落ち着かなかったが、今では暇をもらって故郷で布団に寝ると、寝付きが悪くなるほどベットに慣れてしまったという話だ。  布団が敷きおわる。豪奢な模様の入った大きな布団が二組。 「だれがここに寝るんですか?」  敷く前から思っていた疑問を口にだす。布団を敷いた部屋は襖を隔てて鉄之進さんの棺桶を置く場所なのだ。つまり、通夜や葬式を行なう場所である。こんな所に寝るのは誰なのだろう。 「鉄之進さんと、小五郎さんなんですよ。」 いくぶん声を低めて年増の使用人がこたえた。 「え?死んだ人と一緒に寝るんですか?布団で?」  私の声は思わず大きくなってしまっていた。使用人は慌てて辺りを見回し指を口に当てた。 「岩波家の儀式だそうです。当主の遺志を受け継ぐために、次期当主が死んだ人の隣の布団で眠る。家族のものたちは寝ずに隣の部屋で待っているのです。他の人を呼ぶ場合には、もう一晩、知り合いを呼んでこちらは普通の通夜をするんだそうです。」  その話を聞いて、私の背中は冷たくなった。田舎に限らす、古い家というものは独特の慣例や、儀式があるものだ。しかし、死んだ人と寝るというのはどういう気持ちなのだろう。生きているときには立派な方だったけれども、自分の父親と考えても、隣に息一つしない人と、真っ暗な部屋にいるというのはすごいことだと思う。  鉄之進さんと一緒に寝る?不意に私の想像は止まった。つまり死因を調べられるというわけだ。小五郎が寝ている部屋に私を通してくれればいい。気味は悪いが、それで医者の言っていた、刃物による傷が致命傷だったのかも分かる。ほかにも分かることがあるかもしれない。  そう考えると矢も盾もたまらなくなった。無理に口実を作って部屋を出て、小五郎を探す。 「弓島君、どうしたんだい?」  桜さんに呼び止められ、私はふりかえる。「小五郎君を見ませんでしたか?」 「僕は今まで外にいたから分からないけど・・・。ずいぶん慌てているね。何かあったのかい?」  私はさっき思いついたことを桜さんに伝えた。いくぶん自慢気味だったのは否定できない。桜さんの感心する顔を見ることができれば気持ちがいいだろう。  しかし予想は外れた。私の話を聞きはじめた頃から桜さんの額にはしわが刻まれ、目は伏せられていった。 「弓島くん、そんなことをしてはいけないよ。たしかにそうすれば有力な手がかりは見つかるかもしれない。でもそれは駄目だ。今日の通夜は岩波家の神聖な儀式なんだ。それにたとえ友達の君といっても、他の人の手で自分の父親の死体を調べるところを小五郎君に見せるわけにはいけない。それは冒涜的でいけないことなんだよ。僕達は警察じゃない。人には踏み込んでいいことといけないことがあるんだ。」  桜さんに言われて、初めて自分の愚かさに気付いた。自分がいかに舞い上がっていたのか、冷静になって初めて実感できた。自分の父親の体が他人に検分されるなんて、自分の身になって見ればとても見たくない、むごたらしい情景だというのが分かる。それを小五郎に強要させようとしていたのだ。  うなだれて、桜さんに誤りながら感謝する。もし桜さんに注意されなかったら、私は小五郎になんてひどい事をしていたのだろう。そう考えると自分を責めずにいられない。安堵と後悔に、私はいつのまにか泣いていた。 肩に置かれた桜さんの手は暖かった。 「弓島君。友達を助けようとしてそこまで夢中になれるなんて、僕は小五郎君が羨ましいよ。しっかりしてるように見えるけど、小五郎君はまだ子供だ。これからも友達として、小五郎君を助けてほしい。」  桜さんの言葉に涙がこぼれた。拭っても拭っても止まらなかった。  通夜の夜、私はいつまでも眠ることができずにいた。  開け放した窓から入ってくるのは生暖かい空気と虫の声ばかりだ。いらだちのこもったため息とともに、私は何度目かの寝返りをうった。  浴衣がほどけて体にまとわりつく。眠れないのは熱帯夜のせいばかりではない。昼に聞いた小夜さんの結婚のことが、どうしても頭からはなれないのだ。  私は眠るのをあきらめた。しばらくしてから寝ればいい。そう考えて、ベットから起き上がると急に暑さが引いて、気持ちが楽になった。  窓の外が明るい。視点が変わったことで、窓の向こうにきれいな月が出ているのが見えた。  久しぶりの涼しい風が吹いた。私の部屋の窓は煉瓦館の裏手に位置している。月の明るい夜に、波のように黒い竹の影が動いているのが見えた。  窓の下の方に、突然小さな光が出現した。目を凝らす。提灯の明かりだ。こんな真夜中に出歩く人がいるんだろうか?提灯の明かりで、周囲に何人か人のいるのが見える。  その中の一人に小夜さんがいた。月の光が満ちる夜の裏庭に、小夜さんの白い肌は輝いているように見えた。  変だ。私の心に疑惑が浮かぶ。使用人たちの話では、今夜小夜さんは小五郎が鉄之進氏の死体と寝ている部屋の隣で、寝ずに通夜をしているはずなのだ。  私が見ているうちに小夜さん達は、竹薮のなかに入っていった。提灯の明かりが、竹薮の中でゆれている。煉瓦館の裏手の、川へ続く道へ、小夜さん達は向かっているようだった。  部屋に目を凝らす。時計の文字盤を月明かりに読む。午前二時。こんな夜中に彼女は何をするのだろう。好奇心が私の心を満たしていた。  焦って足を動かしながらも、必死に音を立てず、距離をつめずに提灯の明かりを追う。足元の分からない細道は、入り組んだ根で私をつまづかせ、草は足を傷つけた。  明かりをすかして見える人影は三人だ。その中の小夜さんの白い着物だけが闇から浮き出ている。小夜さんの左の人影はどこか奇妙だった。不自然に横に大きいのだ。  水の流れる音が聞こえる。小夜さん達は河辺に提灯を下ろした。  様子を見ようと、草むらから出ようとした私は、突然何者かに肩を押さえられた。びっくりして声を上げようとする口も手の平でふさがれ、強い力で草むらのなかに引き込まれる。 「静かにしな、俺だ。鬼久智だ。」  耳元でささやかれ、私はようやく全身の力を抜いた。 「鬼久智さん?どうしてこんな所に?」  小さな声で問い掛けるのを鬼久智が手で制する。 「ありゃあ運転手の喜助だな。何を抱えているんだ?」  鬼久智が独り言のようにつぶやく。私もすぐに河辺の三人に視線を動かした。  置かれた提灯の光で三人の顔が見える。小夜さんと、喜助、それにあの和服と白い頭は女中頭の民だ。  喜助は何かを抱えていた。大きくて、長い、何か。抱えた両側の端が垂れ下って、喜助が動くたびにゆれる。  私は必死で叫び声を押し殺した。提灯の光に照らされ、喜助が抱えているものの端が見えたのだ。  それは力なく垂れ下った、人間の腕であった。 「なんてこった・・・・。」  鬼久智のうめき声に、私はそちらを見る。鬼久智はオペラグラスを手にしていた。私の視線に気付くとオペラグラスを外して私に手渡す。その顔がかすかに青ざめているように感じられた。  うまく焦点があわせられない。 「!」  私が叫び声を上げるのを予測していたのだろう。私の口は素早く鬼久智の手でふさがれていた。  喜助が抱えていたもの、それは誠治氏だったのだ。オペラグラスの中の情景はあまりに生々しすぎた。顔のいろは、病人よりもはるかに白くなっていて、呼吸をしていないのがはっきり分かってしまったのだ。  鉄之進氏に続いて、誠治氏までもが死んでしまったというのだろうか。  強い力で私の手のなかのオペラグラスがもぎ取られる。喜助が、誠治氏の体を地面に横たえていた。民がその傍らにしゃがみこむ。肩がふるえ、嗚咽が草むらの私の耳にも聞こえた。  小夜さんはしばらく立ち続けていたが、突然動かない誠治氏の体におおいかぶさると、強い勢いで誠治氏をゆさぶりはじめた。誠治氏の体は何の抵抗も示さない死体特有の無抵抗さでゆれる。小夜さんは誠治氏の胸にすがりついて、激しく泣き声を上げた。 「兄さん!誠治兄さん!」  何だって?私は自分の耳を信じることができなかった。小夜さんが何を言っているのか分からない。  私のすぐ側で固い音が響く。鬼久智がオペラグラスを落としたのだ。鬼久智の手が激しく震えている。歯の鳴る音が私にまで聞こえた。  私は急いでオペラグラスを拾い、目に当てる。  あの落ち着いた小夜さんが取り乱していた。心配そうに肩に手を置く民の手をつよく振り払い、誠治氏の体にかじりつく。  