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1999年、9の月


てな訳で、9月になってしまいました。
「1999年7の月」から、2ヶ月である。
結局何にも起きなかった。
笑えることに、テポドンが落ちてくるとまで噂をしていた我々である。
世のオカルティスト達は、迫害の憂き目にあってたりはしないのだろうか?
宗教な人達は、どうだったのだろうかねぇ?

国会図書館で、「ノストラダムス特集」をやっていたのは、笑えた。
「否定」っちゃーそーなんだけど、1970年代の記事が読めたのは、
非常に面白かった。
その横には、当時の批判記事が、「非科学的だ」とこき下ろしていた。
そして現在近くでも、批判記事の割合は高くなるが、
不安をあおるものがあったりも、また、保身のためか、
Xデーを延ばすものもあった。

「狂騒」は、終わりを告げた。
考えてみればおかしな話である。地震、核戦争、ミサイル、どれをとってみても、
「明日降ってこない」とは言いきれない物である。
「天が落ちて来るぞ」と言われて、笑い飛ばせる確実な保証は、
僕達には、ない。

「1999年7の月、恐怖の大王がくる」
「期日が決まっている」ってのは、非常な圧迫感と迫力を持って、
僕の頭の上にあった。子供の頃の話ではあるが・・・・。
面白いことに、僕のように、幼少の頃の幻想を引きずっているは、
少数のようだ。色々な人に、「破滅」を気にしているかと問いかけ、空振りに終わった。
もっとも熱狂的に信じて、入信を進めるような人に合わなかったのは、安心だったケド。
バブル崩壊期にも、「予言ブーム」が起きたそうである。
面白いことに、批判ブームも、この頃からだそうである。

「ちびまるこちゃん」には、大予言に怯える小学生と、
未来を考える幻想が描かれるエピソードがある。
アレはホントに、「僕の姿」であった。
オカルトに心惹かれる、暗い小学生だったわけでは確かにあるが、
「学校の怪談」しかり、子供はそーゆーのが大好きなんである。

そして、その幻想は、今、まさに、「杞憂」に終わった。 ところが、それでも心のどこかで思っちやってる。
「明日来るかも」とである。

これはただの現実逃避と、破壊願望に過ぎない。
しかし、それは僕だけだろうかというと、どうやらそうでもないのである。
「アメリカ版ゴジラ」「インディペンデンス・デイ」「アルマゲドン」
これらは全て、
「ふらふらと滅ぼされるべきして出て来ちゃった障害が、退治されちゃう話」
である。
日本人は、こうした物は創れない。
何故か?
北朝鮮や、アメリカが、もし牙をむいたら、僕達にはどうすることもできないからである。
「選ばれし誰かが」何とかしてくれなければ、どうにも出来ない。
紙一重で、「選ばれし誰か」に感情移入できないのである。
アメリカ映画の「大統領ぅっっ!」という響きに、僕達は、
冷やかしの視点を禁じ得ない。
だからといって、僕達日本人が、「選ばれた誰か」に感情移入するドラマが創れないのか?
というと、決してそんなことはない。
「時代劇」があるよね。
ただ、非常に面白いのは、彼らの「お話」と僕らの住む「世界」が、
確実に隔絶しちゃってることだよね。
「水戸黄門が出てきて、どーにかしてー」と現実で思うことは、ないよね。
日本の現代物の特撮なんかで、「大きく手を振り、応援の声を上げる大衆」
という表現は、少ない。水戸黄門でも、関係者の少数しか、いないよね。感謝するの。
「悪代官やっつけて、ありがとう祭り」の紙吹雪の中を去っていく黄門様を、
見たことはない。
現実が崩壊するのを考えるのは、一種の人間の本能ではあると思う。
ただ、その時に、どう立ち向かうか?
という時に、甚だリアリティーに欠ける想像しかできない、
というのは、「日本」という土壌に住む、僕らの性なんじゃないでしょうかね?

だからどーしようとかっていう、「思想」は僕にはないよ、念のため。
この「思想」ってやつに、アブナイ響きを感じちゃうのも、
日本人ならではって感じするよねぇ。
ともかく、僕にとっての、「今世紀最大のXデー」は、終わった。
どう生きていくか、未来は今の僕にとって非常に不安な物だけど、
何かが一応は決定的に変わった。
「破滅が降ってくる」という物に、リアリティがなくなったのに、
「どこか待ち望んでる」という心が消えなかったことに、
ちょっと驚いたりしてるよ。

「世界の破滅より、明日のご飯」という「不安」が
日増しに大きくなっちゃってるからかもしれないけどね。
 



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