奇妙なことに気が付いたのはしばらくしてからだった。小夜さんの後が、淡く光っているのだ。  川面に月が反射しているのだろうか?オペラグラスを外してみると、川は視界に入り得ないことに気が付いた。  再びオペラグラスを覗き込む。やはり、小夜さんの後に川の流れが月をうつすような、白いまたたきがある。視界を広げてみる。光は誠治氏の体の足の方から生まれているのだった。   指を動かし、焦点を合わせる。  私の口から悲鳴が上がろうと口を開けた瞬間、私の口は手の平におおわれていた。  手を払い除けようとする。体が動かない。後から鬼久智に押さえこまれ、地面に倒される。手足を必死に動かして抵抗する。  私の頭は、オペラグラスのなかの映像を懸命に否定していた。しかし真実がもたらす恐怖は私の体に逃げることを命じていたのである。私は一生あの情景を忘れることができないだろう。あの幻は夜の度に蘇り、私を苦しめるだろう。  オペラグラスの中で光っていたのは鱗であった。誠治氏には、足がなかった。本来足のあるはずの所は光沢のある鱗におおわれ、次第に細くなって、終わっていた。  誠治氏の下半身は、蛇のそれだったのだ。  どうやって煉瓦館に帰ってきたのかは覚えていない。  私が正気を取り戻した所は鬼久智と吉野の部屋だった。 「弓島、俺だ、吉野だ。分かるな?」  私は返事をしようとして、咳き込む。私の口のなかに、いつのまにか布が押し込まれていた。しかも、吉野に手足を押さえられていたのだ。 「兄貴、弓島が正気に戻りましたよ。」  吉野の視線の先に、鬼久智がいた。  鬼久智は水の入ったコップを私にさしだした。受け取った私の手は大きく震えていた。咳き込んでうまく飲めない。しかしその水でやっと私は落ち着くことができた。 「弓島くん、手を結ぼう。」  驚いている私を見て鬼久智が笑いかけた。しかし、いつもの悪戯っぽさの混じった笑みではない、弱々しい笑みだった。鬼久智の顔はいまだ青ざめている。誠治氏のあれを見たからだ。 「俺も個人的にあれを知りたい。」  どこか苦しそうに鬼久智はいった。鬼久智の声に、私の頭のなかに川辺の絵が蘇る。背中に震えが走る。 「僕は何をすればいいんですか?」 「他の二人と一緒に、誠治氏の部屋を調べてほしい。」 「え?」 「誠治氏が部屋から出なかったのには何か理由があると思う。彼は立って歩けなかったんだろう。病気さえも自分の体を隠すための、隠れ蓑だった可能性もある。病気でなかったとすれば、寝ている理由はない。彼は一人、自分の部屋の中で何をしていたのだろう。あの部屋には何かがある。」  恐怖心が私の体をつかむ。誠治氏が、あの体で部屋を這う姿は現実の重さを持って私の心にのしかかる。 「あれを見てしまった君に、こんなことを頼むのは酷だと分かっているが、この煉瓦館には小夜さんと民がいる。あの二人と喜助親子は煉瓦館の秘密を知っているんだ。そして俺達にそれを知られまいとしている。俺と吉野が小夜さんと民の目を反らす。喜助はまだ付きっきりで自分の父親を看病している。君達の協力があれば誠治氏の部屋の秘密が分かるんだ。」 「・・・・・・・・・・・・・・・。」 「誠治氏の部屋を調べるのは君達にやってもらいたい。俺達は人を目標のものから目をそらさせ、そうと気付かせないための訓練を受けているが、君達はそうじゃない。お互い代役は立てられないんだ。」  私はゆっくりとうなずいた。部屋に戻るまで、背筋が震えてきて何度も何度も後を振り返ってしまった。  壁に掛かった時計の針が五時を差した。鬼久智との打ち合せの時間だった。これから隣室で眠る大宮と小杉を起こし誠治氏の部屋へ行くのだ。  結局部屋に戻ってから、一睡もできなかった。早朝五時とはいえ夏の夜明けは早い。東の空を中心に空は黒から青に変わりはじめている。  私はなるべく音を立てないように隣室に入り、二人を起こす。  寝呆け眼の二人が口を開けるより早く私は人差し指を立てて自分の口に当てる。 「静かに、これから誠治氏の部屋を調べにいくんだ。」 「どうしたんだよ、こんなに早く。」  押し殺した声で大宮が抗議する。 「実は探偵の話を盗み聞きしたんだ。小五郎が言っていた鉄之進氏の日記、どうもあれが誠治さんの部屋にあるらしい。誠治氏は小夜さんと一緒に棺桶のある部屋にいる。探偵たちを出し抜くには今しかない。」  小杉と大宮を納得させるため、私は嘘をついた。真実を言ってもきっと信じてもらえないだろう。あれを見なければ、信じさせるのは不可能だ。 「桜さんは呼ばないのか?」 「できるだけ動くのを少なくしたほうが探偵たちに気付かれないよ。」  心にかすかな痛みを感じながらも私は答えた。   私達三人はできるだけ音を立てないように廊下を歩く。  夏とは言え、夜明け直後である。朝の空気が靄とともに私達の体に冷気がもたらし、背筋を震えさせた。 「やっぱり、寒いな・・・・。」 「ああ・・・・・。」  答える私の声が震えているのを聞いて小杉が小さく笑い声を上げる。私は二人に笑い返すことはできなかった。私の震えは寒さのためではないのだった。私の前にあるのはあの誠治氏の部屋の扉なのだ。  私の心を嘲笑うかのような無造作な仕草で小杉は扉に手を掛けた。 「鍵、開いてるな。」  大宮がささやく。私はうなずいて、意を決して小杉の開けた扉に入る。 「うわっ!何だこれ?」  大宮が頓狂な声を上げる。私と小杉は何も言うことができなかった。  誠治氏の部屋は、実験室だった。  それも偏執的な狂気を感じさせる科学者のためのものだった。  フラスコ、試験管、蒸留装置に、名も知らぬいかめしい電気機器、ガラス管の中の奇妙な色の薬品、そういったものたちが危うげな均衡を保って、大きなテーブルの上に置かれている。  壁はすべて本棚になっていて、背表紙の文字を読むこともできない異国の書物で隙間なく埋められている。  夜明けの光に照らされた誠治氏の部屋は、見慣れた煉瓦館の落ち着いた世界とは全く異質の、色の洪水だった。  私の心に閃くものがあった。吉野が川辺で割ってしまったあのガラス容器。その出処はこの部屋ではないのだろうか?  あった。あの草むらに落ちていた容器と同じものがいくつかテーブルの端に置かれていた。でもどうして? 「おい、あったぞ!」  大宮の声に私は顔を上げる。  大宮は皮の装丁の本をかかげていた。 「弓島、お前の言ったとおりだったぞ、鉄之進さんの日記だ。」  私は駆け寄ろうとした。それを止めたのは小杉の声だった。 「おい二人とも、見てみろよ。これ、何だと思う?」  小杉は何気ない様子で私達の前にそれを向けた。それは奇妙な肌色の布に、白い毛のついたものだった。  次の瞬間、私の口からは悲鳴が上がっていた。  小杉が見せたものーそれは誠治氏の精密なマスクだったのだ。  それを見た瞬間私は誠治氏の真の姿を知ったのだった。その恐怖は、私の自制心など簡単に吹き飛ばし、身も世もない大声を上げさせることになった。  誠治氏は、下半身だけではない、上半身や顔までも鱗におおわれた蛇の体だったのだ。 「静かにしろよ、弓島っ!」      何も知らない大宮の声が、私を正気づかせた。息を大きくはきだし、立ち上がる。ちょっと足元がふらつく。力をこめて、立つ。  鱗におおわれた誠治氏の幻影は、私に奇妙な既視感を与えていた。蛇の姿をした人間。それはどこかで聞いたことはなかっただろうか? ある!  桜さんの話のなかだ。中野長者の娘の話、蛇身へと身を堕とした小笹。偶然とは思えない、何か誠治氏との符号があるはずだ。  恐怖が私の心に奇妙な洞察力を与えたかのようだった。そして謎を解く鍵はこの誠治氏の部屋の中にもあるはずなのだ。煉瓦館に住む岩波一族にはどんな秘密があるのだろう。「い、今の声で誰かがくるとまずい。ともかくその日記を持って部屋を出よう。」 私達はあわてて部屋を出た。  部屋に戻ってから、私達はお互いの役割を決めた。  私は気分が悪いということにして、仮病を使って日記を解読し、鉄之進氏の死因を調べる。小杉と弓島は葬式の最後の手伝いをしながら探偵たちを見張るという事になった。  探偵たちの話題になると、いつも疑問符が残るのは神代紀信のことだった。探偵として使用人たちと話しているのはおろか、昨日からは食事時にさえ現われていないのだ。奇妙を通り越して不気味なものを感じさせる男だった。  二人が部屋を出ていってから私は鉄之進氏の日記を開いた。手がかすかに震えている。気分が悪いといったのも半分は真実だ。しかし、昨夜からの疲れは奇妙な活力となって私に真実を知ることを命じていた。  日記の最初の日付は今から五年前、岩波家が煉瓦館に住居を移してから始まっていた。ある日は箇条書きに、ある日は何ページもつかって達筆でしたためられている。書く道具も、鉛筆から羽ペンなどさまざまだった。  日記の中には、鉄之進氏の苦悩があふれていた。  岩波とは実は本当の家の名ではない。  鈴木というのがこの家の正しい家の名なのである。  鈴木ーそれは中野長者の伝説で語られる長者の名である。岩波家の一族は、その源を実在した中野長者にいきつく、直系の一族だったのだ。  中野長者は伝説では、奇妙な方法で財をなしたと語られている。それは歪められた現実であった。とても信じられない方法で財をなした、それは鈴木の家の人々が奇妙な力を持って、当時の中野を統治し、君臨していたことを現す。中野長者の伝説の象徴は蛇ーつまりみずちだ。鈴木家は水に関する呪術を行なうものであったのである。  伝説の中で中野長者は仏教に帰依し、救われる。つまりそれは仏教を信仰する勢力に、支配者の地位を追われたという事になる。  伝説は、具象化された現実であり歴史だったのだ。    鉄之進氏がその歴史を事実として知ったのは、十五歳の頃、父親に手を引かれ、土蔵に横たわる祖父の姿を見てからだった。  土蔵に横たわる祖父の白い蛇の体には、恐ろしいことにかっての優しげな面影が残っていた。  日記を付けはじめたのはその頃からだ。兄の誠治氏にすすめられ、日記を付けはじめたのである。岩波の一族のなかに流れる血は、人でありながら、いつしかその体を蛇へと変化させてしまうのだ。鉄之進氏はどのような気持ちでこの日記を付けていたのだろうか? 過を記すためにあったのだ。  変化はまず、長男の誠治氏に現われた。誠治の脚から徐々に鱗が生えはじめ、日に日に鱗は増えていったのである。  誠治氏は運命に簡単に屈する人ではなかった。彼は自分に流れる血を知ったときから、一族の呪われた特性の鎖を断ち切るべく、研究を重ねていたのである。  正確にはその研究とは彼一人のものではなかった。呪いを断ち切るのは一族の悲願であり、その研究は遥か昔から、岩波家が鈴木と名乗っていた頃からの先祖たちの想いと研究の成果を誠治氏が引き継いだのだ。  誠治氏は自分の体を実験の対象として用い、ある薬を完成させる。  それは、人から蛇に変わる症状の進行を止めることの出来るものだった。誠治氏は自分の下半身が蛇になった時点で、それを服用し続けることで今のままの姿を保つことが出来たのであった。  人の姿を半分失ってしまった誠治氏は、鉄之進氏が二十三の時、家長の座を弟、鉄之進氏に渡し、自分は病人を装って研究に没頭することになる。進行を止める薬は出来たが、元に戻したり、効果を永続させることは未だ出来ないのだ。    進行を止める薬の完成により、岩波家の末娘、夕が蛇に変わる兆候を見せたときには、すぐにそれに対処することが出来た。  しかし、その薬には恐ろしい副作用があったのだ。   夕は薬を飲みはじめた頃より、全く年を取らなくなってしまった。少女の面影を残したまま夕の体は年を取ることを止めてしまったのである。  誠治氏は、人工の皮膚による仮面を作り出し、自分や夕の外見を買え、世間の目を欺くようになる。 する秘術は失われずに残っており、それは海運業を営む岩波の一族の強力な後ろ盾となっていた。その資金と、年を取らなくなったことによる豊富な時間。岩波一族は誠治氏の研究により、五百年にもわたる長い呪われた鎖から解き放たれようとしていたのだ。  しかし十六年前、岩波家に一つの重大事件が起こる。  夕が実の兄の鉄之進の子供を身篭もってしまったのである。  犠牲者を増やすまいとした、頑なな結婚への忌避と、呪われた者同士の親愛の情が生み出した、それは歪んだ結果であった。  誠治氏は岩波家を守るため、ある決断を下す。  鉄之進と夕の間に生まれた子供、小五郎を岩波家の下男であった矢切り家に引き取らせ、夕という妹の虚偽の葬式をし、仮面を取った夕を鉄之進の娘、”小夜”として世間に認めさせることに成功させたのだ。  その計画が完全なものになったのは五年前、煉瓦館の完成と共にであった。  喜助親子をのぞいて使用人たちはすべて新しく雇い直し、以前の住まいの痕跡は完全になくした。誠治氏の計画は、細心の注意と、膨大な資金を持って実行されたのだ。  それは互いに愛し合う夕つまり小夜さんと鉄之進氏を巧妙に引き裂くことだったのではないだろうか?鉄之進氏の日記にかかれた想いのなかに私は書かれていない事を読み取ることが出来た気がする。  その心の反発がさせたことなのか、私には分からない。しかし、誠治氏が完璧に真実を糊塗した時、一族の長鉄之進氏が一番最初にはじめたことは小五郎を養子として引き取ることであった。  小五郎を養子に引き取るようにしたのは小夜さんの強い希望によるものだった。 さんは必死に自分の兄達に頼みこんだのだ。 十九の時に薬を飲み初めて以来、小夜さんがこれほど感情を激しく出したことはなかったと、当時の鉄之進氏は日記に記している。 秘密を持ち、表面上は平素を装いながら、真実を知る人々はどんな気持ちでこの煉瓦館で暮らしてきたのだろう。  鉄之進氏の日記の一番最初のページの日付は五年前、岩波家が住居を移し、小五郎が来る一ヵ月前から始まっている。  私は日記から鉄之進氏の、小五郎を正式に岩波家へ迎えることの出来る喜びを読み取った。そして真実の露見への恐怖と、小五郎への不安と哀れみを読むことが出来た。  十年間離れ離れになっていた親子は、養子と、義姉義父という歪んだ形で再会をはたした。  小五郎が来る前に抱いていた鉄之進氏の不安は、杞憂であった。小五郎はよくできた少年だった。  わずかな距離を置きながらも、小五郎は岩波家の一員として、卑屈にならないで家族に接することが出来たのは、小五郎にも、煉瓦館の人にも真の幸運であったといえる。  岩波家の人たちは、秘密を内に秘めながらも、幸福な生活を送っていたのである。  鉄之進氏の日記から、彼の浮き立つ心が分かる。そして、真実を小五郎に告げられない苦しさが分かる。  このころの鉄之進氏の日記には、わずかに小夜さんの行動の変化にも触れている。鉄之進氏には、母としての感情を押さえて小五郎に接する妹は、痛ましかった。しかし、鉄之進氏に対する小夜さんは、言動の中に、わずかに堅いものが感じられるようになっていたのだ。  小夜さんが夕という名前を捨ててから、意識して鉄之進氏から距離を置いていたのはわかっている。しかし、小五郎が来た日、正確には小五郎を一員に向かえようと家族に想いを伝えた日から、小夜さんの心が鉄之進氏から離れてしまっていたのだった。  日記は、小夜さんに対して冷静に書かれているが、その中にはかすかに、小夜さんに対する苛立ちが隠されている。  様々な想いを胸に抱きながら、それでも幸福な時間を親子は過ごしていた。  しかし、小五郎が年齢を重ねるにつれ、小五郎が岩波家の秘密に気が付いてしまう恐れは大きくなっていった。  再び鉄之進氏は重大な決断を下す。小五郎はまだ幼い、重い真実を知るには若すぎる。しかし、小五郎の聡明な頭は、何の心構えもなく、真実を知ってしまうかもしれない。今は、教育機関の寮に寄宿させ、時間を置いてから、真実を伝える。  最後まで小夜さんは反対したが、小五郎の運命を思えば同意をする他なかった。  心構えもなく真実を探り当てて、絶望し自ら命を立った者や、正気を失った者も、一族の歴史には数多く記されているのだ。   小五郎が学校へ寄宿してから一年、つまり今から一年前の頃、岩波家に一通の手紙が届いた。  手紙の送り主は、浅井政吉。岩波家と肩を並べる有力な海運業者、浅井家の当主からであった。  浅井という名前は、岩波家の歴史にしばしば現われている名前であった。伝承で伝えられている浅井家は、敵、であった。  浅井家もまた、呪術で財をなした古き血筋の一族だったのである。  伝承では、浅井家は”魚”に親和力を持つという。  鉄之進氏が興味をひいたのは、浅井家もまた、年を経ていつかは人から姿を変える一族だということだった。浅井家は、普通の人より長い寿命を持ち、その中でいつしか姿を魚に変えるというのが、岩波家の伝承の一節にあったのだ。  浅井政吉の手紙は単刀直入だった。 「浅井家には呪われし遺伝を断ち切る秘術がある。それを教える代わりに、小夜と岩波家が伝えし最大の秘法をこちらにもらいたい」 岩波家の秘法。浅井政吉の要求したものは、鉄之進氏の父、前当主が忌み嫌い、我が子達に使用することを禁じた太古の契約の法だった。  中野長者、鈴木九郎が長者になるための富をあたえ、その契約の証として、千年の長きにわたり彼ら一族を呪われた血の者へと変えた、この世ならぬもの。  秘法とは、そのものとの交信の法だったのである。  岩波家の根をなし、中野長者を長として彼らが崇めていたもの、太古には神として崇められ、恐怖とともにささやかれていたもの。 以前の私なら、鉄之進氏を狂人と思うだろう。しかし、私は鉄之進氏が真実を書いていることを知っている。太古、神として祀られたものが、未だ千年の長きにおいて、死なずに、この地に留まっている事を知っている。あれは、今もいるのだ。淀橋の下の川の底に、私が見、正平が切り落としたのは、それの一部だったのである。  浅井はどうしてこのような秘法を手にしたいのだろう。この平和な世の中に、封じられし秘法をどう使うのか、恐ろしい結果を予期し、当時の鉄之進氏は、岩波家の名において首を振り続けた。すがろうとする衝動を必死に押さえて。  岩波家の心情を知っているかのように、浅井家は執拗に誘惑を続けた。 「小五郎だけ、小五郎だけは普通の人として生き、人として死なせてあげたいのです。出来れば、何も知らせずに。」    そして、ついに。  小夜さんが静かに鉄之進氏の前で話したとき、鉄之進氏にはその血を吐くような想いを否定することは出来なかった。一族の者も。 こうして浅井政吉と、岩波小夜の婚姻の話は進められることになった。  しかし、それだからこそ誠治氏と、鉄之進氏の研究熱は、呪われた血を断ち切る研究をする熱情は高くなっていったのだ。浅井に秘術を明かさずにすむために、小夜さんを他の男に渡さないために、何としても、出来るだけ早く、血の性質を眠らせる薬を作らなければならない。  そして、今から三日前、日記の最後の日付の日。薬は完成したのであった。   鉄之進氏の筆跡は自らの最期を予感しているかのように、冷静な調子を失って、わずかに乱れている。それは誠治氏の薬を飲むのを自ら志願したためであった。  その日の朝、鉄之進氏はついに恐れる日が来たことを知った。  左足の指の爪が緑色に変色し、鱗のように形を変えたのである。十五歳から三十年間、ついに恐れていた日がやってきたのだ。  そして鉄之進氏は兄に薬を飲む決意を伝えたのだ。姉弟のうちの一番年上だった兼代は、ついに自分の体が蛇に変わる恐怖を味わう前に病気でこの世を去った。病気にかかり、あと一年の命とわかったからこそ結婚した兼代。短い間の女の幸せだけを持って、子供も作る事無く、圭伍氏を置いて死出の旅に出た姉。彼女もまた、真実を知り、誠治氏の体の変化に自らをかさね怯え続け、体に流れる血を恨んで生きていたのだ。今までは死以外ではこの恐怖に逃れることは出来なかった。 薬が完成しないかぎり岩波家は子孫たちに永遠の罪を背負わなくてはならないのだ。  最初、誠治氏は薬を飲もうとする鉄之進氏を止めた。薬は完成したが、この薬の失敗は服用者の死を意味するのである。  今完成した薬はその効果の強さのために、服用者の命を危険にさせるものなのだ。そして効果は未だ確かめられていない。飲まないかぎりは望んだ効果をもたらすのか分からないのだ。  誠治氏の制止を鉄之進さんは断った。薬を作ることが出来るのは研究を重ねた兄だけなのだ。効果は変化の現われた岩波家の者にしか確認できない、たとえ鉄之進氏が死んでも、それを元に薬を完成させ、小夜や小五郎を救わなければならない。  ここまでで、鉄之進氏の日記はおわっている。私は日記を閉じ、右手に持ってみる。皮の装丁の、上質な紙を使った日記の重さは、内包している物語に比べあまりに軽い。  物語。そうではないのだ。誠治氏のあの姿。正平の家の庭で見たあれ。そして小夜さんのどこか現実離れした美しさ。私はこの日記に書かれている事が、鉄之進氏の空想の産物ではありえない事を知ってしまった。    ノックの音が、私を現実へと引き戻した。「弓島くん・・・鉄之進氏の日記を読んだのかい?」  入ってきたのは桜さんだった。私は返答に困ってしまった。どうして桜さんが日記のことを知っているのだろう。  疑問に思うとともに、私は自分に驚いていた。私は、岩波家の秘密を知ってしまったことで、桜さんに優越感を持っている自分に気付いたのだ。  私は二十年も美しい姿を変えない小夜さんの、その遠すぎる正体を知っても、今も変わらず好意を持ち、同じように好意をよせているであろう桜さんに、競争心を持っているのだ。   「弓島くん、顔色が青くなっているよ。やっぱりこの煉瓦館の秘密を知ってしまったんだね。」 桜さんの目には哀れみがあった。桜さんに言われてはじめて私は自分の体がかすかに震えていることに気が付いた。座っている椅子から立ち上がり、桜さんに向き直ろうとして失敗してしまう。足が震えてうまく力が入らないのだ。  私の心は、私が思ったよりもはるかに煉瓦館の恐ろしい事実にとらわれてしまっていたのだ。その恐怖は、体にまでも影響を及ぼし、一時的に私の体を麻痺させてしまっているのだろう。  立ち上がろうとして失敗した私に、あわてて桜さんが駆け寄って手を貸してくれた。  近付いてみた桜さんの顔は、真っ青で、唇がかすかに震えているのがわかった。 「桜さん、あなたこそずいぶん顔色が悪いですよ。」  私の問いに、桜さんは答えず、無言で手に持っていた本を私に差し出した。  それは皮の装丁の、上質な紙を使った日記だった。その本は、鉄之進氏の日記と全く同型のものだったのだ。 「この日記は誠治さんの物だ。僕はこれを昨日の夜小夜さんから渡されたんだ、日記と一緒に誠治さんの手紙を預かった・・・。さっき小杉君から聞いたんだよ。君が旦那様の日記を読んで、事件について調べていることを。出来れば君がこの煉瓦館の恐ろしい秘密を知ってしまう前に、君を止めたかった。」 「桜さんは、煉瓦館の秘密を知っていたんですか?」 「全部を知ったのは昨日だ。でも所々は、想像があたっていた部分も多い。川の化物を誠治さんが鎮めていたのも見たことがあるし、旦那様が、小夜さんを夕と呼んだのもきいたことがあったからね。ただ、そのことを君達に言えなかった。推測で言えるほど簡単なことではないからね。」  私は唾を飲み込んだ。桜さんは私よりも早く煉瓦館の真相を知ったのだ。煉瓦館の住人に話を知らされた桜さんは、私より多くの事を知っている。私にはどうしても知りたいことがあった。 「桜さん。僕は岩波家の秘密を知ってしまいました。しかし、まだ分からないことがあるんです。鉄之進氏の死の真相です。日記に書かれていたように、鉄之進氏はおそらく薬を飲むのを人に見られまいと川辺に向かった。川辺に落ちていた青い薬はそれだったんだ。しかし鉄之進氏は刺し殺されたのです。一体どうしてなんですか?」  疲れたような、ひどく疲れたようなため息が桜さんの口から漏れた。桜さんの色を失った唇から、震える声で真相は語られた。  すべては小夜さんと小五郎のためだった。  鉄之進氏は薬が失敗におわることを半ば予期していたのだ。  鉄之進氏は薬を飲み、もし薬が効果を現わさなければ自分が死ぬことを、真相を知る数少ない使用人、喜助親子に伝えた。  鉄之進氏が薬を飲んで死体となったら、遺伝を断ち切る薬を作っていたことを浅井家に知られてしまう。そうなる前に、失敗とわかったときに、鉄之進氏は他の方法で死んだということにしなければならない。  浅井家に知られてしまうということは、両家の関係を無効にし、小五郎や小夜から人としての未来を奪ってしまうことだからだ。  そして鉄之進氏は、毒の回る震える口調で、喜助親子に自分を刺し殺すことを命じ、使用人はそれに従ったのだ。   大きく口を開けた胸の傷口は、死因として医師の目をごまかした。  こうして真実は隠されたのだ。 「誠治さんは、旦那様を殺してしまった薬を元に、もう一度その薬を改良したんだ。しかし、それさえもうまくいかず、昨日、誠治さんは死んでしまった。薬を飲む前に僕に日記と手紙を一通残して・・・・。死体は医者に見せるわけにもいかない。川底のあれに取らせるというのは誠治さんの提案だったそうだ。誠治さんはいずれ、君達か探偵がこの煉瓦館の恐ろしい秘密に気付いてしまうことを予想し、僕にすべてを打ち明けて、君達から真実を隠すことを頼まれたんだ。それなのに、僕は誠治さんの最期の頼みにも答えることが出来なかった。」  桜さんのうつむいたままの体が震えている。すべての事象が積み木細工のように重なり、真実へとなってゆく。しかし私の心には何故かいいようのない怒りがこみあげていた。次の瞬間、私の口から思わぬことばが発せられていた。 「それで・・・・いいんですか?」  桜さんが驚いたように私に顔を向ける。私の想いはとまらなかった。 「桜さん、僕らは本当にそれでいいんですか?鉄之進氏も誠治氏も命を賭けてまで、小夜さんと小五郎を、いや、小夜さんを助けようとしたんですよ。岩波家の子孫のため?日記を読んだ僕には信じられない。誠治氏も、鉄之進氏も小夜さんが好きだったから命を懸けたんだ。兄妹とか、境遇とかの親愛の情じゃなく、好きな女として小夜さんを助けたかったんだ。僕は小夜さんが好きだ。桜さん、あなたが小夜さんを好きだということは知っていますよ。僕は小夜さんを助けたい。僕達は助ける方法を見付けなくっちゃいけないんですよ!」  私の叫びを聞くなり、何かを振り払うように桜さんは右手を振り、私に目を向けた。  私達はしばらく睨み合い、桜さんが今まで私が聞いたことのない激しい剣幕で私に詰め寄った。 「僕に何が出来る。君に何が出来るんだ!やってみなくちゃわからない?どうやって彼女の呪われた血をなくすことが出来るんだ。三年前、僕が書生として煉瓦館にきたときから僕は小夜さんしか見ていなかった。あの人の姿を見ているだけで幸せだった。でも彼女には影があった。たとえ笑顔を見せても、彼女は心の底から楽しい気持ちになることはなかった。僕はもどかしかった。なんとしてでも彼女の心からの笑顔を見てみたいと思った。それは僕の夢なんだ。  ところが!真実を知り、彼女の暗さの正体を知っても僕にはどうすることも出来ないんだ。彼女が真の自由になる方法は昨日、永遠に閉ざされてしまったんだ。そして今や彼女の幸せは小五郎にあるんだ。彼女はすでに母親なんだ。小五郎が呪われた血筋から開放されることこそ彼女の望んでいることなんだ。そしてそれをもたらすには今や浅井家に嫁ぐしか方法はないんだよ。僕達が出来ることは、浅井家に嫁ぐその日まで、何事もなかったように装うしかないんだよ!」   桜さんが感情をあらわにして叫んでいるのを見るのは、初めてだった。その剣幕の激しさが、どれだけ桜さんが小夜さんを思っているのかを物語っているように感じられる。  私も負けずに叫び返そうとしたとき、突然桜さんの顔が歪みはじめた。違う。周りの風景も歪み、回りはじめている。私の目の焦点が合わなくなっているのだ。昨日から睡眠を取っていない疲れと、重大な秘密を知ってしまった衝撃が、私の体に限界を超える疲労をもたらしていたのだった。 「だ、大丈夫か弓島くん!」  桜さんの声をどこか遠くで聞きながら、私の視界は暗黒に閉ざされていった。  どこか遠くで誰かが泣いている。 「守!大丈夫?守っ!」  誰かが私の名を叫んでいる。頬に何かがあたる。  右腕が痛い。  思い出した。私を抱き、耳元で叫んでいるのは母さんだ。頬にあたっているのはこの人が流す涙だ。  これは夢なんだ。私は小さい頃、庭の木から落ちて右腕を骨折したことがある。その時の強烈な記憶は、今でもときどき私に夢を見させる。 「母さん?」  私は自分の体を抱きながら泣く母を見上げる。  母の緊張で強ばっていた顔が、安堵と喜びに崩れ、目から涙があふれる。母はより一層強く私を抱き締める。 「よかった・・・気が付いて・・・。死んじゃったかと、このまま目を覚まさないかと・・・・。」  母の声に、私は泣きながら母にしがみつく。夢のなかの自分を演じながら、私には気になることがあった。   心のなかに何かが引っ掛かっているのだ。 なんだろう?  目だ!  この目はどこかで見覚えがある。  その目は小夜さんと同じ目だったのだ。すべての事実を知った今ならば分かる。私は小夜さんの目に宿る光に見覚えがあった。私はそれを夢の中で何度も見ていたのだ。  小夜さんの目は、わが子を守ろうと必死になった母親の目だったのだ。 「弓島、気が付いたか?」  気を失っている間に、私は自分の部屋のベットに寝かされていた。大宮と小杉が心配そうに私の顔を覗き込む。私は二人に笑顔を見せて起き上がる。 「俺、どのくらい寝てた?」 「一時間くらいだよ。」 「弓島、大丈夫かよ。俺、気絶した奴なんてはじめてみたぞ。」  私はベットから体をずらして床に立つ。まだかすかに頭の芯が痛むが、別段なんともない。 「桜さんから話は聞いたよ。事件の本当のことは、今は聞かないほうがいいんだろ。」  心配そうに大宮が私の顔を覗き込む。 「ああ、もう少ししすれば、桜さんや小五郎の口から話してくれると思う。」 「身体、大丈夫ならば葬式に来てほしいって伝言を頼まれたんだ。鉄之進さんに最期のお別れは言っておいたほうがいいからな。」 「ああ、大丈夫。行こう。」  二人が本当のことを無理に聞こうとしないでくれたのは有り難かった。いつか、小五郎が真実を知ったとき、小五郎の口から小五郎が望めばそれを語ることが出来るだろう。鉄之進氏の日記は、机のうえに置いたままだった。  無理に煉瓦館の秘密を覗いた罪悪感を、償わせる機会を桜さんは作ってくれたのだ。この日記は私の手で鉄之進氏に返さなければならない。    私達が部屋に入っていくと、ちょうどお坊さんが出ていくところだった。民が見送るらしく、軽く会釈をする私達の横を静かに歩いていった。  部屋には使用人はひとりもいなかった。今までお坊さんが座っていた座布団の前には線香をさす香炉があり、その先には開け放たれたままの白木の棺桶がある。ちょうどそれらを挟むように、小五郎、小夜さん、圭伍氏、桜さん、それに探偵たち三人が座っていた。 鬼久智と吉野はすでに桜さんから事情を聞いているらしく、口には何も出さなかったが心配そうな目を私に向けた。圭伍氏は落ち着かなげに座り、神代は無表情に前を見ているだけだった。  小五郎は真っ赤にはれた目から今も涙を流し、私達を認めると軽く頭を下げた。  小夜さんはそんな小五郎の肩にやさしく手を置いて、私達が来ると立ち上がって頭を下げた。  私達も頭を下げ、昔教わったとおりの作法で線香をあげた。 「父に最期のお別れをしてください。」  立ち上がった小夜さんが、棺桶のそばに私達を促した。  鉄之進氏の死に顔は、穏やかだった。白木の棺桶の中は、すでにたくさんの花で満たされていて、鉄之進氏は静かに目を閉じ、白装束に包まれて横たわっていた。  私は鉄之進氏の重ねられた手の上に日記を置いた。 「眠っているみたいだな・・・。」  小杉の独り言のようなつぶやきにうなずいて、私達三人は故人に手を合わせた。  私達が棺桶のそばを離れると、使用人たちが白木の蓋を運んできて、棺桶にかぶせた。 その時、 「ちょっと待つんだ。鉄之進さんの棺桶の蓋を閉じるのを待つんだ。義弟のせめてもの手向けに、彼を殺した凶悪犯の名を教えよう。恐るべき殺人を犯した、真犯人の名を!」  私達は、立ち上がった圭伍氏の言葉に麻痺させられてしまったように全ての動きを止めてしまった。 「真犯人?」  静寂を破ったのは小夜さんだった。静かに立ち上がった小夜さんの目はひたりと圭伍氏に向けられ、言葉を発したのが嘘のように能面のような美しい無表情なままだ。目に浮かぶ光はあの光だ。私を魅了した、冷たい炎のような、激しく、静かな光。 「そ、そうだ。私はついに犯人の正体を突き詰めたのだ。」  小夜さんの目に気圧されたかのように後に仰け反りながら、圭伍氏は額の汗を拭い、ネクタイをゆるめた。 「誰なんですか?」  圭伍氏から小夜さんを守るように桜さんも立ち上がり、二人の間に立つ。両者の間に氷のような緊張が凝固していく。いつのまにか私も汗を流していた。しかしこの汗は夏の暑さのものではなかった。 「今日の朝、私は神代君に聞いたのだ。ついに真犯人を突き止めた。と、神代紀信と亀田探偵事務所、どうやら軍配は神代君に上がったようだな。さあ、神代くん。関係者はここに全員揃っている。恐ろしい真犯人の名を私達に、教えてくれ!」  私達全ての視線が、細面のどこか不気味な探偵に注がれた。神代はそんな皆の視線に気付かないかのように、ゆっくりと立ち上がった。 「圭伍さん。僕はあなたに言っておきたい事があります。僕は確かにこの事件の真相を突き止めた・・・と思います。しかしそのことをあなたに教える気は、ありません。」 「な、何だと!」  神代の意外な言葉に一瞬呆気にとられながらも、圭伍氏は激昂して探偵に詰め寄った。「ふざけるのもいい加減にしろ!私はおまえを雇ったんだ。探偵風情が私をからかうなど無礼にも程がある。貴様何様のつもりだ?さあ、早く犯人を教えろ!今、すぐだ!」  噛み付きそうな圭伍氏の前に、数枚の札が神代の手からこぼれ落ちた。 「もしそのお金で私を雇ったと言うんならお返ししましょう。数えなくても、あなたが渡した倍はあります。まあ、あなたをだましたことへのお詫び、と思ってください。」 「私をだましただと?」 「実は僕は神代紀信ではありません、探偵ですら、ないんです。」  そう言いながら、神代は顔の横に手を持っていき、自分の頬に爪をたてた。  私は思わず目を疑ってしまった。神代の顔の皮が、ずるりとめくれたのである。神代の 顔を形づくっていた皮は、今や完全に顔から引き離された。その下から出てきた顔は、神代とは似ても似つかない青年の顔だった。  驚いて声も出ない圭伍氏に、神代だった男は軽く笑いかけた。 「僕と神代君は親しい友人でね。無理に頼んで変わってもらったんですよ。さすが帝都一の探偵だ。彼はこんな仕掛けも持っているんですよ。もっともこの仮面は僕が作って彼に貸したものなんですが。」 「あんたが神代じゃないのはわかった。じゃあ誰だ?どうしてこんな事件に顔をつっこんだ?」  鬼久智が、真っすぐに神代だった男を睨み、強い調子で問い詰めた。 「僕の正体は、この中の誰よりも小夜さんがご存じだ。」  私達全ての視線が男から小夜さんに移る。私は初めて小夜さんが怯えているのに気が付いた。小夜さんの顔は紙のように白くなり、肩がかすかに震えていた。  震える口から吐息のように、男の名前が呼ばれた。 「あなたは、浅井家の・・・浅井・・政・・・吉・・。」 「何だって?」  私と桜さんの口から同じ叫びが上がり、私は弾かれたように男を見る。政吉はそんな私達が滑稽だとでも言うように喉の奥で小さな笑い声をあげた。 「あなたたちが何をしていたか、私はあえて問いませんよ。小夜さん。気が付いたのが一族の中の私だったのはどんなに幸運なことか、賢明なあなたならお分りでしょう。私は愛しい妻となる人を不幸にしたくはないですからね。ただし、小夜さん。ただし、今回だけですよ。いいですね。」    浅井政吉の鋭い視線が小夜さんを射る。その迫力に私達は動くことも出来なくなった。 圭伍氏の笑い声だった。 「わかったぞ、小夜、小五郎、おまえたちの企みが。真犯人はおまえたちのうちのどちらかだな。それで、どうやったか知らんが神代と浅井の小僧が友人だと嗅ぎ付けて、婚約者様に泣きつきやがったな。自分たちの犯行を誤魔化すためにこんな猿芝居をうつことを考えたんだろう。小五郎が犯人だと分かったらせっかく手に入れた岩波家当主の座を捨てねばならんからなぁ?」 「うるさい。」 「何ぃ?」  顔を真っ赤にして的外れの推論を喚き立てる圭伍氏は、浅井政吉の言葉に一瞬黙り、さらに激昂をして口を開きかけた・・・。  その時私は浅井政吉の顔を見ていた。青白いどこかのっぺりとした印象を受ける育ちのよさそうな顔。その顔が一瞬何か別のものに変化するのを、私ははっきり見てしまったのだ。目蓋のない円い目、突き出した唇のない口、そして張り出した頬骨、それはえらではなかっただろうか?浅井政吉の顔は一瞬肌色の魚に変化をしたのだった。   私を彼の顔から目を離させたものは大きな物音と悲鳴だった。  圭伍氏が胸をかきむしり突然倒れたのだ。あわてて駆け寄った私達の前で圭伍氏は白目を向き、失神した。 「政吉さん、あなたは何てことを・・。」  小夜さんの悲鳴に近い非難の声。小夜さんだけが現状を把握しているのだ。浅井政吉が圭伍氏に何をしたのか。何が起きたのか。彼はいったい何者なのか。彼女は全てを知っているのだ。 「大丈夫。故人の眠りを乱すような失礼な人を私はどうも嫌いでね。死にはしませんよ。何と言っても私の伯父になる大切な人ですからね。」  浅井政吉の顔はすでに普通の人間のものに戻っていた。しかし彼の雰囲気は、意識しはじめた私には普通の人のものとは全く違っているように感じられる。私は何か生臭い匂いを夏の空気のなかに感じた。  私達の恐怖の混じった視線に気付かないように、浅井政吉は部屋を出ていった。豪胆な鬼久智でさえ彼に言葉をかけることさえ、しなかった。  私達が煉瓦館を後にして一ヵ月が過ぎようとしていた。  一週間前から小五郎も寮に帰ってきている。私達はようやくいつもの日常を取り戻しつつあった。  空はいつのまにか黄金色の輝きをおびはじめ、勢いの良かった入道雲も姿をひそめつつある。寮は実家から返ってきた学生たちで再び雑然とした雰囲気を取り戻した。蝉だけが過ぎていく夏を引き止めるように窓の外で騒がしい。夏が終わるのだ。  煉瓦館で起きた事件は小五郎の口から、本当の事が私達に語られた。 「小五郎、あの事件はおまえにとってつらいことだったろ?それに岩波家ってのは旧い家だっていうじゃないか。旧い家ってのは秘密があったっておかしくない。無理に話さなくていいんだぜ。」  小五郎の心を思って心配そうに大宮が止めるのを、 「いえ、先輩達は僕を助けてくれました。事件の本当の事を知っていただく権利はあるんです。僕はあの事件の中で、僕の父のために頑張ってもらった先輩たちにお礼をしたいけど、何も出来ない。せめてあの事件はどういうことだったかを、分かっていただきたいんです。」  そして彼は話しはじめた。話し続ける彼の目にはいつしか涙が光り、話の終わりは嗚咽に変わった。 話が終わると、今まで身じろぎもしなかった小杉が立ち上がり、やさしく小五郎の肩に手を置いた。 「よく話してくれたな、このことは絶対に他の誰にも言わないよ。それにな小五郎、約束とか礼とかいう考え方はよせ。すまながることなんて全然ないんだ。俺達は友達だろ?たしかに年が違うことは違うがたった一年や二年、遠慮なんてやめろよ。」  小杉の一言で私達の中で煉瓦館の事件は幕を閉じたのだ。  事件は終わるのだ。夏とともに。後一ヵ月、と圭伍氏は言っていた。もうすぐ小夜さんは浅井家に嫁ぎ、千年にわたる岩波家の呪いはとける。小五郎は今までと変わらない生活に戻る。驚くべき事件を目撃した記憶さえ、時がたてば忘れてゆくだろう。 私はふと闇を覗いた観客にすぎない。奇妙な夏はすでに過去になり、平凡な未来が残っているだけだ。  このまま降りるはずの幕がもう一度上がり、私達を舞台の上に押し出すと、誰が予想できたであろうか。  しかし、煉瓦館にまつわる事件は未だ終わりを告げなかったのである。  開演の伝令は桜さんからの手紙であった。  小五郎が帰ってきて一週間後、小五郎あてに一通の手紙が届いた。差出人は桜さんだった。  手紙を読みおわるなり、私達に向かって小五郎がいきなり頭を下げた。 「お、おいどうしたんだよ、小五郎?」 「すいません、先輩。お願いです、もう一度、もう一度だけ僕達を助けてください。」 「僕達・・・って言ったな。桜さんに、それとも煉瓦館の人たちに何かあったのか?」  の目が涙で潤んでいるのに気が付いた。小五郎はあふれそうになる涙を左手で拭った。小五郎の目は涙ではない、希望の光に光っていた。 「姉が、小夜姉さんが助かるかもしれないんです。結婚式をやめさせることが出来るかもしれないんです!」 「おい、それは本当か?」  思わず私の声が高くなってしまう。真偽を確かめようと、はやる気持ちで乗り出す私の肩を大宮が押さえた。 「ちゃんと順序だってしゃべってくれ、小五郎。桜さんの手紙には、何と書いてあったんだ?」 「は、はい。実は、伯父が、誠治伯父が生きていたんです。伯父は弓島さんが見ていたときは仮死状態で、その後息を吹き返したというんですよ。」  誠治氏が仮死状態から脱し、意識を取り戻したのは四日前の水底であった。彼を溺死から救い、腐敗から守ったのは皮肉にも、彼が最も忌み嫌う、淀橋の下に巣食うものだった。古に結ばれた岩波家と化物の契約は未だ効力を失わず、岩波家の末裔が死んでないことを知った化物は彼を守ったのである。  仮死状態から脱した誠治氏は、自分の身体の変化を知った。二十年の間、見慣れた蛇の下半身は、見慣れぬ人の足へと変貌した。  薬はついに成功したのである。歓喜の震えとともに、誠治氏はその事実を知った。  彼は二十年ぶりに大地を踏みしめ、煉瓦館に帰った。  彼は使用人たちの目を逃れ、喜助親子の離れに入った。彼が無事であることを浅井家に知られてはならない。事は内密に運ばねばならなかった。  気絶するばかりに驚いている使用人親子に一番最初にさせたことは、鏡を持ってこさせることだった。 予想に反して、彼の顔は依然飲んでいた薬の症状が持続していた。彼の肉体は、まだ三十を過ぎたばかりの身体のままだったのだ。 女中頭の民と、喜助親子、桜さんだけが誠治氏が無事であることを知った。小夜さんは、小五郎が煉瓦館から去ると同時に浅井家に迎え入れられ、連絡が取れなくなっていた。 二、三日、誠治氏は自らの身体を精密に分析することに明け暮れた。  結論は出た。副作用は出ず、変身の進行を止める薬を飲みはじめた頃の若い肉体は、そのまま急激な老化を見せる事無く、普通の肉体として自分のものになっていた。  皮肉にも、不完全だった薬は不老長寿の薬として彼の肉体に作用していたのだ。  薬の完成は確認された。後は小夜さんと、小五郎にこれを与えるだけだ。  小夜さんは、すでに浅井家のもとにある。下手な動きをして、小夜さんにもしもの事があってはいけない。薬は完成した。出来ることなら、平凡で幸せな人生を送らせなければならない。 「その時招待状が煉瓦館に届いたんだそうです。小夜姉さんと、政吉氏の結婚式の招待状が。  ”八月三十日、本家の婚礼のおり、川岸に祭壇を設けてお祓いの儀式をする。花婿と花嫁が渡り初めをして、古い言い伝えを完全に無くす、これには各界の有名人も呼び、壮大な婚礼の宴にする。”  この日に、小夜姉さんの手からあの橋のしたのものを使役する法を、浅井政吉は手にするんです。それを不自然に見せないために、お祓いという形をとるんだ。小夜姉さんが僕達の前に現われ、姉さんを助けるのはこの日しかない。桜さんはそう考えたんです。」 「おい、ちょっと待てよ、八月三十日といったらもう明後日じゃないか。」 画を僕達に教えて、浅井政吉に気付かれてはいけないからです。明日、桜さんが僕達を車で迎えに来ます。煉瓦館の離れでで誠治伯父さんとあって、計画を話してもらうことになっています。」  私達は断る理由はなにもない。私の心には喜びがあった。本当に煉瓦館の人々を助けることが出来るのだ。小夜さんを助けることが出来るのだ!  その夜。私は興奮のあまり寝付けることが出来なかった。何度も寝返りをうち、目をきつくつぶってみる。秋の気配があるとはいえ、夜は部屋に熱がこもっていて寝苦しい。  明後日には大事なことがあるのだ。寝不足で疲れるわけにはいかない。気持ちの悪い汗を寝巻のなかに手を入れて拭う。虫の声に混じって同室の三人の安らかな寝息が私を焦らせる。 「弓島、眠れないのか?」 「小杉、起きてたのか。」     「今、目が醒めたんだよ。興奮しているのは俺も同じだ。どうしても眠りが浅くなってすぐ目が覚めちまう。」  私は身体を反転させ、小杉の方を向く。 「明後日は大変な事があるんだ。力を貯えようと思っても、どうしても・・・・な。」  小杉はしばらく私の目を覗き込むようにしていたが、寝返りをうって私に背を向けた。 小杉の背が私に言葉をかけた。 「弓島、おまえ小夜さんのこと・・・・好きなんだろ。」 「い、いきなりなに言ってるんだよ!」  思わず大きな声をだして、起き上がってしまう。  小杉はこちらを向かず、私に背を向けたまま低い調子のまましゃべり続けた。 「小五郎から話を聞いて、煉瓦館の人たちがどれだけ恐ろしい過去を持っているか分かったけど、お前はそれを一ヵ月も前から知っていたんだろ?」 「ああ。」 「俺だったらそんなおっかない話、自分だけの心の内にとめることは出来ないな。お前は俺達が本当の話を聞いたとき、俺達が小夜さんをどう思うかが心配だったんだ。悪く思われるのが恐かったんだ。そのために秘密を守って一ヵ月、小夜さんのために黙り通したんだ。違うか?」 「そ、そうだよ。俺は小夜さんが好きだ。でも、たぶん、小夜さんは桜さんが好きなんだよ。小夜さんが鉄之進氏を避けはじめたのは小五郎のためだけじゃないと思うんだ。時期も桜さんが煉瓦館に書生として来たのとぴたりだし、何より鉄之進氏と小夜さん自身の関係を桜さんが気付かなかったのは、小夜さんの方で隠したせいだと思う。」 「俺もそう思う。たしかに桜さんと小夜さんは心の奥で結びついてるって感じだよな。普通に生活してても、葬式の時だって二人の仕草で想像できるものな。」 「俺だって分かってるさ。でも俺はとにかく小夜さんのために何かをしたいんだ。小夜さんの事が好きなんだよ。」 「そうか・・・・・。」  小杉はそれ以上何もいわなかった。静寂のなかに小五郎と大宮の寝息が聞こえ、私は再び布団を被った。 「頑張れよ、弓島。」  闇のなかで、つぶやくように小杉の声がした。 「え?」 「小夜さんを助けるのは桜さんだけじゃない、俺達もだ。同じ土俵だよ。年令だって気にすることはない。どうせ小夜さんはずっと年上だ。俺達と桜さんの年の差なんて関係ないさ。せめて俺くらいは応援してやる。桜さんに負けるなよ。」  それきり私達は黙ってしまい、いつしか私は眠っていた。  次の日の昼ごろ、喜助の運転する車で桜さんが寮に来た。私達はそのまま煉瓦館に運ばれた。煉瓦館は一ヵ月前とは違い、静寂のなかに建っていた。  誠治氏の提案で、結婚式のあるしばらくの間、使用人たちの大半に暇をだしたのだ。  煉瓦館の離れで私達は誠治氏に再会した。 仮面を脱いだ誠治氏の外見は著しく変わっていた。髪は白いままだったが、精悍ささえ感じさせる外見は、三十前後の男性のものだった。これが蛇の身体へ変わる前の誠治氏の姿なのだった。  誠治氏の計画とは、小夜さんに薬を渡すことだった。結婚式の会場から、小夜さんを連れ出すことは出来ない。私達の人数では、不可能だ。しかし、薬を渡し、小夜さんが飲むことは出来るだろう。そうすれば、浅井政吉はその場で交換条件をなくすのだ。小夜さんの身に危険を及ぼす前に交渉が出来る。  私達は、橋のお祓いの後の渡り初めに無理に入りこみ、政吉と小夜さんの乗る輿に近付いて薬を手渡すのだ。  人数は、私と小杉、大宮、小五郎そして桜さんの五人。ともかく誰かが小夜さんの手に薬を渡せればいい。浅井政吉はこの計画には気付いていないかもしれないが、なんらかの妨害に備えて警戒しているだろう。五人がそれぞれ別々の方向から小夜さんの方へいく。煉瓦館の岩波家と、富豪浅井家の婚礼はたくさんの見物人が出る。駅の前から告知のはり紙は所々にしてあった。私達は見物人たちに紛れて、小夜さんに近付くのだ。  そして次の日の十一時三十分、私と桜さん、小杉は車に揺られていた。  昨夜の熟睡のおかげで気分はいい。私達の緊張を見越した誠治氏が渡してくれた薬は、私を速やかな眠りへ向かわせ、明瞭な目覚めを体験させたのだ。  煉瓦館の裏手から小五郎と大宮は人込みに紛れる。私達三人は、淀橋ではない他の橋を渡り、対岸で”花嫁”の到着を待つのだ。  今、車で渡っている橋は初めて煉瓦館にきたとき、花嫁行列が渡っていた橋だ。そう遠くない所に淀橋が見える。淀橋にはたくさんの人が集まりはじめていた。橋の左側の岸辺には、縁を紅白に塗り分けられた簡単な舞台がしつらえてある。欄干の横には提灯がぶら下げられ、物見高い人たちが、二、三、船まで出している。  私達三人は車を降り、淀橋につづく通りへ向かう。  ざわめきと歓声は次第に大きくなる。道の両側に見物人たちが立っている。人々の話題はさまざまだ。小夜さんのこと、橋の噂、浅井政吉の話、招待席に座っている偉そうな帝国軍人や、著名人たちへの話。  私は二人とわかれ、人込みをかきわけて道の端へ急ぐ。小夜さんと浅井政吉が橋を渡るのは正午ちょうどだ。それまでに準備をしておかなくてはならない。  淀橋の近くにくると、奇妙な声が聞こえはじめる。人々の声でかき消されていたお祓いをする修験者たちの声だ。  意識しはじめれば聞こえないのが不思議なくらいの野太く強い声だ。激しく、時には緩やかに、韻律をともなって五人ほどの山伏をした格好の修験者たちは、川の端に作られた舞台の上で、祈りを捧げている。  激しい読経の声とともに修験者たちは左手に榊をかかげ、空気を切り裂くような勢いで右手で奇妙な図形を虚空に描き続ける。  舞台の横に座っていた男が、山伏に何か耳打ちされる。それはあらかじめ取り決められたことのようで、耳打ちされた男は人込みをかきわけて橋の中央にたった。 「これから渡り初めの儀式を行なう。道の真ん中には絶対に出ないように!」  いよいよだ。神楽笛の音が私達の後から聞こえはじめる。 「花嫁だ!」  誰かの声に私は後をふりかえる。  そこに小夜さんがいた。  純白の花嫁衣装。輿のうえに乗せられた小夜さんは白い花のようだった。その白い中にひとつだけ、鮮烈な紅の点がある。小夜さんの唇だ。小夜さんの顔はよく見ようとしても輪郭が白の霞をかけたかのように淡く輝き、口に塗られた紅だけが浮き上がる。  その姿は絵に書かれる天女のようだった。 「弓島!急げ、いくぞ!」  小杉の声が耳に飛び込み、私は現実を取り戻した。  周囲が歓声に沸き返っている。人々は熱狂的に花嫁と花婿の姿を褒めたたえ、行列を近くで見ようと輿に近付く。  小杉がこちらを振り返り私の方に何か叫んでいる。周囲の歓声は爆発的にまで高まり、紙吹雪が人々の頭の上を舞う。  私も急いで人をかきわけ、前に進もうとする。焦る気持ちのなか、どこかさめた自分が警告を発している。この人々の狂乱ぶりはどこかおかしい。何かが狂っている。人々の中を擦り抜けようとするときに、どこかで嗅いだような匂いがする・・・・・。 「小杉!急いで口元をふさぐんだ。この空気、おかしい!」  私の叫びに振り返った小杉の顔は奇怪な表情を浮かべていた。焦点の定まらない上気した顔。目は涙で潤んでいる。  麻薬の酩酊状態だ。花嫁行列は、阿片を振り撒きながら橋を渡っているのだ。風は見物人の周囲を舞い、対岸の人々も包み込み、耳をおおうばかりの狂乱と歓声が今や通り中に広がっていた。  私達を近付けさせないための浅井政吉の手なのだろうか?私は手ぬぐいで口をおおい、出来るだけ呼吸をしないように尚も前進を続ける。  私の目はひたすら小夜さんに注がれていた。人々の狂乱にかすかにゆれる輿の上で、小夜さんは何かを浅井政吉に手渡した。日の光に浅井政吉の手のうえのものが光り輝く、珠だ。おそらくそれが岩波家の秘法である川のものを使役する道具なのだ。  その時、突然浅井政吉が珠をかかげて立ち上がった。輿に近付けない私はその情景をはっきりと見た。  政吉が立ち上がるのと呼応するかのように、川の表面が盛り上がり、水が橋の上へ吹き上がったのだ。  頂点で水は力を失い水面に跳ねた。私は動けなくなった。目を閉じれなかったのは恐怖のせいだった。  水のなかから出てきたのはあの触手だった。それが見物人の一人をつかみ、一瞬で川に戻ったのだ。  人々はその情景を見なかった。感じることが出来なかったのだ。まかれた麻薬は人々の目を現実から背けさせるためだった。花嫁行列は生け贄を集めるための手段だったのだ。そして生け贄を捧げることが浅井政吉が岩波家の秘法を奪う儀式だったのだ。  私の足は恐怖で麻痺してしまっていた。私はもはや見ることしか出来なかった。  小夜さんはこの儀式のことを知らなかったのだ。立ち上がり笑いながらその情景を見ている政吉に、小夜さんが取りすがった。必死に珠を奪い取ろうとする小夜さんを浅井政吉は平手で打ちすえた。  その瞬間怒りが私に力を与えたのだ。私は人を踏む勢いで輿に向かう。人垣が割れて輿が見えた。 「小夜さんっ!」  叫んだのは私ではなかった。差し伸ばした手も私のものではなかった。私のわずか二歩先に桜さんが立っていたのだ。  私はこの時の小夜さんの顔を忘れられないだろう。  小夜さんの顔には喜びがあった。目には歓喜の涙があった。その表情は私が夢にまで見、憧れた冷たく美しい小夜さんの顔ではなかった。  童女の笑み。朴訥な、垢抜けない、それは心からの喜びの表情。  小夜さんは私達が彼女を救う薬を持っていることを知らない。小夜さんの喜びはそんな打算的なものではなかった。彼女に手を差し伸べたのが桜さんだから、彼女は喜んだのだ。彼女はそれを、それだけを待ち続けていたのだった。  小夜さんが喜びの表情を浮かべている。彼女は今、血の呪いに縛られた薄幸の人ではなかった。我が子の為に身を捧げる母でもなかった。  彼女の歓喜は、夢がかなった少女のものなのだ。  彼女はこの時、真に自らの宿命から解き放たれたのだ。  しかし・・・・・・・二人の手はついに触れ合わなかった。桜さんの指は、いっぱいにのばされた小夜さんの手に届くことはなかったのだ。  再び現われた川のなかのものが小夜さんの身体を橋の外に持ち上げた光景は、まるで悪夢の中情景のように非現実的で、緩慢な動きだった。  桜さんは一瞬も迷わなかった。私も小夜さんと桜さんに糸で引かれるかのように、橋の上から身を踊らせた。  川底は暗い緑の世界だった。気泡と闇のなかに、私はかすかに小夜さんの白い姿を見たような気がした。しかしそれもすぐに緑の闇のなかに消え、二度と私の目の前には現われなかった。 何度も潜り、疲れ果て、気を失った桜さんを私は必死の思いで川岸に引き上げた。    ※※※※※※※※※※※※ 「僕はね、弓島くん。小夜さんは生きていると思うんだ。胸の辺りでね、感じるんだよ。その感じが消えるまで、僕は自分の心を信じたいんだ。」  それが別れ際の桜さんの言葉だった。その言葉を聞いてからもう二年、私は彼に会っていない。  煉瓦館のあの夏の事件から、もう二年の歳月が立っている。目蓋の奥の橋の上の小夜さんの顔は未だ色褪せることはない。  今の季節は冬。二年前学生だった私達は春にはそれぞれ別の道へ進むことになる。  大宮は故郷に帰り、家業を継ぐのだそうだ。小杉はまだ東京に残り、上の学校に進むのだという。  小五郎も上の学校に進む。岩波家が持っていた会社の大半は浅井家に吸収併呑された。わずかな会社は誠治氏の指揮のもと、桜さんが運営の手助けをしているという。小五郎は保護者の意志に従いもう少し学生をするそうだ。  亀田探偵事務所の鬼久智と吉野は、一年前に独立して独自の事務所を建てたという。一度だけ広告が私達あてに届けられた。  浅井政吉は、彼は妻とともに帝都有数の富豪として新聞に現われる。一度だけ写真で見た彼の妻、浅井小夜という女性は小夜さんに似ても似つかない別人だ。小夜という女性が何者なのか、何なのか私にはわからない。  圭伍氏と君子さんは彼の傘下の会社に迎え入れられたそうだ。その後の音沙汰は小五郎は知らないという。  私といえば、伯父の助けもあり医学を学ぶために独逸に留学することになった。  日本を離れる前に、あの夏のことを文章にまとめてみようと思い、小五郎から許可をもらった。  思い出せば鮮烈にあの日々の情景はたちまち浮かび上がるが、二年という時間はその思い出を残しておこうと思わせるほどに変わっていた。  書き残さなければいつか忘れてしまうのだろうか。今はとてもそれは信じられない。しかし記憶が薄れないうちに書き終えたかったのだ。  何より私には予感がある。桜さんと同じように二年たった今でさえ私は信じている。  小夜さんは生きている。もし再び会えたならこの文章を読んでもらいたい。  その時彼女はどんな表情を見せるだろう。そんな想像をするとき、私の口元には思わず笑みが浮かんでしまうのだ。                  